通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
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未完成Ⅰ 「そして父になる」 第1回目 未完成レビュー
2014-12-31 Wed 23:09
そして父になる1


通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてアンドロイドタブレットを使っての車内執筆を実行中。

そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を


        ツイッターで「実況」。

ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて


       「鑑賞中ツィート」 としてアップ。

作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中ツィート」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
 
       「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。



最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる


       「完成!レビュー」


                 へと変容していく様をご覧下さい。




今回は 「鑑賞中ツィート」 を再構成した 「未完成レビュー」 を3回に分けてアップしていきます。 




第1回目



小学校受験の親子面談からこの映画は始まる。

何てイジワルなんだろう。


そう思いました。この家族は程度の良い私立小学校を志願できる素養を持っていることを、これ見よがしに訴求してきたのです。

    今作のテーマは 「子供の取り違え」。


私立小学校を志望しているこの家族の対になるもう一方の家族は

                        対象的な立場として登場することが容易に推測が付く 。 

そして福山雅治演じるこの父親の勤務先や高級高層マンションの自宅もその 「対比」を想像してしまう。

そんなこの家族の悲劇は、

この家族の幸せの絶頂の少し前


をわざわざ選んでやってくる。どこまでいじわるなのだろうか。

私立小学校合格直前。大きな困惑の中、合格を知る。しかもその合格した我が子は、


    我が子ではないかもしれない。

という宙ぶらりんの不安。


複雑な思いの中の祝杯。この上もなく残酷な舞台設定でした。
そして、「残酷な舞台」 と、前述の「対比」 を訴求したのがまさに、

                        取り違えを告知する場面でした。

舞台はホテル。結婚式出席者のおめでたムードと扉1枚隔てた部屋だったのです。

DNA鑑定を経て正式に「生物学上の親子」 を否定された彼らは片割れの家族と面談。
スマートな福山家に対比されるのがリリー・フランキーの家族。野暮ったさを醸し出しての登場でした。


会談の最中、「こうゆうケースは最終的には、100%、ご両親は、交換という選択肢を選びます。」 との発言受けて、

今作の主人公達の終着点はやはり

「子供の交換」 

      なのかという予見が生じてきたのです。


しかし、この時点で、このようなネタばらしのセリフをわざわざ入れてきた意義があるはず。と心のアラームが鳴った瞬間でした。

この会談の後、今作は分かりやすい 「対比」 を訴求してきました。それが、2つの家族が家路に戻る際に乗り込む自動車。

スマートな福山家が乗り込むのがカッコイイ スポーツタイプ車。
一方の野暮ったいフランキー家はお店で使っている社用車。


今後このような「対比」 を折々に提示してくることでしょう。そしてきっと、様々な 「対比」 の数々によって、2つの家族の歴然とした 「格差」 があぶりだされていくのでしょう。

「子供の取り違え」 という共通のアクシデントを発端にして、 「経済格差」 という問題点を提示。それによって、福山家とリリー・フランキー家の関心事が違っていくことを認識することになります。

福山家は、育ての子と血縁の子、二人の確保。
一方のリリー・フランキー家の関心事は 病院側からの慰謝料の金額


                                      でした。


一方は子供二人の確保。他方は慰謝料。

まさに 「経済格差」 によって生じたあからさまな 「相違」 でした。 
今後 「二人の子供の確保」 の思惑と 「慰謝料の金額」 の思惑がどのように動いていくのか、注目をしていきたいと思ったのです。

二つの家族の関係は 「子供の(一泊)交換」 へと進んでいきます。その中で明らかに、ある人物の印象が変化を見せてきました。
その人がもう一方の父親リリー・フランキー。

実に人間味溢れる人物として表現されてきたのです。

そしてリリー家の嫁も、当初のガサツな印象から、大らかな優しさを持った女性として表現されてきたことに大いに興味を持ったのです。

「子沢山で貧しいが、人間味溢れる人達」 としてキャラクター変更してきたのです。

これに伴い、福山家の面々も立ち位置が変わってきました。
一泊交換後の 慶多 (福山家育ち・実はリリー家実子) にリリー家嫁の人柄を聞きたがる福山家嫁。相手家族に圧倒されている気配を感じました。

肝心の福山は、リリー家で 慶多 (福山家育ち・リリー家実子) がかすり傷を負い、リリー家からの謝罪がないことに立腹。度量の狭い男のような表現がなされていったのです。

一泊交換によって

両家の関係が微妙に変わっていったようです。

物語は進み、4月。 慶多 (福山家育ち・リリー家実子) の私立小学校の入学式の日を向かえました。福山家にやって来るリリー・フランキー。初登校の様子を嬉々としてビデオ撮影をする姿を見て彼を応援したい気持ちになっていきました

このシークエンスをキッカケとして今作は拙速気味に二人の父親の関係を語り始めてきたのです。 

                                           

頑なで仕事偏重の福山に 「家族の絆」 を問うリリー・フランキー。

             返す言葉で 「二人ともくれ」 と言う福山。                       


突如、険悪な雰囲気か! と思ったらやられました。

「二人ともくれ」 と言われたリリー・フランキーは激怒かと思いきや、「ペシッ」 と福山を諌めるように頭の上を叩いたのです。
そして 「金ならある」 と言う福山に対して、まっとうに常識的な言葉で諭すのでした。

ステイタスは福山の方が上なのでしょうが、人間性においては一枚も二枚も、リリー・フランキーの方が上にあることが分かった瞬間でした。
少しずつですが、福山が野暮ったく、リリーがカッコ良く見えてきたのです。

  当初、気になっていた 「経済格差」 は、

夫々の 「人間性」 という関係に

反比例してきたようです。


面白い展開です。  あっ!でも、もっと興味深い展開を今作は提示してきたのです。それは唐突な広がりでした。

  病院との訴訟での場で爆弾証言がなされたのです。

  元看護師が故意に 「子供を交換」 した。との告白がなされたのです。


福山家とリリー・フランキー家の 「差」 を追ってきた今作に、突如としてその 「差」 を創出してきた元看護師という存在が降臨してきたのです。

元看護師によると、福山家が余りにも幸せそうで、故意に 「子供を交換」 したとのことなのです。

今後、「子供の交換」 「両家の差」 「創造主・元看護師」 の関係がどのように展開していくのかを注目したいと思ったのです。

しかし、今作が訴求してきたのが、「福山の父親の存在」 でした。ボクの興味の対象からズレていったことに、大きな失望感を味わいながらも、「福山の父親との」 関係を見ていくとそこには、

「血の繋がり」

 

という問題にいきついていたので。 琉晴 (リリー家育ち・実は福山家実子) との「血の繋がり」 を力説する父親。
しかし

 「血の繋がり」 のある父親に

 

反発している福山 


                         という図式も浮かび上がりました。




その2に続きます。
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完成! 「009 RE : CYBORG」
2014-11-23 Sun 11:46
                  009.jpg




秀逸なアクションシーンに


         
「脳進化宗教」 のスパイスが加わったことで

                                 
ボクの期待は高まりました。


   しかし 「物語 能力不満を感じ始め、

   やがて 「物語」 そのものにも疑問を感じ、

   ついに 009資格がないむべき映画」 の烙印を押すことに...。


  ボクら


     
「第一期 009 TVアニメ世代」の モラル感

                              
を大事にしながら、


     「脳進化宗教」 の問題と今作のストーリーとの

                
「密なる連動」 を

                             
キッチリと示せれば、



 今作は、あまたあるヒーローアニメの中でも


               
稀有なる傑作

                            となるはずでした。









ボクの大好きなヒーロー 「サイボーグ
009」 が現代に蘇った!


キャラクターがだいぶ変更されて、2012年の封切り時にはその抵抗感で未鑑賞。 しかし


       
やっぱり気になっての通勤快速内鑑賞となったのです。


  
幼少の頃、再々放送(?) で憧れを持った世界をこの 「現代版 009」 はどのように変えていくのか?
  
そして、その変化をボクはどのように受け止めるのか?

                                 を見ていきたいと思ったのです。



驚くことに 009/ジョー は高校生でした。
「小生意気」 そうな高校生が登場。そいつが 009 だったのです。意外性に喜びながらも、


      
きな不安 を抱きました


爽やかで快活な 「あの 009」 が子供時代の憧れだったのに、
           
「この 009」 はスレた感じで、


  
                        全然違

                           
と感じたのです。


今作が終了する頃にはボクは 「この009」 にどんな評価を下すことになるのだろうか?

で、肝心の 003/フランソワーズ (唯一の女子) は、


       
大人の いい女」 でした。 


 
彼女に初恋を捧げた身としては、今作でのキャラクター付けが気になるところです。



どうやら 009 は、自らが 009 であるとの記憶を無くしているようで、その記憶を呼び覚ます為に 003/フランソワーズ が大活躍。


それがカッコイイ!
飛行機から身を投げ出し、高層ビル屋上にいる 009 に自分を救わさせる。
003/フランソワーズ の命に関わる危機に際して、自らの記憶を取り戻す 009。「加速装置」 を機能させて、落下していくフランソワーズを救出!


   
カッコいいな!    

   
誰がって?  

   
フランソワーズが、ですよ。


六本木の上空高くから身を投げ出す展開もですが、その滑空姿勢が凛としているのです。その行動とその態度で今作の 003/フランソワーズ のキャラクターを知ることができました。「第1次TVアニメ」 のような真面目で、出しゃばることがない性格とは違って、思い切ったことができる行動的なキャラクターのようです。しかもセクシーさを加えての登場なのでした。

あ、でも、「ダメダメ 」



      
シーンに遭遇してしまったのです。



移動飛行機の中、009 を覚醒させた 003/フランソワーズ と 005/ジェロニモ (ネイティブ・アメリカン) が座っている。



この二人の位置関係からして、


      
違和感ていたのです。



ゼロゼロナンバー・サイボーグの仲間同志のはずなのに、座っている場所が明らかに不自然な距離を置いているのです。
やがてフランソワーズが洗面室へ席を立ちます。そこには 009/ジョー がいたのですが、何と、フランソワーズが服を脱いでランジェリー姿に! 学生服を着たジョーに誘いをかけるのです!






         
驚愕しました。





子供の頃に憧れた ヒーローとヒロイン が再会した早々、コトに及ぶだなんて想像だにしていなかったので、この不意打ちに、ボクはただただ狼狽するしかなかったのです。



      
驚愕


      
狼狽



                  
その直後にやってきたのは、

      
憎悪

                
  でした。




幼少のみぎり、夏休みの午前中に再々(?)放送されていた 「サイボーグ009」 を心待ちにしていた身としては、この行為に



     
しかった

               
みにじられた心持ちになったのです。 




「献身的
なヒロイズム基調にした仲間達とのがり」 が気に入って、


        
道徳的側面はもとより

                   
人情機微に至るまで、


子供だったボクは様々なことを 「009」 から教わったと思うのです。

そんな気持ちがあるからこそ、子供のころの純真な思い出が、今作の制作者によって汚されてしまったと感じたのです。それ故、このシークエンスに遭遇した時、


      
 「驚愕」 し、「狼狽」 し、そして、

                 
制作者を 「嫌悪」 したのです。



大人の女となった 003/フランソワーズ が高校生の 009 を誘惑するこのシークエンスがそれでも、今作に必要であるのなら、それでも良いとは思います。
しかし、よりによって開始早々28分の時間帯にこんなシークエンスを当ててきた意義を、冷静になって見極めようと思うのです。


   何故なら、ボクは今作によって、もう少し

          子供時代余韻って いたかったからなのです。




物語は進み、「あの時」 とは立場が変化していることを知りました。イギリス人の 007/グレイト、そして ドイツ人の004 /アルベルト はそれぞれの国の軍事諜報機関に勤務。国家というシガラミを背負っていたのでした。

その最たる存在が 002/ジェット でした。彼はアメリカ人で、「国家安全保障局」 という機関に所属。 001/イワン (赤ちゃん) は 「それ故、彼が僕達と合流することは二度と無いと思うよ。」 と分析。

そして、001/イワン は続けて言う。「 002 がここにいないのは君 (009) との確執が原因ではないんだ」 。

なるほど、そういうドラマを今作は描いていくことになるのか。



      ゼロゼロナンバー・サイボーグ同志確執 ......。 
 



ボクはオリジナルアニメの魅力点を 「献身的なヒロイズムを基調にした仲間達との繋がり」 と表現しましたが、
 「28分の 003/フランソワーズ との関係」 と言い、今回の 「002/ジェット との確執」 と言い.......。

ことごとく小学校低学年の頃のボクの気持ちを



          
逆撫していきます。



 28分の事」 も、今回の 「確執の件」 も現状では否定をすることはありません。でも、それらの意義を見いだせなかった時は、こちらにも覚悟がありますからね。

と、この局面でボクはムキになっていたのですが、気が付くと今まで物語を全く語っておりませんでした。少々お話し致しましょう。


  「彼の声」 というものにマインドコントロールされた者達が、
  超高層ビルを自爆する事件が続発。
  これをサイボーグ達は追うことになります。
  やがて、今作は、形而上学的な事象を盛り込んでくるのです。
  007/グレイト (イギリス人)
や 008/ピュンマ (アフリカ人) が
  その不思議な体験を通して姿を消すことになります。 
  (結局、この形而上学的な事象については、
   ボクは全く理解・評価をすることができなかったので、
   言及は致しません。)

  その後、物語はアメリカの 「国家安全保障局」 に所属し、
  サイボーグ達とは一線を画している 002/ジェット
  に視点が移っていきます。
  002 はアメリカ空軍のパイロットが 「彼の声」 に
  操られている現場に急行。
  そして、領空侵犯で警戒に来たその国の戦闘機との
  バトルシーンが始まり、モヤモヤしていたボクの気分を
  スカッとしてくれたのです。


  やっぱり 「サイボーグ009」 は

           
アクションシーンがなければ始まらないや!

                                   
って大喜び。


ましてや、1968年制作のモノクロ画面と2012年の高画質カラー映像は比べようもなかったのです。
しばしの高揚感の後、しかしながら一抹の不安を感じたのです。


  
002/ジェットとバトルしたのは 

      「領空侵犯をした 002 の対応に来たその国の戦闘機」 

                                  でいいんだよね?  と。



正直に言うと最初はよくわかりませんでした。巻き戻して、やっと理解することができたのです。


       
高揚感不安


それは、今作の制作者の


      
「物語能力」

                     
だったのです。


アクションシーンは素晴らしい。しかし状況説明には不手際を感じる。これならば 「形而上学的な謎」 という要素を盛り込まずに、状況を即座に把握できるような



     
単純アクションアニメ

                     
とすればよかったのに。



と思えてしまったのです。「彼の声」 という要素をキッカケとした宗教的な側面は今後、どのような展開をみせていくのか、



      
いに不安になった瞬間

                     
だったのです。




優れたアクションアニメとして評価すべきシークエンスが続けさまにやってきました。
スピード感溢れる 002/ジェット の空中戦の直後に、2012年現在における 009 特有の映像表現を見たのです。

009の特殊能力は 「加速装置」。

体と脳がフル回転をして、世の中がスローモーションのように見える。そのスローモーションとなった世界を


    
超絶的スピード

               
彼は行動することができるのです。



009
は、「彼の声」 が支配しているアメリカ戦闘機から発射されたミサイルの上に、001/イワン (赤ちゃん) の特殊能力 「テレポーテーション」 で瞬間移動してきました。
「加速装置」 を駆使してミサイルを爆発する 009。それも飛行するミサイルとミサイルの間を飛び移りながらの破壊活動。1968年制作のモノクロアニメでは有り様もないカッコ良だったのです。
アクションシーンは素晴らしいのです。このクォリティのまま今作は推移してくれれば良かったのですが、今度は



      
「物語 能力

                      
ではなく、


もっと根源的な問題。

 


      
「物語そのもの

                    
に問題が生じていったのです。




空中戦での 009 と 002/ジェット の再会となり、そこで二人の軋轢の正体が明かされるのですが、

       
それが、
               
幼稚。


002/ジェット による 009 への 嫉妬」 だと知り、

       
そのっぺらさ

                
れてしまったのです。


そして、
次なる 「物語そのもの」 の問題点はこんな程度ではなく、


       
「サイボーグ009」の

             
存在自体らがせる重大事、

                               
に発展していくのです。



あろうことか、その戦闘機から核ミサイルが発射され、何と、ドバイの街が消滅!してしまうのです。

かつて、あまたあるヒーローアニメで、


     
このような 「核惨劇」 を阻止できず、
     
しい犠牲者を出したものがあったであろうか!



「核の惨劇」 を阻止することができずに、「夥しい死」 がもたらされるその瞬間。我らの 009 が取った行動は、核の爆風と灼熱から


     
ただ一人

            
ることだったのです!



凄まじいスピードで迫り来る核爆発から、「加速装置」 を機能させて、脳と体をフル回転。すんでのところで逃れていくのです。

こんな無様なストーリーを語るヒーローアニメが、かつてあったか?! 

嫉妬を原因とした低レベルな 002/ジェット と 009 の小競り合いの間に


    
核ミサイルの発射を許し、
    
誰も救うこともできず、
    
自分一人で逃げ出す!


「献身的なヒロイズムを基調にした仲間達との繋がり」
 が大好きで、道徳的な側面はもとより人情の機微に至るまで、幼少期だったボクは様々なことを 「009」 から教わったのですよ。

それなのに、こんな無様な物語を描くとは!



  
009 と 003/フランソワーズ の コトに及ぶ開始28分を筆頭に、
  
009 と 002/ジェット の 小競り合いの末の大量虐殺。
  
そして 「加速装置」 を 駆使しての敗走。


         
ことごとく子供時代のボクを裏切っていったのです。




この時点でボクは今作を以下のように結論づけたのです。


   
今作は 「物語を語る」 能力 が無い どころではない。
   
そもそも  009 を語る 資格 が無い 忌むべき映画なのだ、と。


もう鑑賞するのを辞めようと思いましたが、それでもそんなボクを引き留めて鑑賞を続けさせる側面があったのです。
それがアクションシーン。

1968年制作のモノクロ映像とは比べものにならない2012年制作の高画質カラー映像に、ボクは魅力を感じてしまっていたのです。

今作はモラル的には受け入れようのない物語を語りますが、「空中戦」 や「 核爆発からの逃避」 などはそのスピード表現は素晴らしく、ボク自身が超人的な能力を体得した感覚に浸ったのです。

今作が単純なアクションアニメであれば、さぞかし素晴らしい映画となったことでしょう。


     
子供時代
のボクが憧れた009の世界
                        
  をそのままに、


     
2012年の映像トレンドが融合された
                        
  アクションもの
 

             
であったらと返す返す思うのです。



しかし、今作はアクションアニメの道をどんどん逸脱し、


     
安易ディスカッションもの

                      
堕落していきます。


唐突に、9分間にわたって 「彼の声」 についての考察が堰を切ったように始まっていったのです。
先の形而上学的な経験をして姿を消していった 008/ピュンマ (アフリカ人) の研究ノートを元に、004/アルベルト (ドイツ人) が代弁していくのです。


       この態度からして無責任。

                
当事者 008/ピュンマ による説明ではないのです。


「物語を語る」段にきて 008/ビュンマ の研究ノートをもとに 「ピュンマはこのように考えていたようだ」 という伝聞レベルの、


       
責任らない会話のカタチで

                        
しく進行していくのです。


しかも、その内容をわかり易くビジュアル化することなく、会話だけが進んでしまのです。今作を推進してきた 「彼の声」 の謎解きなのに、


        
このわかりづらさ

                  
致命的でした。


きっと、巻き戻しが不可能な映画館での鑑賞だったら、ボクの理解力ではチンプンカンプンだったはずです。そして、きっと、この場面で今作からの脱落を宣言していった人が多かったことでしょう。
しかし、語っている内容は興味深いものではあったのです。

アフリカで 「天使の化石」 を発掘したピュンマの考古学チーム。この異形の化石の発掘を発端にスタッフ達に変化が発生。そこから現在の状況を推察しているのです。

"発掘スタッフは 「天使とおぼしき化石」 を見たことによって何らかの宗教体験をし、その結果、「彼の声」 を聞いたと言い始めた。”
 
 008/ピュンマ が記録している。 そして、
004/アルベルト が説明を続ける。

太古の)類人猿達は狩りによる獲物の捕食によって



       
「死」 概念る。



(類人猿達がモノリスに導かれて武器を獲得し、食物連鎖のトップに立ったくだりは
 名作 「2001年宇宙の旅」 にありました。)


捕食によってもたらされた 「死」 の概念はやがて
 

        
らの 「死」 にする恐怖

                           
となった。


逃れられない力から解放されるために、人は


       
偶然 「神」 を発明した。

                  
と続ける。


                  
趣旨は興味深い。


しかし、語り口は相変わらずイメージが膨らまない、単純な会話が続いているだけなのです。ボクは巻き戻しながらその趣旨を追うことができましたが、映画館だったらまず無理であったことでしょう。

004/アルベルト は続ける。

死の恐怖から 「神」 を作り上げていったように、「天使の化石」 を目撃した者達は心の中に 「彼の声」 なる幻想を抱いていったのではないか。と、

       ここに来て

           論旨不明瞭になってきた。


脳進化論と宗教学についての論旨が突然、「天使の化石」 と 「彼の声」 という、今作特有


       
普遍的ではない問題に

                
強引にこじつけられたことに


            
違和感を持ったのです。


そして、


    
死の恐怖 から逃れる為 → 神を作り上げた  という 図式と

    
天使の化石 を目撃 何らかの宗教体験をして → 彼の声 という幻想を抱いた

                                           
という 図式が


       
同義だとは到底えなく、その論旨に


                 
いに疑問じたのです。



でも、そんな不満を検証する余裕もなく、今作はせっかちに先を急ぎます。
整理がつかない内にディスカッションドラマは勝手に進んでしまうのです。
そして論旨は、
人類にだけ偶然備わっていて他の動物にはない



      
「思考する脳」 こそが

             
「神」 そのものではないか?



という次なる展開を迎えていたのです.....。興味深いが、分かりづらい。


   
「脳」 とは自らの存在を人間に意識させることで、
   
生存に有利な環境を作り上げることに成功した。
   
便宜上 「神」 と呼ばれる何かなのではないか。

                          
との考察に至るのです。



      
「脳進化宗教関係」 は興味を惹きます。


でも、興味を惹かれるのは飽くまでも

      
「脳進化宗教関係性」
                          
であって、


その論旨が今作の映画的キーワード


       
「天使の化石」

       
「彼の声」

       
「自爆テロ」


に果たして結びついていくのか疑問に思ったのです。

           そして、相変わらず分かりづらい。



中途ハンパな理論を拙速に注入してきた今作は、明瞭な解に至らぬまま、まるで自らが招いた論理的矛盾を誤魔化すがごとく、お得意なアクションシーンに突入していきます。
ドバイの核爆発をゼロゼロナンバー・サイボーグ達の仕業にしたいアメリカ政府の攻撃を受けるのです。
アメリカ政府の攻撃をやり過ごしたのも束の間、今度はアメリカの原子力潜水艦から 「彼の声」 に従って、「人類をやり直す 」為に核攻撃を行なうと宣言。

原潜の核攻撃阻止に向けてここで初めて 
009 達はユニフォーム」に着替えます。


     
赤ーいマーフラー、なびーかーせてー

                              
と幼少の時、

      
TVに向かって歌っていた感覚を思い出しました。


それにしても開始
1時間34分にしてやっとお馴染みのコスチュームですから、余りにも遅すぎる。
焦らすにもほどがあります。
一体全体、鑑賞者を何だと思っているのだろう?



ふと、気が付くと、今作に対するボクの気持ちを端的に表す言葉に行き着いていたのです。


       
「鑑賞者を だと思っているのか?」

                           
から派生して、

       
「鑑賞者を だと思っているのだろうか?」

                           
という今作の存在目的
                           
についての疑問でした。



       
開始28分の 003/フランソワーズ と 009 の粗相  から始まって。
       
002/ジェット と 009 との確執。
       
ドバイの核阻止失敗とその後の敗走。
       そして、今回の 1時間43分での初コスチューム姿....



        
  完全にボクは今作のマーケティング上客 ではないようです。




    
胸踊アクションシーン
 
            
「脳進化宗教」 の

                    
深遠世界観コラボ


        は



   当時
興奮

          それなりに人生経験んだ

                
ボクら 「第一期009TVアニメ世代」 




        
こそをメインターゲットとするべきなのに….




そんな恨みごとを言いつつ、ストーリーに戻ります。


  原潜からの核ミサイル攻撃に対抗するために 
00ナンバーサイボーグ達 は
  アメリカのイージス艦
核を発射した原潜とは違う船です)  を乗っ取って
  発射された核ミサイルに対する迎撃ミサイルを発射!


  面白い展開だが、やはり分かりづらい。

  1
発だけ迎撃に失敗。009 が直接破壊の為のテレポーテーションを志願。
  しかし、そこは宇宙空間。
001/イワン(赤ちゃん) のテレポーテーションも
  能力的に今回が最後とのこと。

  この状況は 
009 の 「死」 を意味していたのです。
  当然のように 009 と 003/フランソワーズ とのお別れのラブシーン
  となるのですが、


      
開始早々28分に事に及んだ 

              
反感がボクのくわだかまっていたので、

      
らにするシンパシー を感じることはできませんでした。 



              残念です。




宇宙空間で孤軍奮闘する 
009 を助けに来たのは、飛行能力を備えた 002/ジェット でした。
しかし、宇宙空間への飛行は彼の能力を超えたもので、彼も 「死」 を覚悟してやって来たのです。



     
多少、心は動きました。



しかし、冷静になって考えると、
009  002/ジェット の和解の理由も理解できないままのこの展開は、何とも唐突でご都合主義的に思えてしまったのです。
彼らの小競り合いの内にドバイが消滅し、「夥しい死」 をもたらしてしまっているわけです。この惨事の元凶である


  「002/ジェット による 009 への嫉妬」 が

         
払拭された確固たる理由 がなければ、

                     
素直感動できないのです



「自分の命を投げうって核攻撃を阻止しようとする 009 に心が動かされた」。 

というところなのでしょうが、ボクが主張したいのは、その背景に「夥しい死」があるということなのです。
この二人は、否、今作の制作者は核攻撃を許し、大量の犠牲者を出したという



        
「事重大 に

                 
いていない のです。



二人の小競り合いのせいで発生した 「事の重大さ」 を、帳消しにできるだけの理由がボクにはどうしても必要なのです。

道徳的な側面はもとより人情の機微に至るまで、幼少だったボクは様々なことを 「009」 から教わったのですよ。
それなのにヒーローアニメの道を踏み外す大罪をやらかしておきながら、オトシマエの一つもつけずにスルーしていくなんて、到底、許されるべきではないと思うのです。



     
開始28分の 003/フランソワーズ と 009 の粗相  から始まって。

     
002/ジェット と 009 との確執。

     
ドバイの核阻止失敗と夥しい死。

     
その後のブザマな敗走。



ことごとく、人の気持ちを逆なでする要素を入れ込んで、ボクのいたいけな子供時代を蹂躙していったのですから、
 


           しっかりと責任ってしい!

                                 
のです。








002/
ジェット と 009 の犠牲によって今回の 「核攻撃」 は阻止する事ができました。
この展開には思うことがありましたが、それでも映画的なカタルシス享受することはできたのです。


  
しかし、その後の


          
「夢」  なのか?! 

          
「精神世界」  なのか?!

          
「幻想」  だったのか?!



とも思える、「虚構世界」 に今作が逃避してしまったことには、抑えきれない怒りを感じたのです。
こんなエンディングになるのなら、



   
今まで仕組んで来たストーリーの意味なんて無かったんじゃないかよお!!

                    
と子供のように地団太を踏んで怒ってしまいました。



「脳進化と宗教」のくだりで 「
2001年宇宙の旅」 を思いだしましたが、
今作は垂れ流した様々な関係性の責任を取り切れず、「2001年宇宙の旅」 のような超越的な展開に逃げて行ってしまったのです。

 しかし当然ながら、「2001年宇宙の旅」 の有無も言わせない圧倒的な映像美も、論理的・哲学的コンセプトに貫かれた悠久のストーリーも提示することができるはずもなかった今作が 「2001年」 を夢みたところで、


        
幼稚な ちゃぶ台返   
                          
くらいにしかならず。


所詮、「
2001年宇宙の旅」 を引き合いに出すこと自体が身の程知らずのお笑いぐさだったのです。

今作に対して様々な愚行を根気よく諌めてきましたが、数々の思わせぶりを垂れ流した末の、



        
「夢オチ にげた今回暴挙



には、今まで誠実に鑑賞してきた者への裏切り行為として



         
我慢のならない

                       
に陥ったのです。



最後までダメダメ感に覆われてしまった今作ではありますが、
レビューの最後に、少しでも前向きな感情を持てるよう、修正点を提言して終わろうかと思います。



今作の見どころは、
2012年現在の 「映像テクノロジー」 を駆使したアクションシーン。
こんなにもカッコイイ映像を作ることができるのですから、



        
現代的スピード&スマート  009

                        
を創り上げて欲しかったのです。



そうすれば嬉しくなっちゃって、些細な不備など、どこ吹く風で気にも留めなかったことでしょう。



そして最後にこれだけは言わせて欲しい。


  客層マジョリティ であると信じる僕ら

     
「第一期 009 TVアニメ世代」 モラル

                            
を大事にしながら、




「脳進化宗教深遠問題」 を絡ませつつ、その問題と今作のストーリー展開との


        
「密なる連動」 

                
キッチリすべき。

                        

                     
と強く思うのです。




そうすれば、今作の制作陣に元々備わっている、


    スタイリッシュアクションアニメに、

                      
奥深「脳進化宗教」



という知的好奇心をくすぐる要素を融合させて、



    
かつて、あまたあるヒーローアニメの中で」


                    
稀有傑作
          
     

                          
となるはずでした。


     と主張して、今回のレビューを終えることにします。










秀逸なアクションシーンに


         
「脳進化宗教」 のスパイスが加わったことで

                                 
ボクの期待は高まりました。

   しかし 「物語 能力不満を感じ始め、

   やがて 「物語」 そのものにも疑問を感じ、

   ついに 009資格がないむべき映画」 の烙印を押すことに...。


  ボクら


     
「第一期 009 TVアニメ世代」の モラル感

                              
を大事にしながら、


     「脳進化宗教」 の問題と今作のストーリーとの

                
「密なる連動」 を

                             
キッチリと示せれば、



 今作は、あまたあるヒーローアニメの中でも


               
稀有なる傑作

                            となるはずでした。




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完成! 「アルゴ」
2014-05-30 Fri 13:12







 発想
スバラシイ


      映画制作にした 実話人質奪還計画



 しかも、そこにハリウッド面々が関わって来たところから

                 加速度的に 面白なって来ました。



しかし

   「人
らず して、何故か、「人った つもりでいる

                 今作の姿勢には  大いに疑問 
に思ったのです。




そんな落胆を期に、 ボクは

     人質奪還=「現実」 と、 映画制作=「虚構」 の要素を絡ませて、


 自らの極・私的嗜好である 

      「 現実虚構融合 」  
                          を 夢見



       “
妄想”
 の世界って しまったのです。  
 





冒頭、「イラン近代史」 がアニメ調に提示され、イラン革命を期にアメリカ大使館がいかに 「襲われるに相応しい場所」 であったのかが、分かりやすく説明されていたのです。


石油利権欲しさの内政干渉

         ↓
パーレビー国王という傀儡政府で大儲け。 イラン国民は極貧生活。
         ↓   
イラン革命が勃発
      
傀儡の国王パーレビーは命からがらアメリカに亡命。
      ↓   
イラン国民はパーレビーの返還を求めてアメリカ大使館に殺到。

 

     当時実際映像かしながら 緊迫した状況 

                           を表してきました。

 


イラン国民の怒りは臨界点に達し、柵を乗り超えてアメリカ大使館に乱入。 その混乱の中、6人の大使館員達が難を逃れ、カナダ大使私邸に潜伏。

                            という設定となっています。

 

今作の主人公は、この潜伏者6人をイラン国民に気付かれずにアメリカへ連れ戻すことが任務となります。
元々、興味深いストーリーなのですが、このミッションに


              ハリウッド人々関与めた あたりから

                                                                    急速面白なってきました。

 

救出チームはカナダの映画ロケハン隊としてイランに乗り込み、逃走している6人を吸収してイランから脱出するという筋立てのようてす。

( こんな危険な情勢にも関わらず、イランに入国するのは金と名誉欲にかられた映画制作者くらいなもの。 なのでしょう。 [笑] )

 

脱出計画を遂行する上で、主人公が相談した映画関係者のセリフ 。  


                
「映画制作証拠デッチ上る

 
                                                                                 の一言で


                  
この映画か本格的に動き出したことを実感しました。
 


正真正銘の映画ロケハン隊がイランを訪れたことにしなければならないのです。 その為に老プロデューサーに 「偽」 映画制作を依頼することになります。


この人物が面白い。

      「俺がやれば、“偽” でも ヒットだ」 


                   と豪語し、まるで本物の映画制作のように
                   脚本を物色し始めるのです。そこで見つけたのが

  
           「アルゴ」  という題名のシナリオ。
 

 
まさしく、時代背景の1979年にふさわしくSF冒険モノなのです。

「スターウォーズ」 の洗礼から2年。そういえば当時、安っぽい2匹目のドジョウを狙った作品が乱立していましたっけ。

 

「アルゴ」 は舞台背景が 中東によく似た設定であったために 「偽」 映画として候補に上がったのです。 そして、イラン側をしっかりと欺くために映画制作の事実を作っておく必要がある。 そこで


             老ブロデューサー御仁大活躍


             シナリオ使用権をハッタリかましながら手中にしていくのです。
 
 

シナリオを獲得し映画ポスターも制作。 しかしこれでは、警戒を強めた イラン当局を誤魔化すことはできない。 本当の映画制作クルーがイランに入国したと思わせなければならないのだ。

誰かが言った。

              「世間すならマスコミ利用しよう  と。

 
                                     
これによって盛大な制作記者会見を実施。


キャストが衣装を着て本読み、ちょっとしたお祭り騒ぎになってくれました。

 

しばしの高揚感の後、いよいよ主人公は6人の潜伏者を救いにイランに入国していくのですが、気がつくとボクは今の時点まで、主人公に全く興味を持つことかできなかったのです。

主人公は 「人質奪還のプロで妻子とは別居」。 これぐらいしか覚えてないのです。不思議なことでした。

 ボクの気持ちは主人公のことよりも、大使館占拠の社会的背景や、老プロデューサーのキャラクターの方に興味が向かっていたのてす。

それだけ主人公の実在感を感じとることができなかったのです。



そんな彼が 「単身」 イランに入っていきます。

           これも意外でした。


てっきり 「チーム」 でイランに入国し、その数に紛れて6人の潜伏者も脱出するものと誤解していたのです。

 どうやら今作は、1人で」 イランに入国し、「7人で」 出国してくるという、奇想天外なことをしでかすようなのです。想像以上に荒唐無稽なプランに対して、どんな頭脳プレイを見せてくれるのか

 

         今作に対しての期待が 「いきなり」

                                                 らんで いきました。

 

イランの潜伏先で落ち会う7人。しかし、映画ロケハンを騙った主人公の脱出プランに不安をぶつける逃亡者達がいたのです。 このように主人公と逃亡者達の対立軸を提示してきた今作は、本格的にドラマが動き出したようなのです。

しかし、シナリオでは 「ドラマは動き出した」 のでしょうが、ボクの気持ちの中は違和感でいっぱいになっていたのです。


           
ドラマがどうしても わない  のです。


主人公と潜伏者達6人の対立がどうしてもリアルなものと受け留めることができないでいたのです。


               
何故か? 



主人公と逃亡者達6人が同じ時代に生きる人間には思えなかった。ことが要因だと感じました。 潜伏者達6人を始めとする登場人物はことごとく1970年代の髪型やファッションに包み、2013年の現在から見ると、時代錯誤の 「カッコ悪さ」 を醸し出しているのに対し、

                  主人公例外 だったのです。



主人公の彼が初登場した時にイヤな予感はしていたのです。

6人にはトンボ眼鏡や大袈裟なひげを生やかせて、70年代をちょっと苦笑気味に演出。 しかし、イケメンであるところの彼はヒゲこそ生やかしてはいるが、あくまでも二枚目。 現代に生きる人のようにスマートなのです。

( それもそのはず。 今作の主役である ベン・アフレック その人が今作の映画監
  督。 どうやら彼は今作に対して、客観的なバランスを維持することができなか
  ったようです。)

70年代を厚盛りにされされている 6人と二枚目の主人公が同じ空間にいるだけで違和感を感じ、前述の、主人公に対して興味を感じ取れない苛立ちも加わって

主人公と潜伏者の葛藤を 「リアル」 なものと認識することができない、そんな


            「致命的乖離」


                            
ボクの気持ちの中に生じていったのです。

 


引き続き、ネガティブな発言が続きます。


ボクは先ほど、今作に対して

「 1人でイランに入国し、7人で脱出してくてくるという、奇想天外なことをしでかして
  くれるようで、想像以上に荒唐無稽なプランに対して、どんな頭脳プレイを見せて
  くれるのか期待が膨らみます。」

と、発言をしたのですが、残念ながら 「頭脳プレイ」 などというものは今作には


           微塵にも ありませんでした。



驚くことに、偽装パスポート7人分と帰国の飛行機予約だけの無策な状態でイランに 「単身」 乗り込んで来たようなのです。


その無策ぶりが炸裂したのが、帰国便に搭乗するべくやって来た空港。


イランからの出国審査で、2日前の入国カードが (当然ながら主人公の) 1人分しかなく、潜伏者6人分は存在するはずもないのに、
文化イスラム指導省発行の 「ロケハン許可証」 を振りかざして何とか強行突破しようする、そんな

           場当たり行動 にでるありさま、

                                                               なのです。


そして、2日前の入国カードが1人分だけで、潜伏者6人の入国証明がなされていないにもかかわらず、
文化イスラム指導省発行の 「ロケハン許可証」 を見せられただけで、何の疑念を持たないまま出国を認めてしまうイラン出国審査官の


             間抜けさ、には
                    れかえってしまいました。

 

しかし、ストーリーはお約束通りに、革命防衛隊という、武装エリート集団に別室に隔離されてしまうのです。

やっと、ハリウッドの面々の施策が彼ら7人の窮地を救うことになる予感に、再び期待感を持ったのです。

( この期待は是非とも叶えてもらいたいものです。 )

 

早速、7人は偽記者会見の成果である、「アルゴ」 の雑誌掲載記事を革命防衛隊に見せて対抗をします。 それでも引かない革命防衛隊は、とうとうハリウッドに設置した映画制作事務所に実在確認の電話を入れる事になります。

きっと、事務所に控えているあの老プロデューサーがはったりか何かをかませて、革命防衛隊を打ち負かせてくれるはず。 との期待がにわかに増大していったのです。


カラ回り気味の今作にやっと

                映画的カタルシス がやって

                                                    と期待したのもつかの間、

 

        その見せ場を軽くスルーしていったのです。


せっかく前半で、老プロデューサーという興味深いキャラクタを育ててきたというのに、「通り一辺倒」 のヤリトリに終始してしまい、映画的カタルシス などというものは存在しなかったのです。

 

結局、時間スレスレに飛行機に乗り込めることは分かっているのですから、いかに観客をハラハラさせるか、もしくは、スカッとさせるかが制作陣の腕の見せ所なのに...


(見せ場をつくることなく) まんまと革命防衛隊の疑いの目を掻い潜って飛行機に搭乗する7人。


         
何の感情も持てないまま


今作が終わろうとしていることに焦りを感じていたら、こだわりのシーンに続いてくれたのです。

 

案外、革命防衛は骨のある奴らでした。映画ロケハン隊が潜伏者であることが判明してからの彼らの働きは大いに今作を盛り上げてくれました。

自動車で滑走路をカッ飛ばして、旅客機離陸阻止を企てるのです。
突如として一級のアクション映画となっていきました。


しかしなから、革命防衛隊の猛追も、飛行機はすんでのところで飛び立っていき、主人公はまんまと6人の潜伏者の救出に成功。 メデタシ、メデタシだったのです。

やがて、今作は 「アメリカン・グラフィティ」 のエンディングロールさながらに、登場人物それぞれのイラン帰還後のブロフィールテロップを映し出しながら終結していったのです。

 




今作は終わっていきました。




しかし、ボクはこの一連の流れを見て

                   失笑得なかった のです。

 


何故なら、


今まで一切              「人らずして  
何故かエンディングロールでは  「人ったつもり になっている



       製作者態度可笑しくて 
                      
たまらなくなってしまったのです。




主人公からして 「人を語れず」 に、不毛な気持ちを鑑賞者に与えておきながらの
突然の 「アメ・グラ」 エンディングなのですから、 これは


           
悲惨喜劇 くらいにしか思えなかったのです。



             残念です。


 

 




さて、ここからは一転、映画の悪口を一切言わずに、映画の良いところだけを探していきます。そして、その魅力点を発展させるべく、自分自身が今作の監督にでもなったかのように



            妄想げていきたい と思うのです。


 



今作を鑑賞して最も興味を惹かれたのは、「偽」 映画制作に携わったハリウッドの面々でした。 特に老齢なプロデューサーはその存在感から大きな印象を持ちました。

 

          このキャラクターかしたい。  
                      
     

                        と強く思いました。

 

「アルゴ」 の台本を買い叩いた際に、相手から 「過去の人」 呼ばわりされていたことを思い出しました。 輝しき過去を持ちながら、今は時代に忘れられつつある存在となった彼にとって、 この 「偽」 映画制作こそが



       
らの 「存在意義」 を再発見する


                       重要キッカケ



                                            にしたいな。 と強く思ったのです。

 

老プロデューサーにしてみれば  「アルゴ」  は舞台が中東に似た場所という理由で 「偽」 映画に採用しただけの台本でした。 しかし、記者会見などを仕込む内に愛着が湧き、台本の改訂に着手。 本気で 「傑作」 をモノにする気運になって欲しいと思ったのです。

「傑作」 は、しかしながら 「偽」 の映画である為、クランクインすることはありませんでしたが、主人公達がイランから脱出するまでの間、本物の映画制作と見まごうくらいに没頭する姿を写し出したいのです。

 

そんな 「偽」 映画制作に注力している老プロデューサーの今作におけるクライマックスは、イランの空港で主人公達7人が革命防衛隊に足留めを食らっている時にやって来るのです。

そう、革命防衛隊からの映画制作事務所の実在確認電話を受ける時です。

きっと老プロデューサーのことですから、



   「俺たちは今、世界がひれ伏す “傑作” をモノにしている最中だ!」  



啖呵を切りながらイラン革命防衛隊の疑いをヤリ込めてくれるはずなのです。ここで観客たちは


                 溜飲げることになるのです。



映画制作は叶えられませんでしたが、革命防衛隊の疑念を振り払う決定的な役回りを演じたことで、輝いていた日の感情を再発見、心機一転、映画制作への情熱を呼び覚ますことで


               「再生される彼」 

                     であって欲しかったのです。

 




さて、キャラクター的に興味を持った老プロデューサーの修正はこれで納得。




次なる修正点は、

潜伏者を救出するために 「映画制作をカモフラージュ」 に使ったことをもっと訴求したいと思いました。

 

ボクの極私的嗜好の映画テーマは

              「現実虚構融合 。 




映画制作という 「虚構」 が関わってくるのですから、この流れに 


                    強引んでいきたい と思います。

 



「現実虚構融合 を表現するために活用したいと思ったことが2つありました。


  1つ目は冒頭のイラン革命を説明する 「イラスト」 。 

                    今作の時代背景をわかりやすく説明していました。



  2つ目が 「偽」 映画 のプレゼンツールとして活用されていた 「絵コンテ」 。




  今から思うと、イラン革命を説明する 「イラスト」 は

                        映画の 「絵コンテ」 を模していたのです。




 
    事実説明として活用されていた  「イラスト」 。
      
    虚構映画世界説明するの 「絵コンテ」 。


 


    この2つを 「現実虚構融合 を図るために活用したい。 
                                                                                と思ったのです。

 


要所に、イランから脱出していく 現実世界 を説明する

                                        「イラスト」 を配置し、


その現実世界に呼応するカタチで、 虚構映画 「アルゴ」 のストーリーを 

                                        「絵コンテ」 で提示していきたいのです。



 

    「現実」 に起こっていることと、 
    「虚構」 である 映画 「アルゴ」 の内容との 



             
   似通っている  「相似点」 と、

                 っている 「相違点」 




                                                
同じ 「画」 という表現で際立たせていく。



 

               そんなボク好みなアイディアが湧き出してきたのです。

 

 

今作は事実をベースに制作された映画ですので、これから発言していく妄想は完全にその枠をズレていきます。

それ故、これからのレビューは、今作を 「事実に構想を得て、妄想を繰り広げた映画」 に作り変えることを目的に、無責任に語っていきたいと思います。

 

 

「偽」 映画制作に使われた 「アルゴ」 は中東に似た星を舞台に、悪の大王をやっつけるストーリーとなっていました。


そこで、

     現実世界で主人公達7人が体験していく事実


     「偽」 映画シナリオ
、 シンクロ させてしまえば、





「画」 を使って様々な場面で

        「現実」 と 「虚構世界」 の

        「相似」 と 「相違」 を

                                                 表現することができる。


                       と思ったのです。

 

そこで、ボクは 「偽」 映画 「アルゴ」 のストーリーに、「スターウォーズ」 にある 「お姫様救出」 というファクターを加えていけば、

 

「現実虚構融合」 が近づく

と思ったのです。

 




悪の大王の城に侵入した「偽」 映画 「アルゴ」 の主人公は 「美しいお姫様」 に廻り合い、

一方の 現実世界 でイランに侵入した主人公は、潜伏生活に疲弊しこの救出プランに不満を顕にする 「ウザイ救出対象者」 がいる。

そんな 「相似」 と 「相違」 を盛り込みながら、


       現実世界では 「潜伏者6人の救出劇」 が進行し、

       「偽」 映画 「アルゴ」 では 「お姫様救出」 が虚構の世界で展開。





 「現実」 と 「虚構」 が絡み合って

      「現実虚構融合」 がなされることを


                      画策していきたい


                                 と思ったのです。

 




現実の救出劇はあくまでも地味で、なるべくイラン当局に怪しまれないように出国することが目的でした。 しかし、「偽」映画 「アルゴ」 の主人公はその地味な現実とは対称的に


       派手に豪腕を唸らせて悪の惑星からの脱出

                を演出したいと思います。

 

この 「現実」 と 「虚構」 の2つの脱出劇に、先の老プロデューサーにとどめの1発を炸裂させたいのです。

 

現実 (においての妄想) では、前述のように国際電話での言葉による攻撃によって革命防衛隊に一矢報い、主人公を助けるのですが、

映画 (においての妄想) では、思いっきり華々しいものにさせたい。

「エイリアン2」 のクライマックスで出てきた、リプリーが操作した作業用ロボットに乗って御大 (に酷似のキャラクター)が登場し、敵をやっつけるのも良いかもしれません。

 

ボクの妄想の中では、


             現実世界においては          「口撃」 で、

「偽」映画 「アルゴ」 では直接的  「攻撃」 で




革命防衛隊や悪玉という敵に 「虚構現実」 の両側面において同時に勝利するストーリーを夢見たのです。



今作の終結については

 

  現実の救出作戦の成功と同時に


  「偽」 映画 「アルゴ」 のエンディングが シンクロ して、


  しかも、今作 「アルゴ」 自体終結していく幕引きを


                         強く望むようになったのです。




これこそがボクが嗜好する


「現実虚構融合」


がなされた映画となる方法だと感じたのです。

 

 

今回は、オリジナルの映画の良さを十分に理解することがてきず、

いかにしてボクの好きな映画に改造していくかに注力したレビューとなりました。

確かに、こんなレビューは妄想だらけの邪道には違いないでしょう。

しかし、「たまにはいいかな。」 と独善的に思いつつ、レビューを終えることにします。






 
発想スバラシイ


      映画制作にした 実話人質奪還計画



 しかも、そこにハリウッド面々が関わって来たところから

                 加速度的に 面白なって来ました。



しかし

   「人
らず して、何故か、「人った つもりでいる

                 今作の姿勢には  大いに疑問 に思ったのです。




そんな落胆を期に、 ボクは

     人質奪還=「現実」 と、 映画制作=「虚構」 の要素を絡ませて、


 自らの極・私的嗜好である 

      「 現実虚構融合 」  
                          を 夢見



       “
妄想”
 の世界って しまったのです。  











アルゴ2 



                    アルゴ3
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完成! 「桐島、部活やめるってよ」
2014-01-08 Wed 22:07

桐島1 







ありきたりな日常でも


      
視点場所をずらしながら、 
そして、
     時制ねながら配置     していくことで、


                
その日常が重要性びてくる。




    そんな今までにない表現をまざまざと体験をしました。




そして、極・私的嗜好である 



         「現実虚構融合」


                          までもがなされていったことは



                    望外でした。







今作を鑑賞することで


新しい感性を呼び覚まし、そして、自分の嗜好をも満足した。


            極上映画体験  


                                           を味わうことができたのです。










導入部、いきなり今作は


                        興味深展開を見せ始めました。


 「金曜日」 と書かれたテロップから始まり、高校の放課後が映し出されてきたのですが、


            さしたる展開がないままに、 
                             「金曜日」 というテロップが表示されたのです。



あれ? さっきとは違う 「金曜日」 が始まるのかな ?
と観察していたところ、第2回目に提示されたこの 「金曜日」 は、どうやら、今まで見てきた 「金曜日」  と全く同じ日のようなのです。
そして、第1回目の時制の 「放課後」 よりもちょっと前の、「終業ホームルーム」 から始まっていたことがわかるのです。

この特徴的な構成によって、第1回目の 「金曜日」 で何とはなしに出てきた登場人物の役割を少々、理解することができたのです。
その中で主人公である神木隆之介くんが  「いけてない」 映画部員であることが印象に残りました。
( ボクは高校時代に自主映画を制作していたので、彼にシンパシーを感じていくこと
  になるのでしょう。 )




今回、第2回目の「金曜日」は4人の女子を追いかけていくのですが、興味深いことに、第1回目の 「金曜日」 で見た場面が


              視点から
                                       映し出されてきたのです。


第1回目の 「金曜日」 の時制に、第2回目の 「金曜日」 が追い付いたことになります。   
   
               「ちよっと」 面白な。  
                                                と思いました。


一つの出来事を違う視点から語り、そして、時制をズラすことで、物事を多面的に表現してきたこの手法には、大いに興味を惹かれました。

( ここで思い出すのは大島渚の怪作 「日本の夜と霧」 やハリウッド娯楽映画の
  傑作 「バックトゥザフューチャー2」。 
  いずれの作品も、一つの出来事を違う視点で再提示することで、その出来事を
  多面的に語ってきたのです。そして、この手法の最高峰は 「羅生門」 
  であることは疑いの余地はないでしょう。 )


手法は興味深いのだが、「ちょっと」 と表現にしているのは、映し出して来るものが


                ありきたりな放課後の情景 
                                                          であることに    

     
                      戸惑いをじたからなのです。


「日本の夜と霧」 のように、「破防法」 運動盛んなころの学生寮スパイ事件の真相解明や、「バックトゥザフューチャー2」 のように、パート1のクライマックスシーンが進行しているさ中、別の思惑か絡んでくる。など、今作には、そんな


                    劇的な要素が存在しないのです。



題名にある桐島クンはバレー部のスター選手で、その彼に何らかの異変が生じていることはわかります。
しかし、登場人物をありきたりな放課後で、何とはなしに登場させているため



映画は始まっているのに、ドラマがいていないことに 
  

             居心地のようなものを
                                                  感じ始めていました。





          
味は惹かれるのだけれど、掴みどころがないのです。





この映画の世界観に乗っていけるか不安になったところ、いきなり今作はドラマチックな予感を見せたのです。
桐島クンのガールフレンドに、彼の異変を告げようと友人が呼びかけた刹那、驚いたように振り向く彼女。
よし、ドラマが動き始めた。と思ったら矢継ぎ早に提示されたテロップが 

  「金曜日」 .........。       


   
              
 やられた。



                 第3回目の 「金曜日」 が始まっていったのです。




第3回目も、勿論、第1回目や第2回目と同じ日の 「金曜日」。
時制はほぼ第2回目と同じ 「終業ホームルーム」。
そして、語ってきた視点を前回と変えてきたのです。
劇的な事件が発生していないにもかかわらず、しつこく  「金曜日」 の放課後にこだわってきた演出陣のこの執着に対して、過去3回の  「金曜日」 を整理しておくべきと思いました。
 

   第1回目の 「金曜日」 は放課後、主人公の映画部を導入部にして主に桐島クン
  がいないバレー部を追いかけていました。 

   第2回目は桐島クンのガールフレンドを含む4人の女子を追いかけました。 

   そして、今回の第3回目の 「金曜日」 は同じクラスの吹奏楽部の女子と桐島クン
  の男友達をターゲットにしています。



第3回目の 「金曜日」 にきて初めて桐島クンが 「部活を辞めたらしい」  ことが伝聞レベルで提示されてきました。
映画が始まって  22分20秒も経過してから、やっと題名の状況
「桐島、部活やめるってよ」  に追い付いたのです。

この時間になるまで桐島クンの登場がないことと、これまでの一筋縄にいかない進行を考えると、



                きっと桐島クンは

                 この映画には実像として登場することがない。


                                                                        と確信しました。



そんな確信が生まれてから、今作特有の楽しみ方かわかってきたようでした。


3回に渡ってありきたりなパーツを
 
              視点と場所をずらしながら、そして、
                時制を重ねながら配置していくと、




不思議なことに、

              それぞれのたわいのない行いが
              重要なことのように思えてきたのです。




ありきたりな行為を

              視点をずらし、時制を重ねながら 
       複数回提示することによって、




そのありきたりな行為が

                印象深く、
                そして興味深く

                                    ボクの胸の中に入り込んで来たのです。




それによって、ありきたりな日常の中の

                ちょっとした視線や表情
                そして会話から、



        登場人物の気持ちを

                                 理解することができたのです。


これこそが、ありきたりな日常を複数回提示してくる映画を楽しむコツであると思えてきたのです。
劇的な展開が望めず、掴みどころがない映画だなと戸惑っていたところ、 

  
            ありきたりな日常重要性びてくる。  

   
                       そんな、今作特有しみを見つけたのです。



さて、次はどのような視点でこの日常的な 「放課後」 を輝かしてくれるのかな? と楽しみにしていたところ、
第4回目の 「金曜日」 は 「放課後」 ではなく 「朝礼」 から始まったのです。1日の始まりから観察することができた為、それまで推測の域を超えることがなかった些細な数々が有機的に繋がっていったのです。


            パズルの小さなピースが埋まって、

                                                      全体を掴めたようでした。



そして何よりも、今回の 「金曜日」 は画期的な展開をみせてきたのです。


            「放課後」 が

                                  わってしまった のです。



幾度となく 「放課後」 が始まっていたものですから、あっけなくその「放課後」 が終わってしまったことに、ある種の喪失感のようなものさえをも感じました。
そして、驚くことに


                 「金曜日」 も 
 
                                          わりをげていったのです。



              「繰 の映画手法が  


                                           終了したのです。





「月曜日」 となった今作は、桐島クンが 「いない」 ことによって生じた 「差異」 を提示してきました。映画は  「繰り返し」 の導入部を終えて、新たな局面を迎えていたのです
それは2回目の 「金曜日」 で主役となっていた桐島くんのガールフレンドを含む4人の女子の関係に表れていきました。
桐島くんの不在によって 「土曜日」  の試合に出場することができた男子部員への侮蔑をきっかけに、感情の 「軋轢」 が生じていったのです。ボクはこの展開に興味を持ちました。
「女子4人の軋轢」 は、仲良しだと思っていた彼女達の気持ちの中にも 「負の感情」 が存在し、それを仮面の中に隠し持っていたことを意味していました。
桐島くんが 「いない」 ことで生じた補欠選手の出場という 「差異」 が、女子4人の 「軋轢」 へと拡大し、人間の内面に迫まってきたのです。


そして面白いことに



     「いない」  ことで生じる変化、について、



鑑賞者はその者が  

   
        「いた」   事実を見ていないのです。



     「いた」   かどうか認識していない者が  
     「いない」  ことで生じる差異を



                                         考察することになるのです。




通常ならば、こんな不確かで地味な作業に気が重たくたるところですが、ありきたりな 「金曜日」 を何回も経験させられて、忍耐強くなった身としては、朝飯前のことでした。
決して顔を出すことがない 「桐島」 くんがキーワードとなって、ストーリーが展開する今作において、
ありきたりな 「金曜日」 の連続で構成された導入部は、
鑑賞者の感性を 

  
          「今作モード に馴化させる為に  

                                     効率良機能していたのです。



    徐々にではありますが、今作のリズムに調子が合ってきました。



しかし、「女子4人の軋轢」 を提示した以降の今作は、特徴的な時制表現も既になくなり、ありきたりな進行となっていきました。その中で残念なことが発生してしまいました。
桐島クンが登校してきたのです。
勿論、桐島クンが画面に登場するような無粋なことはしません。学校側に不登校の説明に来たようなのです。そして以降も画面に一切、登場しない流れのようです。

しかし、この桐島クンが登校してきたエピソードに対して、ボクはすっかり落胆してしまったのです。

  今作が終わりを告げるまで

         桐島クンの実存がわからない状態 
 
                  を維持して欲しい と切望したからなのです。


桐島クンの実在としての行動は映画が始まる前の時制、具体的に言うと 「金曜日」 が始まる前だけに留め、クラスメートから彼についての伝聞を聞かされるだけの存在であってほしかったのです。
ですから、現在の時制で彼の実在を客観的に認知できる行為は一切、慎んでほしかったのです。

そんなことを考えていたら、ある人物が脳裏に焼き付いてきました。



    実在がわからず、それでも、皆から一目置かれる存在。

    彼の言動は他者からの伝聞のみ知れてくる。


                    もうおかりですか?



その伝聞は パウロ とか ヤコブ っていう奴らが記録して、聖書という1冊になっている、

大袈裟な例えですか、桐島くんが

         自身実在 を超えた
         シンボリックな存在 となって、
         「神格化」 され、 め られている。  

                                                                   と感じたのです。


                    だから実在は、
         
現在進行ではられてほしくない。

                    そんな願いが芽生えていたのです。



     最初から最後まで、桐島くんは登校することなく、 

                               
          
その実在不明
 
            語られる内容は全て今作まる時制  
                                       

                          であって欲しいのです。


それ故、現在進行形の時制で彼が登校してきたことに落胆の念を禁じ得なかったねです。
キリシマとキリスト。最初の2文字は同じでしょ?

冗談はさておき、桐島くんの実在が伺い知れる 「登校」 という要素が、桐島クンの 「格」 を大幅にスポイルしてしまったと思えたのです。




桐島クンのカリスマ性が損なわれてきたその一方で、今作の主人公、神木クンの活躍が見えてきました。
顧問の反対にあっても、断固、「宇宙ゾンビ」 ものの映画を撮り始めていったのです。元映画研究部員としては、嬉しい気分になってきました。
しかし、映画部の活躍に胸踊らせながらも、


       映画がやや停滞気味になってきたことに、

               警戒心を持ち始めたのです。


相変わらず、高校生達の平凡な日常を追っているのですが、「桐島クンの登校」  という、ボクにとっては大事件が起こったにもかかわらず、何ら新しい展開がなされないことに不満感が芽生えてきたのです。
ありきたりな 「金曜日」 ではありましたが、4回も続けて見せられたことで映画的興奮を見い出した身としては、そして、「大事件」 が無視され何の工夫も無いまま、ありきたりな日常を見られていることに物足りなさを感じていたのです。
そんな停滞感に覆れた時、


        突如としてドラマが

                 したのです。



 桐島クンが (再び) 登校して、(何故かしら) 屋上にいる。という


      情報が飛び交い始めていったのです。


バレー部、友人、ガールフレンドが一斉に屋上を目指して階段を駆け昇っていきます。
屋上にいる桐島クンを目指すそれぞれの姿を追いながら、今作はバックに部活中の吹奏楽部のオンタイムの演奏を重ねてきたのです。
その時、思い出したのです。バックの音楽を奏でる吹奏楽部部長の女の子にとっては、淡い恋心が壊れた直後であったことを....。

「ありきたりな日常」 と見飛ばしてしまった彼女の気持ちを、今更に気付いた瞬間だったのです。
桐島クンが登校し、彼を渇望していた者が階段を駆け上がる。そんな今作のクライマックスに彼女を訴求してきたことで、ふいに、


「ありきたりな日常の積み重ねの中に、当事者にとっては大事な想いが隠されている。」
                      そんな事に気付かされたのです。


これは  「ありきたりな金曜日」 を見せつけられ飽き飽きし、それでも何度も見続けるうちに 「隠された想いや関係性」 を発見できたことに似ていました。


しかし、この場面では、繰り返しの手法を用いず、何の作為性もなく 「ありきたりな日常」 を提示してきたので、ボクは


「ありきたりな日常の積み重ねの中に、当事者にとっての大事な想いが隠されている」

                      ことを見抜けずにいたのです。



      
残念。




そして、このタイミングで彼女の音楽を採用したことで、


     本作の終結い ことを感じたのです。



なぜなら、第3番目の 「金曜日」 で彼女に与えられた 「彼女がいる男の子への儚い片想い」 という役回りを演じ切って、



     彼女のストーリーが終結した

                 と感じたからなのです


そして、本作のクライマックスに流れる吹奏楽部の音楽がまるで、



     儚く散っていった 「自らの片想い」 への

                 葬送曲を奏でている

                        とボクには感じられたからなのです。



吹奏楽部部長という彼女の役割が終結し、他の登場人物の日常も次々と終わりを告げていくに違いない。と思ったのです。
その証拠として本作の登場人物は、揃いも揃って、桐島クンを目指して屋上に駆け上がっているのです。まるで全員一致の終着点への一番乗りを競っているようです。
そして、我が映画部は一足先に、その屋上で 「宇宙ゾンビ」 の映画を撮影しているのです。そこに登場人物の面々が集結するのですから、



        
ドラマが生じないわけがありません。




ガールフレンド、クラスメート、クラブ仲間と、桐島クンを求めて様々な関係性を持つ生徒が一同に会しました。しかし、当然のように桐島クンはそこにいるはずもなかったのです。
屋上にいたのは我が映画部。ちょうど、撮影の真っ最中。

桐島クンがいないことに苛立って、映画部の小道具を蹴飛ばす者まで出てくるありさまでした。








やはり、このシーンにはクライマックスに相応しい、映画的カタルシスがありました。ここには

    「王道」 と呼べる万人受するドラマ手法と、
    ボクの 極・私的嗜好 ど真ん中の表現

                                                 が含まれており、


              至極境地 を見たのです。




で、何が起こったかと言いますと、映画部員達の反抗がなされていったのです。
屋上で 「宇宙ゾンビ」 映画を撮影していたところ、みんなが乱入。小道具を蹴り飛ばされた彼らは、バレー部に謝罪を求めるのです。
今まで軽んじられてきた不満が爆発、傲慢な態度を取ってきたバレー部員に小道具蹴り飛ばしの謝罪を求めたのです。


       「抑圧されていた弱者が立ち上がる」。

       万人受するドラマ手法をまずは当ててきたのです。


そんな定番な作為性を認識した上で、敢えてそのドラマを楽しんでいたら、素晴らしいことに、




       うレベルの映画的興奮

                    が待ち受けていたのです。



桐島クンの不在によって生じた 「女子4人組の軋轢」 が、「映画部の逆襲」 をキッカケとして女子同志のビンタという暴力沙汰に発展していったのです。


         めちゃくちゃしくなってきた!



今作のオープニングにおいて、ありきたりな 「金曜日」 を何回も見せられることによって、

           日常埋没している
         コンプレックスちょっとした反感

                                               が炙り出されてきたのですが、


それらの 「負」 の思いの数々がこの屋上で噴出し、大きな 「動」 のエネルギーに一気に変換していくことを感じたのです。
「バレーボール部内の軋轢」 「女子4人組の同性愛的なニュアンス」 「放課後バスケット男子や、クラス内の男女関係」 等が
 
     「暴力」という

                     可視化された力 になる予感に痺れたのです。


「日常の中の小さな不整合」 が 「暴力」 に集約・爆発するこの予感は、


            あたかも 台風 になぞらえるべき 

                                                        と思いました。


南の国での日々の静かな 「海水の蒸発・上昇」 が、いつしか莫大な電子を帯び、膨大な水蒸気を蓄積。
そして一気に台風として温帯地域を蹂躙する。
さぁ 「小さな不整合」 達よ、雷を轟かせながら、強風と豪雨でこの日常をぶち壊してしまえ!!
と、まるで神にでもなったかのような気持ちで、彼らの様々な気持ちが 「混沌」 へと昇華する様を期待していたのです。
しかし、今作はそのような展開をしてくれはしなかったのです。


     もっときな 「映画的興奮」 をもたらせてくれたのです!



もっと大きな 「映画的興奮」
それはボクの極・私的嗜好に関わってきたのです。




ボクもかつては映画研究部員で自主映画制作に没頭したものでした。
大学時代に制作したのが、自主映画を制作している少年少女達の物語。
制作している映画にリアリティを持たせるために、映画のストーリー (偽装誘拐) を現実でも起こして、そのクライマックスをドキュメンタリーとして写し込むことで映画のラストシーンにしよう。 という骨子でした。


そして映画的表現として目指したのが


        「現実虚構融合」 


                          だったのです。


それを 「宇宙ゾンビ」映画を監督している神木クンはこの場で実現させようというのです。
「女子4人の軋轢」 による平手打ちがなされた直後、突然神木クンが8ミリフィルムカメラを構え出し、こう言うのです。  

   
            
 「こいつら全部、喰い殺せ!」


    愕然としました。背筋に雷が通って行ったような衝撃を覚えたのです。


今まさに台風が吹き荒れるというこの瞬間に、「宇宙ゾンビ」 の扮装をしている映画部員に

              「こいつら全部、喰い殺せ!」

                                              と言い放ったのです。


その指示は、

             いま目の前に展開する 「混沌」 と、
             彼の頭の中にある    「映画」 を

                                融合させる行為 であったのです。


その場に居合わせた者達を、「宇宙ゾンビ」 役の映画部員に襲わせ、その現実を記録することで、「映画」 のクライマックスを創り上げようとするのです。
それはまさしく30年前、ボクが学生時代に試みた


           「現実虚構融合」


                                 がなされる瞬間に他ならなかったのです。



「ドキュメンタリータッチでいくんだ!」 の言葉で 「宇宙ゾンビ」 の扮装をしていた映画部員達は瞬時に彼の真意をくみ取り、そこに居合わせた者達にゾンビとして襲いかかるのです。
その様を一つ残らず8mmフィルムに収めようとする神木クン。
その姿を見て、ボクは言いようのない熱い想いに包まれたのです!



そして、この極上のクライマックスで更に、気持ちを揺さぶられたシークエンスがありました。
神木クンが淡い気持ちを持った同級生の女の子がゾンビに襲われる場面で、彼の妄想が拡大されていったのです。
首を噛まれて鮮血を飛び散らせ、肉を食い千切られていく。
まるでスプラッタームービーの様相を呈したのです。
彼の同級生の女の子への淡い気持ちはただの偶然の重なりで、何もなく終わりを告げたのですが、


      彼女に対する 「気持ちの崩壊」 が、
      彼女自身の    
「肉体崩壊」



                     へと転化されていったことにも、

                                     ボクは大いに反応していったのです。



「抑圧されていた弱者が立ち上がる」
 という 「王道」 と呼べる万人受けするドラマ手法から始まって、
隠されていた 「負」 の思いが 「暴力」 という可視化された力になる 予感 を経て、
「極・私的嗜好」 である 「現実と虚構の融合」 がなされる興奮を味わったのです。


そう、幾重にも張り巡らされた


         「映画的カタルシス」 に


                ボクは完全圧倒されていったのです。



      この複合的な幸せの中で今作は終わりを告げていきました。




と このレビューを終結させたかったのですが、この一筋縄でいかない映画はスンナリと終わってはくれませんでした。この後があったのです。
この後のシークエンスについては、それなりの意義を汲み取ることはできます。
しかし、


極私的な嗜好を満たしてもらい、至福の境地を味わった身としては、


     この最高瞬間わるべきであった

                           と強く主張したいのです。



申し訳ありませんが、

ラスト13分は

       ボクの記憶から抹殺させて頂くことで、

                      今作を傑作と認定したのです。








ありきたりな日常でも


      視点場所をずらしながら、 そして、
     時制ねながら配置     していくことで、


                
その日常が重要性びてくる。




    そんな今までにない表現をまざまざと体験をしました。




そして、極・私的嗜好である 



         「現実虚構融合」


                          までもがなされていったことは



                    望外でした。







今作を鑑賞することで


新しい感性を呼び覚まし、そして、自分の嗜好をも満足した。


            極上映画体験  


                                           を味わうことができたのです。










桐島2 




               桐島3
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完成! 「アーチスト」
2013-09-08 Sun 23:42
アーティスト1 






今作は 「サイレント映画」 から 「トーキー映画」 への移行期を舞台に

            主人公葛藤創出 してきましたが、



その問題提起と解決法が  

            「あやふやな」 映画 となっていました。      
   


しかし、
映画を貫く骨子が 「あやふや」 なんかではなく、   

   
       
 「サイレント」 と 「トーキー」  映画手法 が、
  
                場面特性によって自在変換するような 
 

    「サイレント」 と 「トーキー」  映画手法境界線こそが 
  
                   「あやふや」 で ボーダーレス な映画

                                           であって欲しかった。
             


               と強く思いました。






今作の特徴は


             「モノクロ」 で 「サイレント」 映画



                                であること。




しょっぱな早々、それは開始1カット目から訴求されてきました。



電気ショックをかけられて、苦悶の叫び声を上げる主人公を写し出してきたのです。

従来の映画に慣れ切った身としては、この映像にそぐわしい音は、彼の大きな 「叫び声」 だと思い込んでいるのですが、このタイミングで聞こえてきたのは、「映画音楽」 だったのです。



「叫び声」 が相応しい映像を1カット目に選んでおきながら、その映像に 「声」 ではなく 「音楽」 を当ててきたことで、



   今作が 「サイレント」 映画であることを 

                                センスよく訴求 してきたのです。




そして、 1カット目で映し出されてきたこの苦悶のカットが、実は、大劇場でプレミアム上映中の 「サイレント」 映画の1場面であり、舞台挨拶に出てきた主演俳優その人が今作の主役となっている。という構造にも好印象を持ちました。



しかし、鑑賞を続けていくうちに、そのセンスに乖離感を覚えていったのです。

それが評価の発端となった 「音楽」。

唯一、サイレント映画で聴覚に届く  「音楽」 が、よりによってチープで、「モノクロ」映像のクォリティと明らかにマッチしていないことに気が付いたのです。


「音楽」 が今作のウィークポイントに違いない。と感じ始めた開始30分。
今作は素晴らしいシーンへと続いて行ったのです。

今作の時代設定は 「サイレント」 と 「トーキー」 の移行期である1920年代終盤。

今作の主人公である「サイレント」 の花形俳優は 「反トーキー」 の立場をとっています。

そんな状況の中で素晴らしいシーンは展開されていくのです。



場所は彼の楽屋。飲み物を一口飲み、テーブルの上にコップを置いたところ、


              「コツ」


と音がしたのです。 その音にいぶかる主人公。 
当然のことです。 なぜなら今作は



                      「サイレント」 映画



                                                        なのですから。



この 「サイレント」 映画で許される音はただ一つ、「映画音楽」 だけなのです。

コップの 「効果音」 など存在しない世界なのです。

それなのに 「音」 が突然、鳴りだしたのです。

怪訝そうな表情を浮かべる主人公。

「サイレント」 の住人にとって 「効果音」 なんてものは知る由もないもの。

いや、「サイレント」 の世界で安穏とするためには 「トーキー」 の要素である 「効果音」 などは、排除すべきものなのです。

「トーキー」 に反する立場としては、当たり前の反応をした主人公なのですが、その直後、

                      あるまじき行為


                                             を取るのです。


それは、「声」 を発すること、でした。

いや、違った。以前から 「声」 は発していました。

ファーストカットに彼は 「叫び声」 を上げていたのですから。

( もちろん、「サイレント」 の世界なので 「声」 は届かず、「映画音楽 」のみが聞こえていましたが....。 )



                      あるまじき行為



それは、

                 自分の 「声」 が聞こえないこと


                  に 気付いたこと

                               なのです。



いや、それどころではない、  


                  自分の 「声」 が聞こえないこと  


                                    に きの表情せたこと 


                                                                 なのです。



非常に解せないことでした。 「反トーキー」 の立場であれば、「効果音」 は勿論のこと、自分の 「声」 が聞こえないことなど至極当然なことなのに、 


   


            この驚愕態度一体、どうしたことでしょう?





と、普通なら彼の急変に疑問が湧き上がるところですが、こんな気持ちが生じる前に次々と展開を仕掛けてくる演出で、まんまと騙されてしまったのです。


  カメラの水平をずらしたアングルで主人公の焦りを煽り、
  メーク鏡台に映る自分に向けて 「声」 がでない驚きを訴える。

  狼狽して倒した椅子の音や、それに驚いて吠える犬。

  そして、突然鳴り出す電話。

短い時間に様々な仕掛けを作り、主人公の 「声」 が出ない焦りを煽りつつ、そして、

それが主人公の立場とは違う反応であることに  



           疑問たせない演出 に、 


                                                     感心したのです。



いたたまれなく、外に飛び出した主人公を嘲るように 「笑い声」 を立てる踊り子達。
それをやり過ごすと、興味深いシークエンスに続いていきました。


フワフワとした羽毛が空からゆっくりと降りてきて、地面に触れた瞬間


        「ドカーン!」 


                      と大きな爆発音を轟かせたのです。


その様に驚いて飛び起きる主人公。 
そう、全てが夢だったのです。


この夢の一連のシーンは大変素晴らしく、口では 「トーキー」 なんてキワモノだと一蹴した主人公ですが、内心ではその流れに入り込めていない自分に焦りを感じていることを、印象深く表現してきたのです。


ここにきて、今作は 「トーキー優勢」 の立場を明確に打ち出し、「サイレント映画」 の劣勢があからさまとなっていくのですが、そんな局面となった今、当初から感じていた今作のウィークポイント


「チープな映画音楽」 は、実は、  


             意図的であったのではないか?  


                                                  と思えてきたのです。


「サイレント映画」 が時流に取り残され、廃れたものとなる事実を知っている身からすると、この衰退の事実を



「サイレント映画」 に存在する唯一の 「音」 である
   

       「映画音楽」 のっぽさで表現していた


                                                               と思えたのです。



意図的に質を落として、「凋落の予感」 を創出していたのなら、
 


                       素晴らしい勇気


                                                      と評価したいと思います。



    と、この時点では大きな希望をもって鑑賞していたのです。





不吉な夢から覚めた主人公を襲ったのは 「トーキーの嵐」 でした。
所属会社が 「サイレント」 から撤退、「トーキー」 に転向することになったのです。


この変化によって彼の身に暗い影が差すと同時に、上昇気流に乗ったキャラクターが登場してきます。

彼の映画にエキストラとして出演していた女優志願の女性が彼の映画会社のニューフェースとして契約をしたのです。



そんな二人が会社の内階段でバッタリ会うことになります。
そのシーンも素晴らしいものでした。

久しぶりの再会に喜ぶ二人。 しばしの会話の後、

         彼は階下へ、彼女は階上に。



                                明確対比がなされていきました。



この階段が広いホール内に設置されてあり、3階分を丸々見渡せるロケーションとなっています。彼女が階上に去って行った後、彼はしばしの間、時の流れを感じながら佇むのてす。

しかし、周りの世界は彼にお構いなく、慌ただしく動いていったのです。

この対比は 


          時流れず、    

          まっている主人公現実   


                                                を表しているようでした。




                      そして、彼は階下に消えていくのです。



主人公の行く末を安じながら観賞を続けていくと、彼は彼で孤軍奮闘。
「サイレント映画」 を制作、監督、主演  をしますが、


大コケ.......。


一方、「トーキー」 の彼女の主演作は大ヒット。



 ここでも

                      かり対比  

                                                          が作られていました。



その後の彼は運から見放され、転落の一途。

トーキーの彼女はヒット連発のスターにの仕上がり、


                      立場逆転



そして、ストーリーは残念ながら安物の筋をなぞっていきます。




「サイレント映画」 で大失敗の主人公はヤケになって失火、
「トーキーの女王」 となった彼女が駆け付け、全てを無くした主人公を自宅に迎え入れるのです。

彼女のお屋敷で平穏な療養生活を過ごした主人公ですが、その屋敷内に、彼が生活苦で売り払った自分の調度品が保管されていたことに、ショックを受けます。
 
 
主人公は凋落後の生活費用を (人知れず) 彼女に出してもらっていたことに (何故かしら) 絶望し、
 
ピストル自殺を図ろうとします。それを阻止しようと自動車で彼の後を追う 「トーキーの女王」 という展開になりました。
 
 
 
このようなストーリーになるに至っては、 
  
    
           ボクの鑑賞意欲は 
  
                                  急激えていったのです。 
 

そもそも主人公は何故ピストル自殺を企てなければならなかったのだろう? 
そんな疑問に苛まされたのです。
 
 
凋落後の生活を 「トーキーの女王」 に支えられていたのであれば、たたただ、感謝の意を表して、彼女の好意に応えていけばよいと思うのです。
 
それが自殺へ急展開だなんて、全く理解することができないのです。
どんだけブライドが高いのでしょうか。
 
 
しかし、この安直で直情的な展開に呆れながらも、  

   
        「サイレント映画」 の表現  
   
                                                を発見することができたのです。
 

彼の居場所に自動車を飛ばす彼女と、ピストルを取り出して事に及ぼうとする彼のカットバックとなります。 

彼が銃口をくわえ、今まさに引き金を引かんとする瞬間。次に提示されたのが 「サイレント映画」 特有の 「字幕」 だったのです。
 
そこには
   
                   「BANG!」   

                                                    とありました。
 
 
とうとうピストルの引き金を引いてしまったかと思った次の画像は、
彼女の運転する自動車が、街路樹にぶつかっている場面でした。
 
字幕の 「BANG!」 は自動車がぶつかった 音だったのです。
 
この 「BANG!」 の使い方は今作が 「サイレント映画」 であることを印象深く訴えてきたのです。 
「BANG!」 の「字幕」 が 「サイレント映画」 における 「ピストルの発砲音」 の表現であり、それと同時に 「自動車の衝突音」 の表現となっており、 

  
               一種トラッブ 
  
                                                 として使われたのです。 
 

実際のピストルの 「発射音」 と自動車の 「衝突音」 はかけ離れた 「音」  なのですが、字幕だけで表現する 「サイレント映画」 では 「BANG!」 という同じ表記で表現されるのです。
興味深いシーンとなっていました。
 
 
しかし、この 「BANG!」 をめぐるサイレント映画特有の表現も、残念ながら、表面的な面白さをなぞっただけのものでした。
 
今作の前半でボクが絶賛した 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 の豊かなイマジネーションや、主人公の心象を伺い見る深遠さもなかったのです
 
 
ストーリーはこれ以降、ありきたりな定番路線をひたすら走っていきます。
 
「BANG!」 と言わせながらやってきた彼女は、すんでのところで主人公の自殺を思い留めさせます。
命を救われた彼は当然のように彼女の愛を受け入れ、ハッピーエンド。
メデタシメデタシ。となるのです。

それはそれでいいでしょう。

しかし、その終結方法が 

  
            とも安直だったことに
 
                                                     唖然となったのです。 
  
  
  
  
今作のラストシークエンスに写し出されて来たのはタップダンスを撮影している二人の姿だったのです。
躍動的にタップを踊るこの場面はただ単純に楽しめはしました。映画の1シーンとしては素晴らしかったと思います。
 
 
しかし、このシーンで今作を終結させる事に 
  
                  不満 
  
                                が残ってしまったのです。 
 

「これが今作の抱える問題点の解決策とでも言うのだろうか?」
という 
  
                   不満 
  
                                    が生じてきてしまったのです。
 
 
今作の主人公は 「サイレント映画 」のスターで、「反トーキー」 の立場をとる人物でした。そんな彼が 「トーキー映画」 の登場によって凋落し、そこから這い上る鍵がタップダンスだった。というこの終着方法には

  全く 
  
             説得力 
  
                                         と思えるのです。 
 

そもそも、セリフもなくノー天気にタップだけを踊って暮らしている映画なんて無いと思うのです。
 
   セリフのシーンはどうするつもりなのでしょうか?
 
   何事もなかったかのように彼はセリフを話すのでしょうか?
 
   やはりそうなのでしょうか?  
   


                        だとしたら
 
主人公は一切悩むことなく、
  

           最初から 「トーキー映画」 に転向すればよかったのに....。  
  

                                と、大きな虚無感にかられていくのです。



そして、主人公の自殺騒ぎを始め、今作のほとんどのシークエンスが不要だったのではないか? とさえ、思えてきてしまったのです。

(「トーキー」 の彼女の愛の発露によって主人公は 「トーキー」 に前向きになれたことは理解しておりますが.... 。)
 
そんなことまで言い始めたら、今作を全否定するところまで行ってしまいそうなのでヤメておきますが、それでも、今作の 「根元的な疑問」 についてだけは発言をしたいと思うのです。


「根元的な疑問」
  それは、  


 
   主人公何故、「反トーキー」 の立場

                 なにけてきたのだろか?
   


                                          という疑問。

この、今作を推進させてきた命題が解かれることなく、放置されたままということだけは、断固、批判させて頂きたいと思うのです。
 


「サイレント映画」 で成功した
 
  
                         美意識 
  

                                         が成せるもの。なのとは思うのですが、 
  
 

こんなにも意固地に 「トーキー」 を忌嫌う納得の理由が見つけられないのです。
 
例えば、彼が聾唖者であるとか、吃音であるとか、訛りがひどい等の理由があれば彼の頑なさに納得するのですが、そんな描写もなく、彼の 

  
         っぺらい強情 
  
                                   だけが鼻についてしまうのです。

   (自殺騒ぎの時にも感じた、彼の性格的欠落点なのでしょう。 きっと)
 

そして、「トーキー」 の彼女の愛を受け入れた途端、
手の平を返すように 「トーキー」 のタップダンス映画を受け入れていくのです。
 
(何度も言うように、タップダンスのゴージャスさで誤魔化されていますが、彼が出演している映画は、セリフのシーンがある 「トーキー映画」 のはずなのです。)

 
ただ単純に 「トーキー映画」 に転向するだけではなく、タップダンスという付加価値が伴えば、移行しやすいことも心情的には理解できるのですが、それも、圧倒的な説得力を持ち得ているとは思えなかったのです。 
  
 
このように
 
  
          問題提示中途半端、 
  
                                    その終結方法脆弱。   
 

     そんな不手際が気になってしょうがなかったのです。


 ここに至っては、今作に対してこんなことを強く感じたのです。

    「あやふや」 な基本設計の上に立ち、
    「あやふや」 な解決策しか導けなかった、

  何とも

    「あやふや」 な映画である。と、
 
  そしてその 

    「あやふや」 さが潔い訳でもなく、魅力を発揮するわけでもないのです。 
  
 

以上のことから今作を結論付けると、

        「あやふやさ」 が突出してしまうほどに   
   

             全体見渡目線 に    

             くをもって欠落した映画  

   
                                                 と断言せざるを得ないのです。 
  
 

全体を見渡す、そして全体のバランスを考えながら映画的素材を配分していく、そんな巨視的な配慮がなされていたのなら、もっと興味深い作品になっていたと考えられます。


例えばこんな感じ 

              ↓
 
ボクが当初に気になった 「チープな音楽」 を発端とした妄想について言及すると、
 
  1. 「サイレント映画」 が廃れてしまう事実をふまえて、
    「サイレント映画」 に使われてる音楽は、意図的に質の落ちる音楽を採用。
 
  2. 劇中映画を離れた 「現実の世界」 では、次第に音楽は平均的なクオリティ
   となり、
 
  3. 最後の映画的カタルシスを訴えるべきタップダンスのシーンで、最高にゴージャス
   な音楽となって終結を迎える。


       と、このような、全体設計に基づいた映画であることを期待したのです。
 
 
そして、もっと大きな妄想を口にすると、 


 
   
【 2012年、この現代制作されたサイレント映画 】
                                                                                             という、


時流を俯瞰した立ち位置で演出されていれば、もっと興味深い映画に成り得たと感じたのです。 
 

例えば、強い印象を残した 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 のシーン。
今作は 「サイレント映画」 ではあるのだけれど、意図的に 「コップの効果音」  や、「電話の呼び鈴」、「犬の鳴き声」、そして、「羽毛の爆発音」 を挿入してきました。
 
このシーンでは、「サイレント映画」 の枠を飛び越えた 「効果音」 を実に上手く活用していたのです。


 そう、今作は
 
       「サイレント映画」 のりつつ、 
  
             は 「トーキー映画」 の手法駆使して  

   
                                        大きな成果 をあげていたのです。 
  
 

ボクはこのシーンで駆使されていたこの独自の表現スタンスで 

  
                    今作全体いてしかったのです。  
   

 


      【 現代られたサイレント映画 】 
 

この割り切りさえ手に入れれば、前述の 「音楽のクオリティ変化」 なんてレベルを超えた、新しい試みができたはずなのです。  例えば
 
「トーキー」 の彼女が出演している 「トーキー映画」 の場面は、そのまま

         「純 ・ トーキー映画」  として再現。

一方、彼女との対比を際立たせたい場面では、彼女の 「音声」 だけを効かせ、主人公はそのまま 「サイレント映画」 を持続した
 
         「半 ・ トーキー映画」 として表現してもよかった、



                              とも思うのです。
 

白状しますと、ボクは今作が、    

     
            「サイレント」 の映画手法 と   
            「トーキー」  の映画手法 が、 


 
            場面特性によって自在変換するような映画 

   
    
                                        であってほしかったのです。
 


そうすれば 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 のような素晴らしい場面が連なる傑作に成り得たと思うのです。



    
もう一息でした。

 










今作は 「サイレント映画」 と 「トーキー映画」 の移行期を背景に

             主人公葛藤創出 してきました。


しかし、その問題提起と解決法が 
 
            「あやふやな」 映画 となっていたのです。     
 


映画を貫く骨子が 「あやふや」 なんかではなく、 


  【 現代られたサイレント映画 】 の巨視的観点に立ち、 

  「摩訶不思議夢」 のシーン のように れた


「サイレント」 と 「トーキー」 の映画手法境界線こそが 
  
                    「あやふや」 でボーダーレスな映画

                                         であって欲しかった。
             

               と強く思いました。







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完成! 「浮草」
2013-05-05 Sun 23:34

       浮草 






自らが強固なものとならしめた 「松竹大船調 」の殻を破る 



             小津らしからぬ満載 

                                                      今作でありました。



しかし、その根底には小津監督の職人芸が 



              随所に、そして細部にまで 

                                                     行き届いた逸品となっていました。



特に、名シーン【豪雨の中の罵り合い】は小津らしからぬシークエンスでありながら
その実、 


            小津美学裏打ちされた

                                          ものであることを強く認識しました。




一部、ハメを外しすぎたと感じるところはありましたが、


「大映」という違う環境の中で、冒険をし、その中で自らの経験を結実させた、



      絶妙バランスいた傑作 




                          評価します。






作風が確立した後期 ・小津作品の中において、
今作は 

  
          「異彩作品」 であった

 
                                        ことを強烈に覚えています。

 

今回、久しぶりに鑑賞するこの機会に、その要因を探ってみたいと思います。
 

と思った矢先、今作はしょっぱなから慣れ親しんだ小津作品と様相を変えてきたのです。
いつもの麻地のタイトルバックに、神々しく登場したのが 「大映」 の2文字。



               普段なら「松竹」なのに........。


  



        
品行方正な 「松竹」 と、
                                     エキセントリックな 「大映」 。




そんな制作当時、昭和30年代における  


   
               映画会社のイメージの違いが、  
               そのまま映画全体をカバーしている。


                と、初めての鑑賞後に感じた印象を 
                思い出しました。
 

 

そして、今作はファーストカットから強烈な違いを訴求してきたのです。
小さな灯台と一升瓶の対比が鮮烈な画面となっていました。

               小津作品にはしく自己主張映像
 



それもそのはず、今作の撮影は、日本を代表する名カメラマン、
「大映」 の宮川一夫氏によるものなのです。

 


白い小さな灯台にこだわりつつ数カットの後、 

  
         「なるほどね。」
 
                               と思えたカットに遭遇しました。
 


白い灯台が左後方にあり、手前右手に赤い郵便受けを配置している。 
 

そうなのです。今作の映像的特徴として


                赤色印象深映画

                                であったことをこの映像を見て
                                 まざまざと思い出したのです。

 


そして、続く船着き場の待合室での男達の会話も、いつもの小津作品とは
趣きが違うものでした。
 
今回の主な舞台となる芝居小屋「相生座」で上演していたストリップの話題になるあたりに、 


  
        松竹「品行方正」登場人物からは、  


                         聞くことのない発言が
                         伺えたのです。
 

こんないつもとは違うオープニングの後に今作の主人公、旅役者の一行が
船でやって来るのです。そして物語は一座の座長を追って行くことになります。
この地に 「隠し妻」 と隠し子がいる。という設定になっており、
息子は二十歳くらいで12年ぶりの再会。叔父と偽り続けての関係でした。
 
一方、座長には京まち子演じる旅役者である 「内縁の妻」 も一座内に
いる設定となっているのです。
 
座長を巡る二人の 「妻」 が登場してからの物語は、「内縁の妻」 の心情を
中心に進んでいきます。
「地元妻」 と隠し子のもとに通う座長に対しての怒りが限界点に達した時に、
「内縁の妻」 の感情そのままに土砂降りの雨が降りだすのです。
その時、ハッと気付いたのです。  



   
       あの名シーンがっていくのだな。 と 
  
  
 

土砂降りの日、「内縁の妻」は、「現地妻」の元に押し掛けて来ます。
そしてこの時、彼女が差して来た傘が 


  
                 赤色 だったのです。  

 



この瞬間、随所に印象的な赤色を配してきた今作の意図を知ったのです。
 
映画の折々に印象的な赤色を配置してきたものですから、いつしか、 


  
            赤色反応するように
 
                                  められていた のでしょう。 
 


ボクは、土砂降りの雨に咲いた赤い傘に視線を持っていかれたのです。
 しかも、舞台設定が素晴らしく、古い日本家屋の暗い柱の色が傘の赤色を
引き立てていたのです。
 
こんなにも強くボクの気持ちを引っぱったカットなのですが、驚くことに、
ほんの2秒ほどのことだったのです。
 内縁の妻が玄関先にフレームインをして傘を閉じるまでが約2秒。
たったの2秒のことなのに、目に飛び込んできて強い印象を与えたのです。
 


この作用について考察したところ、2つの要因があると感じました。 
 

まず1つ目は、
 
前述のように、随所に印象的な赤色を配置してきたことによって、知らず知らずの内に

 
            赤色反応するように
 
                                     仕向けられていた
 


                        と考えられます。


そして、もう1つは、 


  
             
ボクが今作鑑賞していた

                                                   ことが原因だと思うのです。



このシークエンスの後に、あの名シーンがやって来ることを事前に知っていたことが、
傘の赤色に反応した理由だと思うのです。
 
その名シーンでは、赤い傘は地面に置かれていて、激しく降る雨をそれぞれ、
軒の下でしのぎながらの攻防でした。   



    
             豪雨い。  


 

このシーンこそが晩年の小津映画の中で特に異彩を放つ名シーンなのです。
そのシーンの中で唯一、色彩を与えられたのが、
傘の赤色だったのです
 
 
降りしきる豪雨の中、激高しながらお互いを罵り合う男女を見て、
  

  
        ただただ、いたことを覚えています。 
 


そして、地面に置かれた赤い傘が、  


  
       やけにみてきたことも  


                        事実でした。
 


小市民の生活を穏やかな目線で描いてきた小津作品とかけ離れたこのシーンは、
晩年の小津映画からは全く逸脱した、異端とも言えるシーンなのです。
でも、そんなことを度外視してもこのシーンは、純粋に迫力のある   



    
      絶対的パワーった珠玉シーン 

                       
なのです。  

   
 

そんな強力な罵り合いを見せつけられ、圧倒されていた初見の時、
唯一の色彩であった傘の赤色が、   


    
         自分自覚しているよりも
 
                       ボクの気持ちにさっていたのです。 
  

 

傘をたたむ、たった2秒のことなのに、事前の赤色攻撃によって無意識のうちに反応させられ、
「既鑑賞」という条件下では、その後の徹底した赤色攻撃の記憶に翻弄されてしまった結果
だったと結論づけます。
 

映画はいよいよ、【豪雨の中の罵り合い】 に突入していきます。
 3mほどの道を間にはさんで男女が向き合っている。 道の両端には民家が連なり、
それぞれ二人は軒の下で睨みあっている。
 
このように非現実的としか思えない二人の配置が、このシーンを珠玉のものへと
高めたのだと思いました。
改めて考えると、あの現場まで二人一緒にやって来て、結果的に、左右別々の軒に
キレイに分かれて罵りあっていることが不思議に思いました。
不思議というか、不自然。
 
しかし、一般常識では二人の行動は不自然に映るのでしょうが、映画世界の中では
 (特に小津作品においては) あの位置関係は必然であったと思えるのです。 


  
             そこが、 とっても興味深い。 

  
 
土砂降りの中、左右の軒に分かれて睨み合う二人、地面に広げられた女の傘だけが
色彩を放ち、それ以外は無彩の世界。
気持ちをザワつかせる凄まじい雨の音が身体をも震わせている。
 
 
民家の斜め後ろから二人の全景を捉えている。
座長はカメラ手前に陣取り、その後ろ姿は 


  
           りの存在感発揮している。 
 


内縁の妻は豪雨をはさんでカメラを正面に見据える位置で、こちらも 


  
           苛立ちの表情をあらわにしている。 
  
  
 

実はこのシーンは、この引きのカメラ位置と、あと2つのカメラバリエーションの、
たったの3つのカメラ位置で成立しているのです。
それは今回、再鑑賞した際に大いに驚かされたことだったのです。 



  
          【 3カメラバリエーション奇蹟 】
 

                                      とでも言えばいいのでしょうか、 
 



でも、このシークエンスを、たったの3カメラバリエーションで語り切れたのは、
小津作品であったからこそ。とも思うのです。
 
 
そもそも、カメラアングルのバリエーション自体が自制的な小津作品において、
前述の民家奥から二人の全景を捉えたカットと、
それぞれ二人のアップを真正面に捉えた2カットがあれば
充分だったのかもしれません。
 
 
人物の位置関係や周辺の環境を俯瞰できる 「状況説明カット」 と、
心の有り様 を捉える 「人間観察カット」 の


      丹念


              が小津映画の大きな魅力
              だと感じているボクには 
 


この3バリエーションは、最低不可欠な要素であり、この名シーンがその 


  
           最少要素だけで構成
 
                                         されていた事実 
 


を確認することができただけでも、再鑑賞の意義があったと強く実感したのです。

 

激しい雨と同じ位の激しい感情をぶつけ合う

 
            小津らしくないシーン
 
                                                  のはずなのに、 
 

カメラバリエーションは、

 
             小津そのものであった。  
    
        


        そのことに、気付けたことに妙に感動してしまったのです。

  
 
豪雨の罵しり合いは格調高くも、激しいものでした。
座長と内縁の妻の間い大きな溝ができたのです。
 



物語は一転して若い二人を中心に進んで行きます。内縁の妻の策略で
 
一座の娘役である若尾文子 (若い!)  を使って
座長の隠し子 川口浩  (若い!)  を誘惑させようとするのです。
 
その現場が郵便局、彼のアルバイト先だったのです。
 
女性が男に誘いをかけるというシチュエーション自体がいつもの小津映画には
見当たらないものでした。
 


往年の小津映画における男女の関係性は、何らかの形で

 
           「結婚」 という2文字
 
                                     ついて回っていました。
 
 
にもかかわらず、今作の若者はこんな有様なのです。
 

しかし、この感覚はその当時から今に至るまでのごく

 
                 ノーマルなものなのだ
 
                                                          と思うのです。
 


そんなことを感じていたら、
今作は小津が 「松竹」 で作り上げて、抜け出すことができなくなってしまった


 
                  「固苦しい世界観」 から 

                     自らを解放させて、
 
 
                    自由った映画
 
                                                     なんだ。



                     と思えてきました。

 

物語は急遽、この二人の純愛モノに様相を変えてきました。
 
結婚が目的の恋愛ではなく、恋愛が目的の恋愛。
 
当たり前のことなのでしょうが、晩年の小津映画においては、語られることがなかった
世界なのです。
 
 
しかも何度もこの若い二人にチューをさせてみたりして、いつものところではできなかった
ことを、他所で嬉々としてやっている。そんな

 

            茶目小津さん
 
                                             見えてきました。
 
 
 
しかしながら、物語の機運は急落していくのです。次の公演地とのパイプ役となる
「先乗り 」が失踪。一座は行くあてのない足止め状態となるのです。
それとともに、若い二人の間に座長が割って入ってきたのです。


実の息子に色仕掛けで関与した二人の女役者への仕打ちは、実に直情的でした。
叩く、突きとばす、蹴とばす。やりたい放題なのです。

ここまで暴力的なシーンを小津映画では見たことがなかったので、
初見の際に驚いたことを思い出しました。 


 
つくづく今作は、小津作品の中でも異例づくしの映画であることを認識しました。
先の 豪雨の罵り合い も、今回の直接的暴力シーンも、

 
               
攻撃する。

                    という、小津作品においては、

 
                あるまじき行為  
   
                                             をさせているのです。
 
 
 
しかも今回は直接的な暴力なのですから、
豪雨の中の罵しり合いを越えた、エグさに残念ながら


 
                自分気持ちが 

                                 萎えていくことを

                                                          自覚しました。

 
 
先の 【豪雨の罵り合い】 では二人の間には豪雨が割って入っていたのです。
 
それ故に、直接的な暴力には至らず言葉の応酬に抑えられた、
一種の安堵感がありました。その上、

 
            小津的自制が利いたカット割りで
 
             爆発してしまいそう

                                                     りをえる、  


   

                                   という美学を見つけることができました。 
  

 

しかし、今回の直接的暴力には、抑制というものが全く見受けられず、
大きな違和感を感じてしまったのです。
それだけ、座長の怒りが大きかったことを示しているのでしょうが、ここに来て


 
                    いつもと小津
 
                                          に不安を感じたのです。
 
 

今までは、松竹ではできなかったことを嬉々として行っている小津さんを
微笑みながら見守ってきましたが、
この直接的暴力は、その範囲を超えた所に行ってしまったと感じたのです。
 

製作会社の違い。という枠を遥かに越えた、

 
                     小津美学そのものを
 
                                                 逸脱してしまった。


 
                      そんな後ろめたい気分に襲われたのです。 
  

 

物語はボクのこんな気分に同調するように転落の様子を見せてきました。
折々に大映らしい非常識的な側面を訴求してきた旅役者の一人が、
一座の財産を盗んで姿をくらませたのです。
 
この打撃を受けて一座は解散の憂き目にあってしまうのです。
そんな場面での、一座の面々の哀しみを、小津監督は伝説の名子役、
島津雅彦クンを使って絶妙に表現していたのです。 


  島津雅彦クンは小津安次郎監督の 「お早う」 や 「秋日和」、
  「小早川家の秋」。そして黒澤明監督の 「天国と地獄」。その他に
  「名もなく貧しく美しく」 「夕陽に赤い俺の顔」 という名監督や、
  名作、意欲作にあいついで出演したのにもかかわらず、
  たったの 数年で忽然と芸能界を去って行った
  天才子役なのです。
 

解散せざるを得なくなって、衣装等の処分の値ぶみの場面において、
大人達の落胆とは対照的に呑気にスイカを食べて種を飛ばす
島津クンがいたのです。
子供には理解することなどできない窮状だったのです。
 
しかしその一方で、先行き不安で呆然自失となっている自分の祖父の
異常な有り様に、突然泣き出す島津クンの姿があったのです。
この2つの場面での名子役、島津クンの 


  
                 態度豹変
 
                                        感心してしまったのです。
 
 

盗難にあった重大事や、その影響を受けて一座が解散してしまう意味を解せず、
呑気にスイカの種を飛ばしていた島津クン。
その一方で、身近な者の変化には敏感に反応し、号泣する彼の姿を見て
感心してしまったのです。
 
子供に大局を見極めることなど不可能であることは誰でも理解できます。
ですから、値踏みのシーンにおいての呑気なスイカの種飛ばしは、 


  
                 大人達切迫度

                                                絶妙陰影

 
                                                                をつくっていたのです。   
    
 

そして、大局を理解することができないかわりに、


身近な存在の変化には   

                    敏感反応する子供機能 させて、  
 

一気に豹変しいていく   

                   子供落差す ことによって、 

 

局面している窮状を 

       多重的
ってきたのです。 

 

この豊かな表現も、今回、大いに感心した要点だったのです。
「鑑賞する年齢によって発見がある作品は何て奥が深いのだろう」と、
実感した瞬間でした。
大学生の時はスルーしてしまったことが、一児の父となった
今、このような側面に気付くことがてきるようになったのです。

一座の解散を受けて、物語は終結に向かっていきます。
まずは、座長の息子と一座の娘役の若い二人は、駆け落ちを経て結ばれ、
父親の名乗りをあげた座長は結局は旅役者の道を選びます。
 
この町を出ていくと決意して向かった駅の待合。
偶然そこには、若い二人をけしかけたことで、小津美学を逸脱するほどの
苛烈さで縁を切られた内縁の妻の姿があったのです。
 
結局、二人はヨリを戻すのですが、その気持ちの移り変わりの描写が素晴らしい。
 

一人、待合室に座る座長。
少し離れた場所に内縁の妻がいて、お互いの存在に気づき出す。
微妙な空気が辺りを包んでいる。
 
間を変えるべく、座長はタバコをくわえるがマッチが見つからない。
その様を見た内縁の妻は荷物はそのままに座長の前に移動。
持ってきたマッチをすって座長のタバコに火をつけようとするのです。
 
そんな内縁の妻の行為を無視し続けてマッチを探す座長。
とうとうマッチが燃え尽きてしまいますが、2本目のマッチをすって、
再び座長のタバコに火を付けようとする内縁の妻。
 
座長は始めのうちはそのマッチを避けていましたが、
根気よく丁寧に火を付けようとする内縁の妻に負けて、
結局、その火を受け取ることになったのです。
 
次に内縁の妻が自分のタバコを取り出して口にくわえ、
座長の火のついたタバコを拝借。それで自分のタバコに火を付けたのです。
そして何事もなかったかのように座長の元の指に拝借したタバコを戻しました。
 

予測できた流れではあるのですが、

 
          二人関係性修復される

 
                                      表現を楽しんだのです。 
 


二人分の切符を買っている内縁の妻に座長が声をかけます。

            「あそこの荷物を忘れるなよ」 と、
 

これで元の日常に二人の関係性が戻ったことを知りました。
 
 
今作のラストは夜行列車の中、仲良く晩酌をしている二人の姿でした。
このまま二人の旅役者としての人生が続いて行くことを彷彿とさせるものでした。
 
そして、今作の正真正銘のラストカットが列車の赤いテールランプだというのが
実に心憎いと思いました。  
   
   
 

今作を鑑賞して感じたことは、  

   
        いつもの小津作品とはだいぶ違っていたけれど、
        まさしく小津作品そのものでもあった映画、
 
 
                                                                             というものでした。 
  
 

大映でちょっと冒険してみた

 
                    小津さんの嬉々とした表情
 
                                                                               伺え、


それでも
 
                    しっかりと小津節かせてきた
 
                                                                               のです。  
   
 
ガチガチに作風を固めてきた大船調とは違うバランスを持つ今作は
非常に魅力的でした。
晩年になってから他の映画会社で制作した、しかもカラッと大らかな東宝で撮った
 「小早川家の秋」 も再鑑賞したくなってきたのでした。

と、穏やかなに締めるところでしょうが、 

 

    
やはり、直接的暴力は、ハメぎだ。



          
と小津作品に発言して終えることにします。




自らが強固なものとならしめた 「松竹大船調 」の殻を破る



     小津らしからぬ満載

                      今作でありました。



しかし、その根底には小津監督の職人芸が



     随所に、そして細部にまで

              行き届いた逸品となっていました。



特に、名シーン【豪雨の中の罵り合い】 は小津らしからぬシークエンスでありながら
その実、


     小津美学裏打ちされた

             ものであることを強く認識しました。



一部、ハメを外しすぎたと感じるところはありましたが、


「大映」という違う環境の中で、冒険をし、その中で自らの経験を結実させた、



      絶妙バランスいた傑作 




                         評価します。




  
無題 
    




無題2 



                                
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完成! 「八日目の蝉」
2012-12-17 Mon 21:18
1 





懸念材料を逆手に取って、鑑賞動機に結び付けた



     演出手腕は、かに見事
  
          
                      でした。



しかし、15年の時を隔てて同時に展開する2つの関係性をパラレルに推進することができず、しかも、構成要素の取捨選択に迷いを生じたが為に



     訴求点不明瞭


                   となってしまったのは、
                   大変、残念なことでした。
 


主人公をド真ん中に据えて、彼女自身を語り尽くすべきっだったと考えます。
そうすれば、



     終盤せてくる感情噴出に、



              何のわだかまりなく、
              ドップリと
身をまかすことができたはずです。    
  



随所に見せる確かな演出を鑑みると、



  トータルバランス十分配慮がなされた 
逸品



                               となるべき作品でした。









赤ちゃんを誘拐された母親と、赤ちゃんを誘拐した女の独白から幕開けをした今作は、
しょっぱなから 

 

       雰囲気っている。

 

        主人公である女は不倫相手の赤ちゃんを誘拐したのです。

 

この独白で興味深かいのは、妻と愛人の人間関係。お互いの存在を認識し、

 

     妻側愛人して攻撃的態度  


                            を取っている点。

  

毎日、不倫の抗議電話で愛人を罵倒するという。しかも、夫婦間の性生活の自慢も聞かされていたという。 



   
 愛人堕胎によって子供めないになり、

    妻出産をする。  

 

                      そんなあからさまな
                      対比となっているのです。



今作はこの冒頭部分だけで、加害者である愛人に同情の念を持たざるを得なくなるよう、仕向けてきました。

 

 愛人は不倫相手宅の留守に忍び込み、赤ちゃんを抱きます。
そうすることで、不倫関係清算の踏ん切りにするはずでした。

 しかし、その思いを崩壊させる、奇跡のカットに続いていったのです。

愛人が抱き上げた瞬間、ニコッと赤ちゃんが大きな笑顔を見せてきたのです。
絶妙のタイミング。
赤ちゃんがまるで意思を持っているかのようでした。


愛人はその笑顔を見て
 


      められた、
      された


                と感じたと語っています。


堕胎で赤ちゃんを殺してしまったことや、不倫をしていた負い目を、

この笑顔は許してくれた、
 

                と。 

 
 

       慰め と  し。


愛人は赤ちゃんの存在に 救済 を見い出だしたかったのではないでしょうか。
救いを懇願するが故に意識が超越していった愛人は、その女の赤ちゃんを
カオル と呼び掛けるのです。 カオル とは、愛人が亡き子に名付けるつもりの名前だったのです。


赤ちゃんを抱きしめ、そぼ降る雨の坂道を走しり降りて来る愛人の姿は、  

 

     しくも、ろしい  
 
                   カットでした。

 

 

  

          彼女は、誘拐をしたのです。

  

 

 

場面は突然、カオルが20歳頃に成長した現在の時制に飛んでいきます。

成長したカオルは、ぶっきらぼうな女になっていました。
そこにカオルの誘拐事件を追うフリーライターの女がからんできます。
この女にも カオル同様の不器用さを感じたのです。
過去と現代のカオルを巡る物語が進行していく中  

 

      懸念2つの設定

                  同時出現してきました。



1つ目

成人したカオルの場面において。カオルが妻子ある男性と不倫関係にあるという設定。
育ての親である愛人と同じ境遇にもってきたところに

  

       ありがちな  「世代間連鎖」 
 
                        という流れを感じ、

                        
 
         警戒をしてしまったのです。

 

この後、カオルが不倫相手の子供を妊娠する展開になるのか要注意です。
 




2つ目
は、

カオルを誘拐した直後、逃走する愛人が 「エンジェルホーム」 という新興宗教的な自給自足集団に身を寄せるという設定が提示されたのです。

「エンジェルホーム」 とかいう極端な舞台を提示してきたことに、 


    本来テーマボヤけてしまのではないか


                             と不安になったのです。  

 

 

               が.....

 

 

 心配した通り、
 カオルは不倫相手の子供を身籠り、

 「エンジェルホーム」 は現実離れした集団の様相へ。


こんな有様になってしまった今作の行く末を悲観した瞬間、
突如として
 

     予想だにしなかった関係性

                        提示 されていったのです。

 

この展開は、今作に対して諦めの気持ちを抱いたボクに、大きな驚きをもたらしてくれました。しかもそれは、ボクが諦めの気持ちを持つことになった2つの要素が絡まっていたのです。


今作には、カオルに取材をかけてきた女性フリーライターが登場してきたのですが、
2つの警戒要素のうちの1つ 「カオルの妊娠」 をキッカケにして、その女性フリーライターとカオルは心を通わせてゆくのです。

二人とも真っ直ぐで、世渡り下手なところが似ているなと思っていたら、

そのフリーライターは何と、エンジェルホーム」 でカオルと


        姉妹のようにしてった。 

                        と言いだすのです !





  この予想もできなかった展開

               不意たれて、んでしまったのです。



「カオルの妊娠」 によってフリーライターの存在感が急増した矢先にこの展開。
しかも、舞台は 「エンジェルホーム」 なのですから、 ボクの警戒心をことごとく逆手に取って、



        きにえていったのです



みるみるうちに、今作に対する期待がまた、大きく膨らんでいくのを感じました。



強い縁を感じたカオルとフリーライターは、取材旅行として、エンジェルホーム跡地を訪ねていきます。
今や廃墟になってしまったその場に佇むと、いつしかカオル達がこの施設を逃げ出して行った日のことが映し出されていきました。
愛人は誘拐犯であることがバレる事を恐れて、エンジェルホームを逃げ出して行くのです。

 

     あれ? と思いました、

 

せっかくカオルとフリーライターの関係性に興味が持てたところなのに、その共通体験であるエンジェルホームを早々と抜け出して、このスチュエーションを活用しないことを残念に思ったのです。

 そして同時に、あれだけ嫌っていた 「エンジェルホーム」 だというのに、カオルとフリーライターの興味深い関係性が提示された瞬間、エンジェルホームを後にすることを心底残念に思う 。そんな


       ガラッわった自分態度

                          にも、興味を持ちました。



エンジェルホームを離れてしまって、カオルとフリーライターの関係性は発展しないのかと心配していたところ、この二人はもっと深い方向に展開してくれたのです。

  それは、取材旅行中のホテルでのこと。
  不倫相手の子供を産む決心をしたカオルに対して、
  自分もその子の母親になりたい、と言い出すフリーライター。
  そして、自らは、男性恐怖症で、普通の結婚が望めない人間なのだ。

                              
                                 と告白するのです。

 

 フリーライターの存在がここまで大きくなるとは思いもよらず、うれしくなってきました。

 「カオルの妊娠」 「エンジェルホーム」 と、反感を持ってしまった素材を

 
  
     ものの見事に料理して、
 

             フリーライター必然性創出 したのです。

 

エンジェルホームという女性だけの特殊な環境で育ったが故に、男性に恐怖心を持ち、しかし、カオルの妊娠によって


      そのコンプレックス克服する


                        そんな方向に動き出した彼女に、
                        大いに興味を惹かれたのです。



前向きな感情を持ちながら鑑賞を続けていくと、 二人の取材旅行は小豆島へと続いていきました。

エンジェルホームを出た愛人とカオルの行き着いたところなのです。
今作はその地での愛人とカオルの生活を語ってくるのですが、
ここにきて

   彼女のことを愛人と呼ぶことに
 

             違和感てきました

 

何故なら、映画は 母と子の心通うストーリー を語り始めてきたからなのです。
愛人は、キョウコと名乗っていました。


    キョウコとカオルは小豆島に流れてくるのです。

    小豆島には、ささやかな幸せがありました。


地元の人の優しさに触れ、カオルにもちょっと歳上の友達ができたのです。
そんな穏やかな日々の中で、今作はささいな。でも、シリアスな予感を訴求してきました。

歳上の友人たちが小学校に入学したのです。微笑ましいシーンではあるのですが、


        一抹しさがよぎりました。



何故なら、このキョウコとカオルの二人は、

 

        小学校入学というれの
                    してえることがない。 

 

                   観客は察知しているからなのです。



そう。二人の関係性は義務教育という戸籍管理が始まる前にしか、存続することができないのです。 年上の友達の小学校入学という微笑ましいシーンによって、今作はこの二人が親子でいられる時間が

 

            かであること 

 
                        そっと訴えかけてきたのです。



このような小技を楽しみながらも、またしても、不満の気持ちが湧きあがってきました。

何故なら、小豆島に舞台が移ってからは、もっぱらキョウコとカオルのつましやかな生活が提示されてきたために、現在の時制に生きるカオルとフリーライターの存在感が急落してしまったからなのです。


  小豆島に来る前には、フリーライターの役割に大いに興味を持たせてきたくせに、

  小豆島では、一転して母子にフォーカスを当ててきた

    そんなアンバランスさが
 

               になって仕方なかった のです。



   現在のカオルとフリーライターの関係性と、
   逃走中のカオルとキョウコの関係性が


               並列いておらず、
               連動配慮がなされていないことに



         もどかしさを  感じてしまったのです。




小豆島に舞台を移してからは、映画の主題はカオルを巡る 「母性」 を語ってくるものと推察していたのですが、上記の通り、
  


            母たるキョウコの、カオルに対する 「母性」  

                       が語られても、現在を生きる
 

     カオルの我が子への 「母性」 も
     カオルに託したフリーライターの 「母性」 も 
 

                                    一切語られる気配がないことに、

 
 

               疑問じていたのです。 




そんな不満を抱えながらも、小豆島を訪れたカオルの存在意義が大いに発揮される時がやって来たのです。

それまで無感情で小豆島を訪れていたカオルですが、記憶を呼び覚まされたのでしょう。突然、
 

         かれたように 

                 1つの場所目指のです。



それは小豆島の穏やかな日々を過ごした民家だったのです。 その民家を目指すカオルの表情に様々な声が被さってきました。それは、小豆島の暮らしの中でカオルたちを優しく支えてくれていた人々の声だったのです。

それまで無感情だったカオルの表情に 


           
意思じました。

 

                     あの頃の記憶がまざまざと蘇ったのでしょう。
                       ボクはそんな彼女の覚醒に、
                     徐々に心を動かされていきました。




しばしの高揚感の直後、しかし、 


          きなしさの 
  

                        叩き込まれたのです。 


小豆島の我が家は売り物件となっていたのです。
お世話になっていた大家さんを始め、幼少時に楽しい日々を共に過ごしてきた心優しき人々の存在感も見つけることができませんでした。
 

 

       それだけ 年月無為っていた

                           
                                    のです。

  

4歳時のカオルとキョウコを巡る島の人々たちとの心暖まる生活を表現しておきながら、 現在の時制のカオルの素っ気なさが気になっていたのですが、

その素っ気なさは、 この場面における



     「覚醒」 と 「落胆」 を
 

                        必要だったのだ、

                                    と思えてきました。



映画は4歳時のカオルとキョウコが小豆島を離れる場面へと続いていきます。
素性があらわになりそうになっての再びの逃行となるのです。

島を出て行く前に、二人はある行動をとるのですが、その行動とは、写真館で二人の姿を撮影することだったのです。


ボクはこの時点で
 

      二人れがことを 
 

 

                     りました。

 

 
何故なら、この島のあのコミュニティにおいて、写真館で写真を撮るということは、小学校の入学を示していたからなのです。

カオルのちょっと年上の友達が小学校に入学するシーンがここにきて輝き出すのです。 全員が小学校入学を祝して写真館で撮影していたことを思い出しました。

そして同時に、義務教育という管理が二人の関係性に終止譜を打つ予感 
 

                                    も思い出したのです。
 

 

         「入学 = 写真館」    という式と、
         「入学 = 別離」     という式が並列しており、

 
そこから    「写真館 = 別離」   という予感が

 

                        ボクの心の中に発生していったのです。

 
 

 

            きっと別離いはずです。
 
 

 

 

物語は何の収穫もないまま小豆島を去ろうとする現代の二人へと続きます。
そして、フェリー乗場でまた記憶の断片が蘇ってくるのです。

カオルは駐車場の一角に不安に佇む4歳時の自分を見るのです。 

このフェリー乗場で逮捕されたことによって、4歳時のカオルとキョウコの別離がなされていきました。

4歳時の別離の場面を思い出したカオルは、また1つの場所を目指します。
それは別れを予感させた写真館でした。
写真館のショーウィンドウを真っ先に覗くカオル。
 

     えっ!まさか!! 

                   と、ボクは大きな期待を持ったのです。 



しかし、その大きな期待は淡くも吹き飛んでいきました。

そのショーウィンドウには別離時に撮影した二人の写真なんて、飾ってあるわけもなかったのです。



         あーガッカリ!

 

小豆島で、何一つ、カオルの痕跡を探しだすことができなかったくせに、唯一の存在の証しである記念写真が、



    ひっそりとショーウィンドウに飾られ続けていた。
 

                        そんなカタルシスを夢見たのです。



 残念ながら、ボクが夢想したような展開にはなりませんでしたが、この写真館での出来事が今作のカタルシスを形成していくことには違いはありませんでした。

カオルは別離時に撮った写真を初めて目の当たりにするのです。

4歳時の自分と、記憶があやふやになりかけていたキョウコの姿カタチ、そして顔を。
あやふやなイメージと化していたものは、


   
確かに実在したという

         リアルな触感 のようなものとなり、

                    カオルの脳内を駆け巡ったことでしょう。

 

           封印していた全ての記憶が噴出 したのです。

 

そして、写真を撮影する一瞬前、キョウコから託された
「大好きよ。」  という愛の言葉をカオルは、

 

         まざまざと思い出したのです。



キョウコの愛情を今、まさに再認識をし、心を揺さぶられたカオルは、長い年月、心の奥底に押し込めていた言葉を一気に吐きだします。



    「この島に戻りたかった、

            ずーと島に戻って来たかったんだ ! 」    と。



しかし、実父母に気兼ねして、島への想いを封印し、半ば強引に無関心を装っていたのです。
これでカオルの


       でのない表情

                      合点 がいきました。



彼女の無感情の裏には、このように 


                複雑気持が 

                                             隠されていたのです。




別離時の写真に触れて、全ての記憶を取り戻したカオルは、この島での全ての生活を、
そして自分も、母であるキョウコを愛していたことを、



                     しっかりと 自己認識 をしたのです。

 

そんな、ありのままの自分自身を発見していく展開の中で、今作は次なる展望を持って終結していきました。

母から愛されていたという事実を認識したカオルは、その気持ちを、お腹の我が子に伝えていくのです。


指名手配をされて自由とお金が無い中でも、幸せをもたらしてくれた母と同じように、
自分も我が子を慈しみたい。
そんな感情を昂らせたカオルの姿を映し出して、今作は終結していったのです。



心の扉を閉ざしてきたカオルが赤裸々な自分を取り戻すに至るエンディングは、
心を振るわされるものがありました。

ここで母たる


      キョウコの 「母性」 が
      カオルによって継承されていく様


                         を見ることになるのです。


いびつな形状ではありますが、ありがちな 「世代間連鎖」 の域を超えた


       感情 を得ることはできました。




しかしながら、鑑賞し終えたボクの率直な感想は、



         「テーマをしっかり訴求してしかった


                         という言葉に集約されてきたのです。



成人したカオルと行動を共にするフリーライターの存在感が急騰したかと思ったら、
一気に急落したり、
結局は「エンジェルホーム」は必要だったの? と思えたりと、
不必要と感じる要素に時間と労力を費やしていたと思えてしかたがなかったのです。


発展させる気がなかった枝葉を省略して、 


             ストーリー本筋丁寧ってしかった、 


                                                                             と思ったのです。



例えば、

【成人したカオルの無感情ぶりと、そうならざるを得なかった、奪還後のカオルのギスギスした生活】   や、

【小豆島のささやかでも、暖かい触れあいのある幸せな生活。そして、いつか必ずやって来る別離への恐れ】  そして、

【逮捕後の16年間、一度も会うことはなかったが、それでも心の片隅で気持ちを通わせていた 「親子」 のストーリー】

などといった要素をしっかりと訴えていれば、ラスト、写真館でのキョウコの言葉 、
「大好きよ にもっと素直に反応できたかもしれなかったのに...。
そして、ラストカットの長廻しの一魂が、表面的で技巧的なもので終わらずに、

 

カオルの 「魂解放」 と 「自己奪還」 を

         力強く訴求してきたことを

                  直感的理解 することができたはずなのです。




そう、ラストカットは大変興味深いものでした。

別離時の写真によって記憶が覚醒したカオルは湧き出る感情に突き動かすされるように写真館を飛び出します。

  走って、走って、そして、

ラスト2分45秒の長廻しの中に、映画のこれまでの1時間 21 分間を黙り通してきた

 

【 誘拐されていた4年間が、その後の16年間よりも、何よりも愛しかった 】

 

                               という自分の真実を吐き出し、



自分の 「母」 を初めてリアルなものとして認識したことがきっかけとなって、
今度は自分がその 「母」 となる覚悟を決めていたのです。

そんな

    まぐるしい展開を、

                  執拗にカメラは追いかけ、
                  たったの 1カット表現してきたのです。



このように、技巧的にもコンセプト的にも秀逸なカットであるはずなのに、映画の中に配置されると、


         その

                  なわれていったのです。




              
不思議なことでした。





素晴らしいパーツがあるにもかかわらず、それを輝かせることができなかった原因が

ボクには


       
作品自体バランス


                      である、とどうしても思えてしまうのです。





やはり、ここでも同じ言葉が出てきてしまいます。


      テーマをしっかりと訴求するべき

                              だった。 と、





そうすれば、ラストカットに寄せてくる様々な感情に    

                    素直
反応できたはずなのです。 



そして、技巧的なだけではない、コンセプトだけではない、


       感情さぶるを、


                  今作は提示することができたはずなのです。







懸念材料を逆手に取って、鑑賞動機に結び付けた



     演出手腕は、かに見事
  
          
                      でした。



しかし、15年の時を隔てて同時に展開する2つの関係性をパラレルに推進することができず、しかも、構成要素の取捨選択に迷いを生じたが為に



     訴求点不明瞭


                   となってしまったのは、
                   大変、残念なことでした。
 


主人公をド真ん中に据えて、彼女自身を語り尽くすべきっだったと考えます。
そうすれば、



     終盤せてくる感情噴出に、



              何のわだかまりなく、
              ドップリと 身をまかすことができたはずです。    
  



随所に見せる確かな演出を鑑みると、



  トータルバランス十分配慮がなされた 
逸品



                               となるべき作品でした。 




 











八日目の蝉2 


                                        八日目の蝉3

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完成! 「英国王のスピーチ」 
2012-07-21 Sat 21:43
        英国王のスピーチ




今作のクライマックスシーンは


        十分満足できる達成感


             
  を迎えることができました。




しかし、このクライマックスにおけるボクと製作サイドとの

  
小さな違和感の連続 
 
     それまで構築してきた
映画全体の印象を損ない、

              いつしか
不信感のようなものへと変容




    その気持ちを
補完するように、ネット漂流





そこで知り得た
圧倒的な事実


     
映画世界未完成さと、未熟


              
感じる結果となったのです。
 


今作のクライマックスシーンは


         十分満足できる達成感


                
を迎えたとゆうのに......。







今作は大英帝国万国博覧会の閉会式スピーチから始まっていきました。
この場面において


   今作主人公ヨーク公克服すべき


                       提示されたのです。


マイクで拡声された彼のどもり声やスットンキョな声が巨大な会場に響きわたっていったのです。

それは、

      悲劇的様相 

            
を呈していました。


彼は彼で、吃音の治療を受けていたようですが、うまくいかず、奥方が治療法をヤッキになって探しています。

そんな折り、奥方が訪ね当てたのが、今作のもう一人の主人公、ローグ であったのです。

ローグはあくまでもマイペースで、患者との対等な関係を求める老齢な医者でした。
ヨーク公とローグの初対面は芳しいものではありませんでしたが、父親であるジョージ5世からのプレッシャーと、否定しがたい成果を突きつけられて、ヨーク公は再びローグの元を訪ねるのです。
そして、「ロッキー」のトレーニングシーンのような高揚感に包まれながら、二人の治療シーンが展開していったのです。
そこにはCMで有名となった、お互いに向き合って、顎を脱力させて顔を左右に振ってだらしなくうめき合うカットもあり、新しいことに挑戦していく



     「パフォーマンス系映画」

                   のように展開してきました。


しばしの高揚感の後、今作は一つの節目を迎えるのです。それが父親のジョージ5世の崩御。

父王が崩御したことをキッカケに、ヨーク公とローグの親密さが深まっていきました。ここで初めて、ヨーク公がプライベートな話しを始めるのです。


   左利きを矯正させられたこと、 
   X脚の矯正ギブスをはめられていたこと、
   末弟がテンカンで、若くして亡くなっていったこと
   乳母から虐待を受けたこと など、


精神的抑圧と考えられる要因をローグに引き出されるがままに話し出すのです。
そして、精神が一気に解放されたかのように、
相手を罵る汚い言葉を矢次早に言い放ち、
卑猥な陰語さえも、淀みなく連呼していったのです。

ヨーク公の心の奥底に隠されていた部分を引き出したローグは彼を散歩に誘います。ボクはその描写に強い興味を持ったのです。

会話の内容は、新国王となった兄の、問題ある交際相手に及び、ローグはヨーク公に
 

   王位みがてる
                    と発言。


   それに猛反発するヨーク公
                    というものでした。


このシークエンスの表現は、まるで異次元を彷徨しているような画面となっていました。
全体的にハイキーな画面になっており、背景がトビ気味の露出設定。その特別な空間の中でローグが発言した


     「王位継承」

      予言のような神秘性 を放っていたのです。


後世のボク達にとっては、それが事実で、歴史となっていることですが、その時代に生きるローグが発言することで、しかも、特別な視覚表現がなされた空間で発っせられたことによって、


   一種シャーマニズム

              に近い感情を彼に感じたのです。



ヨーク公の


     デリケート
     れてはならない領域



土足で入り込んだローグを、ヨーク公は遠ざけるのです。しかし、歴史はローグが予見した通りに動いて行くのです。


兄が王位よりも、問題ある交際相手を選んで退位。
ヨーク公が即位することになったのです。


予言の的中もあってか、ヨーク公は再びローグの元を訪ねて行きます。
国王となれば、スピーチの頻度は激増し、吃音を直すことが急務となってきたからなのです。
映画はいよいよ、今作のクライマックスシーンとなるべき 戴冠式へと突入していくのです。



しかし、戴冠式の直前、問題が噴出。
    ローグが医師の免許を持たない、
    民間療法者であることが

                  露呈したのです。 



ローグのキャラクター付けで、アマチュアの役者を志向していたことを思い出しました。

彼は

    「役者目指医者ではなく、

    「医者役割じている役者」


             の側面に近い人物であることがわかったのです。



医師の資格を持っていないが為に、英王室から解任されそうになったローグは
 
 
    「大芝居」 に打ってでるのです。


ヨーク公が目をそらしている隙に、戴冠式に使われる玉座にゆったりと座るのです。その不遜な行為に烈火のごとく怒るヨーク公。


それこそがローグが引き出したいものだったのです。


  りにちたヨーク公の言葉は

       みなくっせられた のです。



   これは以前、りや卑猥


       普段隠されたを吐く時に
       ヨーク公のれない

                  ことを知っていたが故の
 

       「大芝居」 だったのです。



実績をあげるローグをヨーク公は採用せざるを得ませんでした。

いよいよ、ヨーク公がジョージ6世となる今作のクライマックス、戴冠式へ進むようです。どのような成果となってスピーチがなされるのか注目です。
と思ったら、
驚くことに、肝心の戴冠式のシーンは




     省 略


              されてしまったのです。



数日後に戴冠式のニュース映画を家族で鑑賞している姿にスルーされていったのです。ローグの「大芝居」を準備し、ジョージ6世の
 

   国王としての初めてのスピーチを




    省 略


              だなんて、

              信じられない思いになりました。



しかし、省略という演出を目の当たりにして、今作における
 

   クライマックス 


          他にある。


              ということだけは理解できました。


そんなことを思い、成り行きを見守っていると
今作は戴冠式のニュース映像の続きに、ヒットラーの演説シーンを提示してきたのです。
ここでボクは大きな映画的興奮を得ることができたのです。


今作の主人公、

   ジョージ6世スピーチ映像

                 一切写さないで


   ヒットラー情熱的演説

                 提示 してきた



   そんな監督の狙いにいに反応してしまったのです。



戴冠式という大きな

         がりを放棄して、
         ヒットラーの演説を

                  わりに提示してきたことに、



今作が目指す本当のクライマックスは、


    ジョージ6世ヒットラー関係性

             においてすることを理解したのです。



そんなことを思っていたら、ドイツとのシリアスな局面はすぐにやってきました。戦争に突入していったのです。


この難局において、

       
全国民団結える

       新国王ジョージ6世
言葉


                  が求められてきたのです



準備が進む中、ジョージ6世はローグを呼び寄せてスピーチの練習に取り掛かかります。しかし、プレッシャーでうまく話すことができないまま時間は迫り、いよいよ放送の時を迎えます。
政府の要人や放送技師が宮殿に詰め掛けている中、音声収録室にはジョージ6世とローグだけが入って行きます。その後のスピーチはまさに、二人三脚での協同作業となりました。

ローグはマイクをはさんでジョージ6世の真ん前に陣取り、まるで、オーケストラを指揮するかのようにスピーチの局面によって、抑揚の付け方や間の取り方を演出している。




      これが今作のクライマックスと思ったのです。





当初はぎこちなかったスピーチもローグの指揮の介あって、スムースに動き始めました。宮殿内にいる家族や関係者は成り行きを見守っています。すると画面は



   宮殿内にとどまらず、

            世界を捉え始めたのです。



裏ぶれたパブで、ジョージ6世のスピーチに神妙な面持ちで耳を傾ける人々の映像が提示された瞬間に、



  宮殿内のスピーチという作業が、

     これからみをいられることになる
     国民到達めた

                ことを悟ったのです。



そのまま、


     国王国民


そして 
2つのコミュニケーションを繋いでいく ローグによって

            このクライマックスんでいく。



                 と確信が持てたところ、


今作はキッパリと

         その期待裏切っていったのです。



裏ぶれたパブの次はどのような英国国民が登場するのか期待していたところ、画面に写し出されたのは再び放送室内でスピーチを創出しているローグとジョージ6世とでした。


このカットは理解できる。


送り手→受け手→そして送り手と展開してきたわけだから、スピーチを通じて


    国難かっていく覚悟
    交互醸造される過程


              見せてくれるものと思ったのです。



しかし、放送室内の後はそれとは違っていたのです。

送り手→受け手→送り手の次は、当然、受け手である英国民が提示されるのに違いない。と思っていたところ、画面に写し出されたのはスタッフである放送技師だったのです。


外に向かって行ったはずの

    方向性見失ってしまい、


             腹立たしさを覚えました。




しかも、もっと、残念なことが起こりました。


放送技師の次に提示されたのが


  放送ローグ家族 となっていたのです。

  しかも、スピーチがうまくいって表情 


                     捉えていたのです。





      「違う。」 と思ったのです。






なぜなら、映画は


「英国王スピーチがうまくらずにせるか

                       の段階を越えて、


「英国王スピーチ」がどのように国民くのか

                          の段階に




      既に突入していたからなのです。




裏ぶれたパブでスピーチに聞き入る国民の後に、ローグの指揮によってスムーズにスピーチがこなせたをジョージ6世を捉えた後は、

      である国民

          からえばいいのです。




      ただそれだけ。だと思うのです。




スピーチ
という「目的」のために

     英国王とローグが奮闘する段階

                       を越えて、


スピーチ
という「手段」によって、

     国王と国民が国難に立ち向かう覚悟に至る段階


              にしていたのです。



それなのに、放送技師を捉え、スピーチがうまくいって喜んでいるローグ一家の様を今さら見せられても、違和感しか持てなかったのです。




      映画局面

          
方向んでいたのです。





その後の進行は願い通り、国王と国民の真剣な向き合いを描いていました。


  工場で、
  ホテルの従業員控え室で、
  重厚な会議室で、


各々の想いを胸に英国王の言葉に聞き入っている英国国民を捉えていきました。


そして、その後に素晴らしく息を飲むカットに遭遇することがてきたのです。

カメラは少しでもバッキンガム内の様子を伺いたいと宮殿の門にしがみつきながら、国王の言葉に聞き入る一人の男性を捉えたのです。

ローアングルで捉えたそのカットは、まず、きらびやかで荘厳な宮殿の正門門扉を捉え、パーンによってその青年を画面に捉えたのですが、よく見るとその青年は門扉の上に乗っていることがわかるのです。

これによって、この地に駆けつたのは彼一人だけではなく、彼の足元には多くの人々がいる気配を感じたのです。

各々の場所で困難を覚悟しただけではなく、発信元のバッキンガム宮殿まで多くの国民がやって来たことを印象深く示したのです。


    感動しました。


         いや、感動直前までいきました。



何故なら、感動の領域にいく直前にこのカットがプツッと切れてしまったのです。

ボクはこのカットに対して次のような希望を持ってしまったのです。


  【このカットは一人を捉え、

   次に足元にいる多くの人を捉え、

   そしてクレーンアップすると夥しい数の国民が

   バッキンガム宮殿に押し寄せている様が、

   1カットで示される。】

                      と、



そんな妄想をして、感動の準備をしていたところ、
無情にも途中で切れてしまったのです。


    「勿体ない。 そう思ったのです。


この残念な想いは、ほんの少し前に味わったものと同じものでした。

そう。
   スピーチを介した国王と国民の
          

       対 峙 
           

               を目の当たりにすることができる   
               と期待させておきながら、


極私的なローグ家族の安堵という、些細なもので緊張感を損なってしまった


       「勿体なさ

               思い出してしまったのです。


そして、ボクの意識はノンストップで、「勿体ない」 と一番最初に感じた場面に直行していったのです。

その場面は、 その通り
 


         戴冠式



               だったのです。



スピーチの成功。という見せ場を記録映画で




      省 略 する



              という大胆な演出に、ボクは
              どうしても捕らわれているのです。


見せない演出に、当初は驚き、次に期待を寄せていったのですが、今作を鑑賞し終えた今となっては、
残念ながら、この演出効果を全く実感することができなかったのです。
ナチスの存在を印象深く登場させることには成功しましたが、それ以上の成果はなかったと思うのです。
いや、それどころか、見せないことで映画自体の力が損なわれたとさえ思うのです。



   この思いこそが、今回のレビューのメインとなっていきました。




でも、それを説明するには、もう1つ 別の思いについてお話しをする必要があるようです。
その思いの発端は鑑賞後、釈然としない気持ちのまま、今作について知り得た事実でした。
その事実とは、第2次世界大戦の際にジョージ6世はドイツ軍からの空襲を受けている

        ロンドンを見捨てることなく 

      バッキンガム宮殿に留まり、


           国民士気けたこと。


そして、

       英国軍施設を訪問し、兵士に向かって


           直接激励スピーチ

           なっていた事実



                    だったのです。




この、ジョージ6世の行為を知って、ボクはこの作品が

      めて完結できた。と感じたのです。


映画で語られていない事実を知って、初めて完結することができる映画の存在意義とは?

         と、悩んでいるうちに



この映画戦時下におけるジョージ6世英雄的行為  

       をるための壮大序曲だったのではないか



                 とさえ思うようになったのです。




吃音でスピーチが苦手だった王が、ある男の協力で 


    
まずは、戴冠式 という儀礼的役目をこなし、

    そして、第2次世界大戦けての覚悟
                国民醸造させる。

  
        (ここまでは映画で語られていた) 

 

ついには、

      そのスピーチをきっかけとして、王は積極的
      に国民と関わり、自らは標的となるも臆さず、
      バッキンガム宮殿に留まって国民の精神的
      支柱となった。
      また、軍施設に赴き兵士達に激励のスピーチを
      行うことで軍を鼓舞。
      一致団結した英国は苦難の末、ついにドイツ
      に勝利し、平和を取り戻した。


    そんな壮大なストーリーが思い浮かんできたのです。


    平和を取り戻すまでが、今作のストーリーである
              と、どうしても思えてしまうのです。



映画で語られていたことだけから判断すると、

   開戦時のスピーチが

        映画「目的」である

                ように思えてしまいますが、



戦争中のジョージ6世の行いを知る者からすると、

   スピーチは

       「手段」でしかなかった

                ことに気づくのです。



このスピーチをキッカケ (「手段」)としてジョージ6世の


      自己変革され、

      英国求心力となって国難えた事実




そうなのです。英国の求心力となって国難を乗り越えること


      「目的」である。

                と思えてならなかったのです。



そんな拡大された世界観を夢みてしまったからには、先程の論旨である

       省略されてしまった 戴冠式は、

            どうしても見たかった。


                 と思ってしまうのです。



それでは、いよいよ、戴冠式を見せなかった演出に反駁を試みたいと思います。反対意見のその根拠は


平和を取り戻す為に

        「2種類スピーチ壁」

         ジョージ6世克服した。


                  と思えたことによります。


2種類のスピーチ それは


        「儀礼的スピーチ 」

        「心えるスピーチ



冒頭のロンドン万博の「儀礼的スピーチ」の惨敗から今作が開始されたことを思い出して下さい。
その後 ローグの尽力で 戴冠式 という 「儀礼的スピーチ」 を克服し、
次の、国家的危機に際しては、開戦を告げる事務的な側面と、国民を奮い立たせる 「心に訴えるスピーチ」 が混在するメッセージを発し、
戦時中には、戦いの前線にいる兵士達に 「心からのスピーチ」 を行ったことが想像できるのです。


まとめますと、

 

  
.ロンドン万博  儀礼的スピーチ」の失敗
 
  2.戴冠式     「
儀礼的スピーチ」の成功
 
  3.開戦告知    
「事務的、儀礼的な側面」と
            
心に訴えるスピーチ」、両面の成功
 
  4.戦時下     「人の心を揺り動かす語りかけ」で
             英国民を結束させていった。



と、スピーチを巡る局面は変わっていき、このように1から4にかけての 
 

       ジョージ6世変遷

               見守る映画だと感じていったのです。



映画の中では

(敢えて?) 4. 人の心を揺り動かす語りかけ は


    省 略 して


          想像力の世界に委ねているわけですから



せめて、4に至るまでの大切な過程である
 2. 戴冠式 「儀礼的スピーチ」の成功 は


     しっかりと目撃をしておきたかった。


                    と思ったのです。


そして、制作者サイドも

     しっかりと スピーチの成功

                  を打ち出せていなかったことに
                  じた。 からなのか?


映画が既に次の段階に進んで行ったにもかかわらず、スピーチの成功を今さらながらに、訴求してしまったのです。

具体的に言うと、開戦告知スピーチの局面で

       国王国民対峙

                を表現するべきところに、



有り得ないタイミングでローグ家族が

       スピーチ成功 姿

               を提示してしまったのです。


映画は

「英国王のスピーチ」が うまくらずにせるか

                       の段階を越えて、
 

「英国王のスピーチ」が どのように国民くのか

                          の段階に



      突入していたというのに ....。





このような演出混迷とともに、語られることがなかったジョージ6世行動に思いを馳せると、次のような感情が涌き出てきたのです。

戴冠式はジョージ6世のめての成功事例なのですから、まずはスピーチ表層的成功を体験し、
次に映画上のクライマックスである開戦告知において、心情スピーチ領域に到達したことを理解。


このつの成功事例かり
にして、
 


  省略 
されていった


         戦時下における、
         人の心を揺り動かすスピーチを






      想 う 。





そんな映画であって欲しかった。と心の底から感じたのです。








終盤の開戦時スピーチは



        十分満足できる達成感


             
  を迎えることができました。




しかし、このクライマックスにおけるボクと製作サイドとの

  小さな違和感の連続 
 
     それまで構築してきた
映画全体の印象を損ない、

              いつしか
不信感のようなものへと変容




    その気持ちを
補完するように、ネット漂流





そこで知り得た
圧倒的な事実


     
映画世界未完成さと、未熟


              
感じる結果となったのです。
 


今作のクライマックスシーンは


         十分満足できる達成感


                
を迎えたとゆうのに......。










英国王のスピーチ2 




      英国王のスピーチ3
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完成! 「ソーシャルネットワーク」
2012-02-25 Sat 22:01

         ソーシャルネットワーク1




今作は 「訴訟」 をかかえる現在と、その発端となる4年前の過去が絡み合いながら
「訴訟」 の原因を探る形態を取っていきました。


しかし、ボクの興味は 「訴訟」 についてではなく
主人公の行動様式が


   
「劣等感」 から派生し、
                                  その 
「劣等感」 逆手った



           
「開放・拡大」路線 


                であったことに集約されていったのです。



そして、そっけなく進行してきた今作が、一転して


     
 「市民ケーン」 における 
                
            “
バラ
つぼみ”

                          という、

情緒的
としどころ に終結させてきた


           節操さ 


                  を楽しんだ鑑賞となりました。




今作はフェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグの学生時代から物語を始をめてきました。


彼はハーバード大学の学生で、コンピュータおたく。
ガールフレンドに振られた腹立ちから 


    「写真付女子学生対決型ランキングサイト

                        を作ることになります。



そのサイトは余りもの人気で、ハーバード大学のシステムがダウンしてしまう
程だったのです。 当然、女性たちからは敵視されるのですが、逆に彼の能力
に注目する者が登場します。

ここで、今作のキーとなる

           「ファイナルクラブ」

                      なるものが姿を現すのです。



ハーバード大学には8個の 「ファイナルクラブ」 というものが存在するら
しく、ルーズベルト大統領も  “ポーセリアン” という 「ファイナルクラ
ブ」 のメンバーであったという。

そして、秀才揃いのハーバード大学生の中でも、選ばれし者しかこの 「ファ
イナルクラブ」 に入れないことも判ってくるのです。

今作の主人公であるマークは 「ファイナルクラブ」 のメンバーに選ばれて
おらず、エリート意識が強い彼は当然のことながら、このメンバーになること
を渇望しているのです。

マークのコンピュータ知識に注目したのが、その 「ファイナルクラブ」 メ
ンバーであるウィンクルボス兄弟という双子だったのです。


ウィンクルボス兄弟はハーバード大学生に限定した 「ハーバードコネクショ
ン」 という自己紹介サイトの構築をマークに依頼。 
勿論、「ファイナルラブ」 への興味を顕わにしていたマークは快諾します。

そして、ここまで単調だった今作は、やっと動き始めることになるのです。
何故なら次のシーンは学生時代から


    経過した 「訴訟」

                  時空が飛んでいったからなのです。



時制の多重化が図られたことと、人間模様が交錯する 「訴訟 」 の場となったことで、


    退屈していた今作

          推進力わってくれた。

                    とボクは期待し始めたのです。



4年後の新しい時制には 「ハーバードコネクション」 を依頼してきたウィンクルボス兄弟がおり、マークと係争中のようです。そしてこの新たな時制には、新たな人物、
エドゥワルド が登場してきました。 彼の登場によって今作に興味深い


      「根元的謎」

                                               が浮き彫りにされてきたのです。


エドゥワルド という人物は マークのハーバード大学での友人で、マークに誘われるがままに 「ハーバードコネクション」 の


      基本コンセプトを流用 して、


彼らのサイト 「ザ・フェイスブック」 ( 「フェイスブック」の前身 ) 
を構築することになるのです。

「ハーバードコネクション」 のコンセプトを盗用されたウィンクルボス兄弟がマークを 訴えることは理解できても、漁夫の利を得たエドゥワルドが原告となる 「謎」 に遭遇したのです。

とは言っても、この 「謎」 はストーリーを追っていくうちに解明してくれる類いのモノであるでしょうし、ボクが興味を覚えた 「根元的な謎」 ではなかったのです。


     「根元的謎」 それは


 【 何故、マークはウィンクルボス兄弟を裏切って、

      エドゥワルドと、「ザ・フェイスブック」を立ち上たのか?  】


   という


      「素朴疑問」 だったのです。



「ファイナルクラブ」 への入会を渇望しているのなら、ウィンクルボス兄弟
に貢献して、メンバーに推挙してもらえばいいのに.....。 
と思えてしまったのです。


そして、その 「素朴な疑問」 が結果的には、マークのこれからの行動様式を決定付ける
 

       「根元的動機」

                   となっていたのです。


この時点では、この 「謎」 がマークの行動様式を決定付ける


       「根元的動機」

                    になるなんて思いもよらず、


   単なる 「素朴な疑問」 として以下のように感じたのです。



 【 ウィンクルボス兄弟に反目することになった原因は、

        の コンプレックス   だったのではないか  】

                                                       と。



何故なら、今作の冒頭のガールフレンドに振られるシーンにおいて、彼女の理
想の男性像としてボート部員が例に挙げられていたことを思いだしたのです。

ウィンクルボス兄弟はボート部のスター選手でハンサム。ましてや 「ファイ
ナルクラブ」 のメンバーなのです。
方やオタクでパッとしない外観、そして 「ファイナルクラブ」 に入れないマークが、


   ウィンクルボス兄弟反感 を持つ

                      ことは理解できます。


そして更に、重要なことに気付いたのです。
それは、今作の冒頭、ガールフレンドから振られるシーンにおいての


    「負感情」 が、

         サイト開発める
               
になっていた事実  

                            だったのです。


(この時は 「写真つきの女子学生対決型ランキングサイト」 でした。)




マークのサイト開発を推し進める原動力が

      「負感情」

                だと仮定すると

「ザ・フェイスブック」を開発させたマイナスパワーは
この、選ばれしハーバード大学生である

  ウィンクルボス兄弟への

           劣等感だった。

                    と思えてならなかったのです。


この 「負の感情」  という思い付きは、この後の 「ザ・フェイスブック」
の進展を見て、自信を深めていったのです。

「ザ・フェイスブック」 は初めは、ハーバード大学生に限定されたサイトで
した。
しかし、マークの判断によって、エール大学や、コロンビア大学などにも拡張
することになっていったのです。この経営判断には、マークの


     非常私的感情 

                  隠されていたのです。



 ガールフレンドに振られた 「負の感情」 

           「写真付き女子学生ランキングサイト」 の.....。

そして、
 ウィンクルボス兄弟への  「負の感情」 

           「ザ・フェイスブック」 の


                原動力


                        だと信じる者としては、


「ザ・フェイスブック」 のエール大学や、コロンビア大学への拡張も同じ理
由だと思えてしかたがないのです。

何故なら、彼を冒頭で振った元カノとの再会の後に、他大学への拡張をマーク
が決定したからなのです。


     元カノとの再会では何があったのか?

     結論から言うと 「何もなかった」 のです。



二人きりで話したい と言うマークを、彼女は大人の対応であしらっていった
のです。ヨリを戻すキッカケも、ネットでの中傷を詫びることもできずの完敗
だったのです。


この、元カノとのカッコ悪い再会で生じた

       「負感情」 が 、


「ザ・フェイスブック」 を他大学に

       拡張する原因 になった。

                      と感じたのです。



   【 自分をあしらった元カノに、自分の成果を見せ付けたい。 】



そんな衝動に駆られたのでしょう。
その証拠として一流大学ではなかった元カノの大学もエール大学やコロンビア
大学と共に対象としたのです。

サイト構築の原動力が

    恋人に振らたことや、
    ウィンクルボス兄弟に対する劣等感のようなものや、
    元恋人との気まずい再会                  

という、彼の中 に湧いた


    「負感情」であったことに


 やっと今作においての


        鑑賞目的つけることができたのです。




今後、サイトは爆発的な広がりを見せ、それと共に、マークは大きな名声と莫
大な富を手に入れることになるのですが、その裏に


     「負感情」されて、
     「成功←→負感情」の 映画のルール

             
               が存在していくのかを
                        注目していきたい。



               と、この時点のボクは思ったのです。



この「負の感情」の存在を発見するのと時を同じくして、今作に新たな重要人物が登場してきました。
10代で音楽無料配信会社を立ち上げた ショーン という人物です。
彼はマークと同年代であるにも拘らず、すでにIT業界では時代の寵児 として有名な人物であるらしい。


ショーンとマーク、そしてエドゥアルドは会談を持つのですが、
自己中心的な性格が似かよっているマークとショーンは 「ザ・フェイスブッ
ク」 に広告を持ち込まないことで意気投合。

広告収入をあげたいっと思っているエドゥアルドとは反する立場を取る のです。

ここにきて、エドゥアルドがマークを訴えることになった理由が推測することができたのです。

ショーンという第3番目の男の登場によって、
マークとエドゥアルドの

      二人の間にある 「資質い」

                       が明確になったことが原因
                       と思えたのです。


そんなマークとショーンの急接近を示す象徴的なものが、

    「ザ・フェイスブック」 の 「ザ」 を削除して
    「フェイスブック」 に改名すべき。

                       というショーンの意見に、
                       マークが従ったことに
                       表れていました。


それは、サイトの名前が変わっただけではない、


       きな変化

               予感させていたのです。



    それが、ショーンの台頭とエドゥアルドの没落だったのです。



ショーンの勧めにのってマークはカリフォニア移り、エドゥアルドは東海岸に残ります。
マークとショーンの関係性が構築できたタイミングで、エドゥアルドがカリ
フォルニアにやって来るのですが、その地でショーンがビジネス面を仕切って
いることを目の当たりにするのです。
資金調達に成果をもたらしているショーンをマークも頼っている。
エドゥアルドは当然なことにそんな状況に


     反発心のです。


しかし、ショーンが次々と大型スポンサーをゲットし、4億円もの資金調達に
成功。 「フェイスブック」 の


     商品価値急騰 し、


もはやエドゥアルドの

     能力えたところ 

               行ってしまったのです。


「手に入れたものが大きくなり過ぎて、そして、マークやショーンのレベルに
 追いつけず

     
     自分だけがされた


               エドゥアルドの焦り。



        凡人であるボクは痛切に感じることができました。



そんな、うだつが上がらないエドゥアルドは 「フェイスブック」 に資本参入した

     大人達思惑 で、

                 利権や地位が奪われていくのです。



激高したエドゥアルドはとうとうマークに本音を吐きます。


        フェニックスにった嫉妬?」 

                               と。



そうなのです。エドゥアルド は 「フェニックス」 という名の 「ファイナ
ルクラブ」 に入会していたのです。

マークが入りたいと渇望しながらも入会が叶わなかった 「ファイナルクラ
ブ」 に自分が入会できたこと への嫌がらせなのか?
とボクが以前感じていたことを吐きだしたのです。

しかし、エドゥアルドのこの発言によって、彼が如何に


    現状把握できていなかったのか


が露呈されてしまったのです。その鈍感ぶりは 「フェイスブック」 の世界
から排除されるのも当然のレベルだったのです。

そのように言い切る理由は2つ。
まずは、1つ目。

ウィンクルボス兄弟の 「ハーバードコクション」 のように、ユーザーが
ハーバード大学の学生に限定 された閉鎖的な空間においては、マーク
の 「負の感情」 というチッポケなものがサイト全体の方針に 

 
     きな影響ぼしていた

                       ことでしょう。



しかし、他の大学をも取り込み、西海岸まで到達した 「ザ・フェイスブッ
ク」 の広がりを出発点にして、
他資本の参入を得て、イギリスをも巻き込む 「フェイスブック」 に拡大し
た巨大サイトにとっては、 個人の 「負の感情」 などというものは


     るにらないもの
               
                 になっていたのだと思うのです。


エドゥアルドが 「ファイナルクラブ」 に入会したことをマークが嫉妬した
としても、 彼個人の 「負の感情」 によって会社役員であるエドゥアルド
を失脚させることは、
コーポレイトガバナンスの見地から不可能になってしまったほど、


     会社成長していたのです。


そして、ボクの個人的な見解によると、マークの 「負の感情」 


     サイト拡大行動基盤

                        である訳ですから



今更、影響力のないエドゥアルドを失脚させたところで、
サイト拡大は見込めるはずもありません。
ですから 「ファイナルクラブ」 に入った嫉妬によってエドゥアルドを失脚させることは、


    制作者文脈ではない。


                    と確信していたのです。



そして 2つ目の理由は、

「フェイスブック」 がその名に 「ザ」 を付けていた 「ザ・フェイス
ブック」 の時代には、「ファイナルクラブ」 という既成の権威もその
存在意義を発揮しておりましたが、
今や100万人のメンバー数を誇るサイトのオーナーとなって


     らがたな権威

                 となったマークには


「ファイナルクラブメンバー」 という古臭い称号は、もはや

     価値もなかった

                 と思うのです。


エドゥアルドが 「ファイナルクラブ」 に入会しようとも、
そもそも、マークには嫉妬などする必要がなかったのです。


    「ファイナルクラブ」 の誉れに身を寄せるエドゥアルドと、
     そのレベルを遥かに超えていったマーク。
 

エドゥアルドの 「フェニックスに入った嫉妬か?」 の発言がなされた瞬間
に、二人の間に発生していた
 
         「属性い」

                   が露呈されていったのです。



そもそも、ハーバード大学生限定のサイトを作りたかったウィンクルボス兄弟
やエドゥアルドも、「ファイナルクラブ」 という

       ばれし栄誉  りかかっている 点で、



         マークとは根本的に違っていたのです。



選ばれることがなかったマークは

      「排他的である、という呪縛から

                    たれて いたのです。


 それ故、

      「拡散」という方向性 を選択することができ、

      「拡散」によってサイトも、彼自身も、



              までの ことが
                               できたのでしょう。



このように 「排他」→「拡散」 という方向性を打ち出してきた今作の流れに逆行する


    「排他的」 な 「ファイナルクラブ」員

                   となったエドゥアルドは


    今作から排斥される運命

                   だったのです。



映画の文脈の中では、エドゥアルドの排斥を十分に理解することができました
が、その場面においてのショーンの描き方に、ボクは次なる興味を持ったの
です。

登場当初は若きIT界の先輩として、マークへの影響力を発揮してきましたが、この局面に至っては、

     マークの利権に絡みつき、
     エドゥアルドの排斥にやっきになる

             悪役 となっていたのです。


ショーンの描き方が急変したなと思った途端、彼は女性にだらしないという側
面も訴求されてきたのです。

しかもエドゥアルド排斥の場においての ショーンの横柄な態度に対してマークからは

     「やりすぎだ」

               と批判されるありさまだったのです。


ショーンに対する激変は表現上だけのことではないはず
と思った矢先にやって来たのは


     ショーンの凋落
                 だったのです。


いかがわしいパーティに踏み込まれ、薬や未成年女性同伴によって、今作か
ら、そして 「フェイスブック」 の巨大なビジネスからも退場を余儀なくさ
れるのです。
まさしく 「おごれる平氏は久しからずや」 の言葉を思い出しました



 こんなショーンの退場劇を見届けて、今作はストーリーを語り終えて
 いったのです。




今作のラストシーンは、訴訟を抱えている現在の時制において、


    学生時代の友人エドゥアルドを失い、

    信頼していたショーンをも失ったマークが

 

            一人オフィスに残って、
            PC画面を見つめている映像

                         となっていました。



その映像に、訴訟の原告であるウィンクルボス兄弟やエドゥアルドに対して

 【 秘密保持の契約を盛り込んで、
            訴訟額より大きな金額を和解金として支払う 】


                  ことで、この訴訟問題を決着をさせた
                  旨の字幕が挿入されるのです。


結局、彼は訴訟で闘うことはせずに、

      って過去の自分を抹殺する ことを

                            選んだのです。


秘密保持契約というオプションを付けて訴訟額より多い和解金を払い、
ウィンクルボス兄弟には実に50億円もの金額を支払ったのです。
(エドゥアルドは金額非公開)

弁護士が言っていました、「今のあなたには、そんなに大金ではない。」 と


  裁判で戦うより、過去の自分を100億円を払って消し去った方が、

        立場では得策

                  との弁護士団の判断だったのです。


100億円払っておいた方が得策、とは想像を絶っするほどの社会的立場なんだなと思いました。

100億円というグロス感に驚かされながらも、結局はそっけなく進行してき
た今作のラストシーンは、意外にもボクの気持ちを揺さぶっていったのです。

ラストシーンは前述のように

          一人オフィスに残って、
          PC画面を見つめている映像

                        となっていたのですが、


そのPC画面が感傷的な思いを持ち込んできたのです。


   その画面とは、ある人の「フェイスブック」のページだったのです。
   ある人のとは、元のガールフレンド、エリカのページだったのです。


彼女に 「友達になる」 の申請をし、彼女からの 「友達承認」 が届きは
しないかとリロードを 繰り返しているマークの一人ぼっちの姿が、 今作の



         正真正銘ラストシーン

                           だったのです。



彼女のページを眺めるマークの胸の内は切なさで満たされていったことで
しょう。エリカに未練があるという、浮ついた思いも去ることながら


「市民ケーン」の

        “バラ
つぼみ”

                    に相当する思いなのだろうと、
                    感じたのです。


“莫大な遺産” を相続する前の、 ささやかで穏やかな幸せを象徴するのが


        “バラつぼみ”  でありましたが、


元のガールフレンドであるエリカが、


    マークにとっての “バラつぼみ”

                      に相当するのだろうなと
                      感じたのです。


エリカは、“莫大な遺産” である 「ザ・フェイスブック」 を得る前の、

普通のハーバード大生だったころのマークを知る人物で、
普通の男が味あう失恋の痛手を与え、
大富豪になる前の普通の男の子にとっての


      等身大出 

                  持たせた女性なのです。
     


( 余談ですが、「市民ケーン」 は新聞で、 今作はSNS。
  ともに 情報伝達、コミュニケーション媒体であることも興味深い。)



そして、エリカにフラれた腹立ちで、マークは 「写真付き女子学生対戦」 サイトを開発。
その完成度と反響の大きさによって 「ザ・フェイスブック」 を開発することなったことを考えると、エリカは


      今日のマークをげた女性

                    と言えるのかもしれません。


また、エリカとの 「かっこ悪い再会」 によって「ザ・フェイスブック」 



      「拡散」方向した

                     わけで、その結果、


「ファイナルクラブ」 や 「ハーバードコネクション」 の

       閉鎖的世界から決別 し、
       別次元成功 を果たしたことを考えると、



エリカはささやかで穏やかだった日々を象徴する

       “バラ
つぼみ” であり、
 同時に
        莫大財産”

                  をもたらした女性でもあったのです。



今作はそんなエリカとの関係性に救いを求めるマークの姿をラストカットに選
んだのです。 莫大な富と名声を手にしたマークですが、 その過程において
自らの極端な性格と、利権に群がる者たちの都合で、

        大切人間関係ってきました。


そんな穏やかではなかった過去を彼は

        100億円もの金額封印 したのです。



「孤高の存在」 になってしまったが故に、 等身大の青春を破棄せざるを得なかった マークの 「孤独」 というものは、

“バラのつぼみ” であるエリカに虚ろな表情でメッセージを送る姿に


        見事表現されている  と感じたのです。


           「孤高孤独」

                 とでも言うのでしょう か.........。


あらゆる望みを叶えられる身になりながらも、心を許せる者が誰もいなくなってしまった孤独。

そして、等身大の自分の過去を100億円で消し去らなければならない


          「孤高であるがための孤独」


                          を感じたのです。




そんな現在のマークを取り囲んでいる 「不条理と、

           一個の人間としての   「感傷」 




    この2つのせめぎ合いに彷徨っている彼の姿を見て、

         ボクの心も 刹那的 に揺さぶられていったのです。



 





今作は 「訴訟」 をかかえる現在と、その発端となる4年前の過去が絡み合
いながら、「訴訟」 の原因を探る形態を取っていきました。


しかし、ボクの興味は 「訴訟」 についてではなく
主人公の行動様式が

   「劣等感」 から派生し、その 「劣等感」 逆手った


           「開放・拡大」路線 


                であったことに集約されていったのです。


そして、そっけなく進行してきた今作が、一転して


      「市民ケーン」 における 
                
            “
バラ
つぼみ”

                          という、

情緒的
としどころ に終結させてきた


           節操さ 


                  を楽しんだ鑑賞となりました。











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完成! 「悪人」
2011-09-18 Sun 07:45
          悪人1 





今作は 


【 老練演出手腕 】  フレッシュ演出手法 】 



    この2つの、相反するテイスト共存する 

                 味わい深い逸品となっていました。 



しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。 



  この感情はラストにおける 


     「配慮不足」 という象徴的事象
                    
                    
集結 されているようでした。 



  残念に感じる場面はありましたが、 


      李監督の大きな成長 実感し、 
 
               彼のさらなる飛躍を 予感


                
させる作品となっていたのです。 






今作のオープニングは 
 

             陰鬱退廃的 
                              でした。 


普通だとこのような作品は、鑑賞の意欲が削がれてしまうものですが、 
 



       今作っていました。 



オープニングの、主人公の男が夜道を運転する映像から

「先行き不安なイメージ」が明確に伝わってきたのです。 
その後、20代女性保険外交員の同僚同士の薄っぺらい人間関係や、 
出会い系サイトの如何わしい人間関係が矢次早に提示されていきます。 
もう一度言いますが、平凡な作品であったのなら、ただ嫌気がさしてしまうところでしょうが、 



       今作っていたのです。 



  キメ細やかな描き方に、ついつい引き込まれていったのです。 

     (演出に関しては、折に触れて説明をしていきます) 



物語は進み、先の20代の保険外交員の女性が死体で発見されます。 

その身元確認の経緯も丹念に描かれて、思わず引き込まれるものだったのです。 


 理髪師である父親が、散髪客と互いの娘についての話しをしている。 
 鑑賞者はこの理髪師の娘が亡くなってしまったことを知っているので、 
 お客とのノンビリとした会話を聞かされているだけで、ジレッタイ気持ちに
 駆られていくのです。 

 そこに警察からの電話。受話器を上げる母親。 

 不安に怯える母親の表情が簾越しでよく認識できない、という演出も
 目を離せない。 



 場面は死体安置所に移る。 
 娘の遺体を確認する父親、 
 表情一つ変えず、ただ、コクリと頷く。 
 ふと気付くと遺体に被せているシートから娘のつま先が出ている、 
 そのシートの乱れを思わず直してしまう父親。  


非日常的事象 に父親の 気持ちが混乱 している様が、 

ありありと伝わってきたのです。 


 そして足早に安置所を立ち去り、廊下で待つ妻の元へと急ぐ。 
 二人のカットは逆光でシルエットになっている。 
 表情は影にして見せていないものの、気持ちの中は手に取るように
 理解することができる。 

 その心の動揺はしばしの沈黙を破って 


     れるシルエット結実

                      
していたのです。 




この一連の演出に心動かされていると、画面は突然、



       「 バリバリバリ ! 」


                    と大きな音をたてて、
                    重機が廃屋を潰すショットが
                    映し出されたのです。 


妻夫木聡が演じる主人公の男が解体工であることを説明するカットではあるのですが、 


娘を殺されたこの夫婦の、


    突然の 


         「幸福崩壊」 

                    を連想させる繋がりに 


      

                    感心しっぱなしだったのです。 



気分は重い。しかし、演出は素晴らしく今作は評判通りの傑作に違いない。
と、 開始20分にして確信をしたのです。 




殺害された女性のお通夜の席においても、今作は深い映画体験を与えてくれたのです。 

親戚の一言に激高した父親がその親戚に掴み掛かっての一悶着の場面。 
ちょうど焼香に来ていた刑事を見つけた父親が勢いにまかせてその怒りをぶつけてしまうのです。
 


   「大学生一人捕まえられんで、何が警察か! 

    こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!
 

    スイマセン  ( 頭を深々と下げる ) 」 


            この一連が、一気に映し出されていったのです。 



このような場面では、他の凡庸な作品では
 


   「こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!」 

                 のセリフに一拍おき、 

                 そんなことを言ってしまった自分自身に
                驚く小芝居を入れて、 


   「スイマセン ( 頭を深々と下げる )」 

                 となるところなのでしょうが、 


今作はそのようなことはせずに、 


        ノンストップで当ててきたのです。 


それだけ、脳内物質まくって、この父親が普通の状態でいられないことを 


        印象深えていたのです。 



それは、娘の死を知る直前の父親と散髪客とのノンビリとした日常を見せられてヤキモキしてしまったものとは、 



        悲しいほどの対比 

                        を描いていたのです。 



「うまくなったなー」 
と思い切り上目線で唸ってしまいましいた。 

李監督の前作 「フラガール」 を地下鉄内鑑賞をしていますが、 
その映画の監督が、まさか、こんな隙のない演出をする監督になるとは、思いもよらなっかたのです。 
鑑賞途中ではありますが、李監督は今作で 



     
  飛躍的成長げるにいない 

                         と確信をしたのです。 



そんな幸福感に包まれながら、物語は、やっと今作の主人公 祐一 と、光代
の出会いとなりました。 

今作の薄幸のヒロイン 深津絵里 演じる 光代 は、慎ましやかな、誠実な
女性として描かれており、佐賀弁がその優しさを醸し出していました。 

一方の 妻夫木 聡 演じる 祐一は、初登場から無口で得体が知れない一種
の不気味さを漂わせていたのです。 


主人公の 祐一 は初対面の 光代 に対して、ぶっきらぼうに男女の関係を求めていきます。 
ウブな 光代 はその流れに飲み込まれるようにして、祐一 との関係を受け入れていきます。 


        「不気味った祐一と、 

         寛容誠実光代 
  
                       の対比ができたところで、 



この二人の関係性はどの方向に動き出すのかを、注目していきたいと思ったのです。 



と、ここまではテーマは重いながらも快調な鑑賞となっていたのですが、 その後の処理に対して、疑問に思えたシークエンスが出てきてしまったのです。 



20代女性保険外交員が殺害される直前まで会っていた 岡田将生 演じる チャライ大学生との場面。  
彼女がチャライ大学生の機嫌を損ねて、夜の峠道で車から蹴落とされる場面が出てくるのですが、その表現に 


        違和感じてしまったのです。 



チャライ大学生はろくでもない人間だとは理解していましたが、 
それでも暴力的な人間だとは表現されておらず、 
それが突然の豹変によって、攻撃的な態度を取り出したのです。 


その展開は今作の世界観を表すための 
 

         必然性 
                    ではなく、
 


まるで、これから展開する物語を進行させる為の 
 

         必要性 
                    による豹変に感じられ、



どうしも、

    制作者サイドのご都合主義的行為

                  として捉えられてしまったのです。




こうして、今まで手放しで評価していたボクの気持ちに、一抹の不安が生じていったのです。 





不安を孕みながらも、物語は今作の主人公 祐一 と、光代 の再会のシーンとなります。  祐一 が初対面での対応を詫びに来たようなのです。 

ボクはこれ以降、祐一 の描き方に激変が生じてきたことに反応し、大いに興味を持ったのです。 それまでは、 


      「不気味性格異常者」 
                    のような表現をしていたところ、 


      「不器用純粋
男」 
                    として、語り始めようと 
                    路線変更をしてきたのです。 


このような 「キャラクター変更」 を含みながら、二人はこのまま逃走劇を演じていくのですが、 
祐一 が 光代 に対して自分の犯した罪を告白するシーンは大変、素晴らしいものになっていました。 


港の展望が開けている食堂の2階のお座敷において、 

  1カット目は 


初めてのズル休みに、ちょっとウキウキしている光代の様子を捉えながら、 

やがて、彼女は目の前にいる祐一の変化に気付く。 
この時、画面には光代しか捉えていなく、祐一は画面に入っていない。 



  2カット目 



手前に祐一の後ろ姿、奥に光代を捉えたアングルで、ピントは祐一の後ろ姿に合っていて、光代はピンボケの状態。 

1カット目の終わりで、祐一の変化に気付いてっs心配する光代の表情を捉えていたので、 光代の表情がピンボケでも彼女の状態は推測することができます。 
そして、ピントが合っている祐一は後ろ姿なので、その表情を伺い知ることはできないのです。 
しかし、俯き加減で小刻みに震えている様子から、彼の尋常ではな様がわかるのです。 

  「俺、 人  殺してしもうた 」 

と光代に告白した直後、カメラのピントは 祐一 の後姿から、 
光代 の驚いた表情を瞬時に捉えたのです。 



  
3カット目 


カメラ位置は今度は 光代 の後ろに位置を変えて、光代の後ろ姿を手前に、奥に祐一の顔を配しています。 

祐一の表情が観察できると思いきや、画面は半分ほどがピンボケした光代の後頭部で占められているのです。 
その残されたスペースで 祐一の顔半分が伺い見れるという極端なフレーミングのカットとなっています。 
  
殺してしまった女性との関係を話し出す祐一 



  
4カット目 


今度はそれを受ける光代の、これも極端なフレーミング。 

3カット目を受けるもので、ショットのコンセプトは全く同じものでした。 
祐一の後頭部で隠されて光代の顔を半分しか伺い見ることができない。 

告白を聞いて呆然としている光代。 



  5カット目 



3カット目と同じアングル。切り替えしで顔半分の祐一のカット。 

このようなクセの強いアングルを 


      連続3カット続ける勇気 

                        に感服しました。 




     「会いたいなら、金払え」
  

                 と、その女性から言われたと告白。 

                 その女の性悪さが露呈した瞬間で、 

     「会いたいなら、金払え」  のセリフは 


                 ちょっと前から監督が狙っていた祐一の
            
    「キャラクター変更」 に対して 
                 素晴らしい効果を上げていたのです。 

  それまでは、 

     「不気味サイコ野郎」  の描き方をしていたところ、 


  光代に謝罪してきたあたりから、 


     「不器用純粋男」    としての側面を素求してきた

                        のですが、
 




ここで、

    1つの行為が、
            角度によって、

                     全印象えてた 


                          
ことに感心したのです。 



光代との初対面の際、ぶっきらぼうに男女の関係を結んだ後に、光代にお金を渡した行為によって 


     「不気味サイコ野郎」 
                   としての印象を強めていたのですが、 

その性悪女に強要されたことを光代にも行っただけ。ということがわかると、 

突然に

     「不器用純粋男」
                 としての側面が急浮上してきたのです。  



「会いたいなら、金払え」 に対応した 
                     
つの
行為が、
  
  
    「不気味サイコ野郎」   を訴求する表現にもなり、 

    「不器用純粋男」     に早変わりもさせる。 

                    
              
            
そんな興味深い光景を目の当たりにして 



           大きな映画的興奮を味わったのです。 




そんな幸福に浸っていた矢先に、 【 老練演出手腕 】 とボクが称賛することになる 「広角ショット」 に遭遇するのです。 
「殺人の告白」 の最中にお店の人が配膳に来るのですが、 
後頭部と顔半分で構成された閉塞的な空間の直後に配置された  
 

   「広角ショット」意義 

                    
に感心をしてしまったのです。 


配膳が終わり、再び二人きりになった彼らを捉えたのが、お店の奥から静かに向き合って座っている二人を写した  「広角ショット」 だったのです。 

息が詰まるような密度の、圧縮された時空間の後に、 


       客観的視野 

                 を持ってきたその対比とタイミングに、
                 また感心してしまったのです。
 


この 「広角ショット」 は、二人の背景に港町の日常的な町並みを配し、手前には誰も居ない座敷の広い空間が横たわっています。 
この映像を見るだけで、 


    日常の世界から取り残された  
 
           「二人のだけの孤独」 

                      を感じることができたのです。 
  

それが、あの畳み掛けるような緊迫感の切り替えしの後に配置されたのですから、その効果は増幅していたのです。 


まさしく、
 緊迫した時間を創出した 

       【 フレッシュ演出手法 】 と  


オーソドックスな広角表現
を活用した 

       【 老練演出手腕 】   


              コラージュした、珠玉瞬間だったのです。 



この 「広角ショット」 の素晴らしさについて考察していたら、同様に心に引っ掛かっていた2つの 「広角ショット」 のことを、まざまざと思い出したのです。 

 
 1つ目は、祐一と光代の再会のシーン。 
 祐一が初対面の際の非礼を詫びる為に、光代の勤務先に赴いた時のこと。 
 彼女の勤務先である巨大なロードサイド紳士服店で再会する二人を
 
「広角ショット」で捉えており、 
 膨大な数の紳士服の中に埋もれている彼らを見ていると、 
 陳列されている紳士服が 


        フェイク人間に見えてきて、 


そんな膨大な人波の中で 

     疎外感
えた男女が 
              巡えた「寓話性」 


                        を無意識に感じていたことに
                               
                      気付いたのです。 




そして記憶の中に留めていたもう1つの 「広角ショット」 は、この逃避行の始まりに仕掛けられていました。 


 場所は光代の部屋、そこにスポーツカーのエンジン音が近づいてくる 。 

 この段階で鑑賞者は、祐一がやって来たことを推測するのです。 
 さっとカーテンを開けると、光代の部屋の狭い世界観から、
 彼女の肩越しに、駐車スペースという広い空間が2Fの窓から見下ろせる。 

 すると、闇の向こうからヘッドライトを輝かせた車が来て、
 ピタッと部屋の前で止まる。 

 その様子を見て、慌てて階下に急ぐ光代。 
 光代がいなくなったことで画面には、闇に浮かぶ自動車のみが残っている。  


      不穏感、孤独感、
              
そして、その存在感。 


この一連の演出も心に残っていたものでしたが、ここで語りたいのは、その後の 「広角効果」 についてなのです。 
ここに至るまでの映像が、祐一の車の中と光代の部屋の中という、両方ともに撮影距離 (カメラと被写体との距離) が近いショットが続いたものですから、

 
 被写体との距離が離れたことによって、 

       心理的広角効果 

                        
が発揮されていたのです。 


暗闇の中に1台だけ、寂しげに佇む自動車を捉えた 「広角ショット」 が、警察にマークされて先行き不安な状態でいる祐一の 



     心情を、明確に表していたのです。
 


そして、今まで普通の生活を営んできた光代の人生も、この車に乗り込んだ瞬間に、 


      祐一と同じ不安に、苛まされる予感 

                      を覚えさせていたのです。 



この予感は、頼りなげでありながら、どこか不穏な思いにさせる祐一のクルマを捉えた 「広角ショット」 と、前述の、光代の部屋のカーテンを開けると、その平々凡々な生活に土足で乱入するかのようにクルマがやって来る印象的なショットとの併せ技だったのです。 


ついでに言うと、荒々しいエンジン音で祐一がやって来た 「負の気配」 を、予め仕掛けておいた勝利だったと思います。 



「広角効果」 について気付かせた
  

        【 殺人の告白 食堂の2階 】 。 

 そして先の、 

        【 二人の再会 紳士服店 】 と、 

   この  
        【 逃避行の始まり アパート前の駐車場 】 のように、 



         効果的な 「広角ショット」 配置 


                              
してきたとろに、
  
 

                     大いに感心してしまったのです。 



そして、このようにオーソドックスな技法を駆使した 


    【 老練演出手腕 】     に 唸っていた次の瞬間、 


 若手らしい
 
 

    【 フレッシュ演出手法 】 の 斬新なシーン変わりに
                           遭遇したのです。 



それは、 

    【 殺人の告白 食堂の2階 】   の シーンから 

次の、死に至らしめる場面への移行カットが、 
食事に出されたイカの活き造りの目のクローズアップ画面だったのです。 

活き造りのイカがまるで 

          命を奪われた遺体のように横たわっており、 

          その見開かれた目が無機質にこちらを見ている。 


その黒目の部分に、殺人の映像がオーバーラップで重なっていくのです。 


     

              きました。 



 
「広角効果」 というオーソドックスな 

    【 老練演出手腕 】   を見せ付けられた次の瞬間に、 

  若手らしい 

    【 フレッシュ演出手法 】 を駆使した 


                      斬新な映像までもを
                      突きつけられた訳ですから、
  



         ただ、圧倒されるしかなかったのです。 



このように 


緩急使い分けた演出によって、グイグイと引っ張ってきた李監督であったのですが、 この後、続いていく殺害シーンに、 

      その片鱗ることは 

                   残念ながら、できなかったのです。 


そのシーンは、20代女性保険外交員を自動車から蹴り出したチャライ大学生の行為に違和感を持った続きの時制にあたります。 


二人を尾行し、一部始終を見守り、チャライ大学生に車から蹴落とされていた彼女を助けようとする祐一 に対して、 


      意固地な態度を取る女。 


そんなヤリトリの中で、腕を持つ手に思わず力が入ってしまう祐一。 
それに対しての彼女のセリフから、自分の気持ちが冷めていってしまったので
す。 そのセリフが 





       「 人殺
! 」 。 




この局面において発せられた言葉が 



        「人殺し」 ですって? 


今作を鑑賞している者は、今までの展開から、この20代女性保険外交員が祐一 に殺害されたことを理解している。  だからと言って、何の工夫もなくただ単純に 「人殺し」 なんて言葉を言わせる局面を提示して、 恥ずかしくないのか? 

と大いに疑問に思ってしまったのです。 そして次にこの女が言った言葉、 


    「警察に言ってやるけん。襲われたと。」 


も、ストーリーを展開させる為の強引さが鼻につき、 

たかが、祐一に強く腕を掴んだくらいで、 
「襲われた、と虚偽の申し立てをしてやる。」  と発言をさせた


     
制作陣手抜

                 
を感じてしまったのです。 


好意を寄せていた チャライ大学生 にヒドイ仕打ちを受け、
 (前述のように、この流れも不自然に感じています) 
軽んじていた相手に、そんな無様な姿を晒してしまった訳ですから、 気が動転しながらも形勢逆転を図った稚拙な行いであった、ことは理解しているつもりです。 


でも、「人殺し」 の言葉は不用意な選択として、 


      制作陣センス瞬間

                   
だったのです。 


【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】 の両面で 素晴らしい映像世界を見せてくれた今作ではありますが、場面は前回と同じ 夜の峠のシーンにおいて、賛同しかねる局面に遭遇してしまったのです。 

そして、その後の展開も同意しかねることになります 

苛立ちの矛先を祐一に決めた女は 


     「拉致られて、レイプされたと言ってやる。
              (中略) 

      全部、あんたのせいやって言ってやる」 


            と、祐一から 逃げ出そうとしますが、後ろから 


     「嘘つくな、俺はなんもしとらんぞ!」 


            と、祐一は女のこんな妄言を止めるために、 
            女の口を押さえてもみ合いになっていったのです。 


            で、気付くと、女は死亡していた、

                             という流れなのです。 



この 「発言阻止、殺意なき殺害」 パターンは、1964年公開の内田吐夢監督による 「飢餓海峡」 しか納得することができなかったが為に、人一倍、警戒心が大きかったのかもしれませんが、 この展開を目の当たりにして 

    諦
めの境地 

                 陥ってしまったのです。 


「飢餓海峡」 で示されていた三国連太郎 演じる主人公の、過去に抹殺したい犯罪歴を持つ名士と、過去の彼に恩義を感じる 左幸子 演じる娼婦との不幸な 再会によって生じた 

    偶発的
殺人  

                 と、どうしても比較してしまうのです。 


過去を消し去りたい男の願望と、過去にすがり付きたい女の情愛がブツカリ合った末の、胸を締め付ける殺害シーンと比較してしまうと、  どうしょうもなく 

    薄
っぺらいモノに 

                 感じてしまったのです。 


せめて、祐一が 「嘘をつくな」 という言葉を繰り返していたところから、 

彼の心の中にある 「嘘をつく」 という脅迫観念を明確にしていたのなら、もう少し感情を動かすこともできたのでしょうが、 
(この訴求は、時遅くにして訴求をされてはいました。) 
この時点ではその膨らみもなく、ただ、 


     
映画ストーリーをなぞっているだけ 

                         と感じられたのです。 


 
      

           残念いました。 





しかしながら、同意しかねる峠でのシーンの後、トーンダウンしていたボクの気持ちを再び惹きつける場面に遭遇したのです。  


 逃走を観念した祐一が自首をしようとするシーン。 
 降りしきる雨の中、光代を助手席に残したまま、警察署に一人歩いていく祐
 一。 

 振り返るとフロントガラス越しの光代が、雨で遮られて滲んでしまってい
 る。 

 「これは二人の関係性が希薄になってしまうことへの表現」だ、と捉えてい
 たら、 

 カメラはボクの意に反して車内で泣きじゃくる光代を鮮明に映し出してきた
 のです。 

 ちょっと意外に思っていたら、 光代は意を決したように運転席側に体ごと
 寄せてきたのです。 

 その瞬間、 切り替わった祐一の後姿にかぶさったのが、
 光代が鳴らした、けたたましい クラクションの音だったのです。 


 その音に振り返る祐一。 



     沈黙の中、しばしの距離を隔てて見つめあう二人。 



           これだけで充分でした。 




今までの受身の人生に決別するかのように 


     祐一の自首を翻させ、 
     二人の関係をより深くしていく。 


         光代のこの能動的行為に 

   
                      心が動いてしまったのです。 



それは、一言の言葉や説明が介在する余地がない、 


         かな映画的境地 

                         だったのです。 



そしてこのシークエンスに続くものが、二人の心身ともに深い結び付きを確認する場面となるのですが、 
ここでの表現も、初対面の際の受身的なものとは180度違って、  光代の能動的な気持ちが溢れていたのも印象的でした。 

精神的にも、肉体的にも深い繋がりを確認した二人は、灯台に逃れて来ます。 

この灯台で二人きりの日々を過ごすうちに、祐一のある告白が始まりました。 
それは、母親に捨てられた子供時代のこと。 
「すぐ戻ってくるから、ここで待っていて」 
と言う母親を信じて、灯台を眺めながら待ち続けたが、 
結局、母親は戻らず、自分が遺棄された痛みを知ることになったとのことなのです。 

ここで初めて、20代女性保険外交員が殺害された際に繰り返えしていた 
「嘘をつくな」 の発言の真意が結びついたのです。 
しかし、全ては遅きに過ぎたのです。すでに生じてしまった 

     違和感をリカバリーするほどの、 

 

             鮮烈さをっていなかったのです。 





             残念いました。  





この残念な気持ちを引きずりながら、今作は終わりを告げていってしまったのです。 


折々に素晴らしい演出をみせてくれた李監督でしたが、終盤は失速していったのです。 



しかし、不満点が生じると挽回してくれるのが今作です。 

終了間際、ボクの興味を惹く場面を用意していてくれたのです。 


警察の包囲網が近づいたことを察知して、 光代は、祐一の自首を妨げ、逃避行へのキッカケを作ってしまったことを詫びます。 そんな彼女に 祐一 は真顔になり 



     「俺は、あんたが思うとるような男じゃなか」 


と突然、光代の首を絞め始めたのです。 

首を絞められて苦しむ光代にキスをして、そして力一杯、締め付けてきたのです。 


     一瞬、ボクの混乱をきたし、 

             そして、そのまま画面に釘付けになったのです。 


祐一のキャラクター表現が途中でニュアンスを変えてきたことに興味を持っていましたが、この最終局面において、彼のキャラクターが元に戻っていったことに、驚き、そして、興奮してしまったのです。 



冷静になって彼のキャラクター付けの変遷を辿っていくと、 

  開始当初は、祐一を 
  
      「不気味サイコ野郎」   として表現しておきながら 


  光代と知り合って、初対面の非礼を詫びるあたりから、  
 
  
      「不器用純粋男」    に進路変更。 


  ずっとそのキャラクターのまま進行していきましたが、 
  終盤のこの逮捕劇に至って、 

  実は祐一は最初の印象通り、 
  相手が苦しむ姿に快感を得る倒錯S の 


       「不気味サイコ野郎」  だったことが

                           
わかったのです。 

 

           
やられた 


           裏をかかれてしまった!  



と、意外な展開に瞠目し、予測を裏切られた快感をボクは得たのです。 
 
   (これをボクは 映画的M と呼ばせていただきます) 


それゆえ、20代女性保険外交員の殺害シーンはワザと下手に作ったのか。  
と、李監督の 

      予想上回急成長ぶりに

                       
感心したのです。 



あの殺害シーンは祐一からの光代への告白というカタチであったことを思い出しました。
過失の中で殺めてしまったという  「嘘」 であったからこそ、 

ぎこちないシーンに仕立てたんだなと、 大いに納得した瞬間だったのです。 

そんなことを感じていたら、そんなボクの納得を翻弄するようなカットが、 すぐさま提示されてきたのです。

( 忙しい! ) 



警官隊の突入で、祐一が光代の首を絞める行為は阻止されるのですが、 
光代が保護され、裕一が身柄を確保され、二人が引き離される瞬間の祐一の行為に、 


    ボクは見張ったのです。 



彼は、引き離されていく 




    
光代ろうとするのです 




このカットで、ボクの頭は またまた混乱 していったのです。 

何故なら、先ほどの 「首絞め」 によって、 祐一は実は 
  

    「不気味サイコ野郎」 だった。 

  

             という展開で納得がいきそうになった気持ちを、

             すぐさま否定 してきたからなのです。 



それは、引き離される際に 



    「首を絞める」 という 危害を加えるのではなく、 

    「手を握る」   という 慈しみ とも いたわり とも感じ取れる
               行為を
祐一が取ったことによって、 


     先ほどの「首絞め」 が 


            「嘘」 であることを
 

                        理解したからなのです。 


     そして、「不気味サイコ野郎」 を演じることで、 


            光代の自分への気持ちを 

            断ち切ろうとしたことを 
                              
                        理解したからなのです。 




      しかし、愛おしいという気持ちは隠しきれずに、
      ダメージを与えてしまった 



            光代の「手を握る」  

            という行為に至ったものだ。

                       と、理解をしたのです。 





またまた、 彼のキャラクター付けの変遷をまとめますと 



  当初は 

          「不気味サイコ野郎」 の表現をされ、 


  殺人の告白から 


          「不器用純粋男」  への急転回の後、継続。 



  光代の気持ちを断ち切るために 


          「不気味サイコ野郎」 を演じ、 



  でも想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に 


          「不器用純粋男」  を露呈してしまう。 




このように、「不気味サイコ野郎」 と 「不器用純粋男」 
を戦略的に
行き来していったのです。 そしてこのことに大いに興味をかき立てられたのです。 




興味深いシーンに出会うと、その後、同意しかねる場面に遭遇 してしまうのも、今作の特徴のようです。 



   光代の気持ちを断ち切るために 

          「不気味サイコ野郎」  を演じ、 

   でも、想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に 

           「不器用純粋男」   を露呈してしまう。 


この変わり身の早い 「キャラクター変換」 については、当初は評価を与えていたのですが、 今作を鑑賞し終えて、冷静になった時に思ったことは、



        あのラストシーン を用意していたのなら、

        この キャラクター変換ネタバラシを 


 
       絶対


             温存するべきであった!                 



                     という強い思いだったのです。 




あのラストシーン とは、

祐一の逮捕劇の数日後、 殺害現場にやって来た光代。 


 「 世間で言われよる通りなんですよね。あの人は 『悪人』 
   なんですよね。  人を殺したとですもんね。 」


    と呟やいた後、彼女の意識は邂逅の奥底に沈んで行くのです。 
    そして彼女の心の中、奥深くに息づいている光景が 
    今作のラストシーンとなっていったのです。 


    場所は二人が過ごした灯台。 

   
 夕日が海に沈む光景に、心を揺さぶられた日の思い出が 
   
 去来してきたのです。 


    その一瞬の、「儚しさ に涙する二人。 


今作は、この 夕日 に感情を揺さぶられて、ただ涙するしかない裕一のアップ画面によって終わりを告げていったのです。 



このラストシークエンスによって、  
 

     裕一は 「不気味サイコ野郎」 ではなく、 


  光代の自分への気持ちを断ち切るために、「嘘」 をついた 


         「不器用純粋男」   として 



         鑑賞者は (少なくともボクは) 認識していくのです。 



ラストにこのような、祐一 の 




       「人間性復権象徴するカット」 


                      を配してくるのであれば、 




「キャラクター変換
ネタバラシ」 温存して、 
「光代の首絞め」 からこのラストカットに至るまでの時間を、 


    祐一 は 「不気味サイコ野郎」
                    


                  であると騙し通しておくべきだったと
                  主張したいのです。 



そうすれば、ラストカットの祐一の涙が、より複雑に、そして、より深く、心に響きわたってくるはずなのに。 と



            
残念気持ちになったのです。 



そして、 

      祐一は 生来からの 「悪人」 で、
     
              「不気味サイコ野郎」 だったのか? 


      それとも 偶発的な殺人を犯してしまった 

              「不器用純粋男」   だったのか? 




       という、精神的迷宮に                         
              観客を誘うこともできたのに.........。 




と、「配慮不足」 とも思える措置に返す返す、残念な気持ちを持ってしまったのです。 





しかも、ラストシーンに、夕日に見入る二人の後姿の 


        「広角ショット」 を持ってきたのであれば、 



              なおさらのこと 


                    
だったのです。 




その「広角ショット」は、
今作にある “映画のルール” 通り、


     世間からたれた 「二人だけの世界」

                       
を写してきたのですが、


  語ってきた感情は、それまでの 


        世間から隔絶された  「孤独」 
なんかではなく、 

       
 二人の心を結ぶ強い 「繋がり  だったのです。 


ラストに、二人の心の 「純粋」 さと、「深い繋がり」 を直感的に納得させるシーンを用意しておいたのだから、    


      祐一は 生来からの 「悪人」 で、
     
              「不気味サイコ野郎」 だったのか? 

      それとも 偶発的な殺人を犯してしまった 

              「不器用純粋男」   
だったのか? 



      という、精神的迷宮 解答を

            映像だけで表現することができたのに..........。
                        



   素晴らしい作品であっただけに




            大いに  残念ってしまったのです。 





今作は 


【 老練演出手腕 】  フレッシュ演出手法 】 



     この2つの、相反するテイスト共存する 

                  味わい深い逸品となっていました。 



しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。 



  この感情はラストにおける 


     「配慮不足」 という象徴的事象
                    
                    
集結 されているようでした。 



  残念に感じる場面はありましたが、 


     李監督の大きな成長 実感し、 
 
            彼のさらなる飛躍を 予感


              
させる作品となっていたのです。 









悪人2





       悪人3







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完成! 「ディア・ドクター
2011-06-05 Sun 16:16

         ディア・ドクター





失踪した 医者・鶴瓶を巡って、


     【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして


            【 間接的人物像 】  を。

 
  

     【 少時制 】 では、医療に従事する姿を直接目撃することで 

                                
            【 主観的人物像 】  を。




それぞれ、
つの時制 によって提示される、この つの人物像 
足掛かりにして、
今作に発生していく


            【 失踪
謎 】 と 【 診断謎 】 。


      この つの 「謎」 を 推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。


また、


「問題提起」 は、する。

           ↓

 
           
でも、「暗
 ままわらせない。

                          ↓

                           しかし、「問題解決」 は、しない




       というユルイ立
居地が、何故かしら心地良じた

                              

                そんな不思議な映画でした。





無医村に赴任していた医者が姿を消し、彼に医療を支えられていた村人達や、行方を捜索する刑事、そして、共にこの村の医療に携わっていた看護士と研修医が彼を探すところから物語は始まります。


姿を消すことになる医者を 笑福亭鶴瓶 が
 

        “人間味溢れる” 部分基調にして



姿を消すことになる

         “謎” 部分しながら

                           
  演じていきます。



ベテランの看護士は余貴美子。 アカデミー外国語映画賞を受賞した 「おくりびと」 で演じた役柄を思い出しました。

「おくりびと」 では、主人公の モックン と、葬儀社の社長 山崎務 の2世代間を繋いでいく役どころでしたが、今作においても、 鶴瓶 演じる姿を消す医者と、都会的な匂いを発散させながら登場する若き研修医との、



   
 2世代間
隙間めていくどころ

                       になるのか注意していきたいと思ったのです。



       で、研修医は赤いスポーツカーに乗って 瑛太 がやって来たのです。
 



この医療スタッフに、村人達。そして、行方を捜索する刑事達を織り交ぜながらストーリーは展開していきます。 映画が進んでいく中で鑑賞者は、


【 現在
時制 】  において、 失踪した 医者・鶴瓶 に対する、
                第3者からの証言を元に、医者・鶴瓶 という人間の

 

                【 間接的人物像 】 を形作り、



【 少
時制 】  では、 看護士、研修医と共に農村医療に
                 従事していく姿を直接目撃しながら、医者・鶴瓶 の



                【 主観的人物像 】 を創出していくのです。



そして、
 
【 2
つの時制 】 の行き来で生成した、この 【 2つの人物像 】 を手掛かりにして、今作に発生していく 【 2つの謎 】 を追いかけることになるのです。



まずは、第1の謎   ”なぜ 医者・鶴瓶 は失踪してしまったのか?”  

という 【 失踪謎 】 に取り掛かる訳ですが、 
 【 少
時制 】  において、興味深いシークエンスがあったので、言及してみたいと思います。


老人の臨終の席において、延命機器を装着しようと提案する 医者・鶴瓶 に対して、


         その措置家人辞退。


その後、明らかに、その老人の介護を押し付けられていたと思われる、地味で薄幸そうなお嫁さんの


         えたような複雑表情

                              を今作は捉えたきたのです。

これは、


       
「長寿」 
という美辞ウラ存在する 

       「老人介護」  という問題  


                                                           姿を見せた瞬間だったのです。 

しかし、この場面で


「問題提起」 は、する。

           ↓

 
          
 でも、「暗
 ままわらせない。

                           ↓

                            しかし、「問題解決」 は、しない


                     
                    という、今作を貫いている ユルイ立居地 
                    発見したのです。  



「老人介護」 という問題が提起された次の瞬間、臨終したと思われた老人の口から、喉に詰まったモノが出てきたことによって彼は蘇生をするのです。
コメディーのような展開に亞然としていたら、偶然による、しかし、神がかり的なこの成果に興奮した村人たちが 医者・鶴瓶 を讃えながらお祭り騒ぎをするという、これまたドタバタ喜劇のような展開を見せていったのです。


「老人介護」 という 「問題提起」 はする。 

               
                  ↓


   でも、コメディー的な “蘇生” と、その後の  “お祭り騒ぎ” 
   によって、このシーンを 「暗
」 いままにはわらせない。 


                                 ↓


           しかし、「老人介護」 という 「問題解決」 は、しない 。        




このような、ユルイ立ち位置で、 「陰」 に曇りがちそうな流れを、半ば強引に 「陽」 に転換してきたのです。 
この様子を興味深く見ていたら、この ユルイ立ち位置 が実は、開始早々から提示されていたことに気付いたのです。 



「医師 失踪」 という 「問題提起」 があった。



               
  ↓


     でも、医者・鶴瓶 の飄々としたキャラクターが語られたことで、
     緩やかな気分を創出。
     そのシーンを 「暗
 ままにはわらせない。

 
                           ↓

               しかし、 気分は 「陽」 に転換しながらも、
              「医師 失踪」という 「問題解決」 は、していない。



前述の 「老人介護問題」 の後の "お祭り騒ぎ” は、実に、こんな風合いのもと展開されていたのです。 その一方でストーリーは、鑑賞者に対して 医者・鶴瓶の



  【 間接的人物像 】 を 【 現在
時制 】  において形作り、

  【 主観的人物像 】 を 【 少時制 】 で描かせていきます。




医者・鶴瓶 という人間を、このように多重的に表現してきたからには、
良好に築き上げてきた、彼の人間像が


        一気えされる 予感