通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
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完成! 「009 RE : CYBORG」
2014-11-23 Sun 11:46
                  009.jpg




秀逸なアクションシーンに


         
「脳進化宗教」 のスパイスが加わったことで

                                 
ボクの期待は高まりました。


   しかし 「物語 能力不満を感じ始め、

   やがて 「物語」 そのものにも疑問を感じ、

   ついに 009資格がないむべき映画」 の烙印を押すことに...。


  ボクら


     
「第一期 009 TVアニメ世代」の モラル感

                              
を大事にしながら、


     「脳進化宗教」 の問題と今作のストーリーとの

                
「密なる連動」 を

                             
キッチリと示せれば、



 今作は、あまたあるヒーローアニメの中でも


               
稀有なる傑作

                            となるはずでした。









ボクの大好きなヒーロー 「サイボーグ
009」 が現代に蘇った!


キャラクターがだいぶ変更されて、2012年の封切り時にはその抵抗感で未鑑賞。 しかし


       
やっぱり気になっての通勤快速内鑑賞となったのです。


  
幼少の頃、再々放送(?) で憧れを持った世界をこの 「現代版 009」 はどのように変えていくのか?
  
そして、その変化をボクはどのように受け止めるのか?

                                 を見ていきたいと思ったのです。



驚くことに 009/ジョー は高校生でした。
「小生意気」 そうな高校生が登場。そいつが 009 だったのです。意外性に喜びながらも、


      
きな不安 を抱きました


爽やかで快活な 「あの 009」 が子供時代の憧れだったのに、
           
「この 009」 はスレた感じで、


  
                        全然違

                           
と感じたのです。


今作が終了する頃にはボクは 「この009」 にどんな評価を下すことになるのだろうか?

で、肝心の 003/フランソワーズ (唯一の女子) は、


       
大人の いい女」 でした。 


 
彼女に初恋を捧げた身としては、今作でのキャラクター付けが気になるところです。



どうやら 009 は、自らが 009 であるとの記憶を無くしているようで、その記憶を呼び覚ます為に 003/フランソワーズ が大活躍。


それがカッコイイ!
飛行機から身を投げ出し、高層ビル屋上にいる 009 に自分を救わさせる。
003/フランソワーズ の命に関わる危機に際して、自らの記憶を取り戻す 009。「加速装置」 を機能させて、落下していくフランソワーズを救出!


   
カッコいいな!    

   
誰がって?  

   
フランソワーズが、ですよ。


六本木の上空高くから身を投げ出す展開もですが、その滑空姿勢が凛としているのです。その行動とその態度で今作の 003/フランソワーズ のキャラクターを知ることができました。「第1次TVアニメ」 のような真面目で、出しゃばることがない性格とは違って、思い切ったことができる行動的なキャラクターのようです。しかもセクシーさを加えての登場なのでした。

あ、でも、「ダメダメ 」



      
シーンに遭遇してしまったのです。



移動飛行機の中、009 を覚醒させた 003/フランソワーズ と 005/ジェロニモ (ネイティブ・アメリカン) が座っている。



この二人の位置関係からして、


      
違和感ていたのです。



ゼロゼロナンバー・サイボーグの仲間同志のはずなのに、座っている場所が明らかに不自然な距離を置いているのです。
やがてフランソワーズが洗面室へ席を立ちます。そこには 009/ジョー がいたのですが、何と、フランソワーズが服を脱いでランジェリー姿に! 学生服を着たジョーに誘いをかけるのです!






         
驚愕しました。





子供の頃に憧れた ヒーローとヒロイン が再会した早々、コトに及ぶだなんて想像だにしていなかったので、この不意打ちに、ボクはただただ狼狽するしかなかったのです。



      
驚愕


      
狼狽



                  
その直後にやってきたのは、

      
憎悪

                
  でした。




幼少のみぎり、夏休みの午前中に再々(?)放送されていた 「サイボーグ009」 を心待ちにしていた身としては、この行為に



     
しかった

               
みにじられた心持ちになったのです。 




「献身的
なヒロイズム基調にした仲間達とのがり」 が気に入って、


        
道徳的側面はもとより

                   
人情機微に至るまで、


子供だったボクは様々なことを 「009」 から教わったと思うのです。

そんな気持ちがあるからこそ、子供のころの純真な思い出が、今作の制作者によって汚されてしまったと感じたのです。それ故、このシークエンスに遭遇した時、


      
 「驚愕」 し、「狼狽」 し、そして、

                 
制作者を 「嫌悪」 したのです。



大人の女となった 003/フランソワーズ が高校生の 009 を誘惑するこのシークエンスがそれでも、今作に必要であるのなら、それでも良いとは思います。
しかし、よりによって開始早々28分の時間帯にこんなシークエンスを当ててきた意義を、冷静になって見極めようと思うのです。


   何故なら、ボクは今作によって、もう少し

          子供時代余韻って いたかったからなのです。




物語は進み、「あの時」 とは立場が変化していることを知りました。イギリス人の 007/グレイト、そして ドイツ人の004 /アルベルト はそれぞれの国の軍事諜報機関に勤務。国家というシガラミを背負っていたのでした。

その最たる存在が 002/ジェット でした。彼はアメリカ人で、「国家安全保障局」 という機関に所属。 001/イワン (赤ちゃん) は 「それ故、彼が僕達と合流することは二度と無いと思うよ。」 と分析。

そして、001/イワン は続けて言う。「 002 がここにいないのは君 (009) との確執が原因ではないんだ」 。

なるほど、そういうドラマを今作は描いていくことになるのか。



      ゼロゼロナンバー・サイボーグ同志確執 ......。 
 



ボクはオリジナルアニメの魅力点を 「献身的なヒロイズムを基調にした仲間達との繋がり」 と表現しましたが、
 「28分の 003/フランソワーズ との関係」 と言い、今回の 「002/ジェット との確執」 と言い.......。

ことごとく小学校低学年の頃のボクの気持ちを



          
逆撫していきます。



 28分の事」 も、今回の 「確執の件」 も現状では否定をすることはありません。でも、それらの意義を見いだせなかった時は、こちらにも覚悟がありますからね。

と、この局面でボクはムキになっていたのですが、気が付くと今まで物語を全く語っておりませんでした。少々お話し致しましょう。


  「彼の声」 というものにマインドコントロールされた者達が、
  超高層ビルを自爆する事件が続発。
  これをサイボーグ達は追うことになります。
  やがて、今作は、形而上学的な事象を盛り込んでくるのです。
  007/グレイト (イギリス人)
や 008/ピュンマ (アフリカ人) が
  その不思議な体験を通して姿を消すことになります。 
  (結局、この形而上学的な事象については、
   ボクは全く理解・評価をすることができなかったので、
   言及は致しません。)

  その後、物語はアメリカの 「国家安全保障局」 に所属し、
  サイボーグ達とは一線を画している 002/ジェット
  に視点が移っていきます。
  002 はアメリカ空軍のパイロットが 「彼の声」 に
  操られている現場に急行。
  そして、領空侵犯で警戒に来たその国の戦闘機との
  バトルシーンが始まり、モヤモヤしていたボクの気分を
  スカッとしてくれたのです。


  やっぱり 「サイボーグ009」 は

           
アクションシーンがなければ始まらないや!

                                   
って大喜び。


ましてや、1968年制作のモノクロ画面と2012年の高画質カラー映像は比べようもなかったのです。
しばしの高揚感の後、しかしながら一抹の不安を感じたのです。


  
002/ジェットとバトルしたのは 

      「領空侵犯をした 002 の対応に来たその国の戦闘機」 

                                  でいいんだよね?  と。



正直に言うと最初はよくわかりませんでした。巻き戻して、やっと理解することができたのです。


       
高揚感不安


それは、今作の制作者の


      
「物語能力」

                     
だったのです。


アクションシーンは素晴らしい。しかし状況説明には不手際を感じる。これならば 「形而上学的な謎」 という要素を盛り込まずに、状況を即座に把握できるような



     
単純アクションアニメ

                     
とすればよかったのに。



と思えてしまったのです。「彼の声」 という要素をキッカケとした宗教的な側面は今後、どのような展開をみせていくのか、



      
いに不安になった瞬間

                     
だったのです。




優れたアクションアニメとして評価すべきシークエンスが続けさまにやってきました。
スピード感溢れる 002/ジェット の空中戦の直後に、2012年現在における 009 特有の映像表現を見たのです。

009の特殊能力は 「加速装置」。

体と脳がフル回転をして、世の中がスローモーションのように見える。そのスローモーションとなった世界を


    
超絶的スピード

               
彼は行動することができるのです。



009
は、「彼の声」 が支配しているアメリカ戦闘機から発射されたミサイルの上に、001/イワン (赤ちゃん) の特殊能力 「テレポーテーション」 で瞬間移動してきました。
「加速装置」 を駆使してミサイルを爆発する 009。それも飛行するミサイルとミサイルの間を飛び移りながらの破壊活動。1968年制作のモノクロアニメでは有り様もないカッコ良だったのです。
アクションシーンは素晴らしいのです。このクォリティのまま今作は推移してくれれば良かったのですが、今度は



      
「物語 能力

                      
ではなく、


もっと根源的な問題。

 


      
「物語そのもの

                    
に問題が生じていったのです。




空中戦での 009 と 002/ジェット の再会となり、そこで二人の軋轢の正体が明かされるのですが、

       
それが、
               
幼稚。


002/ジェット による 009 への 嫉妬」 だと知り、

       
そのっぺらさ

                
れてしまったのです。


そして、
次なる 「物語そのもの」 の問題点はこんな程度ではなく、


       
「サイボーグ009」の

             
存在自体らがせる重大事、

                               
に発展していくのです。



あろうことか、その戦闘機から核ミサイルが発射され、何と、ドバイの街が消滅!してしまうのです。

かつて、あまたあるヒーローアニメで、


     
このような 「核惨劇」 を阻止できず、
     
しい犠牲者を出したものがあったであろうか!



「核の惨劇」 を阻止することができずに、「夥しい死」 がもたらされるその瞬間。我らの 009 が取った行動は、核の爆風と灼熱から


     
ただ一人

            
ることだったのです!



凄まじいスピードで迫り来る核爆発から、「加速装置」 を機能させて、脳と体をフル回転。すんでのところで逃れていくのです。

こんな無様なストーリーを語るヒーローアニメが、かつてあったか?! 

嫉妬を原因とした低レベルな 002/ジェット と 009 の小競り合いの間に


    
核ミサイルの発射を許し、
    
誰も救うこともできず、
    
自分一人で逃げ出す!


「献身的なヒロイズムを基調にした仲間達との繋がり」
 が大好きで、道徳的な側面はもとより人情の機微に至るまで、幼少期だったボクは様々なことを 「009」 から教わったのですよ。

それなのに、こんな無様な物語を描くとは!



  
009 と 003/フランソワーズ の コトに及ぶ開始28分を筆頭に、
  
009 と 002/ジェット の 小競り合いの末の大量虐殺。
  
そして 「加速装置」 を 駆使しての敗走。


         
ことごとく子供時代のボクを裏切っていったのです。




この時点でボクは今作を以下のように結論づけたのです。


   
今作は 「物語を語る」 能力 が無い どころではない。
   
そもそも  009 を語る 資格 が無い 忌むべき映画なのだ、と。


もう鑑賞するのを辞めようと思いましたが、それでもそんなボクを引き留めて鑑賞を続けさせる側面があったのです。
それがアクションシーン。

1968年制作のモノクロ映像とは比べものにならない2012年制作の高画質カラー映像に、ボクは魅力を感じてしまっていたのです。

今作はモラル的には受け入れようのない物語を語りますが、「空中戦」 や「 核爆発からの逃避」 などはそのスピード表現は素晴らしく、ボク自身が超人的な能力を体得した感覚に浸ったのです。

今作が単純なアクションアニメであれば、さぞかし素晴らしい映画となったことでしょう。


     
子供時代
のボクが憧れた009の世界
                        
  をそのままに、


     
2012年の映像トレンドが融合された
                        
  アクションもの
 

             
であったらと返す返す思うのです。



しかし、今作はアクションアニメの道をどんどん逸脱し、


     
安易ディスカッションもの

                      
堕落していきます。


唐突に、9分間にわたって 「彼の声」 についての考察が堰を切ったように始まっていったのです。
先の形而上学的な経験をして姿を消していった 008/ピュンマ (アフリカ人) の研究ノートを元に、004/アルベルト (ドイツ人) が代弁していくのです。


       この態度からして無責任。

                
当事者 008/ピュンマ による説明ではないのです。


「物語を語る」段にきて 008/ビュンマ の研究ノートをもとに 「ピュンマはこのように考えていたようだ」 という伝聞レベルの、


       
責任らない会話のカタチで

                        
しく進行していくのです。


しかも、その内容をわかり易くビジュアル化することなく、会話だけが進んでしまのです。今作を推進してきた 「彼の声」 の謎解きなのに、


        
このわかりづらさ

                  
致命的でした。


きっと、巻き戻しが不可能な映画館での鑑賞だったら、ボクの理解力ではチンプンカンプンだったはずです。そして、きっと、この場面で今作からの脱落を宣言していった人が多かったことでしょう。
しかし、語っている内容は興味深いものではあったのです。

アフリカで 「天使の化石」 を発掘したピュンマの考古学チーム。この異形の化石の発掘を発端にスタッフ達に変化が発生。そこから現在の状況を推察しているのです。

"発掘スタッフは 「天使とおぼしき化石」 を見たことによって何らかの宗教体験をし、その結果、「彼の声」 を聞いたと言い始めた。”
 
 008/ピュンマ が記録している。 そして、
004/アルベルト が説明を続ける。

太古の)類人猿達は狩りによる獲物の捕食によって



       
「死」 概念る。



(類人猿達がモノリスに導かれて武器を獲得し、食物連鎖のトップに立ったくだりは
 名作 「2001年宇宙の旅」 にありました。)


捕食によってもたらされた 「死」 の概念はやがて
 

        
らの 「死」 にする恐怖

                           
となった。


逃れられない力から解放されるために、人は


       
偶然 「神」 を発明した。

                  
と続ける。


                  
趣旨は興味深い。


しかし、語り口は相変わらずイメージが膨らまない、単純な会話が続いているだけなのです。ボクは巻き戻しながらその趣旨を追うことができましたが、映画館だったらまず無理であったことでしょう。

004/アルベルト は続ける。

死の恐怖から 「神」 を作り上げていったように、「天使の化石」 を目撃した者達は心の中に 「彼の声」 なる幻想を抱いていったのではないか。と、

       ここに来て

           論旨不明瞭になってきた。


脳進化論と宗教学についての論旨が突然、「天使の化石」 と 「彼の声」 という、今作特有


       
普遍的ではない問題に

                
強引にこじつけられたことに


            
違和感を持ったのです。


そして、


    
死の恐怖 から逃れる為 → 神を作り上げた  という 図式と

    
天使の化石 を目撃 何らかの宗教体験をして → 彼の声 という幻想を抱いた

                                           
という 図式が


       
同義だとは到底えなく、その論旨に


                 
いに疑問じたのです。



でも、そんな不満を検証する余裕もなく、今作はせっかちに先を急ぎます。
整理がつかない内にディスカッションドラマは勝手に進んでしまうのです。
そして論旨は、
人類にだけ偶然備わっていて他の動物にはない



      
「思考する脳」 こそが

             
「神」 そのものではないか?



という次なる展開を迎えていたのです.....。興味深いが、分かりづらい。


   
「脳」 とは自らの存在を人間に意識させることで、
   
生存に有利な環境を作り上げることに成功した。
   
便宜上 「神」 と呼ばれる何かなのではないか。

                          
との考察に至るのです。



      
「脳進化宗教関係」 は興味を惹きます。


でも、興味を惹かれるのは飽くまでも

      
「脳進化宗教関係性」
                          
であって、


その論旨が今作の映画的キーワード


       
「天使の化石」

       
「彼の声」

       
「自爆テロ」


に果たして結びついていくのか疑問に思ったのです。

           そして、相変わらず分かりづらい。



中途ハンパな理論を拙速に注入してきた今作は、明瞭な解に至らぬまま、まるで自らが招いた論理的矛盾を誤魔化すがごとく、お得意なアクションシーンに突入していきます。
ドバイの核爆発をゼロゼロナンバー・サイボーグ達の仕業にしたいアメリカ政府の攻撃を受けるのです。
アメリカ政府の攻撃をやり過ごしたのも束の間、今度はアメリカの原子力潜水艦から 「彼の声」 に従って、「人類をやり直す 」為に核攻撃を行なうと宣言。

原潜の核攻撃阻止に向けてここで初めて 
009 達はユニフォーム」に着替えます。


     
赤ーいマーフラー、なびーかーせてー

                              
と幼少の時、

      
TVに向かって歌っていた感覚を思い出しました。


それにしても開始
1時間34分にしてやっとお馴染みのコスチュームですから、余りにも遅すぎる。
焦らすにもほどがあります。
一体全体、鑑賞者を何だと思っているのだろう?



ふと、気が付くと、今作に対するボクの気持ちを端的に表す言葉に行き着いていたのです。


       
「鑑賞者を だと思っているのか?」

                           
から派生して、

       
「鑑賞者を だと思っているのだろうか?」

                           
という今作の存在目的
                           
についての疑問でした。



       
開始28分の 003/フランソワーズ と 009 の粗相  から始まって。
       
002/ジェット と 009 との確執。
       
ドバイの核阻止失敗とその後の敗走。
       そして、今回の 1時間43分での初コスチューム姿....



        
  完全にボクは今作のマーケティング上客 ではないようです。




    
胸踊アクションシーン
 
            
「脳進化宗教」 の

                    
深遠世界観コラボ


        は



   当時
興奮

          それなりに人生経験んだ

                
ボクら 「第一期009TVアニメ世代」 




        
こそをメインターゲットとするべきなのに….




そんな恨みごとを言いつつ、ストーリーに戻ります。


  原潜からの核ミサイル攻撃に対抗するために 
00ナンバーサイボーグ達 は
  アメリカのイージス艦
核を発射した原潜とは違う船です)  を乗っ取って
  発射された核ミサイルに対する迎撃ミサイルを発射!


  面白い展開だが、やはり分かりづらい。

  1
発だけ迎撃に失敗。009 が直接破壊の為のテレポーテーションを志願。
  しかし、そこは宇宙空間。
001/イワン(赤ちゃん) のテレポーテーションも
  能力的に今回が最後とのこと。

  この状況は 
009 の 「死」 を意味していたのです。
  当然のように 009 と 003/フランソワーズ とのお別れのラブシーン
  となるのですが、


      
開始早々28分に事に及んだ 

              
反感がボクのくわだかまっていたので、

      
らにするシンパシー を感じることはできませんでした。 



              残念です。




宇宙空間で孤軍奮闘する 
009 を助けに来たのは、飛行能力を備えた 002/ジェット でした。
しかし、宇宙空間への飛行は彼の能力を超えたもので、彼も 「死」 を覚悟してやって来たのです。



     
多少、心は動きました。



しかし、冷静になって考えると、
009  002/ジェット の和解の理由も理解できないままのこの展開は、何とも唐突でご都合主義的に思えてしまったのです。
彼らの小競り合いの内にドバイが消滅し、「夥しい死」 をもたらしてしまっているわけです。この惨事の元凶である


  「002/ジェット による 009 への嫉妬」 が

         
払拭された確固たる理由 がなければ、

                     
素直感動できないのです



「自分の命を投げうって核攻撃を阻止しようとする 009 に心が動かされた」。 

というところなのでしょうが、ボクが主張したいのは、その背景に「夥しい死」があるということなのです。
この二人は、否、今作の制作者は核攻撃を許し、大量の犠牲者を出したという



        
「事重大 に

                 
いていない のです。



二人の小競り合いのせいで発生した 「事の重大さ」 を、帳消しにできるだけの理由がボクにはどうしても必要なのです。

道徳的な側面はもとより人情の機微に至るまで、幼少だったボクは様々なことを 「009」 から教わったのですよ。
それなのにヒーローアニメの道を踏み外す大罪をやらかしておきながら、オトシマエの一つもつけずにスルーしていくなんて、到底、許されるべきではないと思うのです。



     
開始28分の 003/フランソワーズ と 009 の粗相  から始まって。

     
002/ジェット と 009 との確執。

     
ドバイの核阻止失敗と夥しい死。

     
その後のブザマな敗走。



ことごとく、人の気持ちを逆なでする要素を入れ込んで、ボクのいたいけな子供時代を蹂躙していったのですから、
 


           しっかりと責任ってしい!

                                 
のです。








002/
ジェット と 009 の犠牲によって今回の 「核攻撃」 は阻止する事ができました。
この展開には思うことがありましたが、それでも映画的なカタルシス享受することはできたのです。


  
しかし、その後の


          
「夢」  なのか?! 

          
「精神世界」  なのか?!

          
「幻想」  だったのか?!



とも思える、「虚構世界」 に今作が逃避してしまったことには、抑えきれない怒りを感じたのです。
こんなエンディングになるのなら、



   
今まで仕組んで来たストーリーの意味なんて無かったんじゃないかよお!!

                    
と子供のように地団太を踏んで怒ってしまいました。



「脳進化と宗教」のくだりで 「
2001年宇宙の旅」 を思いだしましたが、
今作は垂れ流した様々な関係性の責任を取り切れず、「2001年宇宙の旅」 のような超越的な展開に逃げて行ってしまったのです。

 しかし当然ながら、「2001年宇宙の旅」 の有無も言わせない圧倒的な映像美も、論理的・哲学的コンセプトに貫かれた悠久のストーリーも提示することができるはずもなかった今作が 「2001年」 を夢みたところで、


        
幼稚な ちゃぶ台返   
                          
くらいにしかならず。


所詮、「
2001年宇宙の旅」 を引き合いに出すこと自体が身の程知らずのお笑いぐさだったのです。

今作に対して様々な愚行を根気よく諌めてきましたが、数々の思わせぶりを垂れ流した末の、



        
「夢オチ にげた今回暴挙



には、今まで誠実に鑑賞してきた者への裏切り行為として



         
我慢のならない

                       
に陥ったのです。



最後までダメダメ感に覆われてしまった今作ではありますが、
レビューの最後に、少しでも前向きな感情を持てるよう、修正点を提言して終わろうかと思います。



今作の見どころは、
2012年現在の 「映像テクノロジー」 を駆使したアクションシーン。
こんなにもカッコイイ映像を作ることができるのですから、



        
現代的スピード&スマート  009

                        
を創り上げて欲しかったのです。



そうすれば嬉しくなっちゃって、些細な不備など、どこ吹く風で気にも留めなかったことでしょう。



そして最後にこれだけは言わせて欲しい。


  客層マジョリティ であると信じる僕ら

     
「第一期 009 TVアニメ世代」 モラル

                            
を大事にしながら、




「脳進化宗教深遠問題」 を絡ませつつ、その問題と今作のストーリー展開との


        
「密なる連動」 

                
キッチリすべき。

                        

                     
と強く思うのです。




そうすれば、今作の制作陣に元々備わっている、


    スタイリッシュアクションアニメに、

                      
奥深「脳進化宗教」



という知的好奇心をくすぐる要素を融合させて、



    
かつて、あまたあるヒーローアニメの中で」


                    
稀有傑作
          
     

                          
となるはずでした。


     と主張して、今回のレビューを終えることにします。










秀逸なアクションシーンに


         
「脳進化宗教」 のスパイスが加わったことで

                                 
ボクの期待は高まりました。

   しかし 「物語 能力不満を感じ始め、

   やがて 「物語」 そのものにも疑問を感じ、

   ついに 009資格がないむべき映画」 の烙印を押すことに...。


  ボクら


     
「第一期 009 TVアニメ世代」の モラル感

                              
を大事にしながら、


     「脳進化宗教」 の問題と今作のストーリーとの

                
「密なる連動」 を

                             
キッチリと示せれば、



 今作は、あまたあるヒーローアニメの中でも


               
稀有なる傑作

                            となるはずでした。




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完成! 「アルゴ」
2014-05-30 Fri 13:12







 発想
スバラシイ


      映画制作にした 実話人質奪還計画



 しかも、そこにハリウッド面々が関わって来たところから

                 加速度的に 面白なって来ました。



しかし

   「人
らず して、何故か、「人った つもりでいる

                 今作の姿勢には  大いに疑問 
に思ったのです。




そんな落胆を期に、 ボクは

     人質奪還=「現実」 と、 映画制作=「虚構」 の要素を絡ませて、


 自らの極・私的嗜好である 

      「 現実虚構融合 」  
                          を 夢見



       “
妄想”
 の世界って しまったのです。  
 





冒頭、「イラン近代史」 がアニメ調に提示され、イラン革命を期にアメリカ大使館がいかに 「襲われるに相応しい場所」 であったのかが、分かりやすく説明されていたのです。


石油利権欲しさの内政干渉

         ↓
パーレビー国王という傀儡政府で大儲け。 イラン国民は極貧生活。
         ↓   
イラン革命が勃発
      
傀儡の国王パーレビーは命からがらアメリカに亡命。
      ↓   
イラン国民はパーレビーの返還を求めてアメリカ大使館に殺到。

 

     当時実際映像かしながら 緊迫した状況 

                           を表してきました。

 


イラン国民の怒りは臨界点に達し、柵を乗り超えてアメリカ大使館に乱入。 その混乱の中、6人の大使館員達が難を逃れ、カナダ大使私邸に潜伏。

                            という設定となっています。

 

今作の主人公は、この潜伏者6人をイラン国民に気付かれずにアメリカへ連れ戻すことが任務となります。
元々、興味深いストーリーなのですが、このミッションに


              ハリウッド人々関与めた あたりから

                                                                    急速面白なってきました。

 

救出チームはカナダの映画ロケハン隊としてイランに乗り込み、逃走している6人を吸収してイランから脱出するという筋立てのようてす。

( こんな危険な情勢にも関わらず、イランに入国するのは金と名誉欲にかられた映画制作者くらいなもの。 なのでしょう。 [笑] )

 

脱出計画を遂行する上で、主人公が相談した映画関係者のセリフ 。  


                
「映画制作証拠デッチ上る

 
                                                                                 の一言で


                  
この映画か本格的に動き出したことを実感しました。
 


正真正銘の映画ロケハン隊がイランを訪れたことにしなければならないのです。 その為に老プロデューサーに 「偽」 映画制作を依頼することになります。


この人物が面白い。

      「俺がやれば、“偽” でも ヒットだ」 


                   と豪語し、まるで本物の映画制作のように
                   脚本を物色し始めるのです。そこで見つけたのが

  
           「アルゴ」  という題名のシナリオ。
 

 
まさしく、時代背景の1979年にふさわしくSF冒険モノなのです。

「スターウォーズ」 の洗礼から2年。そういえば当時、安っぽい2匹目のドジョウを狙った作品が乱立していましたっけ。

 

「アルゴ」 は舞台背景が 中東によく似た設定であったために 「偽」 映画として候補に上がったのです。 そして、イラン側をしっかりと欺くために映画制作の事実を作っておく必要がある。 そこで


             老ブロデューサー御仁大活躍


             シナリオ使用権をハッタリかましながら手中にしていくのです。
 
 

シナリオを獲得し映画ポスターも制作。 しかしこれでは、警戒を強めた イラン当局を誤魔化すことはできない。 本当の映画制作クルーがイランに入国したと思わせなければならないのだ。

誰かが言った。

              「世間すならマスコミ利用しよう  と。

 
                                     
これによって盛大な制作記者会見を実施。


キャストが衣装を着て本読み、ちょっとしたお祭り騒ぎになってくれました。

 

しばしの高揚感の後、いよいよ主人公は6人の潜伏者を救いにイランに入国していくのですが、気がつくとボクは今の時点まで、主人公に全く興味を持つことかできなかったのです。

主人公は 「人質奪還のプロで妻子とは別居」。 これぐらいしか覚えてないのです。不思議なことでした。

 ボクの気持ちは主人公のことよりも、大使館占拠の社会的背景や、老プロデューサーのキャラクターの方に興味が向かっていたのてす。

それだけ主人公の実在感を感じとることができなかったのです。



そんな彼が 「単身」 イランに入っていきます。

           これも意外でした。


てっきり 「チーム」 でイランに入国し、その数に紛れて6人の潜伏者も脱出するものと誤解していたのです。

 どうやら今作は、1人で」 イランに入国し、「7人で」 出国してくるという、奇想天外なことをしでかすようなのです。想像以上に荒唐無稽なプランに対して、どんな頭脳プレイを見せてくれるのか

 

         今作に対しての期待が 「いきなり」

                                                 らんで いきました。

 

イランの潜伏先で落ち会う7人。しかし、映画ロケハンを騙った主人公の脱出プランに不安をぶつける逃亡者達がいたのです。 このように主人公と逃亡者達の対立軸を提示してきた今作は、本格的にドラマが動き出したようなのです。

しかし、シナリオでは 「ドラマは動き出した」 のでしょうが、ボクの気持ちの中は違和感でいっぱいになっていたのです。


           
ドラマがどうしても わない  のです。


主人公と潜伏者達6人の対立がどうしてもリアルなものと受け留めることができないでいたのです。


               
何故か? 



主人公と逃亡者達6人が同じ時代に生きる人間には思えなかった。ことが要因だと感じました。 潜伏者達6人を始めとする登場人物はことごとく1970年代の髪型やファッションに包み、2013年の現在から見ると、時代錯誤の 「カッコ悪さ」 を醸し出しているのに対し、

                  主人公例外 だったのです。



主人公の彼が初登場した時にイヤな予感はしていたのです。

6人にはトンボ眼鏡や大袈裟なひげを生やかせて、70年代をちょっと苦笑気味に演出。 しかし、イケメンであるところの彼はヒゲこそ生やかしてはいるが、あくまでも二枚目。 現代に生きる人のようにスマートなのです。

( それもそのはず。 今作の主役である ベン・アフレック その人が今作の映画監
  督。 どうやら彼は今作に対して、客観的なバランスを維持することができなか
  ったようです。)

70年代を厚盛りにされされている 6人と二枚目の主人公が同じ空間にいるだけで違和感を感じ、前述の、主人公に対して興味を感じ取れない苛立ちも加わって

主人公と潜伏者の葛藤を 「リアル」 なものと認識することができない、そんな


            「致命的乖離」


                            
ボクの気持ちの中に生じていったのです。

 


引き続き、ネガティブな発言が続きます。


ボクは先ほど、今作に対して

「 1人でイランに入国し、7人で脱出してくてくるという、奇想天外なことをしでかして
  くれるようで、想像以上に荒唐無稽なプランに対して、どんな頭脳プレイを見せて
  くれるのか期待が膨らみます。」

と、発言をしたのですが、残念ながら 「頭脳プレイ」 などというものは今作には


           微塵にも ありませんでした。



驚くことに、偽装パスポート7人分と帰国の飛行機予約だけの無策な状態でイランに 「単身」 乗り込んで来たようなのです。


その無策ぶりが炸裂したのが、帰国便に搭乗するべくやって来た空港。


イランからの出国審査で、2日前の入国カードが (当然ながら主人公の) 1人分しかなく、潜伏者6人分は存在するはずもないのに、
文化イスラム指導省発行の 「ロケハン許可証」 を振りかざして何とか強行突破しようする、そんな

           場当たり行動 にでるありさま、

                                                               なのです。


そして、2日前の入国カードが1人分だけで、潜伏者6人の入国証明がなされていないにもかかわらず、
文化イスラム指導省発行の 「ロケハン許可証」 を見せられただけで、何の疑念を持たないまま出国を認めてしまうイラン出国審査官の


             間抜けさ、には
                    れかえってしまいました。

 

しかし、ストーリーはお約束通りに、革命防衛隊という、武装エリート集団に別室に隔離されてしまうのです。

やっと、ハリウッドの面々の施策が彼ら7人の窮地を救うことになる予感に、再び期待感を持ったのです。

( この期待は是非とも叶えてもらいたいものです。 )

 

早速、7人は偽記者会見の成果である、「アルゴ」 の雑誌掲載記事を革命防衛隊に見せて対抗をします。 それでも引かない革命防衛隊は、とうとうハリウッドに設置した映画制作事務所に実在確認の電話を入れる事になります。

きっと、事務所に控えているあの老プロデューサーがはったりか何かをかませて、革命防衛隊を打ち負かせてくれるはず。 との期待がにわかに増大していったのです。


カラ回り気味の今作にやっと

                映画的カタルシス がやって

                                                    と期待したのもつかの間、

 

        その見せ場を軽くスルーしていったのです。


せっかく前半で、老プロデューサーという興味深いキャラクタを育ててきたというのに、「通り一辺倒」 のヤリトリに終始してしまい、映画的カタルシス などというものは存在しなかったのです。

 

結局、時間スレスレに飛行機に乗り込めることは分かっているのですから、いかに観客をハラハラさせるか、もしくは、スカッとさせるかが制作陣の腕の見せ所なのに...


(見せ場をつくることなく) まんまと革命防衛隊の疑いの目を掻い潜って飛行機に搭乗する7人。


         
何の感情も持てないまま


今作が終わろうとしていることに焦りを感じていたら、こだわりのシーンに続いてくれたのです。

 

案外、革命防衛は骨のある奴らでした。映画ロケハン隊が潜伏者であることが判明してからの彼らの働きは大いに今作を盛り上げてくれました。

自動車で滑走路をカッ飛ばして、旅客機離陸阻止を企てるのです。
突如として一級のアクション映画となっていきました。


しかしなから、革命防衛隊の猛追も、飛行機はすんでのところで飛び立っていき、主人公はまんまと6人の潜伏者の救出に成功。 メデタシ、メデタシだったのです。

やがて、今作は 「アメリカン・グラフィティ」 のエンディングロールさながらに、登場人物それぞれのイラン帰還後のブロフィールテロップを映し出しながら終結していったのです。

 




今作は終わっていきました。




しかし、ボクはこの一連の流れを見て

                   失笑得なかった のです。

 


何故なら、


今まで一切              「人らずして  
何故かエンディングロールでは  「人ったつもり になっている



       製作者態度可笑しくて 
                      
たまらなくなってしまったのです。




主人公からして 「人を語れず」 に、不毛な気持ちを鑑賞者に与えておきながらの
突然の 「アメ・グラ」 エンディングなのですから、 これは


           
悲惨喜劇 くらいにしか思えなかったのです。



             残念です。


 

 




さて、ここからは一転、映画の悪口を一切言わずに、映画の良いところだけを探していきます。そして、その魅力点を発展させるべく、自分自身が今作の監督にでもなったかのように



            妄想げていきたい と思うのです。


 



今作を鑑賞して最も興味を惹かれたのは、「偽」 映画制作に携わったハリウッドの面々でした。 特に老齢なプロデューサーはその存在感から大きな印象を持ちました。

 

          このキャラクターかしたい。  
                      
     

                        と強く思いました。

 

「アルゴ」 の台本を買い叩いた際に、相手から 「過去の人」 呼ばわりされていたことを思い出しました。 輝しき過去を持ちながら、今は時代に忘れられつつある存在となった彼にとって、 この 「偽」 映画制作こそが



       
らの 「存在意義」 を再発見する


                       重要キッカケ



                                            にしたいな。 と強く思ったのです。

 

老プロデューサーにしてみれば  「アルゴ」  は舞台が中東に似た場所という理由で 「偽」 映画に採用しただけの台本でした。 しかし、記者会見などを仕込む内に愛着が湧き、台本の改訂に着手。 本気で 「傑作」 をモノにする気運になって欲しいと思ったのです。

「傑作」 は、しかしながら 「偽」 の映画である為、クランクインすることはありませんでしたが、主人公達がイランから脱出するまでの間、本物の映画制作と見まごうくらいに没頭する姿を写し出したいのです。

 

そんな 「偽」 映画制作に注力している老プロデューサーの今作におけるクライマックスは、イランの空港で主人公達7人が革命防衛隊に足留めを食らっている時にやって来るのです。

そう、革命防衛隊からの映画制作事務所の実在確認電話を受ける時です。

きっと老プロデューサーのことですから、



   「俺たちは今、世界がひれ伏す “傑作” をモノにしている最中だ!」  



啖呵を切りながらイラン革命防衛隊の疑いをヤリ込めてくれるはずなのです。ここで観客たちは


                 溜飲げることになるのです。



映画制作は叶えられませんでしたが、革命防衛隊の疑念を振り払う決定的な役回りを演じたことで、輝いていた日の感情を再発見、心機一転、映画制作への情熱を呼び覚ますことで


               「再生される彼」 

                     であって欲しかったのです。

 




さて、キャラクター的に興味を持った老プロデューサーの修正はこれで納得。




次なる修正点は、

潜伏者を救出するために 「映画制作をカモフラージュ」 に使ったことをもっと訴求したいと思いました。

 

ボクの極私的嗜好の映画テーマは

              「現実虚構融合 。 




映画制作という 「虚構」 が関わってくるのですから、この流れに 


                    強引んでいきたい と思います。

 



「現実虚構融合 を表現するために活用したいと思ったことが2つありました。


  1つ目は冒頭のイラン革命を説明する 「イラスト」 。 

                    今作の時代背景をわかりやすく説明していました。



  2つ目が 「偽」 映画 のプレゼンツールとして活用されていた 「絵コンテ」 。




  今から思うと、イラン革命を説明する 「イラスト」 は

                        映画の 「絵コンテ」 を模していたのです。




 
    事実説明として活用されていた  「イラスト」 。
      
    虚構映画世界説明するの 「絵コンテ」 。


 


    この2つを 「現実虚構融合 を図るために活用したい。 
                                                                                と思ったのです。

 


要所に、イランから脱出していく 現実世界 を説明する

                                        「イラスト」 を配置し、


その現実世界に呼応するカタチで、 虚構映画 「アルゴ」 のストーリーを 

                                        「絵コンテ」 で提示していきたいのです。



 

    「現実」 に起こっていることと、 
    「虚構」 である 映画 「アルゴ」 の内容との 



             
   似通っている  「相似点」 と、

                 っている 「相違点」 




                                                
同じ 「画」 という表現で際立たせていく。



 

               そんなボク好みなアイディアが湧き出してきたのです。

 

 

今作は事実をベースに制作された映画ですので、これから発言していく妄想は完全にその枠をズレていきます。

それ故、これからのレビューは、今作を 「事実に構想を得て、妄想を繰り広げた映画」 に作り変えることを目的に、無責任に語っていきたいと思います。

 

 

「偽」 映画制作に使われた 「アルゴ」 は中東に似た星を舞台に、悪の大王をやっつけるストーリーとなっていました。


そこで、

     現実世界で主人公達7人が体験していく事実


     「偽」 映画シナリオ
、 シンクロ させてしまえば、





「画」 を使って様々な場面で

        「現実」 と 「虚構世界」 の

        「相似」 と 「相違」 を

                                                 表現することができる。


                       と思ったのです。

 

そこで、ボクは 「偽」 映画 「アルゴ」 のストーリーに、「スターウォーズ」 にある 「お姫様救出」 というファクターを加えていけば、

 

「現実虚構融合」 が近づく

と思ったのです。

 




悪の大王の城に侵入した「偽」 映画 「アルゴ」 の主人公は 「美しいお姫様」 に廻り合い、

一方の 現実世界 でイランに侵入した主人公は、潜伏生活に疲弊しこの救出プランに不満を顕にする 「ウザイ救出対象者」 がいる。

そんな 「相似」 と 「相違」 を盛り込みながら、


       現実世界では 「潜伏者6人の救出劇」 が進行し、

       「偽」 映画 「アルゴ」 では 「お姫様救出」 が虚構の世界で展開。





 「現実」 と 「虚構」 が絡み合って

      「現実虚構融合」 がなされることを


                      画策していきたい


                                 と思ったのです。

 




現実の救出劇はあくまでも地味で、なるべくイラン当局に怪しまれないように出国することが目的でした。 しかし、「偽」映画 「アルゴ」 の主人公はその地味な現実とは対称的に


       派手に豪腕を唸らせて悪の惑星からの脱出

                を演出したいと思います。

 

この 「現実」 と 「虚構」 の2つの脱出劇に、先の老プロデューサーにとどめの1発を炸裂させたいのです。

 

現実 (においての妄想) では、前述のように国際電話での言葉による攻撃によって革命防衛隊に一矢報い、主人公を助けるのですが、

映画 (においての妄想) では、思いっきり華々しいものにさせたい。

「エイリアン2」 のクライマックスで出てきた、リプリーが操作した作業用ロボットに乗って御大 (に酷似のキャラクター)が登場し、敵をやっつけるのも良いかもしれません。

 

ボクの妄想の中では、


             現実世界においては          「口撃」 で、

「偽」映画 「アルゴ」 では直接的  「攻撃」 で




革命防衛隊や悪玉という敵に 「虚構現実」 の両側面において同時に勝利するストーリーを夢見たのです。



今作の終結については

 

  現実の救出作戦の成功と同時に


  「偽」 映画 「アルゴ」 のエンディングが シンクロ して、


  しかも、今作 「アルゴ」 自体終結していく幕引きを


                         強く望むようになったのです。




これこそがボクが嗜好する


「現実虚構融合」


がなされた映画となる方法だと感じたのです。

 

 

今回は、オリジナルの映画の良さを十分に理解することがてきず、

いかにしてボクの好きな映画に改造していくかに注力したレビューとなりました。

確かに、こんなレビューは妄想だらけの邪道には違いないでしょう。

しかし、「たまにはいいかな。」 と独善的に思いつつ、レビューを終えることにします。






 
発想スバラシイ


      映画制作にした 実話人質奪還計画



 しかも、そこにハリウッド面々が関わって来たところから

                 加速度的に 面白なって来ました。



しかし

   「人
らず して、何故か、「人った つもりでいる

                 今作の姿勢には  大いに疑問 に思ったのです。




そんな落胆を期に、 ボクは

     人質奪還=「現実」 と、 映画制作=「虚構」 の要素を絡ませて、


 自らの極・私的嗜好である 

      「 現実虚構融合 」  
                          を 夢見



       “
妄想”
 の世界って しまったのです。  











アルゴ2 



                    アルゴ3
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完成! 「桐島、部活やめるってよ」
2014-01-08 Wed 22:07

桐島1 







ありきたりな日常でも


      
視点場所をずらしながら、 
そして、
     時制ねながら配置     していくことで、


                
その日常が重要性びてくる。




    そんな今までにない表現をまざまざと体験をしました。




そして、極・私的嗜好である 



         「現実虚構融合」


                          までもがなされていったことは



                    望外でした。







今作を鑑賞することで


新しい感性を呼び覚まし、そして、自分の嗜好をも満足した。


            極上映画体験  


                                           を味わうことができたのです。










導入部、いきなり今作は


                        興味深展開を見せ始めました。


 「金曜日」 と書かれたテロップから始まり、高校の放課後が映し出されてきたのですが、


            さしたる展開がないままに、 
                             「金曜日」 というテロップが表示されたのです。



あれ? さっきとは違う 「金曜日」 が始まるのかな ?
と観察していたところ、第2回目に提示されたこの 「金曜日」 は、どうやら、今まで見てきた 「金曜日」  と全く同じ日のようなのです。
そして、第1回目の時制の 「放課後」 よりもちょっと前の、「終業ホームルーム」 から始まっていたことがわかるのです。

この特徴的な構成によって、第1回目の 「金曜日」 で何とはなしに出てきた登場人物の役割を少々、理解することができたのです。
その中で主人公である神木隆之介くんが  「いけてない」 映画部員であることが印象に残りました。
( ボクは高校時代に自主映画を制作していたので、彼にシンパシーを感じていくこと
  になるのでしょう。 )




今回、第2回目の「金曜日」は4人の女子を追いかけていくのですが、興味深いことに、第1回目の 「金曜日」 で見た場面が


              視点から
                                       映し出されてきたのです。


第1回目の 「金曜日」 の時制に、第2回目の 「金曜日」 が追い付いたことになります。   
   
               「ちよっと」 面白な。  
                                                と思いました。


一つの出来事を違う視点から語り、そして、時制をズラすことで、物事を多面的に表現してきたこの手法には、大いに興味を惹かれました。

( ここで思い出すのは大島渚の怪作 「日本の夜と霧」 やハリウッド娯楽映画の
  傑作 「バックトゥザフューチャー2」。 
  いずれの作品も、一つの出来事を違う視点で再提示することで、その出来事を
  多面的に語ってきたのです。そして、この手法の最高峰は 「羅生門」 
  であることは疑いの余地はないでしょう。 )


手法は興味深いのだが、「ちょっと」 と表現にしているのは、映し出して来るものが


                ありきたりな放課後の情景 
                                                          であることに    

     
                      戸惑いをじたからなのです。


「日本の夜と霧」 のように、「破防法」 運動盛んなころの学生寮スパイ事件の真相解明や、「バックトゥザフューチャー2」 のように、パート1のクライマックスシーンが進行しているさ中、別の思惑か絡んでくる。など、今作には、そんな


                    劇的な要素が存在しないのです。



題名にある桐島クンはバレー部のスター選手で、その彼に何らかの異変が生じていることはわかります。
しかし、登場人物をありきたりな放課後で、何とはなしに登場させているため



映画は始まっているのに、ドラマがいていないことに 
  

             居心地のようなものを
                                                  感じ始めていました。





          
味は惹かれるのだけれど、掴みどころがないのです。





この映画の世界観に乗っていけるか不安になったところ、いきなり今作はドラマチックな予感を見せたのです。
桐島クンのガールフレンドに、彼の異変を告げようと友人が呼びかけた刹那、驚いたように振り向く彼女。
よし、ドラマが動き始めた。と思ったら矢継ぎ早に提示されたテロップが 

  「金曜日」 .........。       


   
              
 やられた。



                 第3回目の 「金曜日」 が始まっていったのです。




第3回目も、勿論、第1回目や第2回目と同じ日の 「金曜日」。
時制はほぼ第2回目と同じ 「終業ホームルーム」。
そして、語ってきた視点を前回と変えてきたのです。
劇的な事件が発生していないにもかかわらず、しつこく  「金曜日」 の放課後にこだわってきた演出陣のこの執着に対して、過去3回の  「金曜日」 を整理しておくべきと思いました。
 

   第1回目の 「金曜日」 は放課後、主人公の映画部を導入部にして主に桐島クン
  がいないバレー部を追いかけていました。 

   第2回目は桐島クンのガールフレンドを含む4人の女子を追いかけました。 

   そして、今回の第3回目の 「金曜日」 は同じクラスの吹奏楽部の女子と桐島クン
  の男友達をターゲットにしています。



第3回目の 「金曜日」 にきて初めて桐島クンが 「部活を辞めたらしい」  ことが伝聞レベルで提示されてきました。
映画が始まって  22分20秒も経過してから、やっと題名の状況
「桐島、部活やめるってよ」  に追い付いたのです。

この時間になるまで桐島クンの登場がないことと、これまでの一筋縄にいかない進行を考えると、



                きっと桐島クンは

                 この映画には実像として登場することがない。


                                                                        と確信しました。



そんな確信が生まれてから、今作特有の楽しみ方かわかってきたようでした。


3回に渡ってありきたりなパーツを
 
              視点と場所をずらしながら、そして、
                時制を重ねながら配置していくと、




不思議なことに、

              それぞれのたわいのない行いが
              重要なことのように思えてきたのです。




ありきたりな行為を

              視点をずらし、時制を重ねながら 
       複数回提示することによって、




そのありきたりな行為が

                印象深く、
                そして興味深く

                                    ボクの胸の中に入り込んで来たのです。




それによって、ありきたりな日常の中の

                ちょっとした視線や表情
                そして会話から、



        登場人物の気持ちを

                                 理解することができたのです。


これこそが、ありきたりな日常を複数回提示してくる映画を楽しむコツであると思えてきたのです。
劇的な展開が望めず、掴みどころがない映画だなと戸惑っていたところ、 

  
            ありきたりな日常重要性びてくる。  

   
                       そんな、今作特有しみを見つけたのです。



さて、次はどのような視点でこの日常的な 「放課後」 を輝かしてくれるのかな? と楽しみにしていたところ、
第4回目の 「金曜日」 は 「放課後」 ではなく 「朝礼」 から始まったのです。1日の始まりから観察することができた為、それまで推測の域を超えることがなかった些細な数々が有機的に繋がっていったのです。


            パズルの小さなピースが埋まって、

                                                      全体を掴めたようでした。



そして何よりも、今回の 「金曜日」 は画期的な展開をみせてきたのです。


            「放課後」 が

                                  わってしまった のです。



幾度となく 「放課後」 が始まっていたものですから、あっけなくその「放課後」 が終わってしまったことに、ある種の喪失感のようなものさえをも感じました。
そして、驚くことに


                 「金曜日」 も 
 
                                          わりをげていったのです。



              「繰 の映画手法が  


                                           終了したのです。





「月曜日」 となった今作は、桐島クンが 「いない」 ことによって生じた 「差異」 を提示してきました。映画は  「繰り返し」 の導入部を終えて、新たな局面を迎えていたのです
それは2回目の 「金曜日」 で主役となっていた桐島くんのガールフレンドを含む4人の女子の関係に表れていきました。
桐島くんの不在によって 「土曜日」  の試合に出場することができた男子部員への侮蔑をきっかけに、感情の 「軋轢」 が生じていったのです。ボクはこの展開に興味を持ちました。
「女子4人の軋轢」 は、仲良しだと思っていた彼女達の気持ちの中にも 「負の感情」 が存在し、それを仮面の中に隠し持っていたことを意味していました。
桐島くんが 「いない」 ことで生じた補欠選手の出場という 「差異」 が、女子4人の 「軋轢」 へと拡大し、人間の内面に迫まってきたのです。


そして面白いことに



     「いない」  ことで生じる変化、について、



鑑賞者はその者が  

   
        「いた」   事実を見ていないのです。



     「いた」   かどうか認識していない者が  
     「いない」  ことで生じる差異を



                                         考察することになるのです。




通常ならば、こんな不確かで地味な作業に気が重たくたるところですが、ありきたりな 「金曜日」 を何回も経験させられて、忍耐強くなった身としては、朝飯前のことでした。
決して顔を出すことがない 「桐島」 くんがキーワードとなって、ストーリーが展開する今作において、
ありきたりな 「金曜日」 の連続で構成された導入部は、
鑑賞者の感性を 

  
          「今作モード に馴化させる為に  

                                     効率良機能していたのです。



    徐々にではありますが、今作のリズムに調子が合ってきました。



しかし、「女子4人の軋轢」 を提示した以降の今作は、特徴的な時制表現も既になくなり、ありきたりな進行となっていきました。その中で残念なことが発生してしまいました。
桐島クンが登校してきたのです。
勿論、桐島クンが画面に登場するような無粋なことはしません。学校側に不登校の説明に来たようなのです。そして以降も画面に一切、登場しない流れのようです。

しかし、この桐島クンが登校してきたエピソードに対して、ボクはすっかり落胆してしまったのです。

  今作が終わりを告げるまで

         桐島クンの実存がわからない状態 
 
                  を維持して欲しい と切望したからなのです。


桐島クンの実在としての行動は映画が始まる前の時制、具体的に言うと 「金曜日」 が始まる前だけに留め、クラスメートから彼についての伝聞を聞かされるだけの存在であってほしかったのです。
ですから、現在の時制で彼の実在を客観的に認知できる行為は一切、慎んでほしかったのです。

そんなことを考えていたら、ある人物が脳裏に焼き付いてきました。



    実在がわからず、それでも、皆から一目置かれる存在。

    彼の言動は他者からの伝聞のみ知れてくる。


                    もうおかりですか?



その伝聞は パウロ とか ヤコブ っていう奴らが記録して、聖書という1冊になっている、

大袈裟な例えですか、桐島くんが

         自身実在 を超えた
         シンボリックな存在 となって、
         「神格化」 され、 め られている。  

                                                                   と感じたのです。


                    だから実在は、
         
現在進行ではられてほしくない。

                    そんな願いが芽生えていたのです。



     最初から最後まで、桐島くんは登校することなく、 

                               
          
その実在不明
 
            語られる内容は全て今作まる時制  
                                       

                          であって欲しいのです。


それ故、現在進行形の時制で彼が登校してきたことに落胆の念を禁じ得なかったねです。
キリシマとキリスト。最初の2文字は同じでしょ?

冗談はさておき、桐島くんの実在が伺い知れる 「登校」 という要素が、桐島クンの 「格」 を大幅にスポイルしてしまったと思えたのです。




桐島クンのカリスマ性が損なわれてきたその一方で、今作の主人公、神木クンの活躍が見えてきました。
顧問の反対にあっても、断固、「宇宙ゾンビ」 ものの映画を撮り始めていったのです。元映画研究部員としては、嬉しい気分になってきました。
しかし、映画部の活躍に胸踊らせながらも、


       映画がやや停滞気味になってきたことに、

               警戒心を持ち始めたのです。


相変わらず、高校生達の平凡な日常を追っているのですが、「桐島クンの登校」  という、ボクにとっては大事件が起こったにもかかわらず、何ら新しい展開がなされないことに不満感が芽生えてきたのです。
ありきたりな 「金曜日」 ではありましたが、4回も続けて見せられたことで映画的興奮を見い出した身としては、そして、「大事件」 が無視され何の工夫も無いまま、ありきたりな日常を見られていることに物足りなさを感じていたのです。
そんな停滞感に覆れた時、


        突如としてドラマが

                 したのです。



 桐島クンが (再び) 登校して、(何故かしら) 屋上にいる。という


      情報が飛び交い始めていったのです。


バレー部、友人、ガールフレンドが一斉に屋上を目指して階段を駆け昇っていきます。
屋上にいる桐島クンを目指すそれぞれの姿を追いながら、今作はバックに部活中の吹奏楽部のオンタイムの演奏を重ねてきたのです。
その時、思い出したのです。バックの音楽を奏でる吹奏楽部部長の女の子にとっては、淡い恋心が壊れた直後であったことを....。

「ありきたりな日常」 と見飛ばしてしまった彼女の気持ちを、今更に気付いた瞬間だったのです。
桐島クンが登校し、彼を渇望していた者が階段を駆け上がる。そんな今作のクライマックスに彼女を訴求してきたことで、ふいに、


「ありきたりな日常の積み重ねの中に、当事者にとっては大事な想いが隠されている。」
                      そんな事に気付かされたのです。


これは  「ありきたりな金曜日」 を見せつけられ飽き飽きし、それでも何度も見続けるうちに 「隠された想いや関係性」 を発見できたことに似ていました。


しかし、この場面では、繰り返しの手法を用いず、何の作為性もなく 「ありきたりな日常」 を提示してきたので、ボクは


「ありきたりな日常の積み重ねの中に、当事者にとっての大事な想いが隠されている」

                      ことを見抜けずにいたのです。



      
残念。




そして、このタイミングで彼女の音楽を採用したことで、


     本作の終結い ことを感じたのです。



なぜなら、第3番目の 「金曜日」 で彼女に与えられた 「彼女がいる男の子への儚い片想い」 という役回りを演じ切って、



     彼女のストーリーが終結した

                 と感じたからなのです


そして、本作のクライマックスに流れる吹奏楽部の音楽がまるで、



     儚く散っていった 「自らの片想い」 への

                 葬送曲を奏でている

                        とボクには感じられたからなのです。



吹奏楽部部長という彼女の役割が終結し、他の登場人物の日常も次々と終わりを告げていくに違いない。と思ったのです。
その証拠として本作の登場人物は、揃いも揃って、桐島クンを目指して屋上に駆け上がっているのです。まるで全員一致の終着点への一番乗りを競っているようです。
そして、我が映画部は一足先に、その屋上で 「宇宙ゾンビ」 の映画を撮影しているのです。そこに登場人物の面々が集結するのですから、



        
ドラマが生じないわけがありません。




ガールフレンド、クラスメート、クラブ仲間と、桐島クンを求めて様々な関係性を持つ生徒が一同に会しました。しかし、当然のように桐島クンはそこにいるはずもなかったのです。
屋上にいたのは我が映画部。ちょうど、撮影の真っ最中。

桐島クンがいないことに苛立って、映画部の小道具を蹴飛ばす者まで出てくるありさまでした。








やはり、このシーンにはクライマックスに相応しい、映画的カタルシスがありました。ここには

    「王道」 と呼べる万人受するドラマ手法と、
    ボクの 極・私的嗜好 ど真ん中の表現

                                                 が含まれており、


              至極境地 を見たのです。




で、何が起こったかと言いますと、映画部員達の反抗がなされていったのです。
屋上で 「宇宙ゾンビ」 映画を撮影していたところ、みんなが乱入。小道具を蹴り飛ばされた彼らは、バレー部に謝罪を求めるのです。
今まで軽んじられてきた不満が爆発、傲慢な態度を取ってきたバレー部員に小道具蹴り飛ばしの謝罪を求めたのです。


       「抑圧されていた弱者が立ち上がる」。

       万人受するドラマ手法をまずは当ててきたのです。


そんな定番な作為性を認識した上で、敢えてそのドラマを楽しんでいたら、素晴らしいことに、




       うレベルの映画的興奮

                    が待ち受けていたのです。



桐島クンの不在によって生じた 「女子4人組の軋轢」 が、「映画部の逆襲」 をキッカケとして女子同志のビンタという暴力沙汰に発展していったのです。


         めちゃくちゃしくなってきた!



今作のオープニングにおいて、ありきたりな 「金曜日」 を何回も見せられることによって、

           日常埋没している
         コンプレックスちょっとした反感

                                               が炙り出されてきたのですが、


それらの 「負」 の思いの数々がこの屋上で噴出し、大きな 「動」 のエネルギーに一気に変換していくことを感じたのです。
「バレーボール部内の軋轢」 「女子4人組の同性愛的なニュアンス」 「放課後バスケット男子や、クラス内の男女関係」 等が
 
     「暴力」という

                     可視化された力 になる予感に痺れたのです。


「日常の中の小さな不整合」 が 「暴力」 に集約・爆発するこの予感は、


            あたかも 台風 になぞらえるべき 

                                                        と思いました。


南の国での日々の静かな 「海水の蒸発・上昇」 が、いつしか莫大な電子を帯び、膨大な水蒸気を蓄積。
そして一気に台風として温帯地域を蹂躙する。
さぁ 「小さな不整合」 達よ、雷を轟かせながら、強風と豪雨でこの日常をぶち壊してしまえ!!
と、まるで神にでもなったかのような気持ちで、彼らの様々な気持ちが 「混沌」 へと昇華する様を期待していたのです。
しかし、今作はそのような展開をしてくれはしなかったのです。


     もっときな 「映画的興奮」 をもたらせてくれたのです!



もっと大きな 「映画的興奮」
それはボクの極・私的嗜好に関わってきたのです。




ボクもかつては映画研究部員で自主映画制作に没頭したものでした。
大学時代に制作したのが、自主映画を制作している少年少女達の物語。
制作している映画にリアリティを持たせるために、映画のストーリー (偽装誘拐) を現実でも起こして、そのクライマックスをドキュメンタリーとして写し込むことで映画のラストシーンにしよう。 という骨子でした。


そして映画的表現として目指したのが


        「現実虚構融合」 


                          だったのです。


それを 「宇宙ゾンビ」映画を監督している神木クンはこの場で実現させようというのです。
「女子4人の軋轢」 による平手打ちがなされた直後、突然神木クンが8ミリフィルムカメラを構え出し、こう言うのです。  

   
            
 「こいつら全部、喰い殺せ!」


    愕然としました。背筋に雷が通って行ったような衝撃を覚えたのです。


今まさに台風が吹き荒れるというこの瞬間に、「宇宙ゾンビ」 の扮装をしている映画部員に

              「こいつら全部、喰い殺せ!」

                                              と言い放ったのです。


その指示は、

             いま目の前に展開する 「混沌」 と、
             彼の頭の中にある    「映画」 を

                                融合させる行為 であったのです。


その場に居合わせた者達を、「宇宙ゾンビ」 役の映画部員に襲わせ、その現実を記録することで、「映画」 のクライマックスを創り上げようとするのです。
それはまさしく30年前、ボクが学生時代に試みた


           「現実虚構融合」


                                 がなされる瞬間に他ならなかったのです。



「ドキュメンタリータッチでいくんだ!」 の言葉で 「宇宙ゾンビ」 の扮装をしていた映画部員達は瞬時に彼の真意をくみ取り、そこに居合わせた者達にゾンビとして襲いかかるのです。
その様を一つ残らず8mmフィルムに収めようとする神木クン。
その姿を見て、ボクは言いようのない熱い想いに包まれたのです!



そして、この極上のクライマックスで更に、気持ちを揺さぶられたシークエンスがありました。
神木クンが淡い気持ちを持った同級生の女の子がゾンビに襲われる場面で、彼の妄想が拡大されていったのです。
首を噛まれて鮮血を飛び散らせ、肉を食い千切られていく。
まるでスプラッタームービーの様相を呈したのです。
彼の同級生の女の子への淡い気持ちはただの偶然の重なりで、何もなく終わりを告げたのですが、


      彼女に対する 「気持ちの崩壊」 が、
      彼女自身の    
「肉体崩壊」



                     へと転化されていったことにも、

                                     ボクは大いに反応していったのです。



「抑圧されていた弱者が立ち上がる」
 という 「王道」 と呼べる万人受けするドラマ手法から始まって、
隠されていた 「負」 の思いが 「暴力」 という可視化された力になる 予感 を経て、
「極・私的嗜好」 である 「現実と虚構の融合」 がなされる興奮を味わったのです。


そう、幾重にも張り巡らされた


         「映画的カタルシス」 に


                ボクは完全圧倒されていったのです。



      この複合的な幸せの中で今作は終わりを告げていきました。




と このレビューを終結させたかったのですが、この一筋縄でいかない映画はスンナリと終わってはくれませんでした。この後があったのです。
この後のシークエンスについては、それなりの意義を汲み取ることはできます。
しかし、


極私的な嗜好を満たしてもらい、至福の境地を味わった身としては、


     この最高瞬間わるべきであった

                           と強く主張したいのです。



申し訳ありませんが、

ラスト13分は

       ボクの記憶から抹殺させて頂くことで、

                      今作を傑作と認定したのです。








ありきたりな日常でも


      視点場所をずらしながら、 そして、
     時制ねながら配置     していくことで、


                
その日常が重要性びてくる。




    そんな今までにない表現をまざまざと体験をしました。




そして、極・私的嗜好である 



         「現実虚構融合」


                          までもがなされていったことは



                    望外でした。







今作を鑑賞することで


新しい感性を呼び覚まし、そして、自分の嗜好をも満足した。


            極上映画体験  


                                           を味わうことができたのです。










桐島2 




               桐島3
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完成! 「アーチスト」
2013-09-08 Sun 23:42
アーティスト1 






今作は 「サイレント映画」 から 「トーキー映画」 への移行期を舞台に

            主人公葛藤創出 してきましたが、



その問題提起と解決法が  

            「あやふやな」 映画 となっていました。      
   


しかし、
映画を貫く骨子が 「あやふや」 なんかではなく、   

   
       
 「サイレント」 と 「トーキー」  映画手法 が、
  
                場面特性によって自在変換するような 
 

    「サイレント」 と 「トーキー」  映画手法境界線こそが 
  
                   「あやふや」 で ボーダーレス な映画

                                           であって欲しかった。
             


               と強く思いました。






今作の特徴は


             「モノクロ」 で 「サイレント」 映画



                                であること。




しょっぱな早々、それは開始1カット目から訴求されてきました。



電気ショックをかけられて、苦悶の叫び声を上げる主人公を写し出してきたのです。

従来の映画に慣れ切った身としては、この映像にそぐわしい音は、彼の大きな 「叫び声」 だと思い込んでいるのですが、このタイミングで聞こえてきたのは、「映画音楽」 だったのです。



「叫び声」 が相応しい映像を1カット目に選んでおきながら、その映像に 「声」 ではなく 「音楽」 を当ててきたことで、



   今作が 「サイレント」 映画であることを 

                                センスよく訴求 してきたのです。




そして、 1カット目で映し出されてきたこの苦悶のカットが、実は、大劇場でプレミアム上映中の 「サイレント」 映画の1場面であり、舞台挨拶に出てきた主演俳優その人が今作の主役となっている。という構造にも好印象を持ちました。



しかし、鑑賞を続けていくうちに、そのセンスに乖離感を覚えていったのです。

それが評価の発端となった 「音楽」。

唯一、サイレント映画で聴覚に届く  「音楽」 が、よりによってチープで、「モノクロ」映像のクォリティと明らかにマッチしていないことに気が付いたのです。


「音楽」 が今作のウィークポイントに違いない。と感じ始めた開始30分。
今作は素晴らしいシーンへと続いて行ったのです。

今作の時代設定は 「サイレント」 と 「トーキー」 の移行期である1920年代終盤。

今作の主人公である「サイレント」 の花形俳優は 「反トーキー」 の立場をとっています。

そんな状況の中で素晴らしいシーンは展開されていくのです。



場所は彼の楽屋。飲み物を一口飲み、テーブルの上にコップを置いたところ、


              「コツ」


と音がしたのです。 その音にいぶかる主人公。 
当然のことです。 なぜなら今作は



                      「サイレント」 映画



                                                        なのですから。



この 「サイレント」 映画で許される音はただ一つ、「映画音楽」 だけなのです。

コップの 「効果音」 など存在しない世界なのです。

それなのに 「音」 が突然、鳴りだしたのです。

怪訝そうな表情を浮かべる主人公。

「サイレント」 の住人にとって 「効果音」 なんてものは知る由もないもの。

いや、「サイレント」 の世界で安穏とするためには 「トーキー」 の要素である 「効果音」 などは、排除すべきものなのです。

「トーキー」 に反する立場としては、当たり前の反応をした主人公なのですが、その直後、

                      あるまじき行為


                                             を取るのです。


それは、「声」 を発すること、でした。

いや、違った。以前から 「声」 は発していました。

ファーストカットに彼は 「叫び声」 を上げていたのですから。

( もちろん、「サイレント」 の世界なので 「声」 は届かず、「映画音楽 」のみが聞こえていましたが....。 )



                      あるまじき行為



それは、

                 自分の 「声」 が聞こえないこと


                  に 気付いたこと

                               なのです。



いや、それどころではない、  


                  自分の 「声」 が聞こえないこと  


                                    に きの表情せたこと 


                                                                 なのです。



非常に解せないことでした。 「反トーキー」 の立場であれば、「効果音」 は勿論のこと、自分の 「声」 が聞こえないことなど至極当然なことなのに、 


   


            この驚愕態度一体、どうしたことでしょう?





と、普通なら彼の急変に疑問が湧き上がるところですが、こんな気持ちが生じる前に次々と展開を仕掛けてくる演出で、まんまと騙されてしまったのです。


  カメラの水平をずらしたアングルで主人公の焦りを煽り、
  メーク鏡台に映る自分に向けて 「声」 がでない驚きを訴える。

  狼狽して倒した椅子の音や、それに驚いて吠える犬。

  そして、突然鳴り出す電話。

短い時間に様々な仕掛けを作り、主人公の 「声」 が出ない焦りを煽りつつ、そして、

それが主人公の立場とは違う反応であることに  



           疑問たせない演出 に、 


                                                     感心したのです。



いたたまれなく、外に飛び出した主人公を嘲るように 「笑い声」 を立てる踊り子達。
それをやり過ごすと、興味深いシークエンスに続いていきました。


フワフワとした羽毛が空からゆっくりと降りてきて、地面に触れた瞬間


        「ドカーン!」 


                      と大きな爆発音を轟かせたのです。


その様に驚いて飛び起きる主人公。 
そう、全てが夢だったのです。


この夢の一連のシーンは大変素晴らしく、口では 「トーキー」 なんてキワモノだと一蹴した主人公ですが、内心ではその流れに入り込めていない自分に焦りを感じていることを、印象深く表現してきたのです。


ここにきて、今作は 「トーキー優勢」 の立場を明確に打ち出し、「サイレント映画」 の劣勢があからさまとなっていくのですが、そんな局面となった今、当初から感じていた今作のウィークポイント


「チープな映画音楽」 は、実は、  


             意図的であったのではないか?  


                                                  と思えてきたのです。


「サイレント映画」 が時流に取り残され、廃れたものとなる事実を知っている身からすると、この衰退の事実を



「サイレント映画」 に存在する唯一の 「音」 である
   

       「映画音楽」 のっぽさで表現していた


                                                               と思えたのです。



意図的に質を落として、「凋落の予感」 を創出していたのなら、
 


                       素晴らしい勇気


                                                      と評価したいと思います。



    と、この時点では大きな希望をもって鑑賞していたのです。





不吉な夢から覚めた主人公を襲ったのは 「トーキーの嵐」 でした。
所属会社が 「サイレント」 から撤退、「トーキー」 に転向することになったのです。


この変化によって彼の身に暗い影が差すと同時に、上昇気流に乗ったキャラクターが登場してきます。

彼の映画にエキストラとして出演していた女優志願の女性が彼の映画会社のニューフェースとして契約をしたのです。



そんな二人が会社の内階段でバッタリ会うことになります。
そのシーンも素晴らしいものでした。

久しぶりの再会に喜ぶ二人。 しばしの会話の後、

         彼は階下へ、彼女は階上に。



                                明確対比がなされていきました。



この階段が広いホール内に設置されてあり、3階分を丸々見渡せるロケーションとなっています。彼女が階上に去って行った後、彼はしばしの間、時の流れを感じながら佇むのてす。

しかし、周りの世界は彼にお構いなく、慌ただしく動いていったのです。

この対比は 


          時流れず、    

          まっている主人公現実   


                                                を表しているようでした。




                      そして、彼は階下に消えていくのです。



主人公の行く末を安じながら観賞を続けていくと、彼は彼で孤軍奮闘。
「サイレント映画」 を制作、監督、主演  をしますが、


大コケ.......。


一方、「トーキー」 の彼女の主演作は大ヒット。



 ここでも

                      かり対比  

                                                          が作られていました。



その後の彼は運から見放され、転落の一途。

トーキーの彼女はヒット連発のスターにの仕上がり、


                      立場逆転



そして、ストーリーは残念ながら安物の筋をなぞっていきます。




「サイレント映画」 で大失敗の主人公はヤケになって失火、
「トーキーの女王」 となった彼女が駆け付け、全てを無くした主人公を自宅に迎え入れるのです。

彼女のお屋敷で平穏な療養生活を過ごした主人公ですが、その屋敷内に、彼が生活苦で売り払った自分の調度品が保管されていたことに、ショックを受けます。
 
 
主人公は凋落後の生活費用を (人知れず) 彼女に出してもらっていたことに (何故かしら) 絶望し、
 
ピストル自殺を図ろうとします。それを阻止しようと自動車で彼の後を追う 「トーキーの女王」 という展開になりました。
 
 
 
このようなストーリーになるに至っては、 
  
    
           ボクの鑑賞意欲は 
  
                                  急激えていったのです。 
 

そもそも主人公は何故ピストル自殺を企てなければならなかったのだろう? 
そんな疑問に苛まされたのです。
 
 
凋落後の生活を 「トーキーの女王」 に支えられていたのであれば、たたただ、感謝の意を表して、彼女の好意に応えていけばよいと思うのです。
 
それが自殺へ急展開だなんて、全く理解することができないのです。
どんだけブライドが高いのでしょうか。
 
 
しかし、この安直で直情的な展開に呆れながらも、  

   
        「サイレント映画」 の表現  
   
                                                を発見することができたのです。
 

彼の居場所に自動車を飛ばす彼女と、ピストルを取り出して事に及ぼうとする彼のカットバックとなります。 

彼が銃口をくわえ、今まさに引き金を引かんとする瞬間。次に提示されたのが 「サイレント映画」 特有の 「字幕」 だったのです。
 
そこには
   
                   「BANG!」   

                                                    とありました。
 
 
とうとうピストルの引き金を引いてしまったかと思った次の画像は、
彼女の運転する自動車が、街路樹にぶつかっている場面でした。
 
字幕の 「BANG!」 は自動車がぶつかった 音だったのです。
 
この 「BANG!」 の使い方は今作が 「サイレント映画」 であることを印象深く訴えてきたのです。 
「BANG!」 の「字幕」 が 「サイレント映画」 における 「ピストルの発砲音」 の表現であり、それと同時に 「自動車の衝突音」 の表現となっており、 

  
               一種トラッブ 
  
                                                 として使われたのです。 
 

実際のピストルの 「発射音」 と自動車の 「衝突音」 はかけ離れた 「音」  なのですが、字幕だけで表現する 「サイレント映画」 では 「BANG!」 という同じ表記で表現されるのです。
興味深いシーンとなっていました。
 
 
しかし、この 「BANG!」 をめぐるサイレント映画特有の表現も、残念ながら、表面的な面白さをなぞっただけのものでした。
 
今作の前半でボクが絶賛した 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 の豊かなイマジネーションや、主人公の心象を伺い見る深遠さもなかったのです
 
 
ストーリーはこれ以降、ありきたりな定番路線をひたすら走っていきます。
 
「BANG!」 と言わせながらやってきた彼女は、すんでのところで主人公の自殺を思い留めさせます。
命を救われた彼は当然のように彼女の愛を受け入れ、ハッピーエンド。
メデタシメデタシ。となるのです。

それはそれでいいでしょう。

しかし、その終結方法が 

  
            とも安直だったことに
 
                                                     唖然となったのです。 
  
  
  
  
今作のラストシークエンスに写し出されて来たのはタップダンスを撮影している二人の姿だったのです。
躍動的にタップを踊るこの場面はただ単純に楽しめはしました。映画の1シーンとしては素晴らしかったと思います。
 
 
しかし、このシーンで今作を終結させる事に 
  
                  不満 
  
                                が残ってしまったのです。 
 

「これが今作の抱える問題点の解決策とでも言うのだろうか?」
という 
  
                   不満 
  
                                    が生じてきてしまったのです。
 
 
今作の主人公は 「サイレント映画 」のスターで、「反トーキー」 の立場をとる人物でした。そんな彼が 「トーキー映画」 の登場によって凋落し、そこから這い上る鍵がタップダンスだった。というこの終着方法には

  全く 
  
             説得力 
  
                                         と思えるのです。 
 

そもそも、セリフもなくノー天気にタップだけを踊って暮らしている映画なんて無いと思うのです。
 
   セリフのシーンはどうするつもりなのでしょうか?
 
   何事もなかったかのように彼はセリフを話すのでしょうか?
 
   やはりそうなのでしょうか?  
   


                        だとしたら
 
主人公は一切悩むことなく、
  

           最初から 「トーキー映画」 に転向すればよかったのに....。  
  

                                と、大きな虚無感にかられていくのです。



そして、主人公の自殺騒ぎを始め、今作のほとんどのシークエンスが不要だったのではないか? とさえ、思えてきてしまったのです。

(「トーキー」 の彼女の愛の発露によって主人公は 「トーキー」 に前向きになれたことは理解しておりますが.... 。)
 
そんなことまで言い始めたら、今作を全否定するところまで行ってしまいそうなのでヤメておきますが、それでも、今作の 「根元的な疑問」 についてだけは発言をしたいと思うのです。


「根元的な疑問」
  それは、  


 
   主人公何故、「反トーキー」 の立場

                 なにけてきたのだろか?
   


                                          という疑問。

この、今作を推進させてきた命題が解かれることなく、放置されたままということだけは、断固、批判させて頂きたいと思うのです。
 


「サイレント映画」 で成功した
 
  
                         美意識 
  

                                         が成せるもの。なのとは思うのですが、 
  
 

こんなにも意固地に 「トーキー」 を忌嫌う納得の理由が見つけられないのです。
 
例えば、彼が聾唖者であるとか、吃音であるとか、訛りがひどい等の理由があれば彼の頑なさに納得するのですが、そんな描写もなく、彼の 

  
         っぺらい強情 
  
                                   だけが鼻についてしまうのです。

   (自殺騒ぎの時にも感じた、彼の性格的欠落点なのでしょう。 きっと)
 

そして、「トーキー」 の彼女の愛を受け入れた途端、
手の平を返すように 「トーキー」 のタップダンス映画を受け入れていくのです。
 
(何度も言うように、タップダンスのゴージャスさで誤魔化されていますが、彼が出演している映画は、セリフのシーンがある 「トーキー映画」 のはずなのです。)

 
ただ単純に 「トーキー映画」 に転向するだけではなく、タップダンスという付加価値が伴えば、移行しやすいことも心情的には理解できるのですが、それも、圧倒的な説得力を持ち得ているとは思えなかったのです。 
  
 
このように
 
  
          問題提示中途半端、 
  
                                    その終結方法脆弱。   
 

     そんな不手際が気になってしょうがなかったのです。


 ここに至っては、今作に対してこんなことを強く感じたのです。

    「あやふや」 な基本設計の上に立ち、
    「あやふや」 な解決策しか導けなかった、

  何とも

    「あやふや」 な映画である。と、
 
  そしてその 

    「あやふや」 さが潔い訳でもなく、魅力を発揮するわけでもないのです。 
  
 

以上のことから今作を結論付けると、

        「あやふやさ」 が突出してしまうほどに   
   

             全体見渡目線 に    

             くをもって欠落した映画  

   
                                                 と断言せざるを得ないのです。 
  
 

全体を見渡す、そして全体のバランスを考えながら映画的素材を配分していく、そんな巨視的な配慮がなされていたのなら、もっと興味深い作品になっていたと考えられます。


例えばこんな感じ 

              ↓
 
ボクが当初に気になった 「チープな音楽」 を発端とした妄想について言及すると、
 
  1. 「サイレント映画」 が廃れてしまう事実をふまえて、
    「サイレント映画」 に使われてる音楽は、意図的に質の落ちる音楽を採用。
 
  2. 劇中映画を離れた 「現実の世界」 では、次第に音楽は平均的なクオリティ
   となり、
 
  3. 最後の映画的カタルシスを訴えるべきタップダンスのシーンで、最高にゴージャス
   な音楽となって終結を迎える。


       と、このような、全体設計に基づいた映画であることを期待したのです。
 
 
そして、もっと大きな妄想を口にすると、 


 
   
【 2012年、この現代制作されたサイレント映画 】
                                                                                             という、


時流を俯瞰した立ち位置で演出されていれば、もっと興味深い映画に成り得たと感じたのです。 
 

例えば、強い印象を残した 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 のシーン。
今作は 「サイレント映画」 ではあるのだけれど、意図的に 「コップの効果音」  や、「電話の呼び鈴」、「犬の鳴き声」、そして、「羽毛の爆発音」 を挿入してきました。
 
このシーンでは、「サイレント映画」 の枠を飛び越えた 「効果音」 を実に上手く活用していたのです。


 そう、今作は
 
       「サイレント映画」 のりつつ、 
  
             は 「トーキー映画」 の手法駆使して  

   
                                        大きな成果 をあげていたのです。 
  
 

ボクはこのシーンで駆使されていたこの独自の表現スタンスで 

  
                    今作全体いてしかったのです。  
   

 


      【 現代られたサイレント映画 】 
 

この割り切りさえ手に入れれば、前述の 「音楽のクオリティ変化」 なんてレベルを超えた、新しい試みができたはずなのです。  例えば
 
「トーキー」 の彼女が出演している 「トーキー映画」 の場面は、そのまま

         「純 ・ トーキー映画」  として再現。

一方、彼女との対比を際立たせたい場面では、彼女の 「音声」 だけを効かせ、主人公はそのまま 「サイレント映画」 を持続した
 
         「半 ・ トーキー映画」 として表現してもよかった、



                              とも思うのです。
 

白状しますと、ボクは今作が、    

     
            「サイレント」 の映画手法 と   
            「トーキー」  の映画手法 が、 


 
            場面特性によって自在変換するような映画 

   
    
                                        であってほしかったのです。
 


そうすれば 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 のような素晴らしい場面が連なる傑作に成り得たと思うのです。



    
もう一息でした。

 










今作は 「サイレント映画」 と 「トーキー映画」 の移行期を背景に

             主人公葛藤創出 してきました。


しかし、その問題提起と解決法が 
 
            「あやふやな」 映画 となっていたのです。     
 


映画を貫く骨子が 「あやふや」 なんかではなく、 


  【 現代られたサイレント映画 】 の巨視的観点に立ち、 

  「摩訶不思議夢」 のシーン のように れた


「サイレント」 と 「トーキー」 の映画手法境界線こそが 
  
                    「あやふや」 でボーダーレスな映画

                                         であって欲しかった。
             

               と強く思いました。







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完成! 「浮草」
2013-05-05 Sun 23:34

       浮草 






自らが強固なものとならしめた 「松竹大船調 」の殻を破る 



             小津らしからぬ満載 

                                                      今作でありました。



しかし、その根底には小津監督の職人芸が 



              随所に、そして細部にまで 

                                                     行き届いた逸品となっていました。



特に、名シーン【豪雨の中の罵り合い】は小津らしからぬシークエンスでありながら
その実、 


            小津美学裏打ちされた

                                          ものであることを強く認識しました。




一部、ハメを外しすぎたと感じるところはありましたが、


「大映」という違う環境の中で、冒険をし、その中で自らの経験を結実させた、



      絶妙バランスいた傑作 




                          評価します。






作風が確立した後期 ・小津作品の中において、
今作は 

  
          「異彩作品」 であった

 
                                        ことを強烈に覚えています。

 

今回、久しぶりに鑑賞するこの機会に、その要因を探ってみたいと思います。
 

と思った矢先、今作はしょっぱなから慣れ親しんだ小津作品と様相を変えてきたのです。
いつもの麻地のタイトルバックに、神々しく登場したのが 「大映」 の2文字。



               普段なら「松竹」なのに........。


  



        
品行方正な 「松竹」 と、
                                     エキセントリックな 「大映」 。




そんな制作当時、昭和30年代における  


   
               映画会社のイメージの違いが、  
               そのまま映画全体をカバーしている。


                と、初めての鑑賞後に感じた印象を 
                思い出しました。
 

 

そして、今作はファーストカットから強烈な違いを訴求してきたのです。
小さな灯台と一升瓶の対比が鮮烈な画面となっていました。

               小津作品にはしく自己主張映像
 



それもそのはず、今作の撮影は、日本を代表する名カメラマン、
「大映」 の宮川一夫氏によるものなのです。

 


白い小さな灯台にこだわりつつ数カットの後、 

  
         「なるほどね。」
 
                               と思えたカットに遭遇しました。
 


白い灯台が左後方にあり、手前右手に赤い郵便受けを配置している。 
 

そうなのです。今作の映像的特徴として


                赤色印象深映画

                                であったことをこの映像を見て
                                 まざまざと思い出したのです。

 


そして、続く船着き場の待合室での男達の会話も、いつもの小津作品とは
趣きが違うものでした。
 
今回の主な舞台となる芝居小屋「相生座」で上演していたストリップの話題になるあたりに、 


  
        松竹「品行方正」登場人物からは、  


                         聞くことのない発言が
                         伺えたのです。
 

こんないつもとは違うオープニングの後に今作の主人公、旅役者の一行が
船でやって来るのです。そして物語は一座の座長を追って行くことになります。
この地に 「隠し妻」 と隠し子がいる。という設定になっており、
息子は二十歳くらいで12年ぶりの再会。叔父と偽り続けての関係でした。
 
一方、座長には京まち子演じる旅役者である 「内縁の妻」 も一座内に
いる設定となっているのです。
 
座長を巡る二人の 「妻」 が登場してからの物語は、「内縁の妻」 の心情を
中心に進んでいきます。
「地元妻」 と隠し子のもとに通う座長に対しての怒りが限界点に達した時に、
「内縁の妻」 の感情そのままに土砂降りの雨が降りだすのです。
その時、ハッと気付いたのです。  



   
       あの名シーンがっていくのだな。 と 
  
  
 

土砂降りの日、「内縁の妻」は、「現地妻」の元に押し掛けて来ます。
そしてこの時、彼女が差して来た傘が 


  
                 赤色 だったのです。  

 



この瞬間、随所に印象的な赤色を配してきた今作の意図を知ったのです。
 
映画の折々に印象的な赤色を配置してきたものですから、いつしか、 


  
            赤色反応するように
 
                                  められていた のでしょう。 
 


ボクは、土砂降りの雨に咲いた赤い傘に視線を持っていかれたのです。
 しかも、舞台設定が素晴らしく、古い日本家屋の暗い柱の色が傘の赤色を
引き立てていたのです。
 
こんなにも強くボクの気持ちを引っぱったカットなのですが、驚くことに、
ほんの2秒ほどのことだったのです。
 内縁の妻が玄関先にフレームインをして傘を閉じるまでが約2秒。
たったの2秒のことなのに、目に飛び込んできて強い印象を与えたのです。
 


この作用について考察したところ、2つの要因があると感じました。 
 

まず1つ目は、
 
前述のように、随所に印象的な赤色を配置してきたことによって、知らず知らずの内に

 
            赤色反応するように
 
                                     仕向けられていた
 


                        と考えられます。


そして、もう1つは、 


  
             
ボクが今作鑑賞していた

                                                   ことが原因だと思うのです。



このシークエンスの後に、あの名シーンがやって来ることを事前に知っていたことが、
傘の赤色に反応した理由だと思うのです。
 
その名シーンでは、赤い傘は地面に置かれていて、激しく降る雨をそれぞれ、
軒の下でしのぎながらの攻防でした。   



    
             豪雨い。  


 

このシーンこそが晩年の小津映画の中で特に異彩を放つ名シーンなのです。
そのシーンの中で唯一、色彩を与えられたのが、
傘の赤色だったのです
 
 
降りしきる豪雨の中、激高しながらお互いを罵り合う男女を見て、
  

  
        ただただ、いたことを覚えています。 
 


そして、地面に置かれた赤い傘が、  


  
       やけにみてきたことも  


                        事実でした。
 


小市民の生活を穏やかな目線で描いてきた小津作品とかけ離れたこのシーンは、
晩年の小津映画からは全く逸脱した、異端とも言えるシーンなのです。
でも、そんなことを度外視してもこのシーンは、純粋に迫力のある   



    
      絶対的パワーった珠玉シーン 

                       
なのです。  

   
 

そんな強力な罵り合いを見せつけられ、圧倒されていた初見の時、
唯一の色彩であった傘の赤色が、   


    
         自分自覚しているよりも
 
                       ボクの気持ちにさっていたのです。 
  

 

傘をたたむ、たった2秒のことなのに、事前の赤色攻撃によって無意識のうちに反応させられ、
「既鑑賞」という条件下では、その後の徹底した赤色攻撃の記憶に翻弄されてしまった結果
だったと結論づけます。
 

映画はいよいよ、【豪雨の中の罵り合い】 に突入していきます。
 3mほどの道を間にはさんで男女が向き合っている。 道の両端には民家が連なり、
それぞれ二人は軒の下で睨みあっている。
 
このように非現実的としか思えない二人の配置が、このシーンを珠玉のものへと
高めたのだと思いました。
改めて考えると、あの現場まで二人一緒にやって来て、結果的に、左右別々の軒に
キレイに分かれて罵りあっていることが不思議に思いました。
不思議というか、不自然。
 
しかし、一般常識では二人の行動は不自然に映るのでしょうが、映画世界の中では
 (特に小津作品においては) あの位置関係は必然であったと思えるのです。 


  
             そこが、 とっても興味深い。 

  
 
土砂降りの中、左右の軒に分かれて睨み合う二人、地面に広げられた女の傘だけが
色彩を放ち、それ以外は無彩の世界。
気持ちをザワつかせる凄まじい雨の音が身体をも震わせている。
 
 
民家の斜め後ろから二人の全景を捉えている。
座長はカメラ手前に陣取り、その後ろ姿は 


  
           りの存在感発揮している。 
 


内縁の妻は豪雨をはさんでカメラを正面に見据える位置で、こちらも 


  
           苛立ちの表情をあらわにしている。 
  
  
 

実はこのシーンは、この引きのカメラ位置と、あと2つのカメラバリエーションの、
たったの3つのカメラ位置で成立しているのです。
それは今回、再鑑賞した際に大いに驚かされたことだったのです。 



  
          【 3カメラバリエーション奇蹟 】
 

                                      とでも言えばいいのでしょうか、 
 



でも、このシークエンスを、たったの3カメラバリエーションで語り切れたのは、
小津作品であったからこそ。とも思うのです。
 
 
そもそも、カメラアングルのバリエーション自体が自制的な小津作品において、
前述の民家奥から二人の全景を捉えたカットと、
それぞれ二人のアップを真正面に捉えた2カットがあれば
充分だったのかもしれません。
 
 
人物の位置関係や周辺の環境を俯瞰できる 「状況説明カット」 と、
心の有り様 を捉える 「人間観察カット」 の


      丹念


              が小津映画の大きな魅力
              だと感じているボクには 
 


この3バリエーションは、最低不可欠な要素であり、この名シーンがその 


  
           最少要素だけで構成
 
                                         されていた事実 
 


を確認することができただけでも、再鑑賞の意義があったと強く実感したのです。

 

激しい雨と同じ位の激しい感情をぶつけ合う

 
            小津らしくないシーン
 
                                                  のはずなのに、 
 

カメラバリエーションは、

 
             小津そのものであった。  
    
        


        そのことに、気付けたことに妙に感動してしまったのです。

  
 
豪雨の罵しり合いは格調高くも、激しいものでした。
座長と内縁の妻の間い大きな溝ができたのです。
 



物語は一転して若い二人を中心に進んで行きます。内縁の妻の策略で
 
一座の娘役である若尾文子 (若い!)  を使って
座長の隠し子 川口浩  (若い!)  を誘惑させようとするのです。
 
その現場が郵便局、彼のアルバイト先だったのです。
 
女性が男に誘いをかけるというシチュエーション自体がいつもの小津映画には
見当たらないものでした。
 


往年の小津映画における男女の関係性は、何らかの形で

 
           「結婚」 という2文字
 
                                     ついて回っていました。
 
 
にもかかわらず、今作の若者はこんな有様なのです。
 

しかし、この感覚はその当時から今に至るまでのごく

 
                 ノーマルなものなのだ
 
                                                          と思うのです。
 


そんなことを感じていたら、
今作は小津が 「松竹」 で作り上げて、抜け出すことができなくなってしまった


 
                  「固苦しい世界観」 から 

                     自らを解放させて、
 
 
                    自由った映画
 
                                                     なんだ。



                     と思えてきました。

 

物語は急遽、この二人の純愛モノに様相を変えてきました。
 
結婚が目的の恋愛ではなく、恋愛が目的の恋愛。
 
当たり前のことなのでしょうが、晩年の小津映画においては、語られることがなかった
世界なのです。
 
 
しかも何度もこの若い二人にチューをさせてみたりして、いつものところではできなかった
ことを、他所で嬉々としてやっている。そんな

 

            茶目小津さん
 
                                             見えてきました。
 
 
 
しかしながら、物語の機運は急落していくのです。次の公演地とのパイプ役となる
「先乗り 」が失踪。一座は行くあてのない足止め状態となるのです。
それとともに、若い二人の間に座長が割って入ってきたのです。


実の息子に色仕掛けで関与した二人の女役者への仕打ちは、実に直情的でした。
叩く、突きとばす、蹴とばす。やりたい放題なのです。

ここまで暴力的なシーンを小津映画では見たことがなかったので、
初見の際に驚いたことを思い出しました。 


 
つくづく今作は、小津作品の中でも異例づくしの映画であることを認識しました。
先の 豪雨の罵り合い も、今回の直接的暴力シーンも、

 
               
攻撃する。

                    という、小津作品においては、

 
                あるまじき行為  
   
                                             をさせているのです。
 
 
 
しかも今回は直接的な暴力なのですから、
豪雨の中の罵しり合いを越えた、エグさに残念ながら


 
                自分気持ちが 

                                 萎えていくことを

                                                          自覚しました。

 
 
先の 【豪雨の罵り合い】 では二人の間には豪雨が割って入っていたのです。
 
それ故に、直接的な暴力には至らず言葉の応酬に抑えられた、
一種の安堵感がありました。その上、

 
            小津的自制が利いたカット割りで
 
             爆発してしまいそう

                                                     りをえる、  


   

                                   という美学を見つけることができました。 
  

 

しかし、今回の直接的暴力には、抑制というものが全く見受けられず、
大きな違和感を感じてしまったのです。
それだけ、座長の怒りが大きかったことを示しているのでしょうが、ここに来て


 
                    いつもと小津
 
                                          に不安を感じたのです。
 
 

今までは、松竹ではできなかったことを嬉々として行っている小津さんを
微笑みながら見守ってきましたが、
この直接的暴力は、その範囲を超えた所に行ってしまったと感じたのです。
 

製作会社の違い。という枠を遥かに越えた、

 
                     小津美学そのものを
 
                                                 逸脱してしまった。


 
                      そんな後ろめたい気分に襲われたのです。 
  

 

物語はボクのこんな気分に同調するように転落の様子を見せてきました。
折々に大映らしい非常識的な側面を訴求してきた旅役者の一人が、
一座の財産を盗んで姿をくらませたのです。
 
この打撃を受けて一座は解散の憂き目にあってしまうのです。
そんな場面での、一座の面々の哀しみを、小津監督は伝説の名子役、
島津雅彦クンを使って絶妙に表現していたのです。 


  島津雅彦クンは小津安次郎監督の 「お早う」 や 「秋日和」、
  「小早川家の秋」。そして黒澤明監督の 「天国と地獄」。その他に
  「名もなく貧しく美しく」 「夕陽に赤い俺の顔」 という名監督や、
  名作、意欲作にあいついで出演したのにもかかわらず、
  たったの 数年で忽然と芸能界を去って行った
  天才子役なのです。
 

解散せざるを得なくなって、衣装等の処分の値ぶみの場面において、
大人達の落胆とは対照的に呑気にスイカを食べて種を飛ばす
島津クンがいたのです。
子供には理解することなどできない窮状だったのです。
 
しかしその一方で、先行き不安で呆然自失となっている自分の祖父の
異常な有り様に、突然泣き出す島津クンの姿があったのです。
この2つの場面での名子役、島津クンの 


  
                 態度豹変
 
                                        感心してしまったのです。
 
 

盗難にあった重大事や、その影響を受けて一座が解散してしまう意味を解せず、
呑気にスイカの種を飛ばしていた島津クン。
その一方で、身近な者の変化には敏感に反応し、号泣する彼の姿を見て
感心してしまったのです。
 
子供に大局を見極めることなど不可能であることは誰でも理解できます。
ですから、値踏みのシーンにおいての呑気なスイカの種飛ばしは、 


  
                 大人達切迫度

                                                絶妙陰影

 
                                                                をつくっていたのです。   
    
 

そして、大局を理解することができないかわりに、


身近な存在の変化には   

                    敏感反応する子供機能 させて、  
 

一気に豹変しいていく   

                   子供落差す ことによって、 

 

局面している窮状を 

       多重的
ってきたのです。 

 

この豊かな表現も、今回、大いに感心した要点だったのです。
「鑑賞する年齢によって発見がある作品は何て奥が深いのだろう」と、
実感した瞬間でした。
大学生の時はスルーしてしまったことが、一児の父となった
今、このような側面に気付くことがてきるようになったのです。

一座の解散を受けて、物語は終結に向かっていきます。
まずは、座長の息子と一座の娘役の若い二人は、駆け落ちを経て結ばれ、
父親の名乗りをあげた座長は結局は旅役者の道を選びます。
 
この町を出ていくと決意して向かった駅の待合。
偶然そこには、若い二人をけしかけたことで、小津美学を逸脱するほどの
苛烈さで縁を切られた内縁の妻の姿があったのです。
 
結局、二人はヨリを戻すのですが、その気持ちの移り変わりの描写が素晴らしい。
 

一人、待合室に座る座長。
少し離れた場所に内縁の妻がいて、お互いの存在に気づき出す。
微妙な空気が辺りを包んでいる。
 
間を変えるべく、座長はタバコをくわえるがマッチが見つからない。
その様を見た内縁の妻は荷物はそのままに座長の前に移動。
持ってきたマッチをすって座長のタバコに火をつけようとするのです。
 
そんな内縁の妻の行為を無視し続けてマッチを探す座長。
とうとうマッチが燃え尽きてしまいますが、2本目のマッチをすって、
再び座長のタバコに火を付けようとする内縁の妻。
 
座長は始めのうちはそのマッチを避けていましたが、
根気よく丁寧に火を付けようとする内縁の妻に負けて、
結局、その火を受け取ることになったのです。
 
次に内縁の妻が自分のタバコを取り出して口にくわえ、
座長の火のついたタバコを拝借。それで自分のタバコに火を付けたのです。
そして何事もなかったかのように座長の元の指に拝借したタバコを戻しました。
 

予測できた流れではあるのですが、

 
          二人関係性修復される

 
                                      表現を楽しんだのです。 
 


二人分の切符を買っている内縁の妻に座長が声をかけます。

            「あそこの荷物を忘れるなよ」 と、
 

これで元の日常に二人の関係性が戻ったことを知りました。
 
 
今作のラストは夜行列車の中、仲良く晩酌をしている二人の姿でした。
このまま二人の旅役者としての人生が続いて行くことを彷彿とさせるものでした。
 
そして、今作の正真正銘のラストカットが列車の赤いテールランプだというのが
実に心憎いと思いました。  
   
   
 

今作を鑑賞して感じたことは、  

   
        いつもの小津作品とはだいぶ違っていたけれど、
        まさしく小津作品そのものでもあった映画、
 
 
                                                                             というものでした。 
  
 

大映でちょっと冒険してみた

 
                    小津さんの嬉々とした表情
 
                                                                               伺え、


それでも
 
                    しっかりと小津節かせてきた
 
                                                                               のです。  
   
 
ガチガチに作風を固めてきた大船調とは違うバランスを持つ今作は
非常に魅力的でした。
晩年になってから他の映画会社で制作した、しかもカラッと大らかな東宝で撮った
 「小早川家の秋」 も再鑑賞したくなってきたのでした。

と、穏やかなに締めるところでしょうが、 

 

    
やはり、直接的暴力は、ハメぎだ。



          
と小津作品に発言して終えることにします。




自らが強固なものとならしめた 「松竹大船調 」の殻を破る



     小津らしからぬ満載

                      今作でありました。



しかし、その根底には小津監督の職人芸が



     随所に、そして細部にまで

              行き届いた逸品となっていました。



特に、名シーン【豪雨の中の罵り合い】 は小津らしからぬシークエンスでありながら
その実、


     小津美学裏打ちされた

             ものであることを強く認識しました。



一部、ハメを外しすぎたと感じるところはありましたが、


「大映」という違う環境の中で、冒険をし、その中で自らの経験を結実させた、



      絶妙バランスいた傑作 




                         評価します。




  
無題 
    




無題2 



                                
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