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通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
未完成Ⅰ 「そして父になる」 第1回目 未完成レビュー
2014-12-31 Wed 23:09
そして父になる1


通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてアンドロイドタブレットを使っての車内執筆を実行中。

そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を


        ツイッターで「実況」。

ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて


       「鑑賞中ツィート」 としてアップ。

作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中ツィート」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
 
       「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。



最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる


       「完成!レビュー」


                 へと変容していく様をご覧下さい。




今回は 「鑑賞中ツィート」 を再構成した 「未完成レビュー」 を3回に分けてアップしていきます。 




第1回目



小学校受験の親子面談からこの映画は始まる。

何てイジワルなんだろう。


そう思いました。この家族は程度の良い私立小学校を志願できる素養を持っていることを、これ見よがしに訴求してきたのです。

    今作のテーマは 「子供の取り違え」。


私立小学校を志望しているこの家族の対になるもう一方の家族は

                        対象的な立場として登場することが容易に推測が付く 。 

そして福山雅治演じるこの父親の勤務先や高級高層マンションの自宅もその 「対比」を想像してしまう。

そんなこの家族の悲劇は、

この家族の幸せの絶頂の少し前


をわざわざ選んでやってくる。どこまでいじわるなのだろうか。

私立小学校合格直前。大きな困惑の中、合格を知る。しかもその合格した我が子は、


    我が子ではないかもしれない。

という宙ぶらりんの不安。


複雑な思いの中の祝杯。この上もなく残酷な舞台設定でした。
そして、「残酷な舞台」 と、前述の「対比」 を訴求したのがまさに、

                        取り違えを告知する場面でした。

舞台はホテル。結婚式出席者のおめでたムードと扉1枚隔てた部屋だったのです。

DNA鑑定を経て正式に「生物学上の親子」 を否定された彼らは片割れの家族と面談。
スマートな福山家に対比されるのがリリー・フランキーの家族。野暮ったさを醸し出しての登場でした。


会談の最中、「こうゆうケースは最終的には、100%、ご両親は、交換という選択肢を選びます。」 との発言受けて、

今作の主人公達の終着点はやはり

「子供の交換」 

      なのかという予見が生じてきたのです。


しかし、この時点で、このようなネタばらしのセリフをわざわざ入れてきた意義があるはず。と心のアラームが鳴った瞬間でした。

この会談の後、今作は分かりやすい 「対比」 を訴求してきました。それが、2つの家族が家路に戻る際に乗り込む自動車。

スマートな福山家が乗り込むのがカッコイイ スポーツタイプ車。
一方の野暮ったいフランキー家はお店で使っている社用車。


今後このような「対比」 を折々に提示してくることでしょう。そしてきっと、様々な 「対比」 の数々によって、2つの家族の歴然とした 「格差」 があぶりだされていくのでしょう。

「子供の取り違え」 という共通のアクシデントを発端にして、 「経済格差」 という問題点を提示。それによって、福山家とリリー・フランキー家の関心事が違っていくことを認識することになります。

福山家は、育ての子と血縁の子、二人の確保。
一方のリリー・フランキー家の関心事は 病院側からの慰謝料の金額


                                      でした。


一方は子供二人の確保。他方は慰謝料。

まさに 「経済格差」 によって生じたあからさまな 「相違」 でした。 
今後 「二人の子供の確保」 の思惑と 「慰謝料の金額」 の思惑がどのように動いていくのか、注目をしていきたいと思ったのです。

二つの家族の関係は 「子供の(一泊)交換」 へと進んでいきます。その中で明らかに、ある人物の印象が変化を見せてきました。
その人がもう一方の父親リリー・フランキー。

実に人間味溢れる人物として表現されてきたのです。

そしてリリー家の嫁も、当初のガサツな印象から、大らかな優しさを持った女性として表現されてきたことに大いに興味を持ったのです。

「子沢山で貧しいが、人間味溢れる人達」 としてキャラクター変更してきたのです。

これに伴い、福山家の面々も立ち位置が変わってきました。
一泊交換後の 慶多 (福山家育ち・実はリリー家実子) にリリー家嫁の人柄を聞きたがる福山家嫁。相手家族に圧倒されている気配を感じました。

肝心の福山は、リリー家で 慶多 (福山家育ち・リリー家実子) がかすり傷を負い、リリー家からの謝罪がないことに立腹。度量の狭い男のような表現がなされていったのです。

一泊交換によって

両家の関係が微妙に変わっていったようです。

物語は進み、4月。 慶多 (福山家育ち・リリー家実子) の私立小学校の入学式の日を向かえました。福山家にやって来るリリー・フランキー。初登校の様子を嬉々としてビデオ撮影をする姿を見て彼を応援したい気持ちになっていきました

このシークエンスをキッカケとして今作は拙速気味に二人の父親の関係を語り始めてきたのです。 

                                           

頑なで仕事偏重の福山に 「家族の絆」 を問うリリー・フランキー。

             返す言葉で 「二人ともくれ」 と言う福山。                       


突如、険悪な雰囲気か! と思ったらやられました。

「二人ともくれ」 と言われたリリー・フランキーは激怒かと思いきや、「ペシッ」 と福山を諌めるように頭の上を叩いたのです。
そして 「金ならある」 と言う福山に対して、まっとうに常識的な言葉で諭すのでした。

ステイタスは福山の方が上なのでしょうが、人間性においては一枚も二枚も、リリー・フランキーの方が上にあることが分かった瞬間でした。
少しずつですが、福山が野暮ったく、リリーがカッコ良く見えてきたのです。

  当初、気になっていた 「経済格差」 は、

夫々の 「人間性」 という関係に

反比例してきたようです。


面白い展開です。  あっ!でも、もっと興味深い展開を今作は提示してきたのです。それは唐突な広がりでした。

  病院との訴訟での場で爆弾証言がなされたのです。

  元看護師が故意に 「子供を交換」 した。との告白がなされたのです。


福山家とリリー・フランキー家の 「差」 を追ってきた今作に、突如としてその 「差」 を創出してきた元看護師という存在が降臨してきたのです。

元看護師によると、福山家が余りにも幸せそうで、故意に 「子供を交換」 したとのことなのです。

今後、「子供の交換」 「両家の差」 「創造主・元看護師」 の関係がどのように展開していくのかを注目したいと思ったのです。

しかし、今作が訴求してきたのが、「福山の父親の存在」 でした。ボクの興味の対象からズレていったことに、大きな失望感を味わいながらも、「福山の父親との」 関係を見ていくとそこには、

「血の繋がり」

 

という問題にいきついていたので。 琉晴 (リリー家育ち・実は福山家実子) との「血の繋がり」 を力説する父親。
しかし

 「血の繋がり」 のある父親に

 

反発している福山 


                         という図式も浮かび上がりました。




その2に続きます。
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完成! 「八日目の蝉」
2012-12-17 Mon 21:18
1 





懸念材料を逆手に取って、鑑賞動機に結び付けた



     演出手腕は、かに見事
  
          
                      でした。



しかし、15年の時を隔てて同時に展開する2つの関係性をパラレルに推進することができず、しかも、構成要素の取捨選択に迷いを生じたが為に



     訴求点不明瞭


                   となってしまったのは、
                   大変、残念なことでした。
 


主人公をド真ん中に据えて、彼女自身を語り尽くすべきっだったと考えます。
そうすれば、



     終盤せてくる感情噴出に、



              何のわだかまりなく、
              ドップリと
身をまかすことができたはずです。    
  



随所に見せる確かな演出を鑑みると、



  トータルバランス十分配慮がなされた 
逸品



                               となるべき作品でした。









赤ちゃんを誘拐された母親と、赤ちゃんを誘拐した女の独白から幕開けをした今作は、
しょっぱなから 

 

       雰囲気っている。

 

        主人公である女は不倫相手の赤ちゃんを誘拐したのです。

 

この独白で興味深かいのは、妻と愛人の人間関係。お互いの存在を認識し、

 

     妻側愛人して攻撃的態度  


                            を取っている点。

  

毎日、不倫の抗議電話で愛人を罵倒するという。しかも、夫婦間の性生活の自慢も聞かされていたという。 



   
 愛人堕胎によって子供めないになり、

    妻出産をする。  

 

                      そんなあからさまな
                      対比となっているのです。



今作はこの冒頭部分だけで、加害者である愛人に同情の念を持たざるを得なくなるよう、仕向けてきました。

 

 愛人は不倫相手宅の留守に忍び込み、赤ちゃんを抱きます。
そうすることで、不倫関係清算の踏ん切りにするはずでした。

 しかし、その思いを崩壊させる、奇跡のカットに続いていったのです。

愛人が抱き上げた瞬間、ニコッと赤ちゃんが大きな笑顔を見せてきたのです。
絶妙のタイミング。
赤ちゃんがまるで意思を持っているかのようでした。


愛人はその笑顔を見て
 


      められた、
      された


                と感じたと語っています。


堕胎で赤ちゃんを殺してしまったことや、不倫をしていた負い目を、

この笑顔は許してくれた、
 

                と。 

 
 

       慰め と  し。


愛人は赤ちゃんの存在に 救済 を見い出だしたかったのではないでしょうか。
救いを懇願するが故に意識が超越していった愛人は、その女の赤ちゃんを
カオル と呼び掛けるのです。 カオル とは、愛人が亡き子に名付けるつもりの名前だったのです。


赤ちゃんを抱きしめ、そぼ降る雨の坂道を走しり降りて来る愛人の姿は、  

 

     しくも、ろしい  
 
                   カットでした。

 

 

  

          彼女は、誘拐をしたのです。

  

 

 

場面は突然、カオルが20歳頃に成長した現在の時制に飛んでいきます。

成長したカオルは、ぶっきらぼうな女になっていました。
そこにカオルの誘拐事件を追うフリーライターの女がからんできます。
この女にも カオル同様の不器用さを感じたのです。
過去と現代のカオルを巡る物語が進行していく中  

 

      懸念2つの設定

                  同時出現してきました。



1つ目

成人したカオルの場面において。カオルが妻子ある男性と不倫関係にあるという設定。
育ての親である愛人と同じ境遇にもってきたところに

  

       ありがちな  「世代間連鎖」 
 
                        という流れを感じ、

                        
 
         警戒をしてしまったのです。

 

この後、カオルが不倫相手の子供を妊娠する展開になるのか要注意です。
 




2つ目
は、

カオルを誘拐した直後、逃走する愛人が 「エンジェルホーム」 という新興宗教的な自給自足集団に身を寄せるという設定が提示されたのです。

「エンジェルホーム」 とかいう極端な舞台を提示してきたことに、 


    本来テーマボヤけてしまのではないか


                             と不安になったのです。  

 

 

               が.....

 

 

 心配した通り、
 カオルは不倫相手の子供を身籠り、

 「エンジェルホーム」 は現実離れした集団の様相へ。


こんな有様になってしまった今作の行く末を悲観した瞬間、
突如として
 

     予想だにしなかった関係性

                        提示 されていったのです。

 

この展開は、今作に対して諦めの気持ちを抱いたボクに、大きな驚きをもたらしてくれました。しかもそれは、ボクが諦めの気持ちを持つことになった2つの要素が絡まっていたのです。


今作には、カオルに取材をかけてきた女性フリーライターが登場してきたのですが、
2つの警戒要素のうちの1つ 「カオルの妊娠」 をキッカケにして、その女性フリーライターとカオルは心を通わせてゆくのです。

二人とも真っ直ぐで、世渡り下手なところが似ているなと思っていたら、

そのフリーライターは何と、エンジェルホーム」 でカオルと


        姉妹のようにしてった。 

                        と言いだすのです !





  この予想もできなかった展開

               不意たれて、んでしまったのです。



「カオルの妊娠」 によってフリーライターの存在感が急増した矢先にこの展開。
しかも、舞台は 「エンジェルホーム」 なのですから、 ボクの警戒心をことごとく逆手に取って、



        きにえていったのです



みるみるうちに、今作に対する期待がまた、大きく膨らんでいくのを感じました。



強い縁を感じたカオルとフリーライターは、取材旅行として、エンジェルホーム跡地を訪ねていきます。
今や廃墟になってしまったその場に佇むと、いつしかカオル達がこの施設を逃げ出して行った日のことが映し出されていきました。
愛人は誘拐犯であることがバレる事を恐れて、エンジェルホームを逃げ出して行くのです。

 

     あれ? と思いました、

 

せっかくカオルとフリーライターの関係性に興味が持てたところなのに、その共通体験であるエンジェルホームを早々と抜け出して、このスチュエーションを活用しないことを残念に思ったのです。

 そして同時に、あれだけ嫌っていた 「エンジェルホーム」 だというのに、カオルとフリーライターの興味深い関係性が提示された瞬間、エンジェルホームを後にすることを心底残念に思う 。そんな


       ガラッわった自分態度

                          にも、興味を持ちました。



エンジェルホームを離れてしまって、カオルとフリーライターの関係性は発展しないのかと心配していたところ、この二人はもっと深い方向に展開してくれたのです。

  それは、取材旅行中のホテルでのこと。
  不倫相手の子供を産む決心をしたカオルに対して、
  自分もその子の母親になりたい、と言い出すフリーライター。
  そして、自らは、男性恐怖症で、普通の結婚が望めない人間なのだ。

                              
                                 と告白するのです。

 

 フリーライターの存在がここまで大きくなるとは思いもよらず、うれしくなってきました。

 「カオルの妊娠」 「エンジェルホーム」 と、反感を持ってしまった素材を

 
  
     ものの見事に料理して、
 

             フリーライター必然性創出 したのです。

 

エンジェルホームという女性だけの特殊な環境で育ったが故に、男性に恐怖心を持ち、しかし、カオルの妊娠によって


      そのコンプレックス克服する


                        そんな方向に動き出した彼女に、
                        大いに興味を惹かれたのです。



前向きな感情を持ちながら鑑賞を続けていくと、 二人の取材旅行は小豆島へと続いていきました。

エンジェルホームを出た愛人とカオルの行き着いたところなのです。
今作はその地での愛人とカオルの生活を語ってくるのですが、
ここにきて

   彼女のことを愛人と呼ぶことに
 

             違和感てきました

 

何故なら、映画は 母と子の心通うストーリー を語り始めてきたからなのです。
愛人は、キョウコと名乗っていました。


    キョウコとカオルは小豆島に流れてくるのです。

    小豆島には、ささやかな幸せがありました。


地元の人の優しさに触れ、カオルにもちょっと歳上の友達ができたのです。
そんな穏やかな日々の中で、今作はささいな。でも、シリアスな予感を訴求してきました。

歳上の友人たちが小学校に入学したのです。微笑ましいシーンではあるのですが、


        一抹しさがよぎりました。



何故なら、このキョウコとカオルの二人は、

 

        小学校入学というれの
                    してえることがない。 

 

                   観客は察知しているからなのです。



そう。二人の関係性は義務教育という戸籍管理が始まる前にしか、存続することができないのです。 年上の友達の小学校入学という微笑ましいシーンによって、今作はこの二人が親子でいられる時間が

 

            かであること 

 
                        そっと訴えかけてきたのです。



このような小技を楽しみながらも、またしても、不満の気持ちが湧きあがってきました。

何故なら、小豆島に舞台が移ってからは、もっぱらキョウコとカオルのつましやかな生活が提示されてきたために、現在の時制に生きるカオルとフリーライターの存在感が急落してしまったからなのです。


  小豆島に来る前には、フリーライターの役割に大いに興味を持たせてきたくせに、

  小豆島では、一転して母子にフォーカスを当ててきた

    そんなアンバランスさが
 

               になって仕方なかった のです。



   現在のカオルとフリーライターの関係性と、
   逃走中のカオルとキョウコの関係性が


               並列いておらず、
               連動配慮がなされていないことに



         もどかしさを  感じてしまったのです。




小豆島に舞台を移してからは、映画の主題はカオルを巡る 「母性」 を語ってくるものと推察していたのですが、上記の通り、
  


            母たるキョウコの、カオルに対する 「母性」  

                       が語られても、現在を生きる
 

     カオルの我が子への 「母性」 も
     カオルに託したフリーライターの 「母性」 も 
 

                                    一切語られる気配がないことに、

 
 

               疑問じていたのです。 




そんな不満を抱えながらも、小豆島を訪れたカオルの存在意義が大いに発揮される時がやって来たのです。

それまで無感情で小豆島を訪れていたカオルですが、記憶を呼び覚まされたのでしょう。突然、
 

         かれたように 

                 1つの場所目指のです。



それは小豆島の穏やかな日々を過ごした民家だったのです。 その民家を目指すカオルの表情に様々な声が被さってきました。それは、小豆島の暮らしの中でカオルたちを優しく支えてくれていた人々の声だったのです。

それまで無感情だったカオルの表情に 


           
意思じました。

 

                     あの頃の記憶がまざまざと蘇ったのでしょう。
                       ボクはそんな彼女の覚醒に、
                     徐々に心を動かされていきました。




しばしの高揚感の直後、しかし、 


          きなしさの 
  

                        叩き込まれたのです。 


小豆島の我が家は売り物件となっていたのです。
お世話になっていた大家さんを始め、幼少時に楽しい日々を共に過ごしてきた心優しき人々の存在感も見つけることができませんでした。
 

 

       それだけ 年月無為っていた

                           
                                    のです。

  

4歳時のカオルとキョウコを巡る島の人々たちとの心暖まる生活を表現しておきながら、 現在の時制のカオルの素っ気なさが気になっていたのですが、

その素っ気なさは、 この場面における



     「覚醒」 と 「落胆」 を
 

                        必要だったのだ、

                                    と思えてきました。



映画は4歳時のカオルとキョウコが小豆島を離れる場面へと続いていきます。
素性があらわになりそうになっての再びの逃行となるのです。

島を出て行く前に、二人はある行動をとるのですが、その行動とは、写真館で二人の姿を撮影することだったのです。


ボクはこの時点で
 

      二人れがことを 
 

 

                     りました。

 

 
何故なら、この島のあのコミュニティにおいて、写真館で写真を撮るということは、小学校の入学を示していたからなのです。

カオルのちょっと年上の友達が小学校に入学するシーンがここにきて輝き出すのです。 全員が小学校入学を祝して写真館で撮影していたことを思い出しました。

そして同時に、義務教育という管理が二人の関係性に終止譜を打つ予感 
 

                                    も思い出したのです。
 

 

         「入学 = 写真館」    という式と、
         「入学 = 別離」     という式が並列しており、

 
そこから    「写真館 = 別離」   という予感が

 

                        ボクの心の中に発生していったのです。

 
 

 

            きっと別離いはずです。
 
 

 

 

物語は何の収穫もないまま小豆島を去ろうとする現代の二人へと続きます。
そして、フェリー乗場でまた記憶の断片が蘇ってくるのです。

カオルは駐車場の一角に不安に佇む4歳時の自分を見るのです。 

このフェリー乗場で逮捕されたことによって、4歳時のカオルとキョウコの別離がなされていきました。

4歳時の別離の場面を思い出したカオルは、また1つの場所を目指します。
それは別れを予感させた写真館でした。
写真館のショーウィンドウを真っ先に覗くカオル。
 

     えっ!まさか!! 

                   と、ボクは大きな期待を持ったのです。 



しかし、その大きな期待は淡くも吹き飛んでいきました。

そのショーウィンドウには別離時に撮影した二人の写真なんて、飾ってあるわけもなかったのです。



         あーガッカリ!

 

小豆島で、何一つ、カオルの痕跡を探しだすことができなかったくせに、唯一の存在の証しである記念写真が、



    ひっそりとショーウィンドウに飾られ続けていた。
 

                        そんなカタルシスを夢見たのです。



 残念ながら、ボクが夢想したような展開にはなりませんでしたが、この写真館での出来事が今作のカタルシスを形成していくことには違いはありませんでした。

カオルは別離時に撮った写真を初めて目の当たりにするのです。

4歳時の自分と、記憶があやふやになりかけていたキョウコの姿カタチ、そして顔を。
あやふやなイメージと化していたものは、


   
確かに実在したという

         リアルな触感 のようなものとなり、

                    カオルの脳内を駆け巡ったことでしょう。

 

           封印していた全ての記憶が噴出 したのです。

 

そして、写真を撮影する一瞬前、キョウコから託された
「大好きよ。」  という愛の言葉をカオルは、

 

         まざまざと思い出したのです。



キョウコの愛情を今、まさに再認識をし、心を揺さぶられたカオルは、長い年月、心の奥底に押し込めていた言葉を一気に吐きだします。



    「この島に戻りたかった、

            ずーと島に戻って来たかったんだ ! 」    と。



しかし、実父母に気兼ねして、島への想いを封印し、半ば強引に無関心を装っていたのです。
これでカオルの


       でのない表情

                      合点 がいきました。



彼女の無感情の裏には、このように 


                複雑気持が 

                                             隠されていたのです。




別離時の写真に触れて、全ての記憶を取り戻したカオルは、この島での全ての生活を、
そして自分も、母であるキョウコを愛していたことを、



                     しっかりと 自己認識 をしたのです。

 

そんな、ありのままの自分自身を発見していく展開の中で、今作は次なる展望を持って終結していきました。

母から愛されていたという事実を認識したカオルは、その気持ちを、お腹の我が子に伝えていくのです。


指名手配をされて自由とお金が無い中でも、幸せをもたらしてくれた母と同じように、
自分も我が子を慈しみたい。
そんな感情を昂らせたカオルの姿を映し出して、今作は終結していったのです。



心の扉を閉ざしてきたカオルが赤裸々な自分を取り戻すに至るエンディングは、
心を振るわされるものがありました。

ここで母たる


      キョウコの 「母性」 が
      カオルによって継承されていく様


                         を見ることになるのです。


いびつな形状ではありますが、ありがちな 「世代間連鎖」 の域を超えた


       感情 を得ることはできました。




しかしながら、鑑賞し終えたボクの率直な感想は、



         「テーマをしっかり訴求してしかった


                         という言葉に集約されてきたのです。



成人したカオルと行動を共にするフリーライターの存在感が急騰したかと思ったら、
一気に急落したり、
結局は「エンジェルホーム」は必要だったの? と思えたりと、
不必要と感じる要素に時間と労力を費やしていたと思えてしかたがなかったのです。


発展させる気がなかった枝葉を省略して、 


             ストーリー本筋丁寧ってしかった、 


                                                                             と思ったのです。



例えば、

【成人したカオルの無感情ぶりと、そうならざるを得なかった、奪還後のカオルのギスギスした生活】   や、

【小豆島のささやかでも、暖かい触れあいのある幸せな生活。そして、いつか必ずやって来る別離への恐れ】  そして、

【逮捕後の16年間、一度も会うことはなかったが、それでも心の片隅で気持ちを通わせていた 「親子」 のストーリー】

などといった要素をしっかりと訴えていれば、ラスト、写真館でのキョウコの言葉 、
「大好きよ にもっと素直に反応できたかもしれなかったのに...。
そして、ラストカットの長廻しの一魂が、表面的で技巧的なもので終わらずに、

 

カオルの 「魂解放」 と 「自己奪還」 を

         力強く訴求してきたことを

                  直感的理解 することができたはずなのです。




そう、ラストカットは大変興味深いものでした。

別離時の写真によって記憶が覚醒したカオルは湧き出る感情に突き動かすされるように写真館を飛び出します。

  走って、走って、そして、

ラスト2分45秒の長廻しの中に、映画のこれまでの1時間 21 分間を黙り通してきた

 

【 誘拐されていた4年間が、その後の16年間よりも、何よりも愛しかった 】

 

                               という自分の真実を吐き出し、



自分の 「母」 を初めてリアルなものとして認識したことがきっかけとなって、
今度は自分がその 「母」 となる覚悟を決めていたのです。

そんな

    まぐるしい展開を、

                  執拗にカメラは追いかけ、
                  たったの 1カット表現してきたのです。



このように、技巧的にもコンセプト的にも秀逸なカットであるはずなのに、映画の中に配置されると、


         その

                  なわれていったのです。




              
不思議なことでした。





素晴らしいパーツがあるにもかかわらず、それを輝かせることができなかった原因が

ボクには


       
作品自体バランス


                      である、とどうしても思えてしまうのです。





やはり、ここでも同じ言葉が出てきてしまいます。


      テーマをしっかりと訴求するべき

                              だった。 と、





そうすれば、ラストカットに寄せてくる様々な感情に    

                    素直
反応できたはずなのです。 



そして、技巧的なだけではない、コンセプトだけではない、


       感情さぶるを、


                  今作は提示することができたはずなのです。







懸念材料を逆手に取って、鑑賞動機に結び付けた



     演出手腕は、かに見事
  
          
                      でした。



しかし、15年の時を隔てて同時に展開する2つの関係性をパラレルに推進することができず、しかも、構成要素の取捨選択に迷いを生じたが為に



     訴求点不明瞭


                   となってしまったのは、
                   大変、残念なことでした。
 


主人公をド真ん中に据えて、彼女自身を語り尽くすべきっだったと考えます。
そうすれば、



     終盤せてくる感情噴出に、



              何のわだかまりなく、
              ドップリと 身をまかすことができたはずです。    
  



随所に見せる確かな演出を鑑みると、



  トータルバランス十分配慮がなされた 
逸品



                               となるべき作品でした。 




 











八日目の蝉2 


                                        八日目の蝉3

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完成! 「ソーシャルネットワーク」
2012-02-25 Sat 22:01

         ソーシャルネットワーク1




今作は 「訴訟」 をかかえる現在と、その発端となる4年前の過去が絡み合いながら
「訴訟」 の原因を探る形態を取っていきました。


しかし、ボクの興味は 「訴訟」 についてではなく
主人公の行動様式が


   
「劣等感」 から派生し、
                                  その 
「劣等感」 逆手った



           
「開放・拡大」路線 


                であったことに集約されていったのです。



そして、そっけなく進行してきた今作が、一転して


     
 「市民ケーン」 における 
                
            “
バラ
つぼみ”

                          という、

情緒的
としどころ に終結させてきた


           節操さ 


                  を楽しんだ鑑賞となりました。




今作はフェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグの学生時代から物語を始をめてきました。


彼はハーバード大学の学生で、コンピュータおたく。
ガールフレンドに振られた腹立ちから 


    「写真付女子学生対決型ランキングサイト

                        を作ることになります。



そのサイトは余りもの人気で、ハーバード大学のシステムがダウンしてしまう
程だったのです。 当然、女性たちからは敵視されるのですが、逆に彼の能力
に注目する者が登場します。

ここで、今作のキーとなる

           「ファイナルクラブ」

                      なるものが姿を現すのです。



ハーバード大学には8個の 「ファイナルクラブ」 というものが存在するら
しく、ルーズベルト大統領も  “ポーセリアン” という 「ファイナルクラ
ブ」 のメンバーであったという。

そして、秀才揃いのハーバード大学生の中でも、選ばれし者しかこの 「ファ
イナルクラブ」 に入れないことも判ってくるのです。

今作の主人公であるマークは 「ファイナルクラブ」 のメンバーに選ばれて
おらず、エリート意識が強い彼は当然のことながら、このメンバーになること
を渇望しているのです。

マークのコンピュータ知識に注目したのが、その 「ファイナルクラブ」 メ
ンバーであるウィンクルボス兄弟という双子だったのです。


ウィンクルボス兄弟はハーバード大学生に限定した 「ハーバードコネクショ
ン」 という自己紹介サイトの構築をマークに依頼。 
勿論、「ファイナルラブ」 への興味を顕わにしていたマークは快諾します。

そして、ここまで単調だった今作は、やっと動き始めることになるのです。
何故なら次のシーンは学生時代から


    経過した 「訴訟」

                  時空が飛んでいったからなのです。



時制の多重化が図られたことと、人間模様が交錯する 「訴訟 」 の場となったことで、


    退屈していた今作

          推進力わってくれた。

                    とボクは期待し始めたのです。



4年後の新しい時制には 「ハーバードコネクション」 を依頼してきたウィンクルボス兄弟がおり、マークと係争中のようです。そしてこの新たな時制には、新たな人物、
エドゥワルド が登場してきました。 彼の登場によって今作に興味深い


      「根元的謎」

                                               が浮き彫りにされてきたのです。


エドゥワルド という人物は マークのハーバード大学での友人で、マークに誘われるがままに 「ハーバードコネクション」 の


      基本コンセプトを流用 して、


彼らのサイト 「ザ・フェイスブック」 ( 「フェイスブック」の前身 ) 
を構築することになるのです。

「ハーバードコネクション」 のコンセプトを盗用されたウィンクルボス兄弟がマークを 訴えることは理解できても、漁夫の利を得たエドゥワルドが原告となる 「謎」 に遭遇したのです。

とは言っても、この 「謎」 はストーリーを追っていくうちに解明してくれる類いのモノであるでしょうし、ボクが興味を覚えた 「根元的な謎」 ではなかったのです。


     「根元的謎」 それは


 【 何故、マークはウィンクルボス兄弟を裏切って、

      エドゥワルドと、「ザ・フェイスブック」を立ち上たのか?  】


   という


      「素朴疑問」 だったのです。



「ファイナルクラブ」 への入会を渇望しているのなら、ウィンクルボス兄弟
に貢献して、メンバーに推挙してもらえばいいのに.....。 
と思えてしまったのです。


そして、その 「素朴な疑問」 が結果的には、マークのこれからの行動様式を決定付ける
 

       「根元的動機」

                   となっていたのです。


この時点では、この 「謎」 がマークの行動様式を決定付ける


       「根元的動機」

                    になるなんて思いもよらず、


   単なる 「素朴な疑問」 として以下のように感じたのです。



 【 ウィンクルボス兄弟に反目することになった原因は、

        の コンプレックス   だったのではないか  】

                                                       と。



何故なら、今作の冒頭のガールフレンドに振られるシーンにおいて、彼女の理
想の男性像としてボート部員が例に挙げられていたことを思いだしたのです。

ウィンクルボス兄弟はボート部のスター選手でハンサム。ましてや 「ファイ
ナルクラブ」 のメンバーなのです。
方やオタクでパッとしない外観、そして 「ファイナルクラブ」 に入れないマークが、


   ウィンクルボス兄弟反感 を持つ

                      ことは理解できます。


そして更に、重要なことに気付いたのです。
それは、今作の冒頭、ガールフレンドから振られるシーンにおいての


    「負感情」 が、

         サイト開発める
               
になっていた事実  

                            だったのです。


(この時は 「写真つきの女子学生対決型ランキングサイト」 でした。)




マークのサイト開発を推し進める原動力が

      「負感情」

                だと仮定すると

「ザ・フェイスブック」を開発させたマイナスパワーは
この、選ばれしハーバード大学生である

  ウィンクルボス兄弟への

           劣等感だった。

                    と思えてならなかったのです。


この 「負の感情」  という思い付きは、この後の 「ザ・フェイスブック」
の進展を見て、自信を深めていったのです。

「ザ・フェイスブック」 は初めは、ハーバード大学生に限定されたサイトで
した。
しかし、マークの判断によって、エール大学や、コロンビア大学などにも拡張
することになっていったのです。この経営判断には、マークの


     非常私的感情 

                  隠されていたのです。



 ガールフレンドに振られた 「負の感情」 

           「写真付き女子学生ランキングサイト」 の.....。

そして、
 ウィンクルボス兄弟への  「負の感情」 

           「ザ・フェイスブック」 の


                原動力


                        だと信じる者としては、


「ザ・フェイスブック」 のエール大学や、コロンビア大学への拡張も同じ理
由だと思えてしかたがないのです。

何故なら、彼を冒頭で振った元カノとの再会の後に、他大学への拡張をマーク
が決定したからなのです。


     元カノとの再会では何があったのか?

     結論から言うと 「何もなかった」 のです。



二人きりで話したい と言うマークを、彼女は大人の対応であしらっていった
のです。ヨリを戻すキッカケも、ネットでの中傷を詫びることもできずの完敗
だったのです。


この、元カノとのカッコ悪い再会で生じた

       「負感情」 が 、


「ザ・フェイスブック」 を他大学に

       拡張する原因 になった。

                      と感じたのです。



   【 自分をあしらった元カノに、自分の成果を見せ付けたい。 】



そんな衝動に駆られたのでしょう。
その証拠として一流大学ではなかった元カノの大学もエール大学やコロンビア
大学と共に対象としたのです。

サイト構築の原動力が

    恋人に振らたことや、
    ウィンクルボス兄弟に対する劣等感のようなものや、
    元恋人との気まずい再会                  

という、彼の中 に湧いた


    「負感情」であったことに


 やっと今作においての


        鑑賞目的つけることができたのです。




今後、サイトは爆発的な広がりを見せ、それと共に、マークは大きな名声と莫
大な富を手に入れることになるのですが、その裏に


     「負感情」されて、
     「成功←→負感情」の 映画のルール

             
               が存在していくのかを
                        注目していきたい。



               と、この時点のボクは思ったのです。



この「負の感情」の存在を発見するのと時を同じくして、今作に新たな重要人物が登場してきました。
10代で音楽無料配信会社を立ち上げた ショーン という人物です。
彼はマークと同年代であるにも拘らず、すでにIT業界では時代の寵児 として有名な人物であるらしい。


ショーンとマーク、そしてエドゥアルドは会談を持つのですが、
自己中心的な性格が似かよっているマークとショーンは 「ザ・フェイスブッ
ク」 に広告を持ち込まないことで意気投合。

広告収入をあげたいっと思っているエドゥアルドとは反する立場を取る のです。

ここにきて、エドゥアルドがマークを訴えることになった理由が推測することができたのです。

ショーンという第3番目の男の登場によって、
マークとエドゥアルドの

      二人の間にある 「資質い」

                       が明確になったことが原因
                       と思えたのです。


そんなマークとショーンの急接近を示す象徴的なものが、

    「ザ・フェイスブック」 の 「ザ」 を削除して
    「フェイスブック」 に改名すべき。

                       というショーンの意見に、
                       マークが従ったことに
                       表れていました。


それは、サイトの名前が変わっただけではない、


       きな変化

               予感させていたのです。



    それが、ショーンの台頭とエドゥアルドの没落だったのです。



ショーンの勧めにのってマークはカリフォニア移り、エドゥアルドは東海岸に残ります。
マークとショーンの関係性が構築できたタイミングで、エドゥアルドがカリ
フォルニアにやって来るのですが、その地でショーンがビジネス面を仕切って
いることを目の当たりにするのです。
資金調達に成果をもたらしているショーンをマークも頼っている。
エドゥアルドは当然なことにそんな状況に


     反発心のです。


しかし、ショーンが次々と大型スポンサーをゲットし、4億円もの資金調達に
成功。 「フェイスブック」 の


     商品価値急騰 し、


もはやエドゥアルドの

     能力えたところ 

               行ってしまったのです。


「手に入れたものが大きくなり過ぎて、そして、マークやショーンのレベルに
 追いつけず

     
     自分だけがされた


               エドゥアルドの焦り。



        凡人であるボクは痛切に感じることができました。



そんな、うだつが上がらないエドゥアルドは 「フェイスブック」 に資本参入した

     大人達思惑 で、

                 利権や地位が奪われていくのです。



激高したエドゥアルドはとうとうマークに本音を吐きます。


        フェニックスにった嫉妬?」 

                               と。



そうなのです。エドゥアルド は 「フェニックス」 という名の 「ファイナ
ルクラブ」 に入会していたのです。

マークが入りたいと渇望しながらも入会が叶わなかった 「ファイナルクラ
ブ」 に自分が入会できたこと への嫌がらせなのか?
とボクが以前感じていたことを吐きだしたのです。

しかし、エドゥアルドのこの発言によって、彼が如何に


    現状把握できていなかったのか


が露呈されてしまったのです。その鈍感ぶりは 「フェイスブック」 の世界
から排除されるのも当然のレベルだったのです。

そのように言い切る理由は2つ。
まずは、1つ目。

ウィンクルボス兄弟の 「ハーバードコクション」 のように、ユーザーが
ハーバード大学の学生に限定 された閉鎖的な空間においては、マーク
の 「負の感情」 というチッポケなものがサイト全体の方針に 

 
     きな影響ぼしていた

                       ことでしょう。



しかし、他の大学をも取り込み、西海岸まで到達した 「ザ・フェイスブッ
ク」 の広がりを出発点にして、
他資本の参入を得て、イギリスをも巻き込む 「フェイスブック」 に拡大し
た巨大サイトにとっては、 個人の 「負の感情」 などというものは


     るにらないもの
               
                 になっていたのだと思うのです。


エドゥアルドが 「ファイナルクラブ」 に入会したことをマークが嫉妬した
としても、 彼個人の 「負の感情」 によって会社役員であるエドゥアルド
を失脚させることは、
コーポレイトガバナンスの見地から不可能になってしまったほど、


     会社成長していたのです。


そして、ボクの個人的な見解によると、マークの 「負の感情」 


     サイト拡大行動基盤

                        である訳ですから



今更、影響力のないエドゥアルドを失脚させたところで、
サイト拡大は見込めるはずもありません。
ですから 「ファイナルクラブ」 に入った嫉妬によってエドゥアルドを失脚させることは、


    制作者文脈ではない。


                    と確信していたのです。



そして 2つ目の理由は、

「フェイスブック」 がその名に 「ザ」 を付けていた 「ザ・フェイス
ブック」 の時代には、「ファイナルクラブ」 という既成の権威もその
存在意義を発揮しておりましたが、
今や100万人のメンバー数を誇るサイトのオーナーとなって


     らがたな権威

                 となったマークには


「ファイナルクラブメンバー」 という古臭い称号は、もはや

     価値もなかった

                 と思うのです。


エドゥアルドが 「ファイナルクラブ」 に入会しようとも、
そもそも、マークには嫉妬などする必要がなかったのです。


    「ファイナルクラブ」 の誉れに身を寄せるエドゥアルドと、
     そのレベルを遥かに超えていったマーク。
 

エドゥアルドの 「フェニックスに入った嫉妬か?」 の発言がなされた瞬間
に、二人の間に発生していた
 
         「属性い」

                   が露呈されていったのです。



そもそも、ハーバード大学生限定のサイトを作りたかったウィンクルボス兄弟
やエドゥアルドも、「ファイナルクラブ」 という

       ばれし栄誉  りかかっている 点で、



         マークとは根本的に違っていたのです。



選ばれることがなかったマークは

      「排他的である、という呪縛から

                    たれて いたのです。


 それ故、

      「拡散」という方向性 を選択することができ、

      「拡散」によってサイトも、彼自身も、



              までの ことが
                               できたのでしょう。



このように 「排他」→「拡散」 という方向性を打ち出してきた今作の流れに逆行する


    「排他的」 な 「ファイナルクラブ」員

                   となったエドゥアルドは


    今作から排斥される運命

                   だったのです。



映画の文脈の中では、エドゥアルドの排斥を十分に理解することができました
が、その場面においてのショーンの描き方に、ボクは次なる興味を持ったの
です。

登場当初は若きIT界の先輩として、マークへの影響力を発揮してきましたが、この局面に至っては、

     マークの利権に絡みつき、
     エドゥアルドの排斥にやっきになる

             悪役 となっていたのです。


ショーンの描き方が急変したなと思った途端、彼は女性にだらしないという側
面も訴求されてきたのです。

しかもエドゥアルド排斥の場においての ショーンの横柄な態度に対してマークからは

     「やりすぎだ」

               と批判されるありさまだったのです。


ショーンに対する激変は表現上だけのことではないはず
と思った矢先にやって来たのは


     ショーンの凋落
                 だったのです。


いかがわしいパーティに踏み込まれ、薬や未成年女性同伴によって、今作か
ら、そして 「フェイスブック」 の巨大なビジネスからも退場を余儀なくさ
れるのです。
まさしく 「おごれる平氏は久しからずや」 の言葉を思い出しました



 こんなショーンの退場劇を見届けて、今作はストーリーを語り終えて
 いったのです。




今作のラストシーンは、訴訟を抱えている現在の時制において、


    学生時代の友人エドゥアルドを失い、

    信頼していたショーンをも失ったマークが

 

            一人オフィスに残って、
            PC画面を見つめている映像

                         となっていました。



その映像に、訴訟の原告であるウィンクルボス兄弟やエドゥアルドに対して

 【 秘密保持の契約を盛り込んで、
            訴訟額より大きな金額を和解金として支払う 】


                  ことで、この訴訟問題を決着をさせた
                  旨の字幕が挿入されるのです。


結局、彼は訴訟で闘うことはせずに、

      って過去の自分を抹殺する ことを

                            選んだのです。


秘密保持契約というオプションを付けて訴訟額より多い和解金を払い、
ウィンクルボス兄弟には実に50億円もの金額を支払ったのです。
(エドゥアルドは金額非公開)

弁護士が言っていました、「今のあなたには、そんなに大金ではない。」 と


  裁判で戦うより、過去の自分を100億円を払って消し去った方が、

        立場では得策

                  との弁護士団の判断だったのです。


100億円払っておいた方が得策、とは想像を絶っするほどの社会的立場なんだなと思いました。

100億円というグロス感に驚かされながらも、結局はそっけなく進行してき
た今作のラストシーンは、意外にもボクの気持ちを揺さぶっていったのです。

ラストシーンは前述のように

          一人オフィスに残って、
          PC画面を見つめている映像

                        となっていたのですが、


そのPC画面が感傷的な思いを持ち込んできたのです。


   その画面とは、ある人の「フェイスブック」のページだったのです。
   ある人のとは、元のガールフレンド、エリカのページだったのです。


彼女に 「友達になる」 の申請をし、彼女からの 「友達承認」 が届きは
しないかとリロードを 繰り返しているマークの一人ぼっちの姿が、 今作の



         正真正銘ラストシーン

                           だったのです。



彼女のページを眺めるマークの胸の内は切なさで満たされていったことで
しょう。エリカに未練があるという、浮ついた思いも去ることながら


「市民ケーン」の

        “バラ
つぼみ”

                    に相当する思いなのだろうと、
                    感じたのです。


“莫大な遺産” を相続する前の、 ささやかで穏やかな幸せを象徴するのが


        “バラつぼみ”  でありましたが、


元のガールフレンドであるエリカが、


    マークにとっての “バラつぼみ”

                      に相当するのだろうなと
                      感じたのです。


エリカは、“莫大な遺産” である 「ザ・フェイスブック」 を得る前の、

普通のハーバード大生だったころのマークを知る人物で、
普通の男が味あう失恋の痛手を与え、
大富豪になる前の普通の男の子にとっての


      等身大出 

                  持たせた女性なのです。
     


( 余談ですが、「市民ケーン」 は新聞で、 今作はSNS。
  ともに 情報伝達、コミュニケーション媒体であることも興味深い。)



そして、エリカにフラれた腹立ちで、マークは 「写真付き女子学生対戦」 サイトを開発。
その完成度と反響の大きさによって 「ザ・フェイスブック」 を開発することなったことを考えると、エリカは


      今日のマークをげた女性

                    と言えるのかもしれません。


また、エリカとの 「かっこ悪い再会」 によって「ザ・フェイスブック」 



      「拡散」方向した

                     わけで、その結果、


「ファイナルクラブ」 や 「ハーバードコネクション」 の

       閉鎖的世界から決別 し、
       別次元成功 を果たしたことを考えると、



エリカはささやかで穏やかだった日々を象徴する

       “バラ
つぼみ” であり、
 同時に
        莫大財産”

                  をもたらした女性でもあったのです。



今作はそんなエリカとの関係性に救いを求めるマークの姿をラストカットに選
んだのです。 莫大な富と名声を手にしたマークですが、 その過程において
自らの極端な性格と、利権に群がる者たちの都合で、

        大切人間関係ってきました。


そんな穏やかではなかった過去を彼は

        100億円もの金額封印 したのです。



「孤高の存在」 になってしまったが故に、 等身大の青春を破棄せざるを得なかった マークの 「孤独」 というものは、

“バラのつぼみ” であるエリカに虚ろな表情でメッセージを送る姿に


        見事表現されている  と感じたのです。


           「孤高孤独」

                 とでも言うのでしょう か.........。


あらゆる望みを叶えられる身になりながらも、心を許せる者が誰もいなくなってしまった孤独。

そして、等身大の自分の過去を100億円で消し去らなければならない


          「孤高であるがための孤独」


                          を感じたのです。




そんな現在のマークを取り囲んでいる 「不条理と、

           一個の人間としての   「感傷」 




    この2つのせめぎ合いに彷徨っている彼の姿を見て、

         ボクの心も 刹那的 に揺さぶられていったのです。



 





今作は 「訴訟」 をかかえる現在と、その発端となる4年前の過去が絡み合
いながら、「訴訟」 の原因を探る形態を取っていきました。


しかし、ボクの興味は 「訴訟」 についてではなく
主人公の行動様式が

   「劣等感」 から派生し、その 「劣等感」 逆手った


           「開放・拡大」路線 


                であったことに集約されていったのです。


そして、そっけなく進行してきた今作が、一転して


      「市民ケーン」 における 
                
            “
バラ
つぼみ”

                          という、

情緒的
としどころ に終結させてきた


           節操さ 


                  を楽しんだ鑑賞となりました。











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完成! 「悪人」
2011-09-18 Sun 07:45
          悪人1 





今作は 


【 老練演出手腕 】  フレッシュ演出手法 】 



    この2つの、相反するテイスト共存する 

                 味わい深い逸品となっていました。 



しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。 



  この感情はラストにおける 


     「配慮不足」 という象徴的事象
                    
                    
集結 されているようでした。 



  残念に感じる場面はありましたが、 


      李監督の大きな成長 実感し、 
 
               彼のさらなる飛躍を 予感


                
させる作品となっていたのです。 






今作のオープニングは 
 

             陰鬱退廃的 
                              でした。 


普通だとこのような作品は、鑑賞の意欲が削がれてしまうものですが、 
 



       今作っていました。 



オープニングの、主人公の男が夜道を運転する映像から

「先行き不安なイメージ」が明確に伝わってきたのです。 
その後、20代女性保険外交員の同僚同士の薄っぺらい人間関係や、 
出会い系サイトの如何わしい人間関係が矢次早に提示されていきます。 
もう一度言いますが、平凡な作品であったのなら、ただ嫌気がさしてしまうところでしょうが、 



       今作っていたのです。 



  キメ細やかな描き方に、ついつい引き込まれていったのです。 

     (演出に関しては、折に触れて説明をしていきます) 



物語は進み、先の20代の保険外交員の女性が死体で発見されます。 

その身元確認の経緯も丹念に描かれて、思わず引き込まれるものだったのです。 


 理髪師である父親が、散髪客と互いの娘についての話しをしている。 
 鑑賞者はこの理髪師の娘が亡くなってしまったことを知っているので、 
 お客とのノンビリとした会話を聞かされているだけで、ジレッタイ気持ちに
 駆られていくのです。 

 そこに警察からの電話。受話器を上げる母親。 

 不安に怯える母親の表情が簾越しでよく認識できない、という演出も
 目を離せない。 



 場面は死体安置所に移る。 
 娘の遺体を確認する父親、 
 表情一つ変えず、ただ、コクリと頷く。 
 ふと気付くと遺体に被せているシートから娘のつま先が出ている、 
 そのシートの乱れを思わず直してしまう父親。  


非日常的事象 に父親の 気持ちが混乱 している様が、 

ありありと伝わってきたのです。 


 そして足早に安置所を立ち去り、廊下で待つ妻の元へと急ぐ。 
 二人のカットは逆光でシルエットになっている。 
 表情は影にして見せていないものの、気持ちの中は手に取るように
 理解することができる。 

 その心の動揺はしばしの沈黙を破って 


     れるシルエット結実

                      
していたのです。 




この一連の演出に心動かされていると、画面は突然、



       「 バリバリバリ ! 」


                    と大きな音をたてて、
                    重機が廃屋を潰すショットが
                    映し出されたのです。 


妻夫木聡が演じる主人公の男が解体工であることを説明するカットではあるのですが、 


娘を殺されたこの夫婦の、


    突然の 


         「幸福崩壊」 

                    を連想させる繋がりに 


      

                    感心しっぱなしだったのです。 



気分は重い。しかし、演出は素晴らしく今作は評判通りの傑作に違いない。
と、 開始20分にして確信をしたのです。 




殺害された女性のお通夜の席においても、今作は深い映画体験を与えてくれたのです。 

親戚の一言に激高した父親がその親戚に掴み掛かっての一悶着の場面。 
ちょうど焼香に来ていた刑事を見つけた父親が勢いにまかせてその怒りをぶつけてしまうのです。
 


   「大学生一人捕まえられんで、何が警察か! 

    こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!
 

    スイマセン  ( 頭を深々と下げる ) 」 


            この一連が、一気に映し出されていったのです。 



このような場面では、他の凡庸な作品では
 


   「こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!」 

                 のセリフに一拍おき、 

                 そんなことを言ってしまった自分自身に
                驚く小芝居を入れて、 


   「スイマセン ( 頭を深々と下げる )」 

                 となるところなのでしょうが、 


今作はそのようなことはせずに、 


        ノンストップで当ててきたのです。 


それだけ、脳内物質まくって、この父親が普通の状態でいられないことを 


        印象深えていたのです。 



それは、娘の死を知る直前の父親と散髪客とのノンビリとした日常を見せられてヤキモキしてしまったものとは、 



        悲しいほどの対比 

                        を描いていたのです。 



「うまくなったなー」 
と思い切り上目線で唸ってしまいましいた。 

李監督の前作 「フラガール」 を地下鉄内鑑賞をしていますが、 
その映画の監督が、まさか、こんな隙のない演出をする監督になるとは、思いもよらなっかたのです。 
鑑賞途中ではありますが、李監督は今作で 



     
  飛躍的成長げるにいない 

                         と確信をしたのです。 



そんな幸福感に包まれながら、物語は、やっと今作の主人公 祐一 と、光代
の出会いとなりました。 

今作の薄幸のヒロイン 深津絵里 演じる 光代 は、慎ましやかな、誠実な
女性として描かれており、佐賀弁がその優しさを醸し出していました。 

一方の 妻夫木 聡 演じる 祐一は、初登場から無口で得体が知れない一種
の不気味さを漂わせていたのです。 


主人公の 祐一 は初対面の 光代 に対して、ぶっきらぼうに男女の関係を求めていきます。 
ウブな 光代 はその流れに飲み込まれるようにして、祐一 との関係を受け入れていきます。 


        「不気味った祐一と、 

         寛容誠実光代 
  
                       の対比ができたところで、 



この二人の関係性はどの方向に動き出すのかを、注目していきたいと思ったのです。 



と、ここまではテーマは重いながらも快調な鑑賞となっていたのですが、 その後の処理に対して、疑問に思えたシークエンスが出てきてしまったのです。 



20代女性保険外交員が殺害される直前まで会っていた 岡田将生 演じる チャライ大学生との場面。  
彼女がチャライ大学生の機嫌を損ねて、夜の峠道で車から蹴落とされる場面が出てくるのですが、その表現に 


        違和感じてしまったのです。 



チャライ大学生はろくでもない人間だとは理解していましたが、 
それでも暴力的な人間だとは表現されておらず、 
それが突然の豹変によって、攻撃的な態度を取り出したのです。 


その展開は今作の世界観を表すための 
 

         必然性 
                    ではなく、
 


まるで、これから展開する物語を進行させる為の 
 

         必要性 
                    による豹変に感じられ、



どうしも、

    制作者サイドのご都合主義的行為

                  として捉えられてしまったのです。




こうして、今まで手放しで評価していたボクの気持ちに、一抹の不安が生じていったのです。 





不安を孕みながらも、物語は今作の主人公 祐一 と、光代 の再会のシーンとなります。  祐一 が初対面での対応を詫びに来たようなのです。 

ボクはこれ以降、祐一 の描き方に激変が生じてきたことに反応し、大いに興味を持ったのです。 それまでは、 


      「不気味性格異常者」 
                    のような表現をしていたところ、 


      「不器用純粋
男」 
                    として、語り始めようと 
                    路線変更をしてきたのです。 


このような 「キャラクター変更」 を含みながら、二人はこのまま逃走劇を演じていくのですが、 
祐一 が 光代 に対して自分の犯した罪を告白するシーンは大変、素晴らしいものになっていました。 


港の展望が開けている食堂の2階のお座敷において、 

  1カット目は 


初めてのズル休みに、ちょっとウキウキしている光代の様子を捉えながら、 

やがて、彼女は目の前にいる祐一の変化に気付く。 
この時、画面には光代しか捉えていなく、祐一は画面に入っていない。 



  2カット目 



手前に祐一の後ろ姿、奥に光代を捉えたアングルで、ピントは祐一の後ろ姿に合っていて、光代はピンボケの状態。 

1カット目の終わりで、祐一の変化に気付いてっs心配する光代の表情を捉えていたので、 光代の表情がピンボケでも彼女の状態は推測することができます。 
そして、ピントが合っている祐一は後ろ姿なので、その表情を伺い知ることはできないのです。 
しかし、俯き加減で小刻みに震えている様子から、彼の尋常ではな様がわかるのです。 

  「俺、 人  殺してしもうた 」 

と光代に告白した直後、カメラのピントは 祐一 の後姿から、 
光代 の驚いた表情を瞬時に捉えたのです。 



  
3カット目 


カメラ位置は今度は 光代 の後ろに位置を変えて、光代の後ろ姿を手前に、奥に祐一の顔を配しています。 

祐一の表情が観察できると思いきや、画面は半分ほどがピンボケした光代の後頭部で占められているのです。 
その残されたスペースで 祐一の顔半分が伺い見れるという極端なフレーミングのカットとなっています。 
  
殺してしまった女性との関係を話し出す祐一 



  
4カット目 


今度はそれを受ける光代の、これも極端なフレーミング。 

3カット目を受けるもので、ショットのコンセプトは全く同じものでした。 
祐一の後頭部で隠されて光代の顔を半分しか伺い見ることができない。 

告白を聞いて呆然としている光代。 



  5カット目 



3カット目と同じアングル。切り替えしで顔半分の祐一のカット。 

このようなクセの強いアングルを 


      連続3カット続ける勇気 

                        に感服しました。 




     「会いたいなら、金払え」
  

                 と、その女性から言われたと告白。 

                 その女の性悪さが露呈した瞬間で、 

     「会いたいなら、金払え」  のセリフは 


                 ちょっと前から監督が狙っていた祐一の
            
    「キャラクター変更」 に対して 
                 素晴らしい効果を上げていたのです。 

  それまでは、 

     「不気味サイコ野郎」  の描き方をしていたところ、 


  光代に謝罪してきたあたりから、 


     「不器用純粋男」    としての側面を素求してきた

                        のですが、
 




ここで、

    1つの行為が、
            角度によって、

                     全印象えてた 


                          
ことに感心したのです。 



光代との初対面の際、ぶっきらぼうに男女の関係を結んだ後に、光代にお金を渡した行為によって 


     「不気味サイコ野郎」 
                   としての印象を強めていたのですが、 

その性悪女に強要されたことを光代にも行っただけ。ということがわかると、 

突然に

     「不器用純粋男」
                 としての側面が急浮上してきたのです。  



「会いたいなら、金払え」 に対応した 
                     
つの
行為が、
  
  
    「不気味サイコ野郎」   を訴求する表現にもなり、 

    「不器用純粋男」     に早変わりもさせる。 

                    
              
            
そんな興味深い光景を目の当たりにして 



           大きな映画的興奮を味わったのです。 




そんな幸福に浸っていた矢先に、 【 老練演出手腕 】 とボクが称賛することになる 「広角ショット」 に遭遇するのです。 
「殺人の告白」 の最中にお店の人が配膳に来るのですが、 
後頭部と顔半分で構成された閉塞的な空間の直後に配置された  
 

   「広角ショット」意義 

                    
に感心をしてしまったのです。 


配膳が終わり、再び二人きりになった彼らを捉えたのが、お店の奥から静かに向き合って座っている二人を写した  「広角ショット」 だったのです。 

息が詰まるような密度の、圧縮された時空間の後に、 


       客観的視野 

                 を持ってきたその対比とタイミングに、
                 また感心してしまったのです。
 


この 「広角ショット」 は、二人の背景に港町の日常的な町並みを配し、手前には誰も居ない座敷の広い空間が横たわっています。 
この映像を見るだけで、 


    日常の世界から取り残された  
 
           「二人のだけの孤独」 

                      を感じることができたのです。 
  

それが、あの畳み掛けるような緊迫感の切り替えしの後に配置されたのですから、その効果は増幅していたのです。 


まさしく、
 緊迫した時間を創出した 

       【 フレッシュ演出手法 】 と  


オーソドックスな広角表現
を活用した 

       【 老練演出手腕 】   


              コラージュした、珠玉瞬間だったのです。 



この 「広角ショット」 の素晴らしさについて考察していたら、同様に心に引っ掛かっていた2つの 「広角ショット」 のことを、まざまざと思い出したのです。 

 
 1つ目は、祐一と光代の再会のシーン。 
 祐一が初対面の際の非礼を詫びる為に、光代の勤務先に赴いた時のこと。 
 彼女の勤務先である巨大なロードサイド紳士服店で再会する二人を
 
「広角ショット」で捉えており、 
 膨大な数の紳士服の中に埋もれている彼らを見ていると、 
 陳列されている紳士服が 


        フェイク人間に見えてきて、 


そんな膨大な人波の中で 

     疎外感
えた男女が 
              巡えた「寓話性」 


                        を無意識に感じていたことに
                               
                      気付いたのです。 




そして記憶の中に留めていたもう1つの 「広角ショット」 は、この逃避行の始まりに仕掛けられていました。 


 場所は光代の部屋、そこにスポーツカーのエンジン音が近づいてくる 。 

 この段階で鑑賞者は、祐一がやって来たことを推測するのです。 
 さっとカーテンを開けると、光代の部屋の狭い世界観から、
 彼女の肩越しに、駐車スペースという広い空間が2Fの窓から見下ろせる。 

 すると、闇の向こうからヘッドライトを輝かせた車が来て、
 ピタッと部屋の前で止まる。 

 その様子を見て、慌てて階下に急ぐ光代。 
 光代がいなくなったことで画面には、闇に浮かぶ自動車のみが残っている。  


      不穏感、孤独感、
              
そして、その存在感。 


この一連の演出も心に残っていたものでしたが、ここで語りたいのは、その後の 「広角効果」 についてなのです。 
ここに至るまでの映像が、祐一の車の中と光代の部屋の中という、両方ともに撮影距離 (カメラと被写体との距離) が近いショットが続いたものですから、

 
 被写体との距離が離れたことによって、 

       心理的広角効果 

                        
が発揮されていたのです。 


暗闇の中に1台だけ、寂しげに佇む自動車を捉えた 「広角ショット」 が、警察にマークされて先行き不安な状態でいる祐一の 



     心情を、明確に表していたのです。
 


そして、今まで普通の生活を営んできた光代の人生も、この車に乗り込んだ瞬間に、 


      祐一と同じ不安に、苛まされる予感 

                      を覚えさせていたのです。 



この予感は、頼りなげでありながら、どこか不穏な思いにさせる祐一のクルマを捉えた 「広角ショット」 と、前述の、光代の部屋のカーテンを開けると、その平々凡々な生活に土足で乱入するかのようにクルマがやって来る印象的なショットとの併せ技だったのです。 


ついでに言うと、荒々しいエンジン音で祐一がやって来た 「負の気配」 を、予め仕掛けておいた勝利だったと思います。 



「広角効果」 について気付かせた
  

        【 殺人の告白 食堂の2階 】 。 

 そして先の、 

        【 二人の再会 紳士服店 】 と、 

   この  
        【 逃避行の始まり アパート前の駐車場 】 のように、 



         効果的な 「広角ショット」 配置 


                              
してきたとろに、
  
 

                     大いに感心してしまったのです。 



そして、このようにオーソドックスな技法を駆使した 


    【 老練演出手腕 】     に 唸っていた次の瞬間、 


 若手らしい
 
 

    【 フレッシュ演出手法 】 の 斬新なシーン変わりに
                           遭遇したのです。 



それは、 

    【 殺人の告白 食堂の2階 】   の シーンから 

次の、死に至らしめる場面への移行カットが、 
食事に出されたイカの活き造りの目のクローズアップ画面だったのです。 

活き造りのイカがまるで 

          命を奪われた遺体のように横たわっており、 

          その見開かれた目が無機質にこちらを見ている。 


その黒目の部分に、殺人の映像がオーバーラップで重なっていくのです。 


     

              きました。 



 
「広角効果」 というオーソドックスな 

    【 老練演出手腕 】   を見せ付けられた次の瞬間に、 

  若手らしい 

    【 フレッシュ演出手法 】 を駆使した 


                      斬新な映像までもを
                      突きつけられた訳ですから、
  



         ただ、圧倒されるしかなかったのです。 



このように 


緩急使い分けた演出によって、グイグイと引っ張ってきた李監督であったのですが、 この後、続いていく殺害シーンに、 

      その片鱗ることは 

                   残念ながら、できなかったのです。 


そのシーンは、20代女性保険外交員を自動車から蹴り出したチャライ大学生の行為に違和感を持った続きの時制にあたります。 


二人を尾行し、一部始終を見守り、チャライ大学生に車から蹴落とされていた彼女を助けようとする祐一 に対して、 


      意固地な態度を取る女。 


そんなヤリトリの中で、腕を持つ手に思わず力が入ってしまう祐一。 
それに対しての彼女のセリフから、自分の気持ちが冷めていってしまったので
す。 そのセリフが 





       「 人殺
! 」 。 




この局面において発せられた言葉が 



        「人殺し」 ですって? 


今作を鑑賞している者は、今までの展開から、この20代女性保険外交員が祐一 に殺害されたことを理解している。  だからと言って、何の工夫もなくただ単純に 「人殺し」 なんて言葉を言わせる局面を提示して、 恥ずかしくないのか? 

と大いに疑問に思ってしまったのです。 そして次にこの女が言った言葉、 


    「警察に言ってやるけん。襲われたと。」 


も、ストーリーを展開させる為の強引さが鼻につき、 

たかが、祐一に強く腕を掴んだくらいで、 
「襲われた、と虚偽の申し立てをしてやる。」  と発言をさせた


     
制作陣手抜

                 
を感じてしまったのです。 


好意を寄せていた チャライ大学生 にヒドイ仕打ちを受け、
 (前述のように、この流れも不自然に感じています) 
軽んじていた相手に、そんな無様な姿を晒してしまった訳ですから、 気が動転しながらも形勢逆転を図った稚拙な行いであった、ことは理解しているつもりです。 


でも、「人殺し」 の言葉は不用意な選択として、 


      制作陣センス瞬間

                   
だったのです。 


【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】 の両面で 素晴らしい映像世界を見せてくれた今作ではありますが、場面は前回と同じ 夜の峠のシーンにおいて、賛同しかねる局面に遭遇してしまったのです。 

そして、その後の展開も同意しかねることになります 

苛立ちの矛先を祐一に決めた女は 


     「拉致られて、レイプされたと言ってやる。
              (中略) 

      全部、あんたのせいやって言ってやる」 


            と、祐一から 逃げ出そうとしますが、後ろから 


     「嘘つくな、俺はなんもしとらんぞ!」 


            と、祐一は女のこんな妄言を止めるために、 
            女の口を押さえてもみ合いになっていったのです。 


            で、気付くと、女は死亡していた、

                             という流れなのです。 



この 「発言阻止、殺意なき殺害」 パターンは、1964年公開の内田吐夢監督による 「飢餓海峡」 しか納得することができなかったが為に、人一倍、警戒心が大きかったのかもしれませんが、 この展開を目の当たりにして 

    諦
めの境地 

                 陥ってしまったのです。 


「飢餓海峡」 で示されていた三国連太郎 演じる主人公の、過去に抹殺したい犯罪歴を持つ名士と、過去の彼に恩義を感じる 左幸子 演じる娼婦との不幸な 再会によって生じた 

    偶発的
殺人  

                 と、どうしても比較してしまうのです。 


過去を消し去りたい男の願望と、過去にすがり付きたい女の情愛がブツカリ合った末の、胸を締め付ける殺害シーンと比較してしまうと、  どうしょうもなく 

    薄
っぺらいモノに 

                 感じてしまったのです。 


せめて、祐一が 「嘘をつくな」 という言葉を繰り返していたところから、 

彼の心の中にある 「嘘をつく」 という脅迫観念を明確にしていたのなら、もう少し感情を動かすこともできたのでしょうが、 
(この訴求は、時遅くにして訴求をされてはいました。) 
この時点ではその膨らみもなく、ただ、 


     
映画ストーリーをなぞっているだけ 

                         と感じられたのです。 


 
      

           残念いました。 





しかしながら、同意しかねる峠でのシーンの後、トーンダウンしていたボクの気持ちを再び惹きつける場面に遭遇したのです。  


 逃走を観念した祐一が自首をしようとするシーン。 
 降りしきる雨の中、光代を助手席に残したまま、警察署に一人歩いていく祐
 一。 

 振り返るとフロントガラス越しの光代が、雨で遮られて滲んでしまってい
 る。 

 「これは二人の関係性が希薄になってしまうことへの表現」だ、と捉えてい
 たら、 

 カメラはボクの意に反して車内で泣きじゃくる光代を鮮明に映し出してきた
 のです。 

 ちょっと意外に思っていたら、 光代は意を決したように運転席側に体ごと
 寄せてきたのです。 

 その瞬間、 切り替わった祐一の後姿にかぶさったのが、
 光代が鳴らした、けたたましい クラクションの音だったのです。 


 その音に振り返る祐一。 



     沈黙の中、しばしの距離を隔てて見つめあう二人。 



           これだけで充分でした。 




今までの受身の人生に決別するかのように 


     祐一の自首を翻させ、 
     二人の関係をより深くしていく。 


         光代のこの能動的行為に 

   
                      心が動いてしまったのです。 



それは、一言の言葉や説明が介在する余地がない、 


         かな映画的境地 

                         だったのです。 



そしてこのシークエンスに続くものが、二人の心身ともに深い結び付きを確認する場面となるのですが、 
ここでの表現も、初対面の際の受身的なものとは180度違って、  光代の能動的な気持ちが溢れていたのも印象的でした。 

精神的にも、肉体的にも深い繋がりを確認した二人は、灯台に逃れて来ます。 

この灯台で二人きりの日々を過ごすうちに、祐一のある告白が始まりました。 
それは、母親に捨てられた子供時代のこと。 
「すぐ戻ってくるから、ここで待っていて」 
と言う母親を信じて、灯台を眺めながら待ち続けたが、 
結局、母親は戻らず、自分が遺棄された痛みを知ることになったとのことなのです。 

ここで初めて、20代女性保険外交員が殺害された際に繰り返えしていた 
「嘘をつくな」 の発言の真意が結びついたのです。 
しかし、全ては遅きに過ぎたのです。すでに生じてしまった 

     違和感をリカバリーするほどの、 

 

             鮮烈さをっていなかったのです。 





             残念いました。  





この残念な気持ちを引きずりながら、今作は終わりを告げていってしまったのです。 


折々に素晴らしい演出をみせてくれた李監督でしたが、終盤は失速していったのです。 



しかし、不満点が生じると挽回してくれるのが今作です。 

終了間際、ボクの興味を惹く場面を用意していてくれたのです。 


警察の包囲網が近づいたことを察知して、 光代は、祐一の自首を妨げ、逃避行へのキッカケを作ってしまったことを詫びます。 そんな彼女に 祐一 は真顔になり 



     「俺は、あんたが思うとるような男じゃなか」 


と突然、光代の首を絞め始めたのです。 

首を絞められて苦しむ光代にキスをして、そして力一杯、締め付けてきたのです。 


     一瞬、ボクの混乱をきたし、 

             そして、そのまま画面に釘付けになったのです。 


祐一のキャラクター表現が途中でニュアンスを変えてきたことに興味を持っていましたが、この最終局面において、彼のキャラクターが元に戻っていったことに、驚き、そして、興奮してしまったのです。 



冷静になって彼のキャラクター付けの変遷を辿っていくと、 

  開始当初は、祐一を 
  
      「不気味サイコ野郎」   として表現しておきながら 


  光代と知り合って、初対面の非礼を詫びるあたりから、  
 
  
      「不器用純粋男」    に進路変更。 


  ずっとそのキャラクターのまま進行していきましたが、 
  終盤のこの逮捕劇に至って、 

  実は祐一は最初の印象通り、 
  相手が苦しむ姿に快感を得る倒錯S の 


       「不気味サイコ野郎」  だったことが

                           
わかったのです。 

 

           
やられた 


           裏をかかれてしまった!  



と、意外な展開に瞠目し、予測を裏切られた快感をボクは得たのです。 
 
   (これをボクは 映画的M と呼ばせていただきます) 


それゆえ、20代女性保険外交員の殺害シーンはワザと下手に作ったのか。  
と、李監督の 

      予想上回急成長ぶりに

                       
感心したのです。 



あの殺害シーンは祐一からの光代への告白というカタチであったことを思い出しました。
過失の中で殺めてしまったという  「嘘」 であったからこそ、 

ぎこちないシーンに仕立てたんだなと、 大いに納得した瞬間だったのです。 

そんなことを感じていたら、そんなボクの納得を翻弄するようなカットが、 すぐさま提示されてきたのです。

( 忙しい! ) 



警官隊の突入で、祐一が光代の首を絞める行為は阻止されるのですが、 
光代が保護され、裕一が身柄を確保され、二人が引き離される瞬間の祐一の行為に、 


    ボクは見張ったのです。 



彼は、引き離されていく 




    
光代ろうとするのです 




このカットで、ボクの頭は またまた混乱 していったのです。 

何故なら、先ほどの 「首絞め」 によって、 祐一は実は 
  

    「不気味サイコ野郎」 だった。 

  

             という展開で納得がいきそうになった気持ちを、

             すぐさま否定 してきたからなのです。 



それは、引き離される際に 



    「首を絞める」 という 危害を加えるのではなく、 

    「手を握る」   という 慈しみ とも いたわり とも感じ取れる
               行為を
祐一が取ったことによって、 


     先ほどの「首絞め」 が 


            「嘘」 であることを
 

                        理解したからなのです。 


     そして、「不気味サイコ野郎」 を演じることで、 


            光代の自分への気持ちを 

            断ち切ろうとしたことを 
                              
                        理解したからなのです。 




      しかし、愛おしいという気持ちは隠しきれずに、
      ダメージを与えてしまった 



            光代の「手を握る」  

            という行為に至ったものだ。

                       と、理解をしたのです。 





またまた、 彼のキャラクター付けの変遷をまとめますと 



  当初は 

          「不気味サイコ野郎」 の表現をされ、 


  殺人の告白から 


          「不器用純粋男」  への急転回の後、継続。 



  光代の気持ちを断ち切るために 


          「不気味サイコ野郎」 を演じ、 



  でも想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に 


          「不器用純粋男」  を露呈してしまう。 




このように、「不気味サイコ野郎」 と 「不器用純粋男」 
を戦略的に
行き来していったのです。 そしてこのことに大いに興味をかき立てられたのです。 




興味深いシーンに出会うと、その後、同意しかねる場面に遭遇 してしまうのも、今作の特徴のようです。 



   光代の気持ちを断ち切るために 

          「不気味サイコ野郎」  を演じ、 

   でも、想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に 

           「不器用純粋男」   を露呈してしまう。 


この変わり身の早い 「キャラクター変換」 については、当初は評価を与えていたのですが、 今作を鑑賞し終えて、冷静になった時に思ったことは、



        あのラストシーン を用意していたのなら、

        この キャラクター変換ネタバラシを 


 
       絶対


             温存するべきであった!                 



                     という強い思いだったのです。 




あのラストシーン とは、

祐一の逮捕劇の数日後、 殺害現場にやって来た光代。 


 「 世間で言われよる通りなんですよね。あの人は 『悪人』 
   なんですよね。  人を殺したとですもんね。 」


    と呟やいた後、彼女の意識は邂逅の奥底に沈んで行くのです。 
    そして彼女の心の中、奥深くに息づいている光景が 
    今作のラストシーンとなっていったのです。 


    場所は二人が過ごした灯台。 

   
 夕日が海に沈む光景に、心を揺さぶられた日の思い出が 
   
 去来してきたのです。 


    その一瞬の、「儚しさ に涙する二人。 


今作は、この 夕日 に感情を揺さぶられて、ただ涙するしかない裕一のアップ画面によって終わりを告げていったのです。 



このラストシークエンスによって、  
 

     裕一は 「不気味サイコ野郎」 ではなく、 


  光代の自分への気持ちを断ち切るために、「嘘」 をついた 


         「不器用純粋男」   として 



         鑑賞者は (少なくともボクは) 認識していくのです。 



ラストにこのような、祐一 の 




       「人間性復権象徴するカット」 


                      を配してくるのであれば、 




「キャラクター変換
ネタバラシ」 温存して、 
「光代の首絞め」 からこのラストカットに至るまでの時間を、 


    祐一 は 「不気味サイコ野郎」
                    


                  であると騙し通しておくべきだったと
                  主張したいのです。 



そうすれば、ラストカットの祐一の涙が、より複雑に、そして、より深く、心に響きわたってくるはずなのに。 と



            
残念気持ちになったのです。 



そして、 

      祐一は 生来からの 「悪人」 で、
     
              「不気味サイコ野郎」 だったのか? 


      それとも 偶発的な殺人を犯してしまった 

              「不器用純粋男」   だったのか? 




       という、精神的迷宮に                         
              観客を誘うこともできたのに.........。 




と、「配慮不足」 とも思える措置に返す返す、残念な気持ちを持ってしまったのです。 





しかも、ラストシーンに、夕日に見入る二人の後姿の 


        「広角ショット」 を持ってきたのであれば、 



              なおさらのこと 


                    
だったのです。 




その「広角ショット」は、
今作にある “映画のルール” 通り、


     世間からたれた 「二人だけの世界」

                       
を写してきたのですが、


  語ってきた感情は、それまでの 


        世間から隔絶された  「孤独」 
なんかではなく、 

       
 二人の心を結ぶ強い 「繋がり  だったのです。 


ラストに、二人の心の 「純粋」 さと、「深い繋がり」 を直感的に納得させるシーンを用意しておいたのだから、    


      祐一は 生来からの 「悪人」 で、
     
              「不気味サイコ野郎」 だったのか? 

      それとも 偶発的な殺人を犯してしまった 

              「不器用純粋男」   
だったのか? 



      という、精神的迷宮 解答を

            映像だけで表現することができたのに..........。
                        



   素晴らしい作品であっただけに




            大いに  残念ってしまったのです。 





今作は 


【 老練演出手腕 】  フレッシュ演出手法 】 



     この2つの、相反するテイスト共存する 

                  味わい深い逸品となっていました。 



しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。 



  この感情はラストにおける 


     「配慮不足」 という象徴的事象
                    
                    
集結 されているようでした。 



  残念に感じる場面はありましたが、 


     李監督の大きな成長 実感し、 
 
            彼のさらなる飛躍を 予感


              
させる作品となっていたのです。 









悪人2





       悪人3







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完成! 「ディア・ドクター
2011-06-05 Sun 16:16

         ディア・ドクター





失踪した 医者・鶴瓶を巡って、


     【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして


            【 間接的人物像 】  を。

 
  

     【 少時制 】 では、医療に従事する姿を直接目撃することで 

                                
            【 主観的人物像 】  を。




それぞれ、
つの時制 によって提示される、この つの人物像 
足掛かりにして、
今作に発生していく


            【 失踪
謎 】 と 【 診断謎 】 。


      この つの 「謎」 を 推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。


また、


「問題提起」 は、する。

           ↓

 
           
でも、「暗
 ままわらせない。

                          ↓

                           しかし、「問題解決」 は、しない




       というユルイ立
居地が、何故かしら心地良じた

                              

                そんな不思議な映画でした。





無医村に赴任していた医者が姿を消し、彼に医療を支えられていた村人達や、行方を捜索する刑事、そして、共にこの村の医療に携わっていた看護士と研修医が彼を探すところから物語は始まります。


姿を消すことになる医者を 笑福亭鶴瓶 が
 

        “人間味溢れる” 部分基調にして



姿を消すことになる

         “謎” 部分しながら

                           
  演じていきます。



ベテランの看護士は余貴美子。 アカデミー外国語映画賞を受賞した 「おくりびと」 で演じた役柄を思い出しました。

「おくりびと」 では、主人公の モックン と、葬儀社の社長 山崎務 の2世代間を繋いでいく役どころでしたが、今作においても、 鶴瓶 演じる姿を消す医者と、都会的な匂いを発散させながら登場する若き研修医との、



   
 2世代間
隙間めていくどころ

                       になるのか注意していきたいと思ったのです。



       で、研修医は赤いスポーツカーに乗って 瑛太 がやって来たのです。
 



この医療スタッフに、村人達。そして、行方を捜索する刑事達を織り交ぜながらストーリーは展開していきます。 映画が進んでいく中で鑑賞者は、


【 現在
時制 】  において、 失踪した 医者・鶴瓶 に対する、
                第3者からの証言を元に、医者・鶴瓶 という人間の

 

                【 間接的人物像 】 を形作り、



【 少
時制 】  では、 看護士、研修医と共に農村医療に
                 従事していく姿を直接目撃しながら、医者・鶴瓶 の



                【 主観的人物像 】 を創出していくのです。



そして、
 
【 2
つの時制 】 の行き来で生成した、この 【 2つの人物像 】 を手掛かりにして、今作に発生していく 【 2つの謎 】 を追いかけることになるのです。



まずは、第1の謎   ”なぜ 医者・鶴瓶 は失踪してしまったのか?”  

という 【 失踪謎 】 に取り掛かる訳ですが、 
 【 少
時制 】  において、興味深いシークエンスがあったので、言及してみたいと思います。


老人の臨終の席において、延命機器を装着しようと提案する 医者・鶴瓶 に対して、


         その措置家人辞退。


その後、明らかに、その老人の介護を押し付けられていたと思われる、地味で薄幸そうなお嫁さんの


         えたような複雑表情

                              を今作は捉えたきたのです。

これは、


       
「長寿」 
という美辞ウラ存在する 

       「老人介護」  という問題  


                                                           姿を見せた瞬間だったのです。 

しかし、この場面で


「問題提起」 は、する。

           ↓

 
          
 でも、「暗
 ままわらせない。

                           ↓

                            しかし、「問題解決」 は、しない


                     
                    という、今作を貫いている ユルイ立居地 
                    発見したのです。  



「老人介護」 という問題が提起された次の瞬間、臨終したと思われた老人の口から、喉に詰まったモノが出てきたことによって彼は蘇生をするのです。
コメディーのような展開に亞然としていたら、偶然による、しかし、神がかり的なこの成果に興奮した村人たちが 医者・鶴瓶 を讃えながらお祭り騒ぎをするという、これまたドタバタ喜劇のような展開を見せていったのです。


「老人介護」 という 「問題提起」 はする。 

               
                  ↓


   でも、コメディー的な “蘇生” と、その後の  “お祭り騒ぎ” 
   によって、このシーンを 「暗
」 いままにはわらせない。 


                                 ↓


           しかし、「老人介護」 という 「問題解決」 は、しない 。        




このような、ユルイ立ち位置で、 「陰」 に曇りがちそうな流れを、半ば強引に 「陽」 に転換してきたのです。 
この様子を興味深く見ていたら、この ユルイ立ち位置 が実は、開始早々から提示されていたことに気付いたのです。 



「医師 失踪」 という 「問題提起」 があった。



               
  ↓


     でも、医者・鶴瓶 の飄々としたキャラクターが語られたことで、
     緩やかな気分を創出。
     そのシーンを 「暗
 ままにはわらせない。

 
                           ↓

               しかし、 気分は 「陽」 に転換しながらも、
              「医師 失踪」という 「問題解決」 は、していない。



前述の 「老人介護問題」 の後の "お祭り騒ぎ” は、実に、こんな風合いのもと展開されていたのです。 その一方でストーリーは、鑑賞者に対して 医者・鶴瓶の



  【 間接的人物像 】 を 【 現在
時制 】  において形作り、

  【 主観的人物像 】 を 【 少時制 】 で描かせていきます。




医者・鶴瓶 という人間を、このように多重的に表現してきたからには、
良好に築き上げてきた、彼の人間像が


        一気えされる 予感


                        を逆説的に持たざるを得なくなったのです。


と感じていたら、中盤以降、徐々にその 予見 が実現されることになるのです。


       病院を転々としてきた事実。
       父親の職業を偽っていた事実。


                      今は小さな事実が露呈されたに過ぎませんが、



    【 間接的人物像 】 と 【 主観的人物像 】 
という

              つの側面 から語られてきた 医者・鶴瓶 の人物像が、 
 

事実から

      きく乖離していく事 

                         鈍く、確実に、実感 させてきたのです。
 



今作は、このような前フリを経て、いよいよ 医者・鶴瓶像 が崩壊する瞬間を迎えてたのです。
その表現が大変、素晴らしい。 
 


今まで慣れ親しんできた、山村の風景から一転して、いきなり都会の高級マンションの外観が写し出されてきたのです。
カメラはゆっくりとズームインしていきます。
一部屋だけバルコニーに人がいて、そこにターゲットを定めているようです。
そして、その映像に電話の会話音がかぶさっていきます。
医者・鶴瓶 の行方を捜している刑事の声です。
どうやらこの部屋に 医者・鶴瓶 の母親が暮らしており、バルコニーで布団を取り込んでいるのが母親本人であることがわかります。
ズームインしていくうちに奥に、父親もいることもわかってきます。
電話の刑事は 失踪の件を伝え、情報を得ようとしますが、会話が母親とかみ合っていきません。
そのすれ違いは 鶴瓶 が医者であることの認識に集結してくるのです。
鶴瓶 が医者として働いていたことに驚きを隠せなく、思わず電話を切ってしまう母親。


その行為に、


            全
ての納得がいったのです 



そして、驚くことに、このシークエンスは、ゆっくりとズームインし続ける


            1カット だけで構成されていたのです


          
芳醇 1カット であったことでしょう
         

 
      ボクは、映像と音声が絶妙に絡み合うこの1カットを高く評価したのです。








【 現在
時制 】 においてニセであることが判明した途端、

           医者・鶴瓶   いや、
        ニセ医者・鶴瓶 

                       の奇行が映し出されていきました。



失踪前の 【 少時制 】  において、村の美老女である八千草薫の胃癌を隠し通し、他人の胃潰瘍の胃カメラ写真までわざわざ撮影して、


      彼女は胃癌ではなく、胃潰瘍であると

                           主張し始めるのです。



【 ニセ医者・鶴瓶 
失踪 】 という 「謎」 に刑事達の捜索によって、手掛かりが見つかった (患者の家族とのトラブル という言葉や、医者・鶴瓶 がニセ医者であったことが判明) してきたところに、 


      【 診療
謎 】 という


                新たな 「謎」 が生まれてきたのです。



この新たな 「謎」 が発生してきたことに呼応して、登場人物の心の中においては、
 

      新
たな感情

                    芽生えていたことが披露されました。



華やかな登場シーンとは裏腹に、それ以降、存在感が薄くなっていた 若き研修医 瑛太 が、研修期間が終了しても、この診療所に残りたいと、(ニセ)医者・鶴瓶 に訴えてきたのです。


      このような展開になるのは、
                        なんとなく感じてはいました。



登場当初は都会的な雰囲気を強調していたものだから、医者・鶴瓶 との


      ちょっとした 対立 や 葛藤 があるのかな?

      それを、ベテラン看護士埋めていく構造になるのかな?
 

                                   と期待していたのです。


しかし、そんな局面を待っているうちに、研修医・瑛太 が子供の往診に行った際の行為を目撃したことによって 

        そのえを放棄していたのです。


それは診察後、その子供が寝付けるように絵本を読んで聞かせる彼の姿 だったのです。


結局は、医者・鶴瓶 との対立や葛藤も、勿論、ベテラン看護士の見せ場も無く、若き研修医・瑛太 は飼い慣らされたごとく、この田舎に同化したいと言い出したのです。 

   余りにも素直すぎるストーリーに、


              拍子抜けしてしまいました。   

   
      (でもこの布石は、後ほど興味深い展開をもたらすのです。)



そんな空振りを放った今作ではありますが、いよいよ 【 少時制 】 において、ニセ医者・鶴瓶 が失踪する瞬間に至ったのです。
八千草薫の娘が、(本当の)女医という設定になっており、帰郷してきたその女医が母親の病状を確認するために、診療所を尋ねてきた来たのです。
そんな場面において、 ニセ医者・鶴瓶 は嘘を貫き通し、逆に女医の納得まで勝ち取ってしまうのです。
しかし、 女医の次なる帰郷が 1年後になると聞いて、


        「1年後って、あなた.......。   と絶句をするのです。


呆然としながら 「すぐ戻ります」 と言い残して バイクに飛び乗って


         そのまま失踪   してしまったのです


恐らく、

”このままの処置だと 1年後には女医の母親である八千草薫は死んでしまう。
 そして、その事実に娘であるこの女医は関わることがない”

     そんな将来的事実に対して、ニセ医者・鶴瓶 の中に


          何らかの感情 が生じたのでしょう。



必死になって、バイクで村から逃げていく ニセ医者。
途中で八千草薫に白衣を脱ぎ捨てる姿を見せ、
医薬品会社の人間に彼女の本当の資料を渡して、そして逃げていったのです。


この 【 失踪謎 】 
発生したシークエンスにおいて、今作は特徴的な演出を提示し、ボクの 映画的興味を刺激してきたのです。

それは  

  ニセ医者・鶴瓶 の失踪していく姿を


         「ロングショット」  「後姿」 

 
                             でしか捉えない演出だったのです。



  このような表現を用いることで監督は ニセ医者・鶴瓶 の


          
 表情
うことを

                           意識的けてきたのです



これによって今作は、ニセ医者・鶴瓶 は どのような気持ちでこの村を後にしたのか、
何故、胃癌を隠していたのか を 「謎」 のままに引き伸ばすことができたのです。 言わば

           「謎」 持続

                           成功することができたのです。

 その結果、

         胃癌した  「謎」 
         
失踪
真意 という  「謎」 

                               エサにして


            
       鑑賞者の気持ちを、終盤まで引っ張っていくことができるのです。


               上手
いな。  と感心したのでした。





医者・鶴瓶 が ニセ医者 であることが判明した後の村人の反応は、一様に 批判的なもので、
ここにきて、医者・鶴瓶 失踪後の 村人たちによる評価という

 
      【 間接的人物像 】 に、

                           激変が生じたのです。



一方の 失踪前の彼の医療の関わる姿を見てきたボクの
 

      【 主観的人物像 】 に対しては、
 

                 彼がニセでろうと基本的には変わることも無いのですが、

唯の1点、

      何故、胃癌を隠し通そうとしたか の

                診療謎 】 だけが、 纏わり付いているのです。




やがて、ニセ・医者 であることが判明した後の登場人物の発言で ボクの映画的興味を強く惹いてきた場面がやってくるのです。   刑事と 研修医・瑛太 との会話。
 
研修医・瑛太 は、医者・鶴瓶 に対して


          「違和感っていた 

                           と言い出すのです。


この言葉を聞いた瞬間に、ボクの頭の中にこそ、


          大きな 「違和感」 が


                           生じていったのです。


何故なら、過疎地の診療所に勤務している 医者・鶴瓶 と 都会からの 研修医・瑛太 との何らかの対位律は、今作の開始当初から、ボクが望みながらも、活用されなかった要素だったからなのです。

研修医・瑛太 は、医者・鶴瓶 の医療活動に従順にも同化し、ついには、研修後もこの診療所に残りたいとまで訴えるようになったではないですか。

この診療所に残ると言い出したのは 医者・鶴瓶 の医師としての姿勢に感銘を受けたからだと思うのですが、 医者・鶴瓶 が ニセ医者 であったことが判明した途端に、
 

        医者・鶴瓶 に 「違和感 
」、
 
                  「目
らせていた 

                                  とまで言っているのです。





             おもしろいな と思いました。





マンションの1室、母親へのカットズーム・アップ 】 や

【失踪
する ニセ医者・鶴瓶 表情排除したシークエンス と

ビジュアル表現で興味深い場面を提示してきた今作でありました。
しかしながら、登場人物の言動の中で、興味を惹かれる場面に遭遇しなかったものですから、

今作は吉田美和監督作品なのに........。 と、


          別 「違和感」 を

                        感じていたところなのです。


( と言っても、彼女の作品は 「ゆれる」 しか観ていないのですけれどね )

「ゆれる」 では表面上の人間関係と そのウラハラに心の奥底にある 「闇」 を常に感じていたので、

    研修医・瑛太 のこの言動の不整合の局面を見て、

            やっとたか  

                            喜んでしまったのです。


そのぐらい、研修医・瑛太 のこの発言は、ボクにとっては、映画的興味を刺激するものだったのです。
何故なら、医者・鶴瓶 と同化して、診療所に残りたいとまで訴えた 研修医・瑛太 が、 医者・鶴瓶に対して 「違和感」 を持っていたなどとは、とうてい思えなかったからなのです。
ましてや 医者・鶴瓶 は、 「医者の資格が無い」 とまで告白をするのですが、
 「違和感」 など微塵にも持たない 研修医・瑛太 は 
 

    「医者資格」 意味


    「医者
としての資格」 意味えて

               
自分の父親こそ、病院経営にしか興味を持たない

    「医者としての資格医者」 として、

                        
その対極にいる医者・鶴瓶 の姿勢を
                          讃えてさえいたのではないでしょうか?








             本心られないための小芝居





一言で言うと、そんなところなのでしょう。
 
研修医 と言えども、医大に受かって、医師免許を取得した訳なのですから、そんなプライドが言わせた言葉だったのでしょう。
心酔してしまった医者が、医大にも通わず、医師免許を持たない ニセ医者 であったわけですから、
ましてや、「医者の資格がない」 「ニセモン」 だと告白されても、その真意に近づけもしなかった訳ですから、プライドを守るための防衛本能が働いたとしても、おかしくはないのでしょう。

研修医・瑛太 に対するこの推測には確信を持っていましたが、次にインサートされたシークエンスが、ボクのこの考えを強固にしてくれることになったのです。

それは、夜の田んぼを掻き分けるようにして (ニセ)医者・鶴瓶 を探す、研修医・瑛太 の姿だったのです。 必死になって探している様子を見ると、 失踪当初の、まだ、鶴瓶がニセ医者であることが

            バレる時制のシーン

                               であることが予測されます。



研修医・瑛太 による  「違和感」 を感じ、 「目を光らせていた」 と言った 
 
    小芝居の直後に、

            ストーリー的脈絡もなく

            時制的にもがりもない


                          このカットが配置されたことによって、


    「違和感」 発言に対応した 研修医・瑛太 の

            心象すシーンにいない。

                            と、ボクには受け止められたのです。
 


刑事には、ニセ医者・鶴瓶 を慕っていたという 本心を悟られないように、 「違和感」 や 「目を光らせていた」 という言葉を吐いてはみたものの、



             良心呵責えかね

           
  贖罪気持ちをったからこそ、


今は姿が見えない (ニセ)医者・鶴瓶 を探すという行為がここに挿入されてきた。  
 

                                       と感じたのです。



その行為は、人を探すというよりは、物体を探すような仕草だったことも 興味深く感じたのです。 まるで 遺体 を捜すように思えたのです。
鶴瓶 が脱ぎ捨ててしまった

 

        
 「医者・鶴瓶 の
ヌケ殻」 を


                             探しているように思えたのです。


「違和感」 発言の直後に時制的に昔となる この 「探す」 シークエンスがわざわざ配置されたことで、研修医・瑛太 は 医者・鶴瓶 に

         「違和感」 などじていなかった。

                                 と確信したのです。 


今作はこのように人の言動においても興味深いシークエンスを訴求してきました。しかし、その後に続く、ニセ医者・鶴瓶 が 実家に電話を掛けるシーンは興ざめ以外の何物でもありませんでした。


【失踪する 
ニセ医者・鶴瓶 表情排除したシークエンス 
 という素晴らしい表現を示しておきながら、ここにきて彼の顔を映す

 
          必要性じなかったのです。  



  ( しかも、あのラスト・カットを用意しているのなら、
                           全くの蛇足に過ぎないのではないか? )



そして、秀逸だった マンションの1室、母親へのカットズーム・アップ 】 
において既に、母親や父親の存在を鮮烈に訴求していたのに、再登場させたメリットが


           
理解できずにいたのです。




そして、名門医科大学を卒業した 父親への コンプレックスを今さら言及されても、それまでの表現の中で充分に感じ取れていたのに......。
そして、父親の痴呆症状も、マンションの1室、母親へのカットズーム・アップ 】 において、ダイニングの奥で、母親と刑事の会話をよそに、ポカーンと座っている姿を見ることで、十分に推察することができたと言うのに。

 
      
 くをもって 蛇足 。


                         としか思えなかったのです。




【 「違和感」 発言 のちょっとした波乱 】 とその後の 
【 時制をこえた 「探
 心象カット 】   の秀逸さに比べて、



      【 公衆電話蛇足 】 は

                    記憶から消してしまいたいほど不要。
                    そう断言をさせて頂きます。



そしていよいよ今作は、2番目の 「謎」 である  診療謎 】 についての解答がなされていったのです。

何故、ニセ医者・鶴瓶は 八千草薫 の病状を 胃潰瘍であると 嘘をつき通したのか?
 
この謎は、八千草薫の娘である女医のこのセリフによって明らかにされていくのです。 失踪騒ぎが一段落して八千草薫は、今や娘の勤務する大病院に転院しているのです。その母親のことを思いながらつぶやく言葉。


      「あの先生なら、どんななせたのかな?.......。」

 



 そうか.........、胃癌 は発見された時にはもはや、

                        手遅れ の状態だったのか........。



その瞬間に、ニセ医者・鶴瓶 に対するボクの 気持ちが完全に元に戻って行ったのです。
 死んでいく 八千草薫 に


        精神的苦痛えないように

        胃潰瘍である 「嘘」 をついていたのだ。

 
                                  と 、理解したのです。
 


そして、彼の 【 失踪謎 】 もこのつぶやきによって解明されたのです、

ニセ医者 であることがバレたから失踪したのではなく、  
八千草薫の最期を 

       である女医看取ってもらいたい。

                                と、願ったからこそ、


       
胃癌事実がわかるようにしてしたのだ。

                                という思いに至ったのです。



この局面こにきて、今作に生じていたの2つの謎 、
【 失踪謎 】 
   診療謎 】 が、堰を切ったように、一気に納得していったのです。

ニセ医者 であることが判明した時点で、彼に対する、第3者からの 【 間接的評価 】 は地に落ちた訳ですが、ボクの彼に対する 【 主観的評価 】 は、  診療謎 】 に翻弄されながらも、この2つの謎を知りえた者の正当な反応として、変わることはなかったのです。



このように、今作における大きな鑑賞目的であった 【 2
つの謎 】 が解き明かされていきました。この後は、残りの時間を使って、どのよう内容を語りながら、どのようにして終結していくのかが、終盤にかけての鑑賞目的になっていきました。


そんな鑑賞目的に呼応するように、

      づかみにされながら、

                  記憶を呼び覚まされたシーンが提示されていきました。


それは、診療所が閉鎖された後のシークエンス、
ベテラン看護士・余貴美子 の息子が 喘息の発作に苦しんでいる場面において、
医療行為が許されない母なる看護士は、ただ、息子の背中をさするながら
「よくなーれ」 「よくなーれ」 とおまじないを念じるシーンが提示されてきたのです。

これは、ニセ でも 医療行為をしてくれる者の存在が、この無医村には


     いかに有難がたかったのか

                        を再確認した瞬間だったのです。



そして同時に、中盤に挿入されていたエピソードを思い出したのです。
村の青年が事故で診療所に担ぎ込まれた際、
処置に戸惑っている (ニセ)医者・鶴瓶 に対して、この ベテラン看護士 は救急救命室にいたその経験から、処置法を (ニセ)医者・鶴瓶 に詳細に教示をするのですが、 そのシーンにおいて、


     
 看護士医療処置をすることができない


                         そんなジレンマを伝えていたのです。


いくら豊富な医療知識があったとしても、医療処置が許されない看護士である母にとって、 たとえ 

   ニセ であっても医療処置をしてくれる者の存在は


               
きない 

                               であったのです。


医療処置が許されない母に出来ることは、息子の回復を願いながら、背中をさすり 、効き目がおぼつかない 「よくなーれ」 という呪文を唱えるしかなかったのです。



       非常に、さる シークエンスだったのです。



【 2
つの謎 】 を解明した今作は、作品全体の問題意識の再訴求に充実の時間を当ててきたのです。
と感心していたら、理解不能な 駅でのシークエンスに繋がっていったのです。

この局面に際して  公衆電話蛇足 】 と同じことを言いますが
【失踪する ニセ医者・鶴瓶 表情排除したシークエンス からは、
ラストのあのタイミングになるまで、


  ニセ医者・鶴瓶 の存在を匂わす表現は、



         
 一切、必要ない


                             と強く主張いたします。



そんな蛇足なシークエンスを経て、今作は、



        今作真骨頂境地えていくのです。




娘が勤めている病院において、八千草薫 が気だるくベッドに寝ているところに、
お茶をサーブする病院係員がやって来ます。
お茶を受け取る彼女がその係員の顔を何となしに見た表情が、驚きの表情に変わりました。  

 

     「 ......?..... 、         !   」     と。 


     「 ..何?..... 、 そうか!  」       と、 ボクが気付いた瞬間。



                     その係員は ニセ医者・鶴瓶 であったのです。


給仕服に身を包んだ 元ニセ医者・鶴瓶 が目の前にいたのです
最初は驚きの表情の 八千草薫。 そこには警戒の色も伺え、ちょっとした緊張の時間を迎えたのです。
しかし、次の瞬間 


     今作真髄ともうべき瞬間


                              やって来るのです。



元・ニセ医者、 現・病院係員の 鶴瓶 は 八千草薫 が自分のことを認識した瞬間に、どうしてもこらえきれずに


            なつこい笑顔せ、    
 

    その笑顔につられて、八千草薫 も思わず


           
 カワイらしい笑顔
になったのです





一言のセリフも交わされることもなく、
笑顔だけでワダカマリを払拭し、通じ合えた二人の心。

今作は、ホッコリ としたこの絶妙のタイミングを図って、
 

  
                   プツッ と



                            終わっていったのです..........。





          
 に、今作らしいわり
だな
 


                そう思いました。





今作の序盤、 医者・鶴瓶 の失踪という、ちょっと重い始まり方をしながらも、医者・鶴瓶 の飄々とした性格に救われもしたのです。 しかしホッとしても 「失踪」 という問題が消えたわけではありませんでした。

また、老人のご臨終の席において 老人介護の重い現実を見た思いになったら、いきなりの蘇生で、しばしの笑顔になっても、 「老人介護」 という問題が消えたわけではなかったのです。  

八千草薫 が末期の胃癌というシリアスな局面において、鶴瓶 の登場に、思わずホッコリとしながら今作は終わるのですが、よく考えてみると、胃癌が無くなったわけではないのです。 
 

いずれも独特世界観で、 「陰」 から 「陽」 への転換がなされていったのです。



「問題提起」 は、する。

           ↓

 
          
でも、「暗
 ままわらせない。

                         ↓

                          しかし、「問題解決」 は、しない

 


         このユルイ立居地が 何故心地よく、


   今作
のこの終結方法も、納得のいくものになっていたのです




しかし【 現病院係員・鶴瓶 の笑顔につられて微笑 八千草薫 】 
                                で今作が終結していくのなら、

何度も主張するように、

【失踪
する ニセ医者・鶴瓶 表情排除したシークエンス 
以降は
姿は勿論、存在を匂わす表現までもを、


          自粛するべきだった 
 
                    
                        と声を大にして言いたいのです。



第3者による評価という情報が制限された 【間接的事実】 だけを頼りに、ニセ医者・鶴瓶 の本性を模索し続け、
あのラストの一瞬だけに実体を表す存在感のみで、

       元・ニセ医者、
       現・病院係員 鶴瓶 の 【主観像】 を


             鑑賞者創出できた刹那、


                      
今作は終りを告げていく.......。 



            そんな終わり方にして欲しかったのです。



きっと 鶴瓶 は 医者としては無理だったけど、病院係員という身近で等身大の立場で、八千草薫 を



               看取ったのでしょうね。 




          そう思うと 静かに心が熱くなっていったのです。










失踪した 医者・鶴瓶を巡って、



    【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして


 

            【 間接的人物像 】  を。

 
  

     【 少時制 】 では、医療に従事する姿を直接目撃することで 

                                
            【 主観的人物像 】  を。




それぞれ、
つの時制 によって提示される、この つの人物像 
足掛かりにして、
今作に発生していく


            【 失踪
謎 】 と 【 診断謎 】 。


      この つの 「謎」 を 推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。


また、


「問題提起」 は、する。

           ↓

 
           
でも、「暗
 ままわらせない。

                          ↓

                           しかし、「問題解決」 は、しない




        というユルイ立
居地が、何故かしら心地良じた

                              

                 そんな不思議な映画でした。





       ディア・ドクター2



       ディア・ドクター3





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完成! 「ハート・ロッカー」
2011-02-27 Sun 21:41
               ハート・ロッカー





今作は、冒頭に掲げた言葉、  戦争
麻薬である  を 
 


  セミマクロ  “ヴィジュアル・インパクト”  
   おぞましい      “ストーリー・インパクト”   駆使
して



                                  多重的に訴えてきました。



そして、苛立ちを覚えた


    「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」  ことや
      ヌルイ と感じてしまった展開         こそが




【 ( 「戦争
麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体

                        
モラルしていく 劇薬 】
 

                                         であったことを、 



                深く、 にぶく、 訴えてきたのです。




このように、戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという側面においては、



        比類
のない映像作品だった
 

                             と、評価を致します。







映画史における 戦争モノ をステロタイプに言ってしまうと


■ 第二次世界大戦は、


       “華やかな勝利”  に沸き立って


「史上最大の作戦」 「ナバロンの要塞」 「バルジ大作戦」 などの、戦争スペクタクル というジャンルを創出。 愛国心を煽って、高揚感をもたらしました。

  ( しかし、 1953年 の段階で  第2次世界大戦の戦勝国でありながら、
    軍隊内のモラル崩壊を訴求してきた 「地上より永遠に」 という先駆的な
   作品があったことを追記しておきます。 )




■ ベトナム戦争


       “泥沼撤退”  の汚辱けて


「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 「プラトーン」 等のビッグネームによって
阿鼻叫喚の中での “精神崩壊” が盛んに訴求されました。




■ この流れを汲んで今作が捉えた、イラク戦争映画というものは



     戦争後の、自爆をも視野れたテロ攻撃” 

                                     を受けての

        
          “自我の変質” や “性格の急変”
                                 
 という




              「 人格変容 」

                                     が訴求された。
                                     と受け取ったのです。



ここには、第2次世界大戦における輝かしき “勝利の興奮” の 華々しさ や、
ベトナム戦争における エキセントリックな   “精神崩壊”  という毒々しさもありません。  直接的な戦いが比較的短期間に終結。 しかし、その後の



      “自爆をも視野れたテロ攻撃”

                                    に晒された結果の、

         “自我の変質” や “性格の急変” 
                                    という 

地味な、


              「 人格変容 」

                                     に見舞われただけ
                                     だったのです。



しかし、今作において一番興味深く感じたのは、 この



             「 人格変容 」  は



“映画の中の人間” のみならず、それを見ている



           “映画人間” をも、



                           んでいったことだったのです。






今作はしょっぱなから、「地獄の黙示録」 における “ワルキューレのヘリコプター攻撃” のシーンが展開されていきました。


所謂、
     “ヴィジュアル的訴求点” として、

                             予告編で多用されるシーンなのですが、


今作はその “ヴィジュアル的訴求点” を

         開始早々
                               使い果たしてしまったのです。



通常であれば、このようなマーケティング的に重要なアイキャッチは、
練りに練って、中盤以降に登場させてくるものなのですが 、


 
開始早々に

         気前良放出してしまったところに、

                              まず、 ボクは興味を持ったのです。



 “ヴィジュアル的訴求点” を使い果たしてしまい、今後、この場面を越えるモノ を提供することができるのだろうか?  それとも、 この場面を越えるモノ を用意することが出来ずに、



        しいクライマックスえてしまうのか? 

  

                               そんなところを注目していきたい、
                               と思ったのです。




しかし、今作の “ヴィジュアル的訴求点” そのものは、大変素晴らしい出来となっていました。


町に仕掛けられた爆弾が爆発して生じる 強い衝撃 を



         
セミマクロ的視角において

                   スローモーションで表現してきたのです。



 【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、

   道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が、
                       振動によって空気中に拡散していった 】

                                               のです。


文章に書くと、本当にこれが “ヴィジュアル訴求点” なの? 
と思われるかもしれませんが、この一連のカットこそが、予告編に多用され、
そして、ボクに大きな映画的興奮をもたらしたシークエンスに違いなかったのです。


決定的瞬間をスローモーションで訴求する演出と言えば、往年の巨匠、サム・ペキンパー監督を思い出す方もいるでしょう。  彼の表現と比べながら、今作の特徴点を説明してみたいと思います。


往年の名監督、サム・ペキンパーによる作品は、暴力や破壊の瞬間をまっ正面からスローモーションで捉え、  今までの状態から 崩れて変容・変質していく様に、


      あるの ダイナミズム や しさ 

                                   を感じとれる作風でした。


一方の今作は、同様に ダイナミズム や 美しさ を感じとれるカットはありますが、
ペキンパー流スローモーション術とは、



       だいぶ、きをにしていたのです。




サム・ペキンパーの興味の対象は 力 を加えられたことによって変容していく、 



          “力作用点” 

                          である。

                          と理解しているのですが、



今作における キャサリン・ビグロー監督の目線はそれとは違っていたのです。
彼女の興味点は、
 


           “力攻撃目標” 

                           ではなく、 




近くに居たというだけで、その力を被り、変容・変質してしまう

 

            “傍観者への影響” 

                             だったのです。



( この時点で気軽に “傍観者への影響” という言葉を使ったのですが、
  後ほど、この言葉の本当の意味を知ることになるのです。 )
 



             “傍観者への影響”


それが  


  【 地面の砂利が  “力の影響”  によって10cmも飛び上がり、
    自動車の残骸の錆が  “力の影響”  によって空中に浮遊するさま 】


                                         であったのです。



そして、往年の巨匠との表現比較において、


       被写体との撮影距離 
       被写体
スケール感 


                    全く違うことも、特筆するべきことだと感じたのです。


今作は、

       セミマクロ的な


               
 視線限定した画角で、

                        

       人を殺傷してしまうほどの大きな 

                爆発威力
                              を語ってきたのです。



砂利の一粒、ましてや錆の粒子に目を向けると、極小なマクロ域において、とてつもなく大きな威力を語ってくるところに、サム・ペキンパーの時代とは違う、



              現代表現
                              ここにある。
                              と感じたのです。



きっと 肉食系サム・ペキンパー監督がこの場面の演出をするとしたのなら、爆発の威力で飛ばされる軍曹をアングルを違えて、何度もスローモーションで映し出してきたことでしょう。




早々と “ヴィジュアル的訴求点” を披露した今作に やっと主人公である ジェームズ軍曹 が遅ればせながらも登場してきました。
彼が “ヴィジュアル的訴求点” の際に戦死していった軍曹に変わって、新たに “ブラボー中隊” の爆弾処理担当として赴任してきたのです。
“ブラボー中隊” は 他に 警護担当の サンボーン軍曹、若き技術兵の エルドリッチ の計3名で構成されています。

ストーリーはこのジェームズ軍曹の


      個性までのチームメンバーとの

                            軋轢 を語っていくことになります。 



しかしながら、ベトナム戦争時の組織内のモラル崩壊を 「プラトーン」 が既に強烈に語ってしまった後では、心に響いてくるものはありませんでした。



これから
         どのような 求心力
                            を今作は創出していくのだろうか ?




と観察していたら、ボクの興味を惹く時間の使い方が提示されたのです。
それは、砂漠地帯での遠距離狙撃戦でのこと。


        長い時間をかけて、

        固唾を飲んで相手の出方を待つ。

                            という時間の使い方があったのです。 


結局は全ての敵を倒していたので、相手の反応を伺うことは無駄であった、
というシークエンスなのです。

このような、ともすれば冗長と受け取られる表現は 第二次世界大戦における “戦争スペクタクル” においても、ベトナム戦争における “自己崩壊地獄絵図” においても、自分の経験の中では、観ることのなかった



        特異表現
                       であったので、
                       興味が惹かれていったのです。



そこで、この表現は本格的な戦争は比較的短時間で終結し、進駐後の 自爆をも厭わないゲリラ戦 が主流となっていった イラク戦争特有の


 
         本戦における “心理的未達成感”  や 

         ゲリラ戦の  “精神的消耗感” 

                   
                                     の表れだったのか?
                                     とも思ったのです。


そして、


     “ヴィジュアル的訴求点” を 主役が登場する前に 手放してしまい。
     結局は “無駄な時間” となるものを、時間をかけて表す。
 

                               そんな今作の演出バランスに、
                               大きな興味を持ったのです。


“ビジュアル的訴求点” を越えるモノを提案できずに、このまま終わりを告げてしまったのならば、

 “無駄な時間” を時間をかけて訴求せずに、


        映画として成立できるモノ時間を使うべき

                
                                   と非難されてしまう。
                                   のでしょうが、


今作は アカデミー作品賞に輝くほどの作品なので、この後には何かが隠されているはず。 
と希望を持って、鑑賞を続けていったのです




そんな暢気なことを考えていたら、今作はとんでもなく過酷なストーリーを語ってきたのです。

“ヴィジュアル・インパクト” を超える 

        おぞましいストーリーが提示されてきたのです。




             それは  「人間爆弾」 ...........。





自爆テロのことではありません。人間の体内に爆弾システムを埋め込むのです。
腹部に大量の爆薬を埋め込まれ、人間の体全体が “爆弾システム” と化しているのです。

腹部に大量の爆薬を詰められているので “爆弾システム” となっている人間は、勿論、



              絶命しています。



血まみれの状態でゴロンと長机に放置されたその 「人間爆弾」  を見て、
凄まじいほどの悪意に、吐き気を催してしまうほどでした。
こんな悪魔的な現実が、イラクの地で本当にあったのでしょうか ?

そして、その 「人間爆弾」 が主人公の ジェームズ軍曹と、交流のあるイラクの少年だったことが判るにつれて 、



          その行為の

          本当のおぞましさを


                          認識していったのです。



見ず知らずの他人であるのなら、その死のいきさつについて思い悩むことはないでしょう。
でも、「人間爆弾」 にされたこの子供は元気にサッカーをしていたのです。
それがこんな姿となっていたのですから、



          サッカー と 「人間爆弾」 の間には、

          ろしくも邪悪暴力 が


                           潜んでいたことが伺いしれるのです。




「自爆」 には我が身を捧げて行う 強い意志を感じますが、
「人間爆弾」 には、人間爆弾となる対象者の



     尊厳みにじって テロ実行する

                           身勝手組織的な 




を感じて、ただただ、その凄まじい悪意に耐えかねて、体調を崩してしまったのです。


“ヴィジュアルインパクト” なんて暢気なことを言っている場合ではない事態が、今作のストーリー上で発生していたのです。

書く気が失せてきた。 もうやめよう。

そう考えて、しばらく放置していたのでした.......。










この凄まじくも、おぞましい有様を目撃した 主人公の ジェームズ軍曹 はただちにこの危険な


       「人間爆弾」 の無力化

                             に動きます。


爆弾をしかけ、その対象物を爆破させて、その脅威を無力化させてしまうのです。

しかし、彼は心変わりをして、爆発を中断するのです。
これは、 



       “爆弾システム” ではなく

       “遺体”  であると

                           認識した彼は、



断末魔で見開かれた、その子の目を閉じ、腹に縫い込まれた爆弾を摘出するのです.。


ボクはこの圧倒的な展開の前にただ亞然とするしかなかったのです.............。




しかし今作は、このように大きなアドバンテージを獲得しておきながら、この直後



       挽回できない、重大失態

                        を演じてしまったのです。



あろうことか、応援に来ていた 軍医 を、仕掛けられていた爆弾によって爆死させてしまったのです。



 “ストーリー・インパクト” を評価し始めたボクの中に、その瞬間に


           残念気持ちが

                        生じてきてしまいました。
 


制作陣にしてみれば “軍医の爆死” は “ストーリー・インパクト” の貴重な追加点を意図したもの。 と理解できますが、 


   前述の 「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描いていた」 

                                   ことの意義を
                                   疑っている者からすると、
 


   構造上アンバランス露呈してしまった。

                                    と感じたのです。
 


何故なら、軍医と 若き技術兵 エルドリッジ との人間関係を訴求をしてきたものの、表面をなぞった程度にしか表現できていなく、このような熟していない人間関係に、
 


   いきなり “爆死” を押し付けられても、

                         感情は、
くはずもなかったのです。

 

そうなると、先程、心を動かされたと思い込んでいたシークエンスにおいても、 主人公 ジェームズ軍曹 と 「人間爆弾」 にされた少年の関係も、2度会ったきりで、



       びつきを 訴求できていなかった。

                         ということまでも思い出されてきたのです。



“ストーリー・インパクト” を 


     ジェームズ軍曹 と 少年 の関係 の中で、 そして
     
軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との関係の中で

                                  訴求したかったのなら、


      もっと、その関係性を、

                                  語るべきだった。
                                  と思えたのです。



しかも、 「 “無駄な時間”  を 時間を掛けて描く」 ことをやめてでも、

                つの関係性を 時間けてるべきだった。
 




 
                  と主張をしたいのです。






終盤に向けての今作の流れは


              非常に ヌルイ ものでした。



序盤早々の “ヴィジュアル・インパクト”  を提示し、 
中盤の     “ストーリー・インパクト”   を訴求してきた今作ではありますが、


その間にある 
 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」 シーンのような、


            ユルイ時間 
迎えたのです。



主人公の ジェームズ軍曹 は 「人間爆弾」 にされたベッカムの家を探ろうとするが、成果を得ず、また、彼の深追いで 若き技術兵 エルドリッジ は 負傷して戦地から離れることになります。



     映像世界に没頭できそうだなと思うと、肩透かしを食らわせてくれます。




ベッカムの家を探しているうちに、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンスの意義を計りかねてしまったのです。

 
この期に及んでもまた

      「 “無駄な努力” を 時間を掛けて描く」 

                           ことを訴求したかったのでしょうか?


この有様に耐えかねて、ボクは再び

      「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことをやめて、


主人公の ジェームズ軍曹 と 「人間爆弾」 にされたベッカム との関係。
そして、爆殺された軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との関係。 

 

      
このつの係性を 時間けてるべきだったのに ! 



                             と叫びたい気持ちになったのです。



そして、ヌルイと思えたのは、


       技術兵 エルドリッジ の受難です。



 
         ここでは敢えて、悪魔的な妄想を告白することに致します。



主人公のジェームズ軍曹の職務を逸脱した深追いで、若き技術兵 エルドリッジ は、テロ組織に連れ去られてしまうのです。 


     この瞬間にボクの悪魔的妄想

                              抑止力を振り払って、
                              勝手に主張し始めていたのです。


【 今度はイラク人のベッカム少年ではなく、 
                      敵対するアメリカ兵である エルドリッジ が   
                                                               血祭りにされる番である ! 】
 

                                                と。




中盤に衝撃を与えてきた “ストーリー・インパクト” は 「人間爆弾」 という忌むべき方法でした。 それを超えるインパクトを仕掛けるとしたら、若き米兵である エルドリッジを



      “強制自爆  させるしか他ない 

                              と


      肥大化していったボクの欲求 


                               こんな夢を見てしまったのです。




しかし、この期待をまんまと裏切って、エルドリッジ は足の負傷だけで、イラクを離脱をしていくのですから


 
         い   すぎる!!  

              
                       と、むき出しの感情が叫んでいたのです。 
 







        気がつくとボクは、こんなにも熱くなっていたのです..........。










今、この作品を終わりまで鑑賞し終えました。 そして、改めて思いました。


        「甘 。    と、 



そして、鑑賞し終えて、 「甘い」 と思えてしまったボクを


        「怖 。    と



                思えてしまったのです。




今作は序盤にセミマクロ的スローモーションの “ヴィジュアル・インパクト” を提示し、 中盤には 「人間爆弾」  という “ストーリー・インパクト” を用意してきました。


そして終盤には、それらを超える、


      “若技術兵 エルドリッジ の強制自爆” 



が展開されるはず。 と、妄想が暴走したところ、今作が提示してきたのが、



       イラク男性強制自爆” 


                            だったのです。




    ボクの妄想は既に 悪魔的領域 までに到達していたというのに、 
 

今作は見ず知らずのイラク人を血祭りにしただけで、終盤のクライマックスを終えようとしているのです。 


主人公の ジェームズ軍曹 とは何の関係性も持たないイラク人が爆発したところで


        何感情まれるというのだろうか


と呆れてしまったのです。 そんな甘っちよろいことではなく、
若き技術兵 エルドリッジ を大爆発させることで、 アメリカ と イラク の


         しみの

                       を知らしめることができるでしょうし、



ジェームズ軍曹 の “自信” と ”誇り” 


          を めること

                       ができるはずなのに。


これこそが、中盤のイラク人少年 ベッカムの 「人間爆弾」 の衝撃を超えていきながら、今作を締めくくることができる唯一の方法だというのに  .........。




      歯がゆい!  

      甘い!

      ヌルイ!  

      悔しい!


                       なんてなことを真剣に思っていたのです。









            危ない、危ない。




      これが監督の術中なのでしょうか........?





今作の舞台がイラクの地を離れ、アメリカに移り冷静になった時に、
キャサリン・ビグロー が今作の巻頭に持ってきた言葉の意味を痛感しました。
 


       「戦争麻薬である



それを今作は訴えているのですが、
ボクは悟ったのです。
 


【 ( 「戦争麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、

                        
モラルしていく 劇薬
 
 


                                   だったのだ と................。




戦争という非日常の興奮状態の中で、自分の存在意義を見い出してしまった人間にとっては、

 日常というものは


         退屈な、人生


                       くらいにしか思えない。
                       そんな不幸を今作は訴求してきたのでしょう。



しかし、ボクが今作を鑑賞した中で、最も心を動かされてしまったことは、

そんな、非日常の毎日を見せられてきた鑑賞者も、ジェームズ軍曹 と同じようにより強い刺激を求め、いつしか、



       自分モラルかにえた精神状態 に 


                                       追いやられていた、
                                       ということなのです。



イラク人を 爆発させるくらいなら、 若いアメリカ兵を木っ端微塵にしてしまえ



              なんて苛立ってしまうくらいですから。





    ボクはまんまと演出陣にしてやられてしまった。

 
                                  ようなのですね..........。




そして、冒頭に提示されてきたビジュアル・インパクト


【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、
 
  道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が
                    振動によって空気中に拡散していった。 】


                    の一連によってキャサリン・ビグロー監督の目線が、


     「力作用点」         だけではなく、

     「傍観への影響」     に及んでいたこと


                                  を鮮烈に思い出したのです。



「力
作用点」 が 「力の攻撃目標」 となっている


          “映画人物”   
                             
とするならば、
 

「傍観者への影響」 というものが 


         “鑑賞者であるボクへの影響” 
 
                                 に相当するのだな。 
                                 と思い、


そして、その環境の中において、ボクは知らず知らずの内に


        “自我の変質” や “性格の急変”

                                  という



           「 人格変容 」

                                  に見舞われたのだな。
 



             と、つくづく納得してしまったのです。 





“無駄な時間” を 時間を掛けて描く」  ことは必要だったのです。

ベッカムの家を探しているうちに、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンス は必要だったのです。    

若き技術兵 エルドリッジ が 足を負傷して戦地から離れる “甘さ” 
必要だったのです。



全ては鑑賞者という “傍観者” の心の奥底にある



         悪魔的側面
 
                      を すために
 


            必要な手段であったのです。





         完全に手玉に取られてしまったようです。







最後に 今作は 素晴らしい “予見” を用意していました。


主人公 ジェームズ軍曹 がイラクでの任期を終えてアメリカに戻って来た場面において、眩い光に満ち溢れたスーパーマーケットの情景が映し出されました。

シリアルを買おうと売り場にやって来たものの、膨大な量と、膨大な種類のシリアルの箱が所狭しと並べられているその様に圧倒され、選ぶことができないでいるのです。

今作の舞台は、荒涼とした砂漠や、ゴミゴミした市街地でした。
そんなイラクの地で、このアメリカのスーパーマーケットと同様に、



        合理的整然としていた場所

                               が一つだけあったことを
 
                               思い出しました。



それはジェームズ軍曹 の前任者が安置されていた



         死体安置所 


                         という場所だったのです。



この有機的連動によって、スーパーマーケットに代表される 清潔で無機質的な明るさに満ちたアメリカ文明の地が、ジェームズ にとっては



         死体安置所 


                         のごとき場所であることの
                         訴求がなされた。 と理解したのです。



この表現によって、次のシーンに移行せずとも、ジェームズ が再びイラクの地において “ジェームズ軍曹” としての



       を 「消耗」 していくことを、

                         予見 することができたのです。







後日、大学時代からの友人で、コピーライターをしている Herbieちゃん から、ボクの映画的興奮を満たしてくれる見解がインプットされましたので、了解を得て追記したいと思います。


   アメリカのスーパーマーケットのシークエンス。
   膨大な量のシリアルの表現において、


   「 今作は戦争の異常さを訴えていたけれど、 
                          このシリアルコーナーの表現によって、

        アメリカの日常 こそが

                         異常

                              であったことも訴えていたのだ。 」
  
   という意見だったのです。 それは、

   あの膨大な量は 需要を遥かに越えた異常な
 


                 “過剰備蓄” 

                  
                                  という見方だったのです。



資本主義下の大量消費社会においては、「商品ラインアップ」 と 「陳列ボリューム」 で、同業他社との戦いに勝つことを目的とした企業間戦争が、スーパーマーケットという戦場において展開されていたのです。
そこには、必要なモノを供給するというレベルを超えた、マーケティング手法を駆使した 「シェア争い」 の虚しさに満ちていたのです。



           その結果の 異常な “過剰陳列”  


                                       だったのです。


今までイラクの地の 未整備で不十分な環境を見てきた者にとっては、
このアメリカのスーパーマーケットの有様は、



           常軌を逸した、資材一極集中


                                      と映ったことでしょう。





        需要にはえることができない イラクの地 

          需要かにえた アメリカのかさ



           この 不平等 を如実に語っていたのです。




  3,000円で141人分の麻疹ワクチンの支援ができるそうです。
  たった21.3円のワクチンを打つことができなくて、命を落とす子供がいる一方で
  消費し切れない量の資材を陳列しているスーパーマーケットがある。

シリアル1箱分の金額で何人分のワクチンが賄えるのかは知りませんが、
それでも、相当数の子供の命を救える 量 があのスーパーマーケットに陳列されている。 と推測することができます。

きっと、あの膨大な量のシリアルのいくつかは、消費期限を越えて、無駄に廃棄されていくのでしょう。
そして、その量に比例する数の子供達がワクチンを受けることなく、命を破棄されるがごとく、失われていくのかもしれません。 



             無駄 などないというのに.........。




この現在においても、アメリカは強大な軍事力を背景に、積極的に外に出て一方的に 「富」 を獲得していきます。

そんな、「富」 と 「命」 の不均衡・不平等がグローバルに展開されている

 「南北問題」 を、 

シリアルという、毎日の食材に託したキャサリン・ビグロー監督の女性の視線が特徴的であった。 というのです。
 



           ボクはくの同感をしたのです。









今作は、冒頭に掲げた言葉、  戦争麻薬である  を 
 


  セミマクロ  “ヴィジュアル・インパクト”  
   おぞましい     “ストーリー・インパクト”   駆使
して



                                  多重的に訴えてきました。



そして、苛立ちを覚えた


    「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」  ことや
      ヌルイ と感じてしまった展開         こそが




【 ( 「戦争
麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体

                       
モラルしていく 劇薬 】
 

                                         であったことを、 



               深く、 にぶく、 訴えてきたのです。




  この成果は、計算ずくなのか、偶然なのかは、はかりかねますが、
  戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという意味においては、



    比類
のない映像作品だった
 

                           と、評価を致します。 



そして、毎日の食材である シリアルの陳列コーナーを舞台に、 決して解消することがない


          「南北問題」 をも


                            鮮烈に語ってきたほど
 



        潜在能力としてはとてつもなく大きな力を持った作品だったのです。
    




    
                          
       ハートロッカー2 



       ハートロッカー3
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完成! 「ゴッドファーザー PARTⅡ」 
2010-12-12 Sun 14:11
          ゴッドファーザーPART2                  








2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、
この二つの時代を横断する



       「感情似 ― 似ている点」  と 
        「環境違 ― 違点」



   が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。



しかし、


     「感情相似 ― 似ている点」  は跡形も無く消え去り、
     「環境相違 ― 違点」     のみが強調され、
     れなほどの格差          に苛まされることになります。




第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制ラビリンス」 が、    

    

  今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。


     

           に、残酷芳醇逸品だったのです。








前作 第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、2代目を継いだ 

        マイケル の その物語” と、



一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親

        ヴィトー の “若かりし物語” がリンクする、




          非常に意欲的な構造を今作は成しています




そんな今作のファーストカットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと共に、ゴッドファーザーとしての役割を “物憂い” 表情で行っている 二代目・マイケル を映し出してきたのです。

この時点で、ボクは

          今作性向察知

                         するべきだったのです。


ファーストカットからして、 マイケル は


          “物憂 表情  という、


                        判りやすい態度でいてくれたわけですから。





【 父親・ヴィトー の大帝国を引き継いだ 三男・マイケルの “その後の物語”
 
           と

  父親・ヴィトー の “若かりし日々” がリンクしてくる。 】 




そんな今作のプロットから推測して、ボクは、二つの時代に展開していく “成長と成功” を体感できるものと、
 

           きな勘違

                       をしてしまったのです。




  一方は、“成長と成功” を獲得していくが
 
                      他方は真逆の悲惨な状況に陥っていく。    
 


                                   
            今作はそんな、過酷な展開をしていったのです。





この皮肉なストーリーを今作は、ある “象徴的なモノ” に託してタイトルバックに
結実させていたのです。


             “象徴的モノ”   それは、


マイケル が座っていた


             書斎の 重厚椅子



その年季の入り具合から、先代・ヴィトー の時代から使われ続けている物だと推察することができます。

先代・ヴィトー の様々な局面を身近に見守ってきて、これからの 2代目・マイケル の諸行を目撃していくこの椅子こそが、


          2世代物語俯瞰していく


                今作のタイトルバックに、最適な被写体であったのです。



しかも、椅子というモノが暗示する事柄を考えると、その想いはひときわ重くなるのです。


   椅子が暗示するもの 


               それは、 「地位」 。 
 



  若かりし ヴィトー  が如何にしてこの 「地位」 を築き、
  若き   マイケル が如何にしてその 「地位」 を保つために、悲惨な人生に
              堕ちていくのか。


そんな今作の世界観を象徴するこのタイトルバックに、
                  ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。




この素晴らしいオープニングショットの後、
映画は ヴィトー 9歳時の過酷な運命を語ってきました。

辛い経緯の後、シシリー島を追われるように彼は、9歳の身で単身アメリカに逃れてくるのです。



   移民船がニューヨークに近づき、デッキの移民たちが無言で一つの方向を
   見つめている。

   勿論、幼きヴィトーもいる。

   その視線の行き着く先に、 自由の女神 が静かに姿を見せてきたのです。



この映像を、郷愁を湛えた音楽が包み込んでいきました。 
「不安と夢」 が混ざったこの船上に、自分の命を守る為に9歳の男の子がいることに、


        いしれない しさ

                        を感じたのです。



検閲官に名前を聞かれ、ヴィトー が英語を話せないでいると、
 “コルレオーネ村の ヴィトー・アンドリーニ”  という名札を誤解され、
台帳に ヴィトー・コルレオーネ と記入されてしまいます。これが彼の本名となっていきました。


それだけ、この9歳児は アメリカ大陸においては 


                       
          “何もできない存在” だったのです。
 

 
 

今作は、天然痘の疑いでエリス島に隔離された収容所の窓越しに、 ヴィトー 
が自由の女神 を虚ろに眺めている 


1901年  から   オーバラップ ” という技法を用いて、  もう一つの時制、
 
1958年  2代目・マイケル の時代に、移行 していきました。




“ オーバーラップ ”
  という技法は
               「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
 

       先行する   【 カット 「 A 」 】  が徐々に薄くなるや、

       次なる      【 カット 「 B 」 】  が現れ始めて、



                   2つのカットが重なりあいながら
                   ゆったりと場面移行をしていく表現手法を指します。  


この手法を今作は、


      「 A 」 でじた 感情 を 持続 させながら、 
            
      「 B 」 という   状況 に 移行 するに、


                              効果的に活用しているのです。



9歳時の ヴィトー からの “オーバラップ” 先 は 同じ年頃の アンソニー・ヴィトー・コルレオーネ のキリスト教儀式の場でした。 名前に ヴィトー の文字がある通り、彼は ヴィトー の孫、マイケルの息子にあたる少年なのです。


  英語が話せず、孤独で不安、粗末ないでたちの ヴィトー と、
                          キレイに着飾った孫の アンソニー

  その後の、盛大な聖餐会をしてもらえる アンソニー と 
                          一人寂しく隔離されている ヴィトー 


このように、

    年頃  ではあるが、
    う環境   にいる     二人の、


            57年間の 大きな隔たりを繋ぐ “オーバーラップ” の見事さに
            感動したのです。



この “オーバーラップ” の素晴らしさに触れて、ボクは、早くも今作の ”映画のルール” を見つけた思いになったのです。  それは



   【 父親・ヴィトー と 2代目・マイケル の時代は、
    
     二つの時代に共通する要素を 「ブリッジ」 にして、 
                    
                          “オーバーラップ” で繋いでいく 】


                                         
                                       というものでした。




そして、このような “ルール” で活用されていく “オーバーラップ” という
表現手法は、 2つの時代に共存している


      似」  ―   かよっている       
      違」 点 ―   いがハッキリしている  の

  
                     コントラスト をしっかりと描いていくはず。
 


                    とこの時点のボクは 大きな期待を持ったのでした。





2代目・マイケル の時代に今作のストーリーを推進していく事件が勃発しました。
あろうことか、マイケル の自宅にマシンガン攻撃がなされたのです。 
驚愕する マイケル 、騒然とする “ファミリー” の面々 。 平静を装って子供を寝かし付ける彼の横顔に


         “オーバーラップ” してくる

                          青年の姿がありました。



時は 1917年   ヴィトー 25歳。  

今作は1児の父親となっていた ヴィトー の時制へと “オーバーラップ” していったのです。

9歳の時、自分の名前を主張できずに ヴィトー・コルレオーネ という名前になってしまった、あの何もできなかった孤独な少年が ロバート・デ・ニーロ に成長していたのです。


今回の時制移行が、それ以降の “オーバーラップ” 表現の指針となったわけですが、
この、2代目・マイケル と デ・ニーロ 演じる若かりし日の 父親・ヴィトー の2つの時制を結ぶものが
 

   寝室を銃撃された直後、マイケル が息子を気遣いながら寝かし付ける

         「父親の顔」  と 


   デ・ニーロ 演じる ヴィトー の、ベビーベッドにいる 長男 を見守る

         「父親の顔」  への

      
              “オーバーラップ”   となっていたのです。 



時代は違えど、子供を気遣う 普遍的な感情 を見て、心が暖かくなっていきました。
これがボクの言う


     ―  かよっている  を


                          象徴するカットだったのです。




  しかも、 “似通っている点” の中でも、 “人の想い” に注目していることから、
  今作は


    
  【 「感情の相点」 - 時代は違えど、共通する 人の想い -  を

     「ブリッジ」 にして2つの時制を  “オーバーラップ” で繋いでいく 】



          という、映画のルール によって進行するものと、思い込んだのです。





2代目・マイケル の時代に 今後の展開を占う、重要な人物が登場してきました。 父親・ヴィトー の世代から取引がある マイアミの大物 ロス という人物で、マイケル はこの ロス なる人物が


          自分達わさせたのでは、


                           と疑い始めていきます。


しかし、マイケル は、その ロス と、キューバのハバナにカジノを設立するという大きな事業を始めていたのです。そんな疑念を胸に抑え、ハバナで ロス と行動を共にする マイケル ですが、その中で ロス に利用されている人物がファミリー内にいることを察知するのです。

その内通者が誰あろう、


             自分の フレド
 

                           であったのです。


フレド は ヴィトー の次男で
 
  ( 長男の ソニー は第一前目 「ゴッドファーザー」 で射殺され、
    マイケル は三男 )

およそ、コルレオーネ家の者とは思えない おマヌケ、ダメ男キャラなのです。


この事実に対して マイケル は、老練の ロス と実兄の フレド に対してどのような処置を行うのかを見守っていたら、何と、唐突に


           キューバ革命勃発  したのです  

                  (すごい展開)



動乱の中で ロス  の殺害に失敗をし、
混乱の中で フレド は マイケル を恐れて逃亡。

                  という散々な結果になったのです。



しかも、アメリカに戻ってきた マイケル に次なる不幸が襲い掛かります。
ハバナに留守中の間、奥さんが流産をしてしまったのです。



命を得ることができなかった自分の子供を思い、落胆の表情をうかべている マイケル から、どうやら “オーバラップ” されて、 デ・ニーロ 演じる ヴィトー の世界へと移行していくようです。

と、その時、気付いたのです。 


ボクは今作の主人公であるところの、


     二代目・マイケル のストーリーよりも、
     若き日の父親・ヴィトー の物語を



                         っしていたことを。



マイケル のストーリーを追いつつも、心のどこかで、 
早く “オーバーラップ” が始まって ヴィトー の世界に移行することを願っている自分を発見したのです。
何故だろう?  この問いかけを胸に、中盤以降の鑑賞を続けていったのです。




マイケルの、生まれ出ることがなかった子供を思う落胆の表情から
“オーバーラップ”
 されていく ヴィトー の表情も、 


    「感情の相似」 ―  かよっている    のルールの通り、


                          マイケルと同じく、沈みがちなものでした。



今回の ヴィトー の表情は 次男・フレド が原因となっていました。
前回は子供が、長男・ソニー 一人きりでしたから、今回の ヴィトー の世界への “オーバーラップ” は、前回の時制から数年経過したことがわかるのです。

そんな時間の経過を表すとともに、この1920年代の 赤ちゃんの フレド は、1958年現在の 次兄・フレド が、家長たる 三男・マイケル の不興を買って 微妙な “困ったちゃん” 状態だったことを思い出させてきたのです。  そこには

  肺炎にかかり民間療法を嫌がり泣く姿が提示されてきたのです。

フレド は赤ちゃんの頃から脆弱で厄介な存在であったようなのです。
そして、そんな憐れな次男を、耐え切れない表情で見守る ヴィトー がいるのです。

その瞬間、気が付いたのです。   そうなのです。  これなのですよ。
ボクが 今作の主人公 二代目・マイケル よりも、若き父親・ヴィトー に気持ちが惹かれてしまうのは、 


彼の
       人間味溢れる側面
                          に魅了されていたからなのです。



前回の ヴィトー のシーンにおいても、盗品カーペットの上に、赤ちゃんのソニー を立たせて、ささやかな幸せを喜ぶことができる ヴィトー をボクは微笑ましく見ていたのです。

そして、

  9歳時の、何もできなかったあの子供が、
  親の愛情に触れることがなかった憐れな少年が、

          やがて結婚をし、子供を慈しむ大人に成長していたのが
 


             しかったのです。





しかし、ヴィトー の世界を見守るボクの気持ちの中には、もっと複雑な感情が芽生えたことも事実ではあったのです。

それは、第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、老年となった ヴィトー が


       農園えたことをめ、 


                目撃

                            していたことが原因となっています。



ボクは、ヴィトー 9歳の初登場シーンの時点において、彼の死を どうしても意識してしまっていたのです。
そして、立派になった ヴィトー の 成長を喜んでも、彼の終焉の光景が ついて回っていたのです。


ましてや、そんな ヴィトー を嬉しがらせた、生まれたばかりの ソニー に至っては、
第1作目 「ゴッドファーザー」 において抗争の果てに惨殺され、老年となったヴィトー がその死を悼み


       しみにちひしがれる姿


                  目撃

                            してしまっているのです。



全ての人に訪れ、逃れることができない 「死」 、 そんなものが、ヴィトー の物語に特別な感情を付加していたのです。

9歳時の哀れな ヴィトー  と 、 農地で息を引き取った彼の最期。 

この両面を見てしまった者としては、青年・マイケル が 第1作目 「ゴッドファーザー」 の経緯を経て、二代目の1959年の今を生きる姿より、 どうしても、デ・ニーロ ヴィトー の


         人生深遠さに

                        関心が移ってしまったのです。






そんな デ・ニーロ ヴィトー が登場して、第2回目となる今シークエンスにおいて、
彼の人生に


         きな転機  が訪れます。



裏稼業の障壁である地元のマフィア、 ファヌッチ という人物を殺害することになるのです。
そして、コトを終えて帰宅した彼を迎えたのが “3人の息子” だったことに、ボクは大きな意味を感じたのです。



  何故なら、裏稼業に立ちはだかる きな障壁排除した この時点で、
  三男の マイケル が         まれていた        ことによって、




若き父親・ヴィトー と 1959年の 2代目・マイケル の間に、


        違」 ―  いがハッキリしている 


                    が生じてきたことに気付いてしまったからなのです。



「相違」 ― 違い  は 2つ発生していたのです。まずは1つ目

    2代目・マイケル が流産によって子供を失っていた一方で、 
    若き父・ヴィトー には 次男・フレド、そして、自分を継ぐことになる
    三男・マイケル が誕生しているのです。

そして、2つ目

    若き父・ヴィトー は障壁となっていた 地元のマフィア ファヌッチ の殺害に
    成功するが、
    2代目・マイケル は 自らを襲撃した マイアミの ロス の殺害に失敗して
    しまうのです。




この2つの 違」 ―  いがハッキリしている  が、


     父・ヴィトー と 子・マイケル の間に横たわる、


            きな 違」 の
 

                         始まりとなっていったのです。







終盤、自宅襲撃、ハバナでの混乱、流産 と、不運続きの マイケル に新たな災難が振りかかります。
暗殺し損ねた マイアミの ロス の反撃にあって、


    “政府の公聴会” という場において
 
               マフィアボスであることの追及

                               が行われたのです。


この局面において、家族 を、そして “ファミリー” を引きいていくことの憂いを滲ませた マイケル の横顔 から、念願の ヴィトー の時代に “オーバーラップ” していったのです。



      「 子宝に  ―   まれる  ⇔  まれない  
      「 障壁を  ―   排除した  ⇔  排除できない  




という2つの時代の  違」 ―  いがハッキリしている   が提示された直後の今回の時制移行は、



    【 2つの時代に 普遍的 にある

      感情の相 ― かよっている 人の

      を 「ブリッジ」 にして “オーバーラップ” によって
移行する 】 
 


               と思い込んでいた今作の “ルール” が崩れていったのです




何故なら、憂いた マイケル の表情から “オーバーラップ” されていった ヴィトー は、いたって普通の表情でいたのです。 


この表情の違いを観てボクは、父・ヴィトー と 子・マイケル が共有していた、


     していた感情」 ―  かよっている  は

                    消滅 
をし、



    逆に ヴィトー と マイケル を取り巻く “環境” に大きな差異が生じ 始め


     する環境」  ―    いがハッキリしている  が  


                          クローズアップされる
                          予感 を持ったのです。



そんな予感を振りまいた今回の ヴィトー のシークエンス終わりは、彼の初めての会社を立ち上げて、“ファミリー” の基盤を築いた充足感に満ちた場面だったのです。
この象徴的なシーンから マイケル の時代に “オーバーラップ” していくのですが、

もはや
 

    「感情の相似」 ―  ている   消滅し、
    「環境の相違」 ―  いが       強調されていく予感の  

                                       今作において 



   初代・ヴィトー のように、 “成長 と 成功 ” に満ちた表情で、
   2代目・マイケル に “オーバーラップ” していくことはない。

   と思いながら観察していくと、 次なる マイケル が置かれた舞台は 


     非常にシリアスな場面。


                政府による、公聴会の現場 であったのです。






公聴会という危機を脱する過程において マイケル は実兄の フレド を排斥し、
妻の ケイ には家から去られてしまいます。
決定的だったのは、ハバナの動乱中に流産した子供が、実は妻の ケイ によって堕胎されていたという事実でした。

「あなたの子を この世に生みたくなかった」  と言われて激高するマイケル。
兄弟という関係の解消、 妻からの憎悪 という、

彼を支えていた

         「絆」 が急激

                       崩壊 し始めていったのです。



この決定的に 負 の方向に陥っていく マイケル の人生とは対照的に、今作は待望の ヴィトー の時代に “オーバーラップ” し始めるのです。 
 

いや、います。


          “オーバーラップ”

              
      しなかった のです。
 

 
“ オーバーラップ ”  という技法は
     「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
  

     「 A 」 という “感情”  継続 させながら、 
     「 B 」 という ”状況”  移行 していく


                     今作においては、効果的に使われているのですが、


この局面に至って今作は 


2代目・マイケル の (陰鬱  “感情” を継続させながら、
初代・ヴィトー   の (成功  “状況” のには移行することが


                     
                      ない。
 


                                      という宣言を、



         制作者文脈においてなされた。

                                      と理解したのです。




今回は “オーバーラップ” が活用されなかったのですが、それに代わってどのような表現手法になったかと言うと、  単純明快な “カット繋ぎ” となっていたのです。


  「マイケル の時代と ヴィトー の時代には関連性など全くありません。」 
 

                                 と態度を急変させるように、



  何の加工処理も施されない、単純明快な “カット繋ぎ” に代わっていたのです。

 
( 注  2つの時代間の移行方法は全て “オーバーラップ” によるものではなく、
     1 部において “カット繋ぎ” が採用されていました。
     しかし、今回の “カット繋ぎ” だけは他のものとは違い、上記のような
     特別な狙いを感じたので、それを強調するような文章表現となっています。
     また、 これ以降にも “オーバーラップ”  が再び登場してはきますが、
     もはやその時点においては 映画のルール の効力を失っていたのです。 
     しかし、この 映画のルール は、エンディング間近に非常に大きな効果を
     発揮してきたのです。  )




陰鬱な マイケル の世界をスパッと断ち切るように、ヴィトー は太陽算燦々の生まれ故郷である シチリア に、錦を飾りにやって来たのです。


  ヴィトー の一時帰郷は、ある一つの目的に集約されていたのでした。

  思い出しました。彼が9歳の時、

  何故、 生まれ故郷を後にしなければならなかったのか、  を。



           それも、たった一人で ............。




地元のマフィアに家族全員を殺害され、彼自身も命を狙われたからこそ、逃げるようにしてアメリカ移民の船に潜り込んだのです。

  彼は復讐の為にシシリーの地にやって来たのです。




過酷な運命を強いてきた地元のシシリーマフィアを殺害する ヴィトー ですが、それは、

      殺された家族、そして、
      自分への仕打ちに対する復讐

                          には違いないのですが、


第1作目の 「ゴッドファーザー」 と、続編となるこの 「ゴッドファーザー PART2」 を鑑賞してきたボクの頭の中には、



           大きな妄想 


                      
展開されていったのです。



この ヴィトー の復讐は、彼をシシリーから追い出し、その結果、彼をアメリカのマフィアにならしめ。
それ故、第1作目 「ゴッドファーザー」 においては 長男・ソニー が抗争によって殺害され、、
この続編 「ゴッドファーザー PART2」 に至っては、1959年、2代目・マイケル が
その地位を維持するために、人間として大切な一切を失ってしまう悲劇
までをも含めて、


    コルレオーネ・ファミリー という マフィア であるが故に直面する


    ての “不幸” にする
     
               根源的復讐  だったのだ



                              という思いに駆られたのです。



ヴィトー の復讐劇は、長男・ソニー や 三男・マイケル はまだ子供でしかない1920年代の出来事なので、未来の1950年代に対する復讐、なんていう妄想は現実味があるはずもありません。
しかし、今作のように、時制が縦横無尽に行き来する構造の作品においては、


        えて、「時制カオス」 の

                       んでみる主義  ですので、



       どうしょうもなく、こんな不条理な感覚を得ることができたのです。



この
   「瞑想ラビリンス」 は            
                     久しぶりに味あうことができた極上の境地であり、

ボクは個人的に
         きな満足感


                     得ることができたのです。




積年の思いを果たした ヴィトー は列車の上で 三男・マイケル を抱いて、見送りにきた人々に手を振ります。およそ20年前、惨めに故郷を後にしなければならなっかた


       自分姿復権させた

                       らしさにちた表情で。 




こうして ヴィトー の 物語は “自らのオトシマエ” を付けて終わりを告げていきました。 今は裏家業においての小さな存在ではありますが、


        過去呪縛った

                        この出来事をキッカケにして、


一大コルレオーネ・ファミリーを育て上げるサクセスストーリーが展開していくのでしょう。



片や、2代目・マイケル のラストのシークエンスは、疑心暗鬼の末、ダークな面に身をやつすことになるのです。 
公聴会で反旗を翻した裏切り者や、敵対していたマイアミの ロス を殺害し、粛清の嵐を巻き起こしていったのです。その動きに加え ロス に利用されていた実兄の フレド を マイケル は、あろうことか、



          射 殺 
                      (えッ  !!...     ?)  




危険な予感がする全てのモノを排除し、自分の立場を維持するために自らの兄貴まで殺す。   そんな マイケル の姿を見て、


   常軌を逸した 孤立感 に苛まされて、
                          
          彼の精神が 「崩壊」 をきたしていたことを



                               初めて知ったのです。



凄まじいほどの虚無感に包まれた マイケル の佇まいから 今作は最後の
 “オーバーラップ” を企てていくようです。


 “ オーバーラップ ”  という技法は
       「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
  

       「 A 」 という “感情” を 継続 させながら、 
       「 B 」 という ”状況” に 移行 していく



                今作においては、 効果的に活用されていた技法ですが、




今作がこのような  プチ 「地獄黙示録」”  とも言うべき
 

        モラルの倒錯、 精神崩壊


                           の異常局面にあって、


コッポラは一体全体

           この “感情” を 

           どの “状況” に

                          いでいくなんだ ?! 



と混乱気味に事の成り行きを伺っていたら、
                 何と、 今作は極上の時制に飛んでいってくたのです。



いきなり 今は亡き 長男・ソニー に繋いできたのです。  


  

      ビックリ しました。





このシーンはどうやら 第1作目 「ゴッドファーザー」 の数年前 というところでしょう。
ヴィトー の誕生日を祝うファミリーパーティの為、家族全員で ヴィトー の帰宅を待っている場面になります。

長男・ソニー は陽気で喧嘩っぱやく、この家族の若きリーダーとして振舞っている。
三男・マイケル はまだ大学生で 第2時世界大戦に志願したことを家族に告げている。
ソニー が マイケル の入隊志願に立腹し、それに対して意固地な態度を取る マイケル は、 今日のこの日、父親の 誕生日を祝う雰囲気をブチ壊し にしているのです。

そんなタイミングで誕生日の主人公 ヴィトー の帰宅の気配。

長男・ソニー、次男・フレド、妹・コニー、母親、顧問弁護士のトム 等、ファミリー の全員が 父親・ヴィトー を出迎えるためにダイニングを出て玄関に向かって行きました。

唯一人、マイケル を残して。


賑やかだったけど、今は寂しい食卓に、ポツン一人で座っている マイケル。
ちょっと離れた玄関では、ヴィトー の誕生日を祝う歓声が上がっている。



    しかし マイケル はただ独りで 座っているしかないのだ.......。 





このシークエンスは 多くの感情を訴えてきたのです。


長男・ソニー

陽気で人情家の親分肌。かなり血の気が多いけど心底、父親・ヴィトー を慕っていることがわかります。 2代目を彼が継いだら、父親の経験値を生かして、きっと良いリーダーになったことだろうな、と思わせてきました。


次男・フレド 

海軍へ志願した マイケル に向かって 「偉いよ、おめでとう」 と握手を求め、
唯一人、彼の志を評価している。
そうなのだ、 この男は ダメキャラではあるけど、人の気持ちがわかる、優しい兄 だったことが、ここでわかるのだ。
そして、このシークエンスは 長兄・ソニー の良き “じゃれ合い仲間” として描かれており、ソニー が2代目を継いだ時の、組織の良き “緩衝役” になれそうな思いも持ったのです。


三男・マイケル 

長男・ソニー がリーダーとなって 父親・ヴィトー を祝う場面に去ってしまい、彼の近くには誰も残っていない、この光景は、



        父親・ヴィトー  の  “人ける力”  と,
        長兄・ソニー   の  “人っていく力” 。
   そして、  三男・マイケル の  “人けない資質” 



                            の 露呈 に他ならなかったのです。



       これは、


              残酷すぎる現実  


                           
だったのです。


 

2代目・マイケル は彼なりに 組織を維持することに腐心し、家族を愛していたはずなのに、 第1作目 「ゴッドファーザー」 よりも前のこの時制において、 既に2代目としての資質が無かったことが提示されていたのです。

ダイニングで一人でいる孤独な様が、この十数年後の 「ゴッドファーザー PART2」 における、惨めな現在の彼の姿とリンクしてきたのです。 大切な一切を無くしてしてしまい、

居所を無くしてしまった彼の 魂 が戻っていける唯一の場所が 

 

       する感情」  に包まれた


                      このダイニングでのシーンだったのでしょう........。



長男・ソニー は銃殺され、母親 も他界。 妹・コリー とは彼女の男関係で対立し、顧問弁護士のトム はマイケルの専横ぶりに気持ちが乖離。そして、次兄・フレド はマイケル本人が殺させた........。

組織を背負い、その重圧で精神に異常をきたし、大切な一切のモノを失う男の末路を、
遥か前の時制において、そして、全く違うスチュエーションに託して多面的に訴求。
そして、“資質” という、本人には如何ともし難い要因を突きつけてきたところに、



       しみをえた、

       れみ            を感じ、


                   


          ボクの感情は大きく揺さぶられてしまったのです....。







2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、
この二つの時代を横断する



       「感情似 ― 似ている点」  と 
        「環境違 ― 違点」



   が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。



しかし、


     「感情相似 ― 似ている点」  は跡形も無く消え去り、
     「環境相違 ― 違点」     のみが強調され、
     れなほどの格差          に苛まされることになります。




第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制ラビリンス」 が、    

    

  今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。


     

           に、残酷芳醇逸品だったのです。









          ゴッド2 




          
          ゴッド3
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完成! 「サマーウォーズ」 
2010-09-26 Sun 18:56
       サマーウォーズ






今作は

    「重力
から解放された、静謐なる横移動」 と
    「1カット内
共鳴する、2つの時空間」 のように


           アニメならではの表現手法を駆使した

          “神がかり” 的
映像世界を提示してきました。



 
 しかし、 「山奥」 
での 「血族による 【情】的コミュニケーション と
 
ハイパー世界」 での 「名性による関心・無責任コミュニケーション

     の対位律をしっかりと強調
することができず
 

     登場人物の 【情】 的
メロディ をも
                          
げることができなかった 結果、



     構造
そして感【情 】的にも
                      
スターピースに成り得なかった



                                   残念
作品。

                         
                     
             
                 と結論付けさせていただきます





「オズ」 という 巨大なインターネット世界から今作は始まっていきました。  そこは企業や自治体までもがインターネット支店を出すほどの、想像を遥かに超えた規模の 「サイバー社会」 であったのです。
しかし、そこにはカラフルで可愛いらしい 夢の世界 が展開されていました。

ハイパーな世界でありながら、ちょっとチープな可愛らしさが同居する。 そんな


     ジャパニメーション 
世界観提示され

                             今後の期待が膨らんでいったのです。



このオープニングを経て、現実社会の高校へと舞台は移っていきます。
数学オリンピックの日本代表 に成り損ねた今作の主人公 ケンジくん が、憧れの ナツキ先輩 のフィアンセ役を演じるために、長野の山奥 に里帰りするという、少年サンデー の青春マンガを彷彿とさせるようなストーリー展開を見せていきました。 それは


  “男の子と女の子がちょっと特別な環境の中で、共通の体験を通して、
   特別な感情を分かち合う”      
                            みたいな。


      思春期の男の子にとっては眩し過ぎる世界観と言えるでしょう。



このような、青春マンガ のちょっと ヌルイ時間を経て、やがて今作は本題に突入していきます。 「オズ」 の世界に 「ラブマシーン」 という Ai (人工知能) が不正侵入し、「オズ」 内に移設された様々な制御を混乱に陥れてきたのです。
ここにおいて、今作の世界観を貫く絶対法規とも言える “映画のルール” が提示されてきたのです。  それは、


 “「オズ」 の世界はバーチャルでありながらも、実社会の様々なインターフェー
  スと
なっており、混乱はインターネット上のことに留まらず実社会に直接的な
  ダメージを与えていくのだ。”

                                    というモノなのです。
 

この、“実社会へのダメージ” は、交通、水道、救急車両要請 という 「社会インフラの混乱」 というカタチで具現化されていったのです。

この事態を、コンピュータ社会特有の “アカウント” という考え方で捉えると、今作の
題名 「サマーウォーズ」 の  “ウォーズ = 戦争”  に直結する説明がなされたのです。
それは、大統領の アカウント を不正使用した場合、 「核爆弾の発射さえもできる」  というものでした。
(まさか、そんな重大事案のスイッチがこんなオープンな場にあるとは考えられませんが)


この 「社会インフラの混乱」 において、今作の全ての登場人物に多大なる影響を与える重要人物が、その存在感を発揮してきたのです。それは、 なつき先輩 の祖母にあたる人で、長野の旧家の家長たる “お婆サマ” だったのです。
その “お婆サマ” は “ただならない” 御仁 で、「社会インフラの混乱」 で浮き足立っている 警視総監を始め、中央省庁の各部署に電話をし、渇を入れるのです。

そして、ボクはこのシークエンスに触れて、早くも、映画的興味を駆き立てられたのです。

パソコンやケイタイは 「オズ」 の障害でままならない状況で “お婆サマ” は固定電話 (しかも骨董的 黒電話) を使って、アドレス帳をたよりに一件一件、丁寧に連絡をとっていくのです。
デジタルの世界が混乱した状況では、時代に逆行した (でも、ずっと存在していた)
 

    アナログ世界


                確固
たる存在  となっていたのです。


お婆サマ はある人には 言い聞かせるように、そして、ある人には叱りとばしながら、でもその会話の全ての終わりは


    「あんただったら、できるよ。」
 
                     という言葉で 締めくくられていたのです。


それは0か1の配列で割り切られた、合理的にして冷徹なデジタルの世界とは対照的な、


      【情】
 に直撃して

                 人のやる気 を喚起させる
                 ホットなコミュニケーションだったのです。



このシークエンスに触れてボクの今作に対する鑑賞方針が決まっていきました。



  「オズ」 を舞台にした 
         パソコンやケイタイ電話による、時空の概念を超越した
                   
               
仮想世界と

  長野の山奥を舞台にした、
         お婆サマ の誕生日を祝う為に集まった、血族という
                   
               
リアルでプリミティブな集団 との


                        ↓

               “対極的
世界方。”




  そして、「オズ」 の世界に存在する
              
デジタル的コミュニケーションと、

  お婆サマ によって行われた
             
 アナログ的コミュニケーションとの


                        
             
              コミュニケーション形態
対比”



                         を観察していこうと思ったのです。





と、今作に対する展望が持てたところで、一つの不満が顕在化してきたのです。
それは、 “ワビスケ には 異端を貫き通して欲しかったな” という欲求でした。
ワビスケ とは 永らく音信不通であったが、10年ぶりに姿を見せた妾腹の子で、歳は30歳台ってところでしょうか、緩く進行していく今作における不況和音としてスパイスを利かせていた人物です。
中盤には、この ワビスケ から、「ラブマシーン」 を開発したのは自分だ。 との告白が、唐突にもなされていったのです。 兵器となりうるプログラミングを開発し、一国に売ったとして、親族の非難を浴びる彼ですが、突如として お婆サマ に助けを請う展開となってしまったのです。
ワビスケ が 「ラブマシーン」 の開発者であるという、マンガのような安っぽいストーリー展開と、お婆さま に必死に取り繕う姿が、それまでの、一匹狼的な彼のキャラクターとの乖離を感じて、大きな違和感を持ってしまったのです。

ワビスケ の行いに立腹した お婆サマ が彼を薙刀で成敗するところを 命からがら、 ワビスケ は逃げ出して行きました。
この騒動の後、お婆サマ の突然の死が訪れるのです。
ワビスケ の扱いには疑問を感じたボクではありますが、お婆サマ 崩御後の描写には、思わず唸ってしまったのです。



それは、ボクが最も心を動かされた “神がかり” なカット、



           「重力
から解放された、静謐なる横移動」

 
                                           なのです。


お婆サマ が亡くなってしばしの後、大きな居間に夫々の形で放心している親戚たちの姿が写し出されてきました。
カメラ位置 (アニメ作品なので正確な表現ではありませんが) は居間の奥から手前に親族を入れて、縁側を背景にしたポジションで、 すー と横へドーリー移動していくのです。
背景は見事なまでの夏空が広がっていきます。
真っ青な空に、堂々の入道雲。

露出 (これも正しい表現でないかもしれませんが) は、背景の夏空に合わせているので、手前の人物は露出アンダー気味、それが返って、


      
それぞれのカタチ強調

                         してきたのです。


この横へのドーリーショットは、まず、赤ん坊に乳やりをしているカタチから入っていきました。
この世を去る人がいれば、生まれ出る人がいて、当然、それを育む人がいる。
ましてや、血族というプリミティブな集合においての、この表現要素は、


      
いでいく

                   という、個の存在意義を遥かに超えた、
                   壮大な構図さえも垣間見ることができるのです。


まるで氷の上をスベっていくような錯覚に陥るほど、滑らかに横移動をしていきます。
物理的な抵抗や摩擦、そして重力などの一切の力から解き放たれた “ストレス・フリー” な
この横移動は、


  大広間に呆然と佇んでいる姿や、立ち尽くしている姿
  心臓マッサージをしていた医者の叔父さんが脱力で寝転でいる姿を捉え、
  まだ、心の動揺を抑え切れず泣いている姿、も
  何も出来ず、ただ、見事な夏空を眺めているしかできない姿も捉えていく。  
  そして、その傍らで、遊びたいとねだる子供と、
  それをあやしている親のカタチ、

                     等々、様々なシルエットを写し出してきたのです。

   (このドーリーショットの終着点は、当然のことながら、
                 青春マンガの主役の二人  に行き着いていくのです。)

このアニメーション独自の横移動は、上下方向のカメラブレや横方向の速度ムラなんて無粋なものを全て排除し、一つの命が逝った夏の暑い日の静寂を語りきった、まさに


       「静謐
なる横移動」 
                        だったのです。
 

実写では、こんなにも非の打ちどころがない流麗な横移動は実現不可能でしょうから、
ボクは、今作がアニメーション作品であるが故の


       卓越
した表現効果

                      ただ、ただ、感激てしまったのです。


この

     「物理的ノイズ0 (ゼロ)」 
横移動

                                   のその瞬間は、


自分自身の

  「重み」 から解き放たれた、1つの純粋な魂となって、


            それぞれの カタチ の中に隠されている、
            それぞれの
 キモチ を透視している、

      
                            そんな特権的な錯覚に陥ったのです。



  それは
            逝った者 
 視線 なのか


もっと巨視的な

            創造主
 感覚 なのか........




            説明 ・ 解析不能  な 特別
境地

                                にボクは至ったのです。





            
芳醇瞬間だったことでしょう...........





次の映画的興味を駆き立てられた場面には、不覚にも目頭が熱くなる思いだったのです。

「オズ」 で様々な アカウント を強奪していた 「ラブマシーン」 が その中の アカント権限を悪用して、人口衛星を核施設に墜落させようとする暴挙に打って出てきたのですが、そんな緊迫の場面において、ナツキ先輩 が ワビスケ に お婆サマ が亡くなった事を伝えるのです。 

            
明らかに大きな動揺を見せる ワビスケ


カメラは、夏祭りの交通規制で自動車の中に缶詰となっている彼の向こう側に、
 “年配の女性と5歳くらいの男の子”  が、見物客の最前列にいるのを見つけていきました。
時を同じくして、 親族が、 お婆サマ の書き残した文書を見つけ、読み上げていきまます。  そこには 自分の夫が 他の女に産ませた ワビスケ を引き取る時のことが書かれていたのです。
一方、お婆サマ の死を聞いて意を決したように自動車を走らせる ワビスケ。 その様子を先ほどの “年配の女性と5歳くらいの男の子” が見守っているのです.........。

ヤバイな。  と思っているうちに お婆サマ と ワビスケ の


      原風景
 展開

                    されていたのです。


夏のある日、田舎道。 真っ直ぐな気持ちで ワビスケ を向かえる若かりし お婆サマ と、不安ながら お婆サマ の手をしっかりと握り締める5歳児のワビスケ。
二人のこのカタチによって、ヒネクレながらも、お婆サマ には何故か従順な ワビスケ と、道を外した ワビスケ を成敗しようとした お婆サマ の心情を、ほんの少しではありますが、理解することができたのです。

でも、この映画的興味点でもう1つ大きく心を動かされたのは、先の 「重力から解き放たれた、静謐なる横移動」 と同じような


     アニメーション 独自
卓越した表現

                                  だったのです。


実写の場合、昔日の姿は本人が無理な若作りするか、別の役者が演じることになり、違和感はどうしても否めないものですが、アニメの場合は違うのです。 若かりし日の姿や子供時代を想定したキャラクターを簡単に創出することができてしまうのです。 
そして、現在の姿と、若かりし頃の姿を、同一ショットで捉えていくことについても、実写の場合、無理な若作りをした上で特殊効果を駆使したとしても多少の無理を感じてしまうものですが、アニメでは前述の理由によってスムースに 現在の姿と若かりし頃の姿を、同一カットに捉えることができるのです。

5歳時の ワビスケ と、現在の ワビスケ が同一カットに収まり、しかも若かりし頃の お婆サマ をそこに配置しても、その映像表現を素直に受け入れることができたのです。
アニメという手法によって、この


     「1
カット共鳴するつの時空間」
 

                     という稀有な表現を実現することができるのです。



若かりし日の お婆サマ と、5歳児の ワビスケ の姿が、
現在の ワビスケ と、同一ショット内にいる、この 
「1カット内に共鳴する、二つの時空間」 は、現在の彼の、“拒絶されてしまった” という心情を再確認しながらも、彼の心の奥底に仕舞い込んでいる大切な日々へと魂が帰っていく為の


      
かでしかも劇的 「ブリッジ」

                              であったと、高く評価します。




お婆サマ と ワビスケ の原風景を目撃し、在りし日の 感【情】 を取り戻したワビスケ は 虚栄心をかなぐり捨てて、「ラブマシーン」 を封じ込めるために親族の元に戻ってきました。いよいよ 「ラブマシーン」 と この親族の対決が始まっていくのです。




「ラブマシーン」 と 主人公の親族たちの対決はユニークにも 「花札」 によってなされていきました。
( 「花札」 は親族間のコミュニケーションを促進するツールとして活用されていました。)
勝負の対象は アカウント。 1勝負ごとにて 「ラブマシーン」 が乗っ取っているアカウントを取り返し、結果的に人工衛星を核施設に衝突させることができるアカウントを開放させ、その危機を回避するという作戦なのです。
それまでの対決は アバター同士のバトルという直接的な表現であったのに対して、今回は 「花札」 というゲームで決戦を挑んでいくあたりに、冒頭で感じた
 

      ジャパンニメーション 

                                   を思い出しました。


戦隊アクションモノ や ロボットアニメ、それこそウルトラシリーズにガメラやゴジラまで遡ると 直接的な対戦モノは日本のお家芸であるのは、疑いの余地がありません。

 (円谷英二 という特撮の神様が日本に生を受け、そして 本多猪司郎監督という、
  才能の全てを怪獣映画に捧げた偉大な映画人が同時代にいたからこそ。
  そして、日本の ジョン・ウィリアムス こと 伊福部昭 大先生による、壮大で心に
  響く映画音楽の、三位一体の奇跡によって誕生した輝やかしき神話なのです。
  ついでに言うとボクは、この3人の大先達に映画的感性を目覚めさせらた、
                                       信奉者の一人です)

そんな堅牢で偉大な流れに、日本が誇るもう一つのエンタの潮流が合流するのです。
それが、「DS」 や 「Wii」 に 「プレステ」。 それこそ 「ファミコン」 に至るゲームの源泉となっている 「花札」 が、 「オズ」 というハイパー世界での最後の勝負に選ばれていったことに、 

      日本
オタク文化融合

                          を 見ることができるのです。


と事の成り行きを観察していたら、令静でいられない場面に遭遇したのです。
花札において手持ちのアカウント数だけでは 賭け が成立しなく、対決に負けてしまいそうな局面に追い込まれた時、「74」 という手持ちのアクント数を虚しく見つめていると、突然、その数が 1つ増えて 「75」 にひっくり返ったのです。
対決の場に 無防備なルックスをしたチッポケなアバターがひょっこりと登場してきたのです。

ドイツの男の子が 「ミサキへ、 ボクのアカウント をどうぞ使ってください。」 と対決の場に身 (アカウント) を捧げてきたのです。
チッポケな、でも 巨大な存在価値を発揮する、ツルツルしたアバターを見ていたら凄まじい勢いで、そのアバターと同様の賛同者が名乗りを上げたのです。

たった一人の男の子が、それまで無責任な傍観者にすぎなかった 「オズ」 の住人達に “良心” と “勇気” を呼び覚ましていったのです。

その数と勢いは凄まじく、あっと言う間に チッポケなそのアバターを飲み込んでいくほどだったのです。   リビングで、  街頭で、  車の中で、  スーパーマーケットで、  病室で、  農場で、  世界の至るところで ミサキ の味方になるべく端末を操作している世界の人々を見て、不覚にも胸が熱くなってしまったのです。



この大きな感動の理由を考察すると、2つの事柄に行き着いていきました。
この大きな動きを作ったのが、ドイツの名も無き、一人の男の子であったという高揚感がまず1つ、
そしてもう1つは、匿名性の中、他者に対して無関心で無責任、であった 「オズ」 の住人が、ミサキ達の奮闘とドイツの男の子の後押しによって、 
 

   【情】的 
になっていった

                      ということでした。

それはまるで、お婆さま が、「オズ」 で日本のインフラ統制がマヒした際にとった 「あんただったらできるよ」 と



     【情】的 
アプローチによって

                         危機を救ったことを思い出させました。



0101010101の羅列による、利便性至上仕儀と、ネット内の匿名性が助長した 

      無関心・無責任 そして同時に存在してしまう 疎外感。 

            そんなものが巣食っている ネット・コミュケーション の世界に



            【情】的
コミュニケーション


                                 が発生したのです。




【情】的、それは、

       【情】的 であり、場合によっては
       【情】的。 そして 機械にはできない
       心【情】を察し、
         【情】緒的な側面で結びつく、多分に
         【情】感的な、

「人対人」 のリアルで 
なさけ に満ちたコミュニケーション だったのです。

それは言い方を変えると、デジタル前の時代から、ずっと永いこと続いてきた




   アナログ
コミュニケーション方法



                              だったのです 。





今作は 最終的には 主人公である ケンジ君 の数学オリンピックの日本代表に成り損ねた、天才的な数学の能力と、彼の不屈の精神力によって、血族の命を救うことで終結してきました。
非常時における彼の人間性の高さによって ナツキ先輩 は彼に恋愛感情を持ち、今作は思い出したように 少年サンデー の世界観の中で終わりを告げていきました。
メデタシ、メデタシ。というところでしょうか。

確かに 「オズ」 のカワイらしいハイパーな世界は素敵でしたし、主人公たちの 青春マンガストーリー は甘酸っぱいモノを呼び覚ましてもくれました。

でも、ボクは何故か、今作に対する


     
評価実感することが


                         できなかったのです。



何故なのだろうと考察を巡らせて、2つの結論に至りました。


1つ目は、 

     今作
存在する 2世界の 対比 
     主人公達
びつきの  特異性 

                     もっと訴求してほしかった

                              
     という不満でした。


「オズ」のような最先端な技術とは隔絶された山奥の田舎が舞台なのに、時空の概念に縛られることなく、瞬時に 「オズ」 というもう一つの世界に入り込めてしまう、そんな側面を強調して欲しかったのです。 そうすれば、

巨大なサーバー上にあるけれど、ネットが繋がっていればどこにでも出現する、
         時と空間を超越した、しかし現実味と一体感が希薄な
                
                    バーチャル
世界
 

生活者が実際に生活をしている山奥の田舎という、
         時と空間に縛られた、不便だけど濃密な人間関係が存在する
                   
                    リアル
世界 

            
                    対比を楽しむことができたのに.....。



そして、血族 という生物学的に濃密な集団が主人公であったのだから、
 

      論理
ではれない
      
一種形而上学的びつき の 特異性


                      提示
してしかった と思いました。
 

それは、ビジュアルで成し得た 「重力から解放された、静謐なる横移動」 と 「1カット内で共鳴する、二つの時空間」 のように “神がかり” 的な一瞬を、ストーリーの側面でも仕掛けて欲しかったと思ったのです。
ワビスケ と お婆サマ の原風景の中に、二人の結びつきを理解することができたように、そんな


        【情】的
びつきのエピソード

                           絡みあって欲しかったなと思ったのです。

        (カズマと師匠の仲にも、その萌芽はありましたが、
                       有機的な発展を見ることはできませんでした。)

それによって、


匿名性が強く、無関心・無責任で、結びつきが薄弱な

                 バーチャル空間
コミュニケーション 
 


リアルな世界の、人との結び付き強く、密度が濃い

                 【情】的コミュニケーション

                             との対比を強調させておきながらも、

親族たちの奮闘とドイツの男の子の勇気によって、
結局は、全てのコミュニケーションが
 


            リアル
なものへと結実していく “ダイナミズム”



  に、もっともっと 感動することができたと言うのに.......。  と残念に思ったのです。



そして、もう1つは 

    人間
たれなかった パワー不足
 


                                   とでも言っておきます。

確かに様々な登場人物が今作を彩り、夫々の役割を演じてはいたものの、
それらは、血の通った人間としてのリアリティに欠け、物語をなぞっているだけの人形ように思えてしまったのです。 「アニメだから血が通っていない」 なんて、野暮なことは言わないでくださいね。
「カリオストロの城」 「うる星やつら」 「モンスター・インク」 「エヴァンゲリオン」 そして 「パンダ コパンダ」 「クレヨンしんちゃん」 なんてアニメ作品を愛でることができると思っていますので、そんな単純な話ではないのです。

でも、登場人物を 「血の通った人間としてのリアリティに欠けた」 と感じさせてしまったことは、
制作陣にとっては


     致命的
度 であった 

                           と言わざるを得ません。


何故なら、前述の 
今作に存在する 2つの世界の 対比 を もっと訴求してほしかった”  という文脈に戻ってしまいますが、今作に仕掛けられている 「 現実世界 と 仮想世界 」 の対位律 をしっかりと奏でる為には、


     “生活者
としての リアリティ”  

                    彼ら、親族がしっかりと発揮する必要があった


                             と、ボクは信じているからなのです。
 

リアリテイ をしっかりと訴求できてさえいれば、その対極の バーチャル な摩訶不思議な世界が、もっともっと引き立ち、今作において、より強固な構造が打ち立てられるはずだった。 と頑なに信じているのです。


そもそも、主人公である ケンジくん の

     実体自体
えていない

                      と感じてしまったのは、
                      どういうことなのでしょうか?

気が弱くて、やさしくて、数学オリンピック候補に挙がるぐらい能力が高い。そんな少年であることは理解することができますが、結局のところ、ストーリーを語る上での都合の良い側面しか語れなかった為に、それ以外の彼を見つけることができなかったのです。
そして、親族たちの心の支柱となる お婆サマ の描き方もぬるく感じてしまい。
序盤の 「あんただったらできる」 のくだりと 幼いワビスケを引き取るくだり、に彼女の人間性を垣間見れた程度で、親族たちの心奥底まで影響力持っている彼女のカリスマ性が理解できずに、


       登場人物
自分の 感【情】 の温度差


                       最後まで、埋めることなどできなかったのです。 
 




登場人物
してボク、【情】的 ることができなかったのです........







今作は

    「重力
から解放された、静謐なる横移動」 と
    「1カット内
共鳴する、2つの時空間」 のように


           アニメならではの表現手法を駆使した

          “神がかり” 的
映像世界を提示してきました。



 
しかし、 「山奥」 
での 「血族による 【情】的コミュニケーション と
ハイパー世界」 での 「名性による
関心・無責任コミュニケーション

     の対位律をしっかりと強調
することができず


     登場人物の 【情】 的
メロディ をも
                          
げることができなかった 結果、



     構造
そして感【情 】的にも
                      
スターピースに成り得なかった



                                   残念
作品。

                         
                     
             
                 と結論付けさせていただきます



 

       サマーウォーズ1
 


  

        サマーウォーズ2
別窓 | DVD車内鑑賞レビュー | コメント:2 | トラックバック:1
完成! 「洲崎パラダイス 赤信号」
2010-07-12 Mon 23:50
                洲崎パラダイス





今作は


   「 予見  提示 」 → 「 予見 
 裏切り (トラップ) 」

                            ↓

   「 予見 
 具現化 」  ←  「 トラップ  途中放棄 」  

 

               というプロセスを推移していく、2つの事例を織り交ぜながら
               表面的なストーリー展開と並行する、この


     「制作者
文脈」 推理するしさ   に満ちた鑑賞となりました。




そして、川島雄三 という天才が、

     日陰者の視線から
     日本の近代化と経済成長の 「予見」 を

                    語っていたことに対して 、



        社会学的
価値せた作品。  と、評価します。







序盤早々、今作の主人公が登場するファーストカットに


       ボク
映画的興味


                    強く惹き寄せられていきました。


それは、  “一人の女がタバコ屋で一箱のタバコを買う”   という、
ありきたりなカットなのですが、
そのタバコは自分の為ではなく、男の為に買った物であり、
無けなしのお金で買ったことがわかってくるのです。



この後に続く隅田川の橋の上での会話から、この男は

       生活力
 ダメ 男

                            であることがわかり、


タバコを買った女は、器量と度量を持ち合わせていながらも、

       
この ダメ男 れられることができない 女

                            であることもわかってきます。



このズルズルとした関係性が、先の、
「無けなしのお金を使って、男の為にタバコを買ってあげてしまう女」 の姿に


        見事
集約されていた

                          と、感心してしまったのです。




一文無しとなった二人は、洲崎に流れて来ます、
「洲崎」 とは、かつて深川にあった 赤線地帯 で、そのエリアに入って行く門が


    「 洲  パラダイス  崎 」  という


                    電飾看板となっており、
                    その看板コピーが今作の題名となっているのです。


しかし、二人は  「 洲  パラダイス  崎 」  の門をくぐる直前に、その手前にある 一杯飲み屋 の厄介となることになります。
ここでも、先の 「タバコを買い与える」 シーンのように、


     「関係性」 
 「今後展開」  暗示する


                          シークエンスが用意されていたのです。


女はその 一杯飲み屋 で働けることになったが、男の働くあてがない、という状況下で、 所在無く 一杯飲み屋 の居間で、お店が引けるのを待っている男ですが、
お店の二人の息子達にメンコ遊びの邪魔だと邪険にされ、布団を敷く作業によって、追い出されるように居間から出て行く、というシークエンスがありました。
これによって、ダメな男 の居場所のない状況が 



     ここ、洲崎直前のエリアにおいても展開 していくことが、


                                   推測できるのです。



「タバコを買い与える」 ショットや、この 「男の居場所が無い」 シークエンスにおいて、 「関係性」 や 「今後の展開」 をインプットしてきたことに対して、ボクは今作の構造の確かさを認識したのです。



この 一杯飲み屋 において今作のストーリーを左右する重要な人物が登場してきました。
それが、この 一杯飲み屋 を一人で切り盛りしている おかみサン だったのです。
男の居場所が無い様を訴求した、二人の男の子の母親である彼女ですが、この家には夫の存在がありません。
しかし、苦労しながらも、キチンと子育てしている姿が偲ばれてくるのです。何故なら、メンコ遊びに興じていた兄弟が、自発的に布団を敷き寝支度をする様に、親子の健全たる姿が伺い知れたのです。
また、翌朝には 弁天様に日常的にお参りしている姿を映し出し、男の働き口を探し出すなどの行いから、「洲 パラダイス 崎」 の門をくぐる直前の 「最後の良心」 とも言える存在感なのです。





中盤には、洲崎赤線に囚われている女たちの悲哀と、それに群がる男たちの滑稽さが訴求されていきました。
しかし、このシークエンスにおいて、最も興味を惹かれたのは 一杯飲み屋の おかみサン の、旦那が、 「洲崎パラダイス」 の女と失踪してしまった、という事実でした。
弁天様を毎日拝む、品行方正な振る舞いの おかみサン ですが、 「洲崎パラダイス」 の影響からは無関係でいられなかったのです。

おかみサン の意外な現状とともに、ストーリーにおいても、


       意外
展開

                    が始まっていきました。


離れられない女 が ダメ男 を捨てて、お店で知り合った羽振りの良い中年男と、この地から抜け出して行ったのです。


   ダメ男 はあくまでも ダメ男 のままで、
   離れられない女 は愚直なまでにも 離れられない女 であって
   「なけなしのお金でタバコを買い与える」 女 であるのだろうな、と


勝手に思い込んでしまったものですから、この展開に、唖然としてしまったのです。
しかし、この展開に一番驚いたのは当然のことながら ダメ男 であり、
これに対する ダメ男 の反応の中にボクは


        
きな映画的興奮
 
                          感じることができたのです。


女が店の客 (中年男) と外出してしまったことに 腹を立てた ダメ男 が 一杯飲み屋 のコップを投げつけ、割ってしまう、というシーンがあります。
そのタイミングで おかみサン の息子が寝ボケながらオシッコに起きてくるのですが、その一連に、


    「ガラス
破片いでゆく子供足」 アップカット


                              が唐突に挿入されてきたのです。



この挿入カットが 、それまでの演出リズムとは違うことから、


    「関係性」 
 「今後の展開」  暗示する映像 として


                        印象深くボクの心に刻まれていったのです。



そして画面は、外で用を足す我が子が雨に濡れないように、割烹着の裾で頭を保護してあげる おかみサン、という、 これも印象的なカットに繋がっていったのです。


そんなシークエンスを観ている内に、ボクは突然、



         
胸騒

                      を覚えてしまったのです。



逆上した ダメ男の 怒りが、この子供たちに向けられ、
その被害を おかみサン が被るという


         「予見」     

                   をこの一連で感じてしまったのです。



そんな思いを抱えながら成り行きを見ていたら、夜の街をパトカーが 一杯飲み屋 に急行したのです。
まさか、と思いながら注目していたら、おかみサン がパトカーから降りて来るではないですか。

ダメ男 が警察沙汰を起こして、おかみサン が悲劇に見舞われてしまったのか?
 子供は無事か! 

なんて思いが矢継ぎ早に浮かぶ中、肝心のオカミさんは何故か ひょうひょう とお店に向かって歩いていくのです。
何てことは無い、お店で発生した無銭飲食の事情聴収で警察署から送ってもらっただけ、だったのです。  (脱力)



ボクはこのシークエンスにおける、川島雄三監督の悪戯に一人でほくそ笑んでしまったのです。
「割れたガラス破片の上を跨ぐ、危なっかしい子供の足」 のアップを唐突に抜いてくることによって、ダメ男 による



            悲劇
こることを 「予見」 させ



結局はパトカー騒ぎまで捻出して、鑑賞者の気持ちをもて遊んだわけですからね。 

 しかし、この一連はそんな表面上のおもしろさに留まらない、構造上の重大要素に気付くキッカケとなったのです。
何故なら、次の瞬間、思い出したのです、

このように 「予見」 を振りまくアップ画面が



             もう一つ仕掛けられていたぞ! 

                                        って。



それは、主人公の初登場シーン


        「無
けなしのお金タバコ手」 


                           のアップ映像だったのです。




ボクはこのアップ映像を見て ダメ男 と 離れられない女 の


「関係性」 
 「今後の展開」  暗示する =  「予見」 させる


          カットであると思い込み、それを根拠にレビューを書いてきましたが、




この 「タバコを買う手」 も 「割れたガラスを跨ぐ足」 のアップ映像と同じ、川島雄三監督による悪戯、否、映画を構成する上で



      効果的
手法である   「 トラップ (罠) 」  
 

                              であったのだと気付いたのです。



象徴的で唐突なアップ映像を提示して、観客に一つの 「予見」 を植え付ける。そして、あるタイミングでその 「予見」 を裏切っていく.....。


  暴力沙汰が起こるように 「予見」 をさせといて、観客を煙に撒く。  
  ズルズルの関係が続くと 「予見」 をさせといて、キッパリとそれを絶つ。


このように、「トラップ (罠) 」 の効果によって、明確な方向転回が成されていたのです。



「トラップ (罠)」 というと、サスペンス や ミステリー に使われやすい手法ですが、
この様に、人間を描く作品に多重的に採用されていることに対して、とてもうれしく感じたのです。

 ( 作品全体のコンセプトが 「トラップ(罠)」 そのもである 「シックス・センス」 
   や 「エンゼル・ハート」 という作品を思い出しました。
   そして当然のことながら、これらの作品の拠りどころになっている大傑作。
   ヒッチの 「サイコ」 を懐かしく 思い出したのです。)


サスペンスやミステリーのそれは、「予見」 を振りまきながら、最後にはその 「予見」 をキッパリと裏切る 「 トラップ (罠) 」 によって、ショッキングな結末を突きつけてきたわけですが、今作の場合は山椒のように小粒でピリッと、ストーリーにアクセントを効かせてきたのです。





離れられない女 の寝返り 

(この動きが、「予見」 を裏切って、「 トラップ (罠) 」 の役割を演じたことから
   「 予見 
裏切 (トラップ) 」     と名付けることにします ) 

によって 「ダメ男 と その男から離れられない女」 のズルズルとした構図は今作から消えていったかのように思えました。  しかし、



       
その関係性者 れてきたのです

驚くことなかれ、それは、

       品行方正
 おかみサン だったのです



「洲崎パラダイス」 の女と蒸発したという おかみサン の旦那が帰って来たのです。
しょぼくれて 一杯飲み屋 の店先に立つ姿は、それこそ ダメ男 そのものでした。
最初は店の鍵を閉めて ダメ旦那 を締め出してはみたものの、
情けなく店先に立つ姿に根負けして、ダメ旦那を 受け入れる おかみサン なのでした。

そして 元祖ダメ男 はそば屋の 出前持ち として働き、オカミさん は戻ってきた旦那と円満な家庭を築き、めでたしめでたし...。


             なのか? 


まさか、このままおとなしく終わるはずも無いと思っていまいたら、


       
ってたのです



               「ダメ男
かられられない女」  が........。



 
 “ 「なけなしのお金でタバコを買与えてしまう」 シークエンスで、 「予見の提示」 
   がなされた二人の関係性も、  中年男への寝返りという
   「 予見 の裏切り (トラップ) 」  によって、驚きを創出しながら消滅して
   いった。 ”

とボクは理解をしていたのですが、女が再びこの地に戻り、結局は 「ダメ男 から離れられない女」 に再び戻っていくとするのなら、
この 「 予見の 裏切り (トラップ) 」 という映像テクニックは、今作が終結するまで維持することなく、効力の中途失効とも言うべき、


       「 トラップ 
途中放棄 」 

                              というカタチをとり、


再び180°Uターンして、「予見」 の方向性に戻っていくことになるようです。

 ( 「予見」 が様々な経緯を経て実現していく様を
      「 予見 
 具現化 」     と名付けることにします。)    


それによって、二人は 「予見」 通りに ズルズルの関係 を引き摺っていくことになるようなのです。

この動きを、理解しやすいように、 左に 「予見」 。 右に 「トラップ」 を配置して図式化すると、冒頭の図式が登場してきます。 これを見ると今作は急激なUターンを描いていることがわかります。



  「 予見  提示 」 → 「 予見  裏切り (トラップ) 」

                            ↓

  「 予見 
 具現化 」  ←  「 トラップ  途中放棄 」 

  



このような構造上の大きな転回が、 再び 「予見」 されてきたのですが、結局はどう展開するのか? 
「予断」 を許さない状況となっていきました。


この、ちょっとした混沌状態に来て、ボクの映画的興奮はマックスになっていったのです。
何故なら、ボクが推測した


“ 仕掛けられた 「 予見 の裏切り (トラップ )」 において、効力失効である
  「 トラップ の途中放棄 」 が成されることによって、結局は 
  「予見」 通りに事が進む 
 「 予見 の 具現化 」  に行き着く ” 


                 という構造を、本当に、今作が取っていくとするならば、


先の  「割れたガラスの上を跨ぐ足 → 子供を庇い雨に濡れる おかみサン 」 で 「 予見 の提示 」 がされた  「予見」


    
「ダメ男 による暴力」
     「子供の被害」
   「おかみサン の悲嘆」   のいずれかが
 

                       実現されるはずだと、確信したからなのです。



その根拠を、「タバコを買う手」 「ガラスを跨ぐ足」 の2つのケースによって進行していく 先程のプロセス (過程・経緯) を整理して、またまた図表にして説明してみることにします。
一番左の列に 本構造におけるプロセスを表記。
真ん中の列に 序盤から 「 予見 の提示 」 をしてきた 「タバコを買う手」 のケース。
一番右の列が この構造上のプロセスを認識させてきた 「ガラスを跨ぐ足」 のケースを置いて、具体的にどのようなことが行われたかを俯瞰してみます。
そして、 出来事の発生時間順に通し番号をつけて整理してみます。  
 



  【 プロセス 】         【 ケース A 】       【 ケース B 】

 「 予見 の提示 」      1. タバコを買う手     3.ガラスを跨ぐ足

                                    ダメ男 による暴力か
     予見            ズルズルの関係        子供の被害か
                                     おかみサンの悲嘆
      ↓                 ↓                ↓

「予見の裏切り(トラップ)」    2. 女の寝返り        4.無銭飲食 
                       
                    ズルズルの関係の     暴力、被害、悲嘆
                        消滅           は実行されない

      ↓ 
                ↓                ↓

「トラップ の途中放棄」       5.女の復帰         6. 「 ? 」

                    
男 と 女 の再会        

      ↓                 ↓                ↓

                       7か8.            7か8. 
「 予見 の 具現化 」    ズルズルの関係の     ダメ男 による暴力か
                        確立           子供の被害か
                                     おかみサンの悲嘆
                                     が現実のものとなる
                                              


この時点では ケースA の 「5.女の復帰」 がなされたに過ぎないのですが、表にして考察をすると、
次の 6番目の出来事は ケースB において 何らかの忌むべき事が発生し、最後のプロセスで ケースA 、ケースB ともに 予見が実現されて、今作は結末を迎えるのだろう。との予測がついたのです。

この予測と共に、ことの成り行きを観ていたら、おかみサン は ダメ男 と ダメ男から離れられない女 の関係が修復し、ズルズルの関係が継続しないように
 
  ダメ男 と ダメ男から離れられない女 の再会 を


                   
もうとするのです 



と言うのはボクの勝手な観かたで、社会復帰を果たした ダメ男 が 離れられない女 と再会したら、真の ダメな男 に堕ちてしまうと 案じているから会わせないないようにしているのに、
ボクには、おかみサン が今作において、 「 予見 の具現化 」 が成されないように、 そして、その結果、ケースBの 「予見」 である
 「ダメ男 による暴力」  「子供の被害」   「おかみサン の悲嘆」 のいずれかが現実化し、


         
らにりかかる災難


                    
と、ならないように、



ダメ男 と 離れられない女 においての 「予見の具現化」 を



         
しに かかっている


                       と、思えて仕方がなかったのです。
 




       と思っていたら、2度目のパトカーの登場です....。





おかみサン がお参りしている天神様で刺殺体が発見されました。
降りしきる雨の中、ヤジ馬と警官で騒然としている所に
悲壮感を滲ませた おかみサン が駆けつけました。
遺体に掛けられた覆いをどかして被害者の確認をする おかみサン 。
そこに横たわっているのは、「予見」 を感じさせせることとなった息子か?
それとも、加害者と 「予見」 をさせられた ダメ男 か? 
と思うまでもなく

 

       ボク
つの推理していったのです




それは、「タバコを買う手」 と 「割れたガラスの上を跨ぐ足」 の
2つのケースにおける


   「 予見  提示 」 → 「 予見  裏切り (トラップ) 」
                              ↓
                              
   「 予見 
 具現化 」  ←  「 トラップ  途中放棄 」   
   
  
             の経緯を観察してきた身としては、当然の結論に至るのです。




   殺害された被害者、それは...。




           おかみサン 
 戻ってきた旦那
 

                               
                             に違いないのです。




何故なら

ボクは今作が 以下のルールによって動いていると確信しているからなのです。


 「 予見 の提示 」 で、 ダメな男 と 離れられない女 のズルズルとした関係
  を強固にインプットし、

 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 で、劇的な逆転状況を作り、予見は実行され
  ないものと確信させて、

 「 トラップ の途中放棄 」 という、まさかの局面創出で、女がこの地に戻って
  来ることによって、  結局は

 「 予見 の具現化 」 がなされて、ズルズル とした関係が決定付けられる
  のだ。


というルール。
そんなルールの中で、何故、おかみサン の旦那が命を絶たれる運命にあったかと言うと、



ケースA において、 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 で 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が崩れた瞬間、


     新たな、別の 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が


                          今作中に提示されていたからなのです。



それは 「洲崎パラダイス」 の女と蒸発してしまった
                           おかみサン の旦那が ダメな男 で、

そんな旦那を受け入れてしまう
                  おかみサン が 離れられない女 であったのです。



しばしの 新たな 「ダメな男 と 離れられない女」 の時間を訴求してくることで、
元々の 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係は完全消滅し、
 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 というものが


    強固
るぎないものである かのような 


                             印象をもたせてきたのです。



しかし、この 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 が、効力の途中失効とも言うべき 「 トラップ の途中放棄 」 によって、元々の 「 予見 の具現化 」 が成されていくことを考えると、
元々の 「ダメ男 と 離れられない女」 の関係は


        復活
していくことが、既成事実   であったのです。



こんな感じにね。 ↓

 

   「 予見  提示 」 → 「 予見  裏切り (トラップ) 」
      
タバコを買う手              女の寝返り
       ズルズルの関係           ズルズルの関係の消滅
                    

                                   

   「 予見 
 具現化 」 ← 「 トラップ  途中放棄 」
       男 と 女 の再会             女の復帰       
 
       ズルズルの関係の確立       ズルズルの関係の復活 の予感




そうなってくると、おかみサン夫婦による 新しい 「ダメ男 と 離れられない女」 は
「 予見 の裏切り (トラップ) 」 の効き目を誇張してみせる  という 道化役 が終わり、


      
その存在意義急落させた

                             状態であったのです。 



そんな折、もう一方の ケースB、 「ガラスを跨ぐ足」  の方は
 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 を既に終了し、
次の段階の 「 トラップ の途中放棄 」 と
 「 予見 の具現化 」 が  実行される番だったのです。
 
しつこいですが、こんな感じにです。   ↓
 



   「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
       ガラスを跨ぐ足               無銭飲食

      ダメ男の暴力 か          「予見」 は実行されない
       子供の被害 か               と安堵
     おかみサンの悲嘆 か

                                 
 


   「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ
  途中放棄 」
       ダメ男の暴力 か
        子供の被害 か          何らかの忌むべき出来事
      おかみサンの悲嘆 か
       が現実のものとなる
             



予見された 「子供の被害」  「ダメ男による加害」  「オカミさんの悲嘆」 のうち、 どれが実行されるのかというと、今までの経緯を考慮すると、


     お払い箱となってしまった 新しい 「ダメ男 と 離れられない女」 の
     旦那が被害にあって、
     おかみサン が悲嘆にくれる。

                     という流れが、ボクには一番素直に感じたのです。


そして、その不幸が契機となって、 ケースA においても、元々の 「ダメな男 と 離れられない女」 のズルズルした関係の 「 予見 の具現化」 がなされる。という 寓話的なストーリーを信じずにはいられなかったのです。

以上のことから、 被害に遭い、この映画世界から姿を消していくのが おかみサンの旦那 であるとの推理がボクの頭の中で形成されていったのです。




    今まで、説明した事柄を、強引に1つの図表にまとめます。




  「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」

      【 ケース A 】              【 ケース A 】 
                            
    1. タバコを買う手     →       2. 女の寝返り
  
       ズルズルの関係            ズルズルの関係   
                                 の消滅


            
      【 ケース B 】              【 ケース B 】 
    
    3. ガラスを跨ぐ足     →       4. 無銭飲食
                          
      ダメ男の暴力 か               「予見」 は
       子供の被害 か              実行されない。
     おかみサンの悲嘆 か             として安堵 

                 

                                  ↓ ↓

                                  ↓ ↓



   「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」


       【 ケース A 】               【 ケース A 】     
                        
     8. 男 と 女 の再会    ←      5. 女の復帰        
 
       ズルズルの関係            ズルズルの関係の復活
          の確立                    の予感


           
       【 ケース B 】               【 ケース B 】 

     7. おかみサンの悲嘆    ←    6.おかみサンの旦那
       が現実のものとなる             が刺殺される

          (予測)                    (予測)

                          
          













           物語はボクが感じた通りに進んでいきました。








この洲崎周辺エリアは 旦那の他界 と 「ダメな男 と 離れられない女」 の他所への転出によって、物語りが始まる前と (登場人物の頭数という側面において) 同じ状態に戻っていきました。

「戻る」 という言葉を考えると今作のラスシーンは 主人公が初登場した 「タバコを買い与える」 シーンに戻っていきました。

タバコを買うカットこそありませんが、場面は全く同じ、墨田川に架かる橋の上。 
会話の内容も見えない明日を嘆く内容であったのです。
彼らの初登場シーンの前にはどのような出来事があったかを知る由もありませんが、「洲崎パラダイス 赤信号」 と同じような経緯があって、今作冒頭の 「タバコを買い与える」 シーンに繋がったのだと推測することができます。
結局この二人は、どこに流れていっても、

 「 予見 の提示 」 
 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 
 「 トラップ の途中放棄 」
      を繰り返して、


   ズルズルとした関係を実行 ( 「 予見 の具現化 」 ) して来たのです。


でも、少しでも良い方向に進んでいることだけはわかります。
劇中、離れられない女 が以前、 「洲崎パラダイス」 にいたことが判明するのですが、今作の 「洲崎パラダイス 赤信号」 のエピソードにおいては 「洲崎パラダイス」 に一歩も踏み入れることがなかったわけですから、この二人の男女関係は


         改善方向

                     向かっていることがわかります。



そして、次なる移動先においても、今回の関係よりも、もっと良い方向に向かっていくことを 「予見」 させていたのです。
今作のオープニング・シーンでの ダメ男 は 離れられない女 に振り回されるカタチで洲崎まで流れて来たのですが、
今回は    「どうにかなるさ」  と 


        リードしていく

                     意欲を見せていたのです。


ズルズルした関係を描きながらも、彼らなりの希望を持たせるストーリーを語ってきたところから、
「ALWAYS 三丁目の夕日」 を皮切りに 「フラガール」 等、一時期の邦画の流行りに
同調してしまうようで恐縮すが、 ボクにはどうしても、


     経済成長った 日本機運 


                               感じられてきたのです。


赤線という前近代的なものがこの2年後の1958年、「売春防止法」 によって廃止され、経済成長が望めるこの時代特有の前向きな感情が、日陰者を主人公にした映画の中にも伺うことができたのです。

この特徴的で大きな成果の賜物は、


       川島雄三監督 という美意識 
 

                     以外の何物でもない。 と強く感じたのでした。



市井の底辺で、それでも懸命に生きている庶民を暖かくも、ちょっと客観的に観察している、川島の視線に心底やられた鑑賞となったのです。





まとめますと、


今作は


   「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」

                                     

   「 予見 の 具現化 」  ←  「 トラップ の 途中放棄 」    



というプロセスを推移していく、2つの事例を織り交ぜながら、表面的なストーリー展開と並行する、この


       「制作者文脈」 を推理するしさ に満ちた鑑賞となりました。



そして、川島雄三 という天才が、

     日陰者の視線から
     日本の近代化と経済成長の 「予見」 を

                       語っていたことに対して 、





        社会学的価値せた作品。  と、評価します。 



                  
 



                
洲崎2



                
洲崎3  


 
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完成! 「スラムドッグ$ミリオネア」 
2010-04-19 Mon 20:23
                   スラムドッグ$ミリオネア



今作は


   「生命力ちたインド民衆」

                  VS

                「前近代的陰鬱インド現実 」


           という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、





      「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)

             ↓ ↑           ↓ ↑ 

   「取調室」
 (現在) ⇔ 「ジャマール半生」 (過去)                  
 
    という 3つの時空間を縦横無尽に
行き来していく構造に狂喜しながらも、





   ジャマール →→  「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ


           という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図までもを




          かすことができなかった、残念映画。



                            と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。




主人公である ジャマール へのインド警察の尋問から今作は始まっていきました。
「クイズ$ミリオネア」 での連続正解が不正では? との疑いでの取り調べなのですが、
これが酷い。  
確証もないのに、暴力で自白を強要してくるのです。
これがインドという国の実体なのか!  という疑念を開始早々、持ってしまったのです。


今作は冒頭からして


 「生命力ちたインド民衆」

                 VS

                 「前近代的陰鬱インド現実」 


                                                   の対比のうちの、


まず、  「前近代的で陰鬱なインドの現実」  という


            
否定的側面から

                           映像世界を語り始めてきました。



そしてこの横暴なる尋問に対して、意図的にカットバックを当ててきたのが、
必要以上にデコラティブな  「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ の場面。
                                         だったのです。  



     
「殺風景拷問部屋」    「煌びやかなTVスタジオ
          


この趣きを異にする場所において、 
一方は 「尋問」。  片や 「クイズ解答者の紹介」   
という、同様の質問を全く違うニュアンスで連動させてきたことに、ボクは強く興味を持ったのです。

そして、この拷問部屋での出来事と、 「クイズ$ミリオネア」 司会者の不遜な態度がカットバックされる険悪な中に


         
いの一瞬      

                           目撃することになったのです。


それは、
「黄色い洋服に身を包んだ若い女性」 が微笑みながらこちらを見上げている、
というカットでした。
拷問部屋での重い時間と、番組司会者の小バカにした態度に気分を悪くしたところに、この鮮やかなカットが挿入されてたのです。
冷酷で冷淡な時間帯にこのような鮮明なショットが挿入されたことで、鑑賞者はこの
 「黄色い服に身を包んだ女性」 が


        
きな意味ことを

                               直感的に理解するのです。


そして、すぐに 「黄色い服を着た女性」 で感じた同じ高揚感に再会することになるのです。
感電拷問の陰鬱な雰囲気を打ち破るように、今作のオープニングタイトルが、溢れんばかりの生命力を発散させながら始まったのです。



        
この躍動感、素晴らしい



打楽器を利かせたエスニックな音楽に乗せてスラム街を疾走していく子供達と監視員とのチェイスは、子供達の生きる力がみなぎっていて、ただ、それだけで心を揺さぶられ、意味もなく、涙ぐんでしまうほどでした。
それが、今作の主人公 ジャマール の子供時代の姿であったのです。



今作はこれから


     
彼の 「子供時代」  という 過去時制 

     
「クイズ$ミリオネア」 収録という ちょっと時制  

     
収録後 「取調」 という 現在。



                         この3つの時制が縦横無尽に交錯していくのです。


            ( ということを、この時点では信じていたのです。 )



「クイズ$ミリオネア」 は第1問目、第2問目と進み、第3問目には、「取り調べ室」 の熾烈さを思い出させる、インドの冷酷な側面を映し出してきたのです、
それは、インド国内では少数派である 「イスラム教徒の惨殺」 という無残な側面でした。
このような集団虐殺がインドで行われていたというのでしょうか?
発展途上の国といっても、「BRICs (ブリックス)」 の一翼を担うまでの国が...。
そんな疑念の思いに、再び苛まされていったのです。
その一方で、この過酷な経験の中で目撃した光景が 「クイズ$ミリオネア」 における第3問目の解答と連動していたことに対して、ボクは


       
今作構造理解
                
                          することができたのです。


それは、 


“これから過酷な人生を送っていく ジャマール坊や の悲劇的な経験が、「クイズ$ミリオネア」 の回答とリンクしていく”        というものでした。

そしてこの第3問目の悲劇において、冒頭に鮮やかな印象を受けた 「黄色の服の女性」 が登場してきたようなのです。
何故、 「登場してきたよう」 と、あやふやな言い方をしたかといいますと、ジャマール坊やと同じくらいの4~6才の女の子が ジャマール と ジャマールの兄 と同様に親を惨殺され、ジャマール兄弟 と行動を共にすることになるのですが、その女の子が着ている服が、あの女性と同じ黄色の服だったのです。 そして、その女の子の



           
特別                 
                              だったので、


きっと何かあるはずと、ボクのスイッチが押されたというわけなのです。
その表現とは、ジャマール兄弟 の仲間として受け入れられる前は、その女の子を
意図的にアウトフォーカスで捉えたり、敢えて照度不足にして、


    逆説的にその存在感を
                          強調

                                    してきたことを示します。


この女の子の名前を ラティカ と言い、この時点から、「黄色い服に身を包んだ女性」 が成長した ラティカ に違いないと確信して、今後の展開を楽しみにしていたのです。




孤児としてゴミ捨て場で自力で生きていたこの3人に第4問目の悲劇が襲い掛かります。
詳細は控えますがこの局面においても、インドの暗く冷たいヤミの部分を示してきたのです。
ここまで意図的にインドという新興国に対して、その前近代的な弱点をついてくるところに、今作の制作者である



       
 先進国側の やっかみ          を感じ始めてきました。



そして、2007年、同じくアカデミー作品賞を受賞した



      
「クラッシュ」 鑑賞した感情

                                           を思い出したのです。


ラストの密航中国人に対する侮蔑と、彼らのバイタリティに対する恐れ、そして、結局は彼らの増殖を自暴自棄的にやっかむ先進国家アメリカの視線を思い出したのです。

( 後日、調べましたら今作の原作はインド人によるものらしいのです。 インドという
  国に対する内部告発的な原作なのかもしれませんが、あくまでも映画という成果
  物から得た印象を書いていきたいと思います。 )

基本的人権を踏みにじるような行為から、ジャマール兄弟 は逃亡を図り、「黄色い服を着た女の子 ラティカ 」 は取り残されてしまいました。

このように ラティカ が早々と映画世界から姿を消してしまったことに、ボクは驚きの思いを持ちました。
何故なら、登場当初にピンボケや照度不足の手法でその存在を高めておきながら、その後のラティカの存在感は急落していき、その穴埋めができないままの退場となったからなのです。
しかし、ラティカ が将来的に 「黄色い服を着た若い女性」 に成長していくことを信ずる者にとっては、


        濃密かが 


ラティカ と ジャマール の間で起きるに違いない、と確信した瞬間でもあったのです。                


第5問目の悲劇へのインターバルとして、今作は再び 「陽」 のパートに移ってくれました。 ジャマール兄弟は列車に違法侵入し、物品の販売をして生活を始めます。


その描写が


           
非常素晴らしい



タイトルバックに展開されたスラム街でのチェイスシーンを彷彿とさせる、生命力に溢れたシークエンスとなっていたのです。そしてその後の、タージ・マハールでの彼らの活躍も、今作が暗い運命を背負っている映画だなんてことを忘れてしまうような笑いに包まれていきました。
しかし、そんなところに、やっぱり 「スラムドッグ・ミリオネア」 という作品を鑑賞していることを思い出させるシーンが挿入されたのです。
ジャマール達の悪事にインド人運転手が容赦ない暴力で応酬したところ、その凄まじさにたじろぐアメリカ人観光客にむかって、ジャマールが


    これが インドの現実 !」 

                    と今作に貫かれている内部告発的な主張をするのです。



 ( それを受けての 「アメリカ真実」 には爆笑。

                 そうでした。今作はイギリス映画だったのです!! )



序盤で ラティカ との関係性の希薄さを心配しましたが、それは単なる取りこし苦労となりました。
列車とタージ・マハールでの躍動的な時間を過ごした後に、思春期となった ジャマール兄弟 と ラテイカ とのしばしの再会が用意されていたのです。
でも、それは


   
インドという社会的嫌悪とは 絶望感

                                 によって引き裂かれていったのです。



過酷な状況下において、「悪」 というものに同調しがちだった


     
 兄サリーム 邪悪欲望
                             によって ジャマール と ラティカは
                             再び引き裂かれていったのです。



今まではインドという前近代的な環境の中での


     
構造的社会的 「悪」 嫌悪

                                    をしてきたのですが、今回は


     
変貌まれた普遍的 「欲望」 

                                         によるものですから、



   今までとは違うレベルの 閉塞感 に襲われることになったのです。



この惨い出来事によって ジャマール は、渇望していた ラティカ との再会を引き裂かれてしまった訳ですから、ボクは彼の心の中にある、ラティカ に対する執着をここにきて理解することができました。

しかし、1つ理解に近づいた代わりに、自分の認識から大きく逸脱していった側面が発生していきました。 それは
“ 「クイズ$ミリオネア」 の正解が、ジャマールの過酷な人生の中で経験したものであった。”  という



     
「時空えた有機的関連性」 


                                消滅してしまった、ということでした。



そして、時を同じくして、今作の導入部で興味深くその対比を目撃することとなった 「クイズ$ミリオネア」 の煌びやかな世界と、取り調べを受けた陰鬱な拷問部屋の



     
「2つパラレル空間」  までもが


                                映画世界から姿を消していったのです。




この事態は 「クイズ$ミリオネア」  という存在を核にして 「取調べ室」 と 「ジャマールの半生」 がその傘下に配置され、この3つの時空を行き来していた





       「クイズ$ミリオネア」 ちょっと現実)

             ↓ ↑           ↓ ↑ 

 「取調室」 (現在)  ⇔  「ジャマール半生」 (過去)      
    




という今作を推進してきた基本構造が崩れ去り、 

「なぜジャマールは難問を正解することができたのだろう?」   という、 今作の


   
鑑賞動機である 「謎解 

                        をも放棄してしまったものと、感じたのです。 



これによって
「難問正解の謎」 を 「ジャマールの過酷な半生」 の中に目撃していく


   
“過去時制” 


「クイズ$ミリオネア」 の収録現場での、全問正解に近づくにつれて司会者の態度が変容し、最後には疑念の態度を示していく


   
ちょっと事実” 


「全問正解の謎」 を知るにつれて態度を軟化させていく取調べ官がいる


   
“現在時制” 、


これら3つの時空間が渾然となって進行していくもの、と期待していたボクの映画的興味を、根源から覆すものであったのです。



このように映画自体が悲惨な状況に陥ってくると、新たな失望感がボクの頭の中で渦巻いていったのです。それは、今作のオープニングに提示された、、「クイズ$ミリオネア」 の四択問題になぞらえた問いかけ、

  彼はなぜ勝ち進めた?

      A.インチキした
      B.ツイてた
      C.天才だった
      D.運命だった

                までもが無残な失笑となってしまう危険性を感じたのです。

序盤は 「クイズ$ミリオネア」 の 正解が、 「ジャマールの半生」 に連動してくると信じていたので、四択の問いかけに対しては     


      D.運命だった


と即答したのですが、 この構造が崩壊した状況では、勝ち進めた理由は
ただ、


      B.ツイてた
                    と答えるしかないようです。



と、冷笑気味に今作のことを考えを巡らせてていたら、
そもそも、「クイズ$ミリオネア」 の解答と 「ジャマールの半生」 は



     密接連動していたんだっけ 

                  という根源的な疑問にまで発展してしまったのです。



第3問目において語られた、ジャマール達に降りかかった過酷な側面、「イスラム教徒の惨殺」 にしても、あの殺戮の現場に神の扮装をした子供がいたこと自体が、


              D.運命       なんかではなく、

  ご都合主義的に  B.ツイていた    だけだったと、

                                      思えてしまうのです。



このように先行き不安な中盤を経た、終盤において、ジャマールは 「悪」 の親分に囲われている ラティカ と再会することになります。そして二人は逃避行を企てますが、「悪」 の手下となっていた兄のサリームによって引き離されていくのです。
これは  「二人の悲恋」  を強調するストーリー展開なのでしょうが、ボクは、どうしてもその流れに乗ることができませんでした。

何故なら、既に提示された 「思春期」 においての引き裂かの原因が、
「兄、サリームの性欲」 という


      
ショッキングなものであっただけに


今回提示された、サリームの親分に囲われていた という設定に


        力不足
                      感じてしまったのです。


そして、
「黄色い洋服に身を包んだ若い女性が微笑みながらこちらを見上げている」 カットも
序盤では、あんなにも輝いていたのに、ストーリーを語っていくオリジナルシーンにおいては、何故か、ありきたりな印象しか残せなく、その語り口も、


 「悲恋の中の一瞬の光」 という側面が

                       
訴求できていない

                                   と感じてしまったのです。


シナリオと演出上の力量不足によって、ボクは今作のクライマックスシーンに気持ち良く反応することができなかったようです。
しかも、映画全体に目を転じていくと



       「クイズ$ミリオネア」 ちょっと現実)

            ↓ ↑          ↓ ↑ 

 「取調室」 (現在) ⇔ 「ジャマール半生」 (過去)      



という 3つの次空間を行き来していた興味深い構造までもが、十分に活用されることなく終わりを告げていってしまったのです。 何故なら、取調べ室からの 「ジャマールの釈放」 によって


  「取り調べ室」 、「クイズ$ミリオネア」 、「ジャマールの半生」

                   という3つのストーリが
                   ただ一つの時制に集約をしていったからなのです。


それは、

     
 「現在」  という時制でした



全ての時制が 「現在」 という1点に到達してくると



        「クイズ$ミリオネア」 ちょっと現実)

            ↓ ↑          ↓ ↑ 

 「取調室」 (現在) ⇔ 「ジャマール半生」 (過去)      
    


                    という3つの時制を縦横無尽に行きかう特権を、
                    
今作は放棄してしまったのです。





             
非常残念気持ちになりました





しかし、このように興味深い構造を逃したのと時を同じくして、もう一つの興味深い構図を見つけることができたのです。
それは、「現在」 という1つの時制に、2つの場所が




      
明確いを発揮しながら存在

                              していった、 ということでした。


1つは当然のことながら最後の問題が出される 「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ。
そしてもう一方は ラティカ が軟禁状態にある 「悪」 のアジト。
そこには「悪」 の手下である、兄サリーム の姿もあります。
この2つの場所に分離している、ジャマール と ラティカ が、 「クイズ$ミリオネア」 の番組上において、コミュニケーションをはかるようです。 この展開に俄然、興味を奮い立たされたのです。
「現在」 という1つの同じ時制にいる、しかし、遠い距離感を持つ2つの存在が、「クイズ$ミリオネア」 によって接近をしていく




   ジャマール →→  「クイズ$ミリオネア」  ←←  ラティカ


                              こんな図式を期待することができたのです。



そしてこの図式がどのように今作のクライマックスをカタチ作っていくのかに、興味が集約していったのでした。

と、ここまでラストにむけて挽回をしてきた今作ではありますが、
結局は残念ながらこの期待を活かしきれずに今作は終結していってしまったのです。



   ジャマール →→  「クイズ$ミリオネア」  ←←  ラティカ 



の構図は確かにありました。しかしこれから述べるように、細かな無配慮によって、ボクの気持ちに応えてくれることはなかったのです。

ジャマールの幼年時代に親しんできた 「三銃士」 が最終問題に連動してくるという、興ざめしてしまう程の 運の良さ と、 そもそも、途中で語るのをやめてしまった、
“ジャマールの半生 に 難問出題 がリンクしてくる” というルールを



 今更持ち込む、

               
 往生際さに
                                  半ば呆れていたところに、



 「悪のアジト」 では、悪の手下である 兄サリームが 突然の改心をきたし、軟禁状態であったラティカの釈放が行われてしまったのです。


    こんなご都合主義に今作が乗っかり、

            ラストに向けて強引に辻褄あわせをしてくるなんて

                                想像だにしていなかったので、


今まで真剣に鑑賞していた自分が急に滑稽に思えて、
そして、虚しくなってきてしまったのです。


しかも、ラストを盛り上げる為にこのようなに稚拙な舞台を設定したにもかかわらず、
「クイズ$ミリオネア」 の “テレフォン” で接触することができた ラティカ は質問に答えることができなく、結局は役立たずの でくのぼう で終わってしまうのです。
感情の高揚も見ることができない、盛り上がりに欠けるお粗末な展開に
「何なんだろう、このカラ回りは?」    と思わず失笑してしまたのです。


   ジャマール →→  「クイズ$ミリオネア」  ←←  ラティカ 


の関係を強引に捻出して、そして 「兄サリームの唐突な改心」 や 「三銃士」 というご都合主義を突っ走っしてしまったのなら、「ラティカによる正解」 という、ベタであるけど、


     
きなカタルシス

                     創出するべきであった、と主張したい。


            て言うか、せめて、それだけは実行して欲しかったと思うのです。



でも、そんな仔細なことについての文句を言うよりも、しつこいようですが、もっと根源的な問題について声を大にして言いたいのです。




       「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと現実)

             ↓ ↑           ↓ ↑ 

 「取り調室」 (現在) ⇔ 「ジャマール半生」 (過去)      

     


の構造をしっかりと活用し、
難問正解の謎を解いていく今作の鑑賞動機を、満足して欲しかった!! 

と強く思うのです。    まとめますと





今作は


  「生命力ちたインド民衆」

                 VS

                「前近代的陰鬱インド現実 」


            という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、



■    「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)

             ↓ ↑           ↓ ↑ 

   「取り調室」 (現在) ⇔ 「ジャマール半生」 (過去)                  

    という 3つの時空間を縦横無尽に行き来していく構造に狂喜しながらも、





   ジャマール →→  「クイズ$ミリオネア」  ←← ラティカ


         という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図までもを




           かすことができなかった、残念映画。  



 
                          
   
       と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。







          スラムドッグ$ミリオネア2



          スラムドッグ$ミリオネア3











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完成! 「ベンジャミンバトン 数奇な人生」 
2010-01-23 Sat 14:51

  ベンジャミン・バトン11 

  

 



序盤で察知した3っつのマイナス要件、



      1.ブラッド・ピット 「ブラピ」 でなかった
      2.監督不可解自制
      3.非連続的キャラクター付けの予感

 
            を今作が改善していくのか否かが、ボクの鑑賞テーマとなりました。


そして、序盤早々に激しく心を動かされた


          「逆行する大時計」 による 
          芳醇なる映像世界




      ラストの8分において、



           怒涛のようにせてくる快感


                     身をまかせる鑑賞となったのです。











今作のレビューを始めるにあたって、まずは序盤早々に心を揺さぶられた



        「逆行する大時計」     


                           について語る必要があるようです。



今作の主人公であるブラッド・ピットは、老人の身体で産まれきて、歳を取るごとに若返っていく役どころなのですが、そのコンセプトを



        前奏曲のようにでる



                         珠玉のシークエンスが、 
                         「逆行する大時計」 であったのです。


このシークエンスは、戦争で一人息子を亡くした時計職人が市の依頼によって 「大時計」 を製作する内容となっているのですが、その時計職人が完成させたのが



        通常 時計廻り ではなく、
        反時計廻り に動く時計

                                   であったのです。



その完成披露式典において、反対に向かって動き出した 「大時計」 に驚く人々に向かって、演説台の彼は



     
「時を戻せば...  戦死した若者が帰って来る。」


                                    と静かに語るのです。


この演説のシーンに挿入されてきた映像こそがボクの映画的興奮をかき立てていったのですが、その映像は 「戦死した若者」 が戦場において敵陣に突入をしているスローモーションカットだったのです。
これだけでは、ありきたりな展開なのでしょうが、その映像が、まるで時を戻す 「大時計」 に従うかのような



        巻戻 ― 逆回転映像 ―



                              となって提示されていたのです。 
                              本来ならば




  
“「左」 から 「右」 にかけて兵士達が銃弾を避けて敵地に突入する”



                         映像となっているのでしょうが、
                         それが巻き戻し映像となっているので、


        移動の方向は  「右」 から 「左」 へと、
        兵士達の向きは 「後ろ向き」 に変更され、



     

 
 “「右」 から 「左」 へ敵地から離れて行くように、
                
何故か 「後ろ向き」 に兵士達が逃げていく”


 
                         不思議な映像となっているのです。
                   大きな違和感を抱えながら観ていくと、すぐに



            「そうだったのか」 

                             と息を飲んでしまったのです。





   “「右」 から 「左」 へ敵陣から
 「後ろ向き」 で逃げて行く”



                               彼らですが、気が付くと
                  敵陣から逃げて行く兵士が増えていくのです。
                  映し出されている映像を忠実に言葉にすると




  “地面に寝そべっていた者達が続々と飛び起きて皆と同じように、
          “「右」 から 「左」 へ敵陣から 「後ろ向き」 で逃げて行く” 

                             
                           という表現になるのですが 

                  この映像が  
「逆行する時計」 呼応 

                         するものであることを考えると、
                           
本来のオリジナル映像は



   “「左」 から 「右」 に向かって、敵陣突破をかけた兵士達が、

                            
            
襲い来る銃弾に続々と倒れていく”



        
そんな、凄惨な映像であったことがわかるのです...。






 若者が戦地に赴いて死んでいったという事実。
 この事実を



        
「時を戻すことで救済したい。 」




                
 この思いを込めて時計職人が 「時を戻す時計」 を
                   作っていたことが 痛いほどに伝わってくるのです。


そして、この同じ表現技法によって、次のシークエンスでは心を揺さぶられてしまったのです。


「時を戻す時計」 を作った時計職人は一人息子を戦地に送り出し、その戦死を深い悲しみの中で聞くことになったのですが、今作は予め、彼と一人息子との今生の別れを映し出していたのです。その別れの場面とは、




   
“愛しそうに一人息子の頬をなでる父親。

        
  やがて一人息子は元気よく列車に乗り込み

                      
父母に手を振りながら出征していく”




                           
というシーンであったのですが、

                実はこの場面も 「時を戻す時計」 のルールによって
    
           逆回転映像となって再訴求  されたのです。
                  
                     そして、この逆回転映像が語ってきたものは
                    事実とは異なる内容となっていたのです。 

     それは




  
“元気よく手を振りながら列車に乗って帰って来た一人息子。

   その帰還を心から喜び、思わず一人息子の頬を引き寄せる父親”




                 
という 「戦場からの帰還」 を切実に願う時計職人の
                 思いを映し出す映像となっていたのです。



       正回転  ‐ 通常の時の流れ   において予め語られた事実と、
       逆回転  ‐ 時が戻っていく世界 において想い描かれた虚構。



この二つの世界の相違によって創出された深い感情に、ボクは圧倒されてしまったのです。 そしてこの深い表現に触れてこのシークエンスは



     時が戻る世界観にいるブラピ と、
     通常の時が流れていく他の人々との間にできる関係性 を 


     予言したものに他
ならない。


                   
と思い、今後の展開を期待してしまったのです。



しかし、結局、期待は叶えられることなく、この絶賛すべき芳醇なる映像世界には、残念ながら今作が終りを告げる8分前になって、やっとお目にかかることができるのです。  そんな中で、ラスト8分 までの間、何を語っていくかと申しますと、



序盤で察知した3っつのマイナス要件


      1.ブラッド・ピット 「ブラピ」 
でなかった。
      2.監督不可解自制
      
3.非連続的キャラクター付けの予感

                                 
                        について語っていくことにしたいと思います。





1.ブラッド・ピット 「ブラピ」 でなかった。 


 
 というマイナス要件は、山田洋二監督作品 「武士の一分」 で木村拓哉氏が
   「キムタク」 でなかったことで発生した


        違和感未達成感


                         に例えることができるでしょう。


  木村拓哉氏は山形の 下級田舎侍を熱演しておりましたが、彼がキャリアの中で
  築き上げてきた、カッコイイ都会的な 「キムタク」 ではなかったところに、


        もどかしいパワーダウン


                            感じずにはいられなかったのです。

  今作においてもブラッド・ピットがひたすら老人役でいる序盤では、 いつもの二枚
  目の 「ブラピ」 を見つけることができず、

 
        
「武士一分」 現象


                     同じ感覚を覚えてしまった、というわけなのです。





2.監督不可解自制  とは、




 「時を戻す時計」 のシークエンスにおいては、絶賛されるべき芳醇なる映像世界を
 創出してきた今作の監督ではありますが、それ以降は


        「敢えての自制」 

                         と揶揄したくなるほどに


  面白みが無く、ありきたりに物語を語ってきたのです。
  歳を経るほど元気になっていくブラピじいさんの姿を印象的に表現できるチャンス
  を何度も見送っていることに、


      
 「武士一分」 現象える
                      
フラストレーション


                                    を感じてしまったのです。


  そして、「時間の流れ」 がすれ違っていく対比となる、幼馴染の女の子 デイジー
  との出会 いのシーンや、彼女と分かり合えていく表現においても 「敢えての自
  制」 がもどかしく


         監督本意れない


                              苛立ちを覚えてしまったのです。





3.非連続的キャラクター付けの予感    というのは




  ブラピじいさんを遠くに連れ出して放ったらかしにする調子のいい黒人男性や、
  7度も落雷を受けた老人などが登場するのですが、今作のストーリー展開に
  関与するわけでもなく、無為にフェイドアウトしてしまう予感をこの序盤にして
  感じてしまったことを 示します。 このように映画世界に



       
有機的連動しない非連続的

                            要素に時間を費やすよりも 、 

       今作コンセプト多重的でることができる

                            重要要素にもっと気配りをし、
  
       2.監督不可解自制       

                            なんてことを感じさせる余地のない、


                                 
            隙の無い構造をカタチ作って欲しい、 と思ったのです。
                  



今作の鑑賞は、オープニングの 「時を戻す大時計」 から、エンディング8分間の 「芳醇なる映像世界」 に至るまでの膨大な時間にかけて、以上の3っつのマイナス要件が今後、改善されていくのかを見守ることとしたのです。




  「成長は不思議だ。そっと忍び寄り...ある日、突然、別人に
   変わってしまう。 彼女も別人になった」


と、今作はデイジー (幼馴染の女の子) が思春期の子役に代わり、ブラッド・ピット演じるベンジャミンのこのセリフを発端にして、「若返っていくベンジャミン」 を表現し始めたように感じました。ここにきて 2.監督の不可解な自制  が是正されていくようでした。


その機運の中で印象深いやりとりがありました。
若返っていくベンジャミンに対して ピアノを教えてくれているおばあさんのセリフ



「 (若返っているとしたら) かわいそうね。あなたは皆の死を見るのよ。
  つらすぎるわ。人は皆、愛するものを失うものよ。失って初めて大切さが
  わかるの。 」



 が発せられ、ボンヤリとした印象を持っていた今作において、

   やっと

     鑑賞コンセプト 認識できるるいしを

                                      感じたのです。



   老人施設にいるからこそ、

     人生を全うして亡くなっていく人々を見送る ベンジャミンの心境

                                が表現されるのでしょうし、


    「老い」 とは正反対の

      「若返り」 をその環境で果たすことになる 
                         
ベンジャミンと周囲の関係性。


    そして、

      幼馴染のディジーの 「正当な成長」  と

      ベンジャミンの 「老人からの若返り」  という 



      正反対ベクトルカタチ 



                         を見守ればいいんだな と思ったのです。




しかし、残念ながらボクの鑑賞方針が定まった途端に今作は


      想像だにしなかった暴挙

                          打って出たのです。




   老人施設という

     
「老い」 や 「死」  と、ベンジャミンの 「老人からの若返り」 の
     対比が引き立つ舞台を 


                            放棄し、



   思春期の少女からから大人の女へと

      「正当な成長」 を続ける幼馴染のデイジーと、

     
   老人から壮年へと 
    
      「若返り」 をするはずのベンジャミンとの


         「男女」 部分
をも

 
                               ないがしろにしながら、




           ベンジャミンは旅に出て行ってしまうのです...。






                    落胆しました 




  せっかく、

          「逆行する時間」 
          
「老い と 死」
           「幼馴染ディジー」

                   
      という要素を登場させて、


次なる展開への準備が整ったところで、今までの作業を台無しにするがごときこの



         かな行為


                       大いに落胆をさせられてしまったのです。



この局面に際して、序盤で露呈し、懸念をしてきた



        3.非連続的キャラクター付けの予感


                                  を思い出してしまいました。


何人かのキャラクターが登場はしたものの、結局はストーリーとの有機的な連動が図れず、映画世界から疎外された、非連続的な存在として姿を消していく様子に序盤は幻滅を感じたわけですが、今回の懸念を正確に言うと



        「非連続的 ストーリー展開」 


                                 と言った方が良いのでしょう。


先のおばあさんとの会話によって豊かに展開すると思われた夫々の関係性が、
 「ベンジャミンの旅立ち」 によって無下に断ち切られた、と感じられてしまったものですから、

   夫々のシークエンスが


        全体ストーリー有機的関与することなく
        
孤立した存在


                              になってしまったと感じたのです。


そして、これによって、序盤で大きな映画的興奮を味わった 「時を戻す時計」 のシークエンスまでもが、結局は今作の



         トータル映像世界きく関与することなく、
         非連続的単発




                       だけで終わってしまうのかと、
                       
大いに不安な気持ちになってしまったのです。




これから様々な関係性が展開すると期待をさせときながら、その機運を捨てて、ベンジャミンは船乗りとして、



         演劇的特別空間から

                             外界に船出して行ってしまいました。


その外的世界でのシークエンスを単純に楽しみはしたのですが、前述の経緯などがあり、これらのシーンは、結局は今作の全体の構成には関与することのない、



         非連続なものにがる

                             と見切ってしまったのです。



外界において 「ロシアでの人妻との恋」 「第二次世界大戦」 を経験したベンジャミンは、結局は故郷である 老人施設 に戻ってきました。
その時点で 仲間意識を持っていた知り合いは、既に天寿を全うして他界。中盤において、今作の鑑賞テーマとなるのであろうと期待したセリフ


「 (若返っているとしたら) かわいそうね。あなたは皆の死を見るのよ。
  つらすぎるわ。 人は皆、愛するものを失うものよ。失って初めて大切さ
  がわかるの。」

  
 という伏線を


          見事なまでに 「無」 

                                していったのです。


確かに、第2次世界大戦での潜水艦との戦いで同じ船の仲間が亡くなる展開ではありましたが、明らかに 



          「老」 による 「死」 

                               について考察する方が、


「若返っていくベンジャミン」 が主人公である今作においては、テーマが浮き彫りにされるはずなのに...。  非常に残念な気持ちに襲われたのです。





そんな不満を感じる一方、終盤は目一杯


 
     1.ブラッド・ピット 「ブラピ」 になってくれました



CMで印象深かった、オートバイで疾走するシーンからブラッド・ピットは 「ブラピ」 となって、いつもの安定感を回復していきました。

そして、デイジーが交通事故に遭うシークエンスは、ある意味



     2.監督不可解自制


                        が解消された瞬間だったのかもしれません。



「エイリアン3」 「セブン」 「ゲーム」 、最近では 「ファイト・クラブ」 (未見) と意欲的な作品を制作してきたデビッド・フィンチャー監督にとって、ここまで淡々と映画を語ってきた自制を評価するべきではないかとさえ思えてきました。

しかし、「デイジーの交通事故」 に対して特徴的な表現 (詳しい説明は省きます) を選択してきたのですから、「デイジーの交通事故」 がトータルな映像世界に大きな役割を演じていくのだろうかと観察していたのですが、


ベンジャミンとデイジーが結ばれて


       「若返ベンジャミン」  
       
「若さがえていくデイジー」 


                      対比について直接的に語れる、 環境作りをした


という点では機能をしたのかもしれませんが、この局面にバランスを崩しかけた特徴的な演出技法を持ってくる意図が汲み取れず、そして、このアンバランスな映像世界をつくってしまった利点を見つけられずに、再び、大きな悩みの中に突入して行ったのです。それは、


 序盤に感じた

      3.非連続的なキャラクター付けの予感
                          
  を出発点にし、


 中盤の

        「非連続的ストーリー展開」
                    
         を経て、


 この終盤は

        「非連像的映像演出」                

                    
                という大きな不信感へと繋がってしまったようなのです。




しかし、こんな深刻な状況にも救いの瞬間はやって来てくれました。
それは、寝室での会話。



       デイジー    「皺だらけになっても 私を愛せる?」

       ベンジャミン  「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」



と、今作のテーマをしっかりと真正面から見据える気概を見ることができたのです。
ブラっド・ピットがやっと 「ブラピ」 になってくれたことですし、そしてこのように、



      「若返ベンジャミン」 
      「若さがえていくデイジー」 


                         直視する気になってくれたようですので、


序盤で瞠目した 「時が戻る時計」 の豊かな世界観を復活させてくれるものと大いに期待をしたのです。




  し・か・し


        今作に 

           
テーマをしっかりつめて

                    
りきる姿勢



                              を求めても無駄のようでした......。



またしてもベンジャミンは ドラマの現場から逃げ出して、デイジーの前から姿を消すことになるのです。



     これは中盤、老人施設という

      「老い」 や 「死」  と、
      
ベンジャミンの 「老人からの若返り」 

                            の対比が引き立つ舞台を放棄し、


     思春期の少女からから大人の女へと

      「正当な成長」 を続ける幼馴染のディジーと、


     老人から壮年へと

      「若返り」 をするであろうベンジャミンとの


                 「男女」 部分 

                                 をも中途半端にさせながら、


      ベンジャミンが旅に出て行ってしまった悪夢を思い出したのです。





しかし、ベンジャミンの 「現場からの敵前逃亡」 に見つけた、唯一のメリットである、



        「ディジーの変化」 を

                           認めることはできました。


前回は 思春期の娘だったデイジーが 成長し、ダンサーとして人生のピークを謳歌している変化が強調されていましたが、今回は思春期になっていた娘と夫の存在。そしてなにより、

   ティジーの

            「老」 強調

                            することができたのです。


青年の外観となったベンジャミンの皺ひとつ無い顔を撫でながら



           「永遠などない...。」 



                                   とつぶやきます。


このフレーズはかつてベンジャミンが自分の若返りについて逡巡した、先の


       「皺だらけになっても 私を愛せる?」
       「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」


                         という会話の後に発せられたものでした。



十分に若返った次の段階としての少年への移行、そして幼児への退行を憂いた時に発言がなされていたのです。 「時」 の移ろいによって



       「無常」  「虚無感」 われた




このセリフをベンジャミンが発言していたところから、同じ言葉を吐いた彼女の気持ちを充分に推し量ることができます。

そしてデイジーを求めていく青年の外観をしたベンジャミンに対して
「やめて、こんなオバさんを... 」
と実年齢では同年代でありながら外観上の負い目と自分の 「老い」 に引け目を感じた彼女はこんなセリフをも言ってしまうのです。


青年ベンジャミンと中年デイジーの複雑な心情を内包した一晩を描いて物語は



        時間を かに



                       
えていきました...






今や、既に初老の域に達してしまったデイジーに1本の電話がかかって来ます。


 呼び出された先は あの老人施設。
 呼び出し元は児童福祉局の人間。
 ここで今作は ボクの思惑を超えて、



        SF映画的様相


                          呈してきたのです。


      (でも、この展開は大いに予測することができたのですけどね)



今作は先のセリフ


     「皺だらけになっても 私を愛せる?」
     「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」

                             の 「時間」 が究極的に行き着いた


        「神話」 領域

                 
            分け入って行くのです。



        そして、加速度的にボクの映画的興味を惹き付けていったのです。



廃ビルで保護された少年は ベンジャミン なのではないかという疑念の中で、少年の姿はすぐ映し出されることはなく、ただピアノの音が聞こえてくるのです。
事前にピアノを弾いているベンジャミンを目撃している観客は、この時点でベンジャミンが少年となっていったことを理解するのです。

もたれかかりながらピアノを弾く後ろ姿、
ピアノを弾く指のアップ

デイジーがベンジャミンの名前を呼んでようやくこちら側を振り向くと
そこには13歳ぐらいの少年いたのです。

いいじゃないですか! この流れ。
余韻を残しながらのドラマチックな表現。 素晴らしいと思いました。


アルツハイマーで自分のことさえ覚えていないのにもかかわらず、ピアノだけは身体が覚えていた悲劇を盛り込んでくるデビッド・フィンチャー監督に、ボク大きな賛辞を贈りたい気持ちになりました。
映画全体の演出に関しては 「非連像的な映像演出」 という評価をしなければなりませんが、
序盤の 「逆行する大時計」 と この、時が遥かに過ぎ去った後の 「ラスト8分の芳醇なる映像世界」 だけは別次元の成果を見せてきたのです。


  やがてデビッド・フィンチャー監督は


       ベンジャミン悲喜劇的 「変容」
                

                                         と

         
ベンジャミンデイジー人生 「激動」


                         を畳み掛けるように訴求してきたのです。



    そして、

       その直後の

                              


               

           「静寂な クライマックス!」 





赤ちゃんにまで退行していったベンジャミンが、
デイジーの腕の中で静かに息を引き取る 神々しさ を目の当たりして、


  それまで
           「SF的」 要素
                              感じていたところに、 


  今作が
           「神話」 領域
                              踏み込んでいったことを
                              悟りました。


  この     「矢継展開」 
         
「静寂な クライマックス」 が奏でる




          
絶妙なる コントラスト によって




                
ボクは大きな映画的興奮を得ることができたのです。




しかし、このように今作は素晴らしいクライマックスを用意してきましたが、客観的に映画全体を俯瞰していくと、残念ながらボクの中で、今作が


  
        「神話的存在」 


                           
なることはありませんでした。



なぜなら
「80歳の身体で生まれて、赤ちゃんとなって死んでゆく男」 が主人公であるのなら。
そして、老人施設が舞台で、心通う異性の幼馴染がいる設定であるのなら。



    老人外観、 子供である ベンジャミン 

    
老人外観、 老人である 施設人々 と

    
子供外観で、 子供である デイジー の         

                                   つの関係性


時を経るごとに

      
「死」  に近づく 老人施設の人々 

      
「若返り」  をしていく ベンジャミン 

      
「正当な成長」 
を みせていく デイジー    

                                   つの関係性

                                                       

             映画の導入部でしっかりと訴求して欲しかったと思うのです。



そうすれば、後半に訴求してきた



      「若さの」 に怯える デイジー 
      「青年瑞々しさ」 を讃える ベンジャミン    との対比 。



       そして

      
「初老」 を迎えた デイジー 
      「少年」 の不確かな存在に退行してしまった ベンジャミン。

                    
 

      
「老境」  デイジー にやさしく抱かれながら
      「赤ちゃん」 となって息を引き取る ベンジャミン。



                 の関係性に素直に涙することができたというのに....。  


       このように、主題を活かすことができなかった


           コンセプトワーク




                   
が認められ、とっても残念な気持ちになりました。



そして、序盤に感じたマイナス要素


      1.ブラッド・ピット 「ブラピ」 でなかった
      
2.監督不可解自制
      
3.非連続的キャラクター付けの予感        


                            
をも持ち出して結論付けますと



 1.ブラッド・ピット
 「ブラピ」 でなかった 

              
           は終盤、劇的に改善されていきました。


 2.監督
不可解自制        
 

            も終盤の畳み掛けるような展開のための、
            戦略的な 「敢えての自制」であった と好意的に思えるようにも
            なりました。
  しかし、


 3.非連続的
キャラクター付けの予感      
はその後、


              
「非連続的 ストーリー展開」   を経て、

              「非連続的 映像演出」      
に至り、



     遂には 「非連続的な」 要素の蓄積による


           
トータルバランス欠如    


                
という今作の致命的な欠点に直結していったのです 。





物語は確かに 「神話」 の世界に踏み込んでは行きました。



     しかし、根本的な

          
コンセプトワークさ   に加え


     
総体的な

      
  トータルバランス欠如

              
        
が原因となって



ボクの心の中で、 今作が 




       「神話」 到達することは、




                      してなかったのです
.....。
 









           に、  残念映画でした






 

 

 
ベンジャミン・バトン2 

 

 
ベンジャミン・バトン3 
  

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完成! 「緋牡丹博徒 花札勝負」
2009-07-04 Sat 00:20

緋牡丹博徒 花札勝負1

 

 

今作の鑑賞は


     冒頭から 【 ローアングル深遠なる世界 】    狂喜

     やがて  【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】  驚嘆

     後半は  【 加藤泰作品共通項探 】      興じた


                                     
                                    充実の映画体験となりました。



今作はしょっぱなの1カット目から、容赦のない 「ローアングル」攻撃が炸裂し、
その2カット後の、映画開始早々の3カット目には


    【 ローアングルによる 「3D」 効果 】  そして

    【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】


                                 とも言うべき表現訴求のエッセンスを
                                 感じ取ることができたのです。



線路内、2本のレールの真ん中を 緋牡丹のお竜さん が白い着物姿でこちらに歩いて来ます。
そして、その手前の踏み切りを横切りながら 盲目の少女 がフレームインしてきました。
カメラは地面に埋めたような極端なローアングルであるために、遠くにいる お竜さん の全景を捉えても、カメラ近くを横切る 盲目の少女 の姿は腰から下の足の部分しかフォローしていないのです。


       全景 お竜さん  
       された 盲目少女。


この非日常的な構図が非常におもしろく、
また、お竜さん が奥から手前に向かって線路に沿ってやって来る


       運動 


盲目の少女 が踏み切りを右から左へと横断する


       運動 


との重なり具合がとっても興味深く、映画開始3カット目にして、ボクは早くも 映画的興奮 を得たのでした。


この映画的興奮を考察してみると

遠くに全景で捉えた お竜さん に対し、カメラ近くを歩く 盲目の少女 は画面上では大きな面積を占めてはいるものの、肝心の顔は写っていないのです。
どんな女の子なのかな? と疑問を生じさせる表現によって、 盲目の少女 の存在感を増幅させているこの演出に対して、ボクは



       「遠近法」 の 誇張 

                        を感じることができたのです。



「遠近法」 とは 

近くにあるものを大きく描き、遠くのものを小さく描いて、
遠くのものと近くのものとの間にある 奥行きを表し、
立体感を表現する絵画の手法である。 
                                と理解しておりますが、


普通のカメラ位置で撮影されたありきたりな 「縦の構図」 よりも、
今作のようにローアングルによって身体の一部を画面上に大胆に配置し、
非日常的な切り取り方をされた 「縦の構図」 の方が、


      くにいる少女存在感 より強調され
      「遠近感」 がより一層    誇張された

                                       と感じられたのです。


要するに、お竜さん と 盲目の少女 の客観的な実際の大きさの対比よりも、
ローアングル映像が作り出す


      精神的える存在感いの、大きい

                                       と感じられたのです。

その為、二人の距離感が、実際のものよりも強調され、


      より立体的3D映像

                              としてボクの右脳に飛び込んできた
                                       というわけなのです。


この表現手法をボクは


      【 ローアングルによる 「3D」 効果 】


                         と名付け、大いに評価をしたいと思ったのです。


こんなことを感じていたら、盲目の少女 は突然、横の運動を止め、くるっと左90度曲がって、お竜さん と同じ縦の運動を開始していったのです。

それは、盲目の少女が安全地帯である踏み切りから1段踏み降ろして、危険地帯である線路内に立ち入ってしまうことを意味します。

物語を進行させる上で重要となるこの動きに対して、今作はその極端なローアングルを活用することよって見事なまでにその動作をクローズアップさせてきたのです。
そして、この素晴らしい表現手法によって、ボクは続けざまに大きな映画的興奮を獲得することになったのです。

この再びの、映画的興奮を考察しますと、
今回のローアングルは、進行方向を変える 「作用点」 となる少女の足元を直接的に映し出せるカメラ位置となっており、しかも、今作の地面スレスレの極端なローアングルによって、足元にある 1段 の 「高さ」 と 「重み」 をしっかりと目撃させることができる


      稀有カメラ位置   となっていたのです。


これによって 「安全地帯」 と 「危険地帯」 との境界線を彼女が越えてしまう切迫感を、


      直感的          視聴者に植えつけることができたのです。


通常のカメラ位置では、このような地面に接した足元での出来事はフォローし切れない領域であり、それ故、この動作を強調しようとすると、足元のアップをカットで抜くか、さもなければティルト・ダウンを施すか、場合によっては移動撮影を仕掛けることになり、当然のことながらリズム感を損なうなどして、


       わざとらしい演出     になりかねないものですが、


驚くことに、今作は 「少女の登場」 から 「方向転換」、そして 「一段降り」 までを据えっ放しの1カットで表現をしてきたのです。
しかもカメラ位置が極端に低いローアングルであるために、少女の足元と、その少女の動きを気にしている お竜さん の存在さえも


      同一カット表現     することに成功していたのです。



      近くのものは低い位置を捉え、
      遠くのものはそれより高い位置のものを捉えやすい

                                このローアングルの特長を十分に
                                活用していたのです。


この特長を言い換えると、
先ほど 「縦の構図」 という言葉を使って、奥行きの表現について話しましたが、
今作に活用されている構図は


      【 ローアングルによる 「斜上」 構図 】


                                  と表現できるのではないでしょうか。                   

近景、中景、遠景 が織り成す位置関係を 奥行き という一つのベクトルで統制している


    「縦構図」 
                    「高さ」 という、もう一つの方向性が加わって、

    「斜構図」 という
                    空間を多重の指標によって制御している、興味深い映画
                    世界が、今作においては展開されていったのです。


一概には言い切れませんが、

       「近景下部、中景中部、遠景上部」

                                         を重点エリアとする


斜め上に向かっていくラインを意識させる 「斜め上の構図」 の世界観に強く興味を引かれたのでした。

盲目の少女の登場、そして方向転換と一段降り。 この一連のたった9秒の出来事ではあったのですが、この映像は今作を鑑賞していく上で表現上のキーとなる


      【 ローアングルによる 「3D」 効果 】  

      【 ローアングルによる 「斜上」 の構図 】 


                  萌芽を感じ取ることのできた、開始早々3カット目で見つけた
                  わかりやすいサンプル映像となっていたのです。


そしてこの2つのローアングル世界は様々な場面で活用され、このサンプルよりもその表現効果を増大させているカットに遭遇していくことになるのですが、その度ごとに語っていくと


  【 奥床しさが任侠映画であること  と 
                               【 加藤泰作品共通項探 】 

                     について書くスペースが無くなってしまうので
                     うづうづする気持ちを抑えながら、先を急ぐことにします。


先を急ごうと思いつつ、素晴らしいカットに遭遇してしまうと、どうしても思いを巡らさないわけにはいかなくてしまいました。

「珠玉の9秒」の 1分45秒後、善玉たる西乃丸一家 への お竜さん の「仁義」のシーンにおいて、素晴らしいシークエンスは再び展開されていきました。
実は、このシークエンスをキッカケとして、ボクは今作に漂っている、ある種の 奥床しさ を感じ始めたのです。

普通の監督なら、「仁義」という見せ場はドーンと正面から全身ショットを撮りたいところなのでしょうが、今作の監督である加藤泰監督は全く違っていました。
彼は仁義を切る お竜さん を ちょっと離れた隣の土間から横位置で、大きな暖簾ごしに見ていたのです。
暖簾がめくれると お竜さんの顔が現れて、閉じると顔だけ見えない。
この表現方法に触れて、不思議な言葉の組み合わせになりますが、何とも


        “ 奥床しい 仁義 ”      として受け留めていったのです。


次の2カット目は お竜さんの顔が映し出されるはず、と思いきや、今度は お竜さん の反対側にカメラが回り込んで相変わらずの、ちょっと距離感を保つ横位置カットとなっていきました。
3カット目こそは お竜さん のアップだろうと思ったこのカットは その仁義 を真摯に聞き入る 受け人 の姿を正面に据えてきたのです。

しっかりと前を向き、正座で両手こぶしを床についた誠意ある態度で お竜さん の口上を請けたまわっているのです。



お竜さん 「 (略) 渡世修行中のしがなき女にござんす。行く末万端、
         お見知りおかれまして、よろしくお引き回しのほど、おねがい致します。 」

受け人  「 ご丁重なるご挨拶に遅れましての仁義、失礼さんにござんす。手前 (略) 
        杉山貞次郎に従います、若造です。(略) 渡世の道はいまだ修行中のしが
        ない者でございます。以後、お見知りおかれましてお引き立て下さい。 」



このような文章にしてしまうと、ありきたりな仁義の口上でしかないのでしょうが、ゆっくりと、しっかりとした口調と、独自な抑揚の付け方によって、何故かしら、


        格調伝統芸能
                            を鑑賞しているような、
                            あらたまった気持ちになったのです。


そして、このシークエンスの雰囲気を端的に表すものが仁義の終盤、上記のセリフつながりで姿勢を直す時の二人の間で交わされた会話にみることができました。



 お竜さん  「 ありがとうござんした。受け人さんよりお手をお上げなすって下さい 」
 受け人   「 ありがとうござんす。ではご一緒に手をあげましょう 」



この奥床しさが、他の任侠映画と今作を分かつ大きな要因なのかもしれないと感じ初めたのです。
そして、仁義という見せ場をまっ正面から見据えるようなことはせず、距離を置き、少しづつ近づいてくる、そんな奥床しい演出に加藤作品の品格を見た思いだったのです。

とこのようなことに感じ入っていたら 嵐寛寿郎氏 が善玉親分として登場をしていきました。
ここで 今作特有の任侠世界にある 奥床しさ とともにボクは


       【 加藤泰作品共通項探 】

                               に興じ始めていったのです。


今作は緋牡丹博徒シリーズの第3作目にあたるのですが、今作の続編的な作品で、同じ加藤泰監督によるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 にもアラカンさん は お竜さん が客人として身を置く一家の昔気質の親分として登場していました。
そして、緋牡丹博徒シリーズではないのですが、今作の加藤泰監督による名作、 「明治侠客伝 三代目襲名」 にも善玉親分として登場していたのです。
その類似したキャラクター設定からボクの脳裏に、


        ある共通展開
                       がどうして浮かび上がってしまったのです。


その、ある共通の展開とは、上記の 「緋牡丹博徒 お竜参上」 と「明治侠客伝 三代目襲名」 の2作品とも アラカン親分は、反目する悪玉一家の策略によって襲撃され、生死を彷徨う重傷を負わされてしまったのです。


    2度あることは3度あるのか?
    それとも、五体満足のままで今作のエンディングを迎えることができるのか?


今作を鑑賞する上で、こんなことに留意するのは邪道なのでしょうが、同じ加藤泰作品つながりで、見守っていきたいと思ったのでした。


やがて、緋牡丹シリーズの重要な相手役となる、旅人(たびにん)役の 高倉健さん が登場してきました。
初登場シーンは、 お竜さん と 西乃丸一家の人間に対して、反目する悪玉一家の住所を尋ねる場面となるのですが、ここでも今作で感じた特有の


         奥床しさ 
                  を感じることができたのです。


西乃丸一家の人間は 健さん を反目する悪玉一家の関係者として邪険にあしらうが、 お竜さん は誠意を持って道を教えてあげ、しかも、雨の中、傘を持たない 健さん に自分の傘までもを貸してあげようとします。
当然のように 健さんは 「 ご親切だけいただいてまいります。 」 と遠慮しますが、結局はお竜さんの親切を受けていきました。
その様子を見ていた西乃丸一家の人間は自分の言動を反省。
お竜さん も最初は良い気はしなかったが、


  「 折り目の正しい旅人 (たびにん) さんには、なんも罪はなかですばい 」 

                                 の心意気で接していたというのです。


実際の任侠の世界を知る由もありませんが、このような娯楽としての任侠映画は、主人公は聖人のようにどこまでも善良で、悪玉はあくまでも悪どいという極端な構図を作ってくるものですが、このシーンはそんな傾向を割り引いて見ても、語ってきた世界観は実に 奥床しい ものとしてボクは受け留めたのです。

そしてこのシーンにいて、お竜さん から 健さん へと傘を受け渡す手元のアップをたっぷりと見せてきたところから、反目する一家の客人同士の ロミオとジュリエット 的な人間関係が生まれる予感を感じ取ることができたのです。

そして、この予感は先ほどの アラカン親分 にみる不幸な連鎖と同じように、一つの共通な展開を予感させていったのです。それは、加藤泰作品において



      任侠映画での 「男女機微」   を描く時は、

      「川」 舞台としてばれている      偶然だったのです。



先ほども引き合いに出した加藤泰監督のシリーズ6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 に燦然と輝く名場面、
雪降る今戸橋での お竜さん と 旅人(たびにん) の菅原文太さん の間で交わされた一本筋が通った、しかし情感に溢れた素晴らしいシーンは 今戸橋という 「川」 の上でした。
そして前出の 「明治残侠伝 三代目襲名」 において 鶴田浩二さん 演じる主人公と情感を交わすのが、 お竜さん というキャラクターを得る前の 藤純子さん その人だったのですが、その舞台も夕焼けが美しい 「川沿い」 の道だったのです。 そんな


       偶然なる


今作において、お竜さん と 健さん が出会う、この雨の場面は、背景に鉄道橋が配置された場所で、その下には鉄道橋と交差する小さな木橋が奥に見えるのです。
そして お竜さん が道を教えているときに、 「この堀川ば真っ直ぐ・・・・」 とのセリフがあることからこの舞台が水まわりの場所であることがわかります。
数少ない加藤泰監督による任侠映画の鑑賞歴をフル動員して推察いたしますと、きっとこの場所が、お竜さん と 今回のスペシャルゲストであるところの 健さん との、


      男女情感てる場所
                                になるのだろうと、
                                直感的に理解をしたのです。
 

やがて、この直感は アラカン親分の受難 という予感と共に実現されていくことになりました。
それは、健さん が悪玉親分への渡世上の義理に縛られて、アラカン親分 への刺客にされる前に、この鉄道橋下で お竜さん を待っていた という展開をみせていくのです。
これによって今作の言わば 裏鑑賞テーマ としていた


      2つの予想矢継やに的中

                         したことによって
                         ボクは大きな興奮を得ることができたのでした。


鉄道橋下のシーンでは、ファーストシーンで登場した盲目の少女の目の手術を巡る会話を通して二人は心を交わしていったのです。
出会いのシーンは雨でした。そして、別れを秘めたこのシーンでは はらはらと雪が降っています。
雨のシーンでは、傘を持たない 健さん に お竜さん が傘を貸してあげていましたが、
今回は、その逆で、傘を持たない お竜さん に 健さん が傘を差し出すという行動が用意され、


       気遣いをいにかけている

                         そんな心の重なり様が見て取ることができました。


そしてこの後、健さん が アラカン親分 の刺客となることで、二人の関係性が変容してしまうことを考えると、何とも切ない気分になってくるのでした。

このように、二人の叶えられない感情を盛り上げる準備は万端整っていました。
しかし、今作の 男女の機微を訴求するシーンは、背景に鉄道橋が重くのしかかるビジュアル設定としてしまっているために、叙情的なヌケの良さがなく、他の2作品、
「明治侠客伝 三代目襲名」 にみる、夕焼けが美しい 「川沿い」の道や、
「緋牡丹博徒 お竜参上」  の珠玉のシーン、雪降る今戸橋が実現した、



       任侠世界での サンクチュアリ (聖域) 



までには昇華していなかったように感じて、大いに残念に思いました。
恐らく、今回の未消化を踏まえたからこそ、加藤泰監督は今作の続編的作品であるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 において 雪の今戸橋 という美しさを実現できたのではないかと思えたのです。


もう一つの共通項である、アラカン親分受難のシーンは、文句の付けようもない素晴らしい出来映えとなっておりました。

何と言っても アラカン親分 の刺客となるのがゲスト主演たる 健さん なのですから、他の2作品とは比べものにならない重みがあったのです。

「明治侠客伝 三代目襲名」 では 物語上重要でない者による背後からの不意討ち。
「緋牡丹博徒 お竜参上」  では、その他大勢によるヤミ討ち。   であったのに対して、
今作は刺客となる 健さん の苦悩を映しつつ、正々堂々の1対1の真っ向勝負が行われていったのです。
その際の、刺客である 健さん と アラカン親分 の間で交わされた言葉が、お竜さん の仁義の場面で、そして、健さんに傘を貸してあげるシーンで、様々な場面において感じた、



        一本筋った、奥床しさ
                                  に満たされていたのです。



健さん     「 (中略) 親分さんに不本意なお願いがありまして、やってまいりました。
           渡世上、親分さんに恨み辛みは一切ございません。のっぴきりならねえ
           義理で命をいただきに参りました。差しで勝負お願いします。どうか、
           ドスを取っておくんなさい。 」

             ( いきりたつ子分たち )


アラカン親分 「 筋を通った挨拶をしてなさるお人の前で、不躾なまねはやめな。
           手出しするんじゃねえぞ。  
           (略・健さんに向かって) どっちが倒れても、この場限りにしょうぜ。 」


と、アラカン親分は健さん の勝負に臨むことになるのです。
ここには、ヤミ討ちや騙し討ちなどというものが介在する余地などなく、折り目正しい、男の勝負を挑む 健さん と、その心意気に 死を覚悟して受けて立つ アラカン親分 の姿があるのです。


        奥床しい 
                     場違いな言葉かもしれませんが、
                     ボクにはしょうがなくも、そう思えてしまったのです。


渡世の義理のために刺客となり、そして、相手の心意気に対して死を覚悟して決闘を受ける。
尋常では理解できない世界ではありますが、二人の男の魂の対峙の前に、襟を正す気持ちになったのです。

重傷を負いながら 悪玉一家への報復を諌めるのは、他2作のアラカン親分と同じですが、そんな身でありながら、「勧進賭博」 という公の場を取り仕切り、出血を抑えながらの気丈な振る舞いを見せ、そして死を迎える展開は、


        荘厳迫力ちて

                 他の2作とは比べ物にならないほどの充実ぶりだったのです。


「男女の機微」 という側面では残念な結果であった今作は、「アラカン親分の受難」 という側面で捉えると、非常に素晴らしい出来だと高く評価します。






忍耐に忍耐を重ねた末に、今作はとうとう


         悪玉一家への込み  という

         カタルシス            
                         へとなだれ込んでいきます。


この流れは任侠映画におけるお約束の展開となっており、まるで水戸黄門における
 「葵の印籠」 的な


       クライマックス終結方法   とも言えます、


この一番の見せ場に至って、突如としてその存在感を飛躍的に大きくしていった人物がいたのです。
それはシリーズの脇役的人物であり、今回は終盤になってやっと登場した 不死身の藤松 という存在だったのです。
彼は お竜さん の兄貴分である 道後の熊虎 の子分という立場ですが、悪玉一家に一人で殴りこむ お竜さん の気持ちを察して同行を申し出るのです。

たったこの1シークエンスだけで 不死身の藤松は、今作のゲストスターである 健さん を、ボクの心の中で大きく超えていってしまったのです。

雪降る中を一人、悪玉一家に殴りこみをかけようとする お竜さん に傘を差し出す 不死身の藤松 。


藤松 「 叔父貴 (自分の親分の兄弟分だから お竜さん をこう呼ぶのでしょう)、
      お供しまっせ。  (中略)  行くな 言われても行きまっせ。
      叔父貴 一人行かせて四国にのこのこ帰ってみなはれ、
      わい、親分に絞め殺されますがな。 」


と朗らかに、笑みさえ浮かべて言うのです。お竜さん をはじめ 健さん、そして アラカン親分 の主人公級の方々は勿論ですが、今作においては、不死身の藤松 や冒頭の 仁義の受け人 など、脇を固める存在までもが、


        奥床しく
                   振舞っていくのです。


そして 不死身の藤松 が 「わい、親分に絞め殺されてますがな」 と殴りこみ同行の意志を告げ終わった瞬間、流れるんですよ。
何がって? 緋牡丹のお竜 のテーマソングが流れるんです。 あまりにも絶妙のタイミングだったものだから、背筋がブルッと振るえる感覚に襲われました。

雪降る中、お竜さん に傘を差しかけながら、テーマソングを従えて、殴りこみの道中をいく 不死身の藤松 を


        カッコイイ 
                    と心底思ったのです。


しかも、今作において相手を気遣う象徴として捉えた 「傘」 という小道具を持ちながらの道中ですからなおさらズルイ。

これでは 不死身の藤松 に食われてしまうと心配した瞬間、定石通りに今作のゲストスターである 健さん は、悪玉一家への殴りこみに、お竜さん達の助っ人として大立ち回りを演じていったのです。
よしよし、と鑑賞していくと、 あれ! あれ? 不死身の藤松 にポイントを持って行かれそうだから


       焦ったのでしょうか  


ゲストの 健さんが、シリーズ主人公の お竜さん を差し置いて、何と、今作の悪の象徴である悪玉親分を成敗してしまったのです。

この瞬間にボクは非常に残念な思いに打ちのめされていきました。
なぜなら、この瞬間に今作は 「緋牡丹博徒」 という独自の美学を持った任侠映画ではなくなってしまい、健さん が主人公を務めている 「昭和残侠伝」 や 「日本侠客伝」 という他の任侠シリーズに変容してしまったと感じたからなのです。

冒頭の お竜さんの 仁義のシーンで、そして、雨の鉄道橋の下で、アラカン親分受難の場面で感じていた今作の美徳である


         奥床しさ 
                  をかなぐり捨てて、


「俺が東映のドル箱スター。 高倉健 だ!」 と 「緋牡丹博徒」 の映画世界を乗っ取らんばかりの出しゃばりようには、正直、失望をしてしまったのです。

そして、健さん が悪玉親分を討ってしまったことによって生じる


         構造上不手際
                          露呈されていったのです。


それは、この選択をしたことによって、不本意ながら悪玉親分によって刺客をやらされた 健さん の恨みのみが強調されてしまい、アラカン親分 の不幸や、本文では触れていませんが、一人殴りこんで死んでいった 受け人さん や 盲目の少女の母親である “ニセお竜” の無念 がどこかに行ってしまったと感じるところにあります。
彼らの気持ちを代弁してくれる


          唯一存在 


である お竜さん によって悪玉親分がトドメをさされなかければ、全ての恨みが未消化のままで、宙ぶらりんなエンディングを描いてしまうと言うのに、このような構造的とも言える感情の面での不整合が発生してしまったのです。

この行為は 助さん や 格さんが 

    黄門様をないがしろにして
    「葵の印籠」 を勝手に掲げて、悪代官を懲らしめてしまったようなもの

                                              といえるでしょう。 


     
       うーん、しっくりこない。



様々な映画的興奮をもたらしてくれた今作ではありましたが、終盤にして突如として今まで積み上げて来た稀有な世界観を投げ打って、釈然としないままに終わりを告げていきました。
「あーもったいない! あの出しゃばりさえなかったら完璧だったのに」、と嘆いても仕方がないことですので、ボクの脳内では、悪玉親分を殺ったのは、今作の主人公 お竜さん であった。ということに変換しておいて、強引に納得をさせたのでした。




今作を総括すると、


映像演出的 には
              【 ローアングル深遠なる世界 】   狂喜

人物描写的 には
              【 奥床しさが任侠映画であること 】 驚嘆

個人的 には
              【 加藤泰監督作品共通項探 】  じた



                                  素晴らしい映画体験となりました。




加藤泰監督作品で未見である
        シリーズ7作目  「緋牡丹博徒 命頂戴します」 にも 
アラカン親分 が出演をされていることですので、機会があれば、「アラカン親分の受難」 が


        たびにってされるのか  


そして、7作目 「緋牡丹博徒 お命頂戴します」 の旅人(たびにん) さんである 鶴田浩二氏 との間で交わされる であろう 男女の機微が、 「川」 がらみの場所で進行し、


        無垢なる 聖域(サンクチュアリ) 形成していくのか


                      について観察をしてみるのも、一興かな? と思いつつ
                      今作のレビューを終えるのでした。



 

緋牡丹博徒 花札勝負2

 

 

緋牡丹博徒 花札勝負3

 

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完成! 「バタフライ・エフェクト」
2009-03-08 Sun 12:49

バタフライ・エフェクト



 

    惜しい、  に しい 。 




    これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。



 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」 
         このカオス理論にインスパイヤーされた今作のプロットは良い。

 オープニング・タイトルもイマジネーション豊かで秀逸な出来だ。

 エンディングも情感に訴える素晴らしいものであった。



が、しかしだ、この素晴らしい要素を結びつけるべきディティールの数々が、残念ながらボクの期待をことごとく裏切っていったのです。



今作の出だしは非常に素晴らしく、今後の展開を大いに期待させるものではあったのです。
主人公である エヴァン が追っ手から逃れる緊迫感あふれるシーンから始まり、オープニング・タイトルに至っては





「 小さなばたきが、地球裏側では台風こすこともある 」


          というカオス理論から発想を得た秀逸な内容となっていたのです。





「蝶の羽ばたき」 が、やがて 「右脳と左脳」 の非対称のいびつな収縮運動にリンクしてきたことによって




   「脳機能きな関係じてくる」 


                       ことを予感させる秀逸なタイトルでありました。




そして矢継ぎ早に今作は、このオープニング・タイトルから一転して、カラッとしたアメリカの典型的な住宅街に場面が急展開をしていったのです。
追っ手から逃れる緊迫のオープニング・ショットから始まって、 「蝶」 と 「脳」 をフューチャーした秀逸のオープニング・タイトルにかけて、 「渋い色彩」 が続いたところに突然、ヌケの良い景色が登場したワケですから、ボクの心の中は



    ハッとするような開放感

                        溢れていったのです。



向こうからスーッと伸びてきている坂道がこちら側に迫ってきて、その坂の上からMTBに乗った2人の少年が疾走してきました。
どちらかと言えば 「陰」 な映像が続いていたところに、一転しての晴れやかで心躍る映像が提示されてきたことに、 対比の妙 を感じ、今作に対する期待はますます高まっていったのです。
2台のMTBがドンドン近づいてきます。爽やかなスピード感に乗って、しばらくは 「夢の世界」 が提示されるんだ、
と確信した瞬間、MTBはあっと言う間にボクの視界を通り過ぎ、フレームの外へフッ飛んで行ってしまったのです。



    んっ !!   どうしたんだ ?   



信じられないことに、カメラは勝手にMTBへのパンニングを止めてしまったのです。



残念ながら、今作の興味はパンニングの途中にいる今作の主人公、7歳時のエヴァン が庭先で愛犬と戯れているシーンに移っていってしまったようなのです.........。




しい。

に、 
しい。



心の底からそう思いました。




緊迫のオープニング、抽象的なタイトル・バックと続き、それらを 軽やかなスピード が引き継いで本編が開始されていくはずと、期待が大きく膨らんだ矢先に、 MTBを放棄し、 スピード という高揚感をあっさりと捨ててしまった今作の制作陣の選択に疑念を持ってしまったのです。

庭で愛犬と停滞している主人公の映画なんかではなく、MTBで疾走していく二人の少年の映画を観てみたい衝動に駆られたのです。  「停滞」 と 「疾走」 どちらかをチョイスできるとしたら、ボクは迷わず



     れやかなスピード 

                     を選んだことでしょう。



今作は、序盤においては非常に素晴らしい印象をボクに与えていきました。しかし、本題が始まると、 いや、このように本題が始まる一瞬前から、ボクの期待と大きなズレを生じていったのです。
そして、このズレを脳内で修正していくことが、今作を鑑賞する上での一番大きな作業となっていったのです。



気を取り直して鑑賞を続けていくと



       「記憶喪失」 というキーワード

                               が登場してきました。



 「バタフライ・エフェクト」 というカオス理論からの題名と 「蝶」 の羽ばたき、そして 「脳」 の収縮 というパーツが本格的に連携し始めてきたのです。

「記憶」 をめぐる映画 ですから、「記憶喪失」 というキーポイントを時間軸に沿ってしっかりと理解していかなければ、



      制作者メッセージ
 
                        を受け止めることができない、
                        と直感したのです。



そう思っているうちに、今作には


       20歳 という 現在 と、 
        7歳 という 子供時代。 そして
       13歳 という 思春期


                   この3つの異なる時間が関与し始めていきました。



混乱しないように、主人公が直面する 「記憶喪失ポイント」 を時間軸に沿って整理してみることにします。


7歳時に発生した 「記憶喪失ポイント」 は


  《 1番目 ・ 殺人の絵 》

             授業中に発生。  
             「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた


  《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》 

             自宅で発生。 
             キッチンで包丁を (殺意ありげに) 持っていた


  《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 

             幼馴染の 妹ケイリー、兄トミー の家の中で、彼らの父親に
             いかがわしいビデオ撮影をされる際に発生


  《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》  

             精神病院へ父親を面会した際に発生。
             気が付くと父に首を絞められていた 



という以上の4点。
そして、それから6年後。13歳の思春期を迎えた時間には
7歳時にも登場した、幼馴染の 妹ケイリー 、兄トミーが重要な役割を演じていきます。


  《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》 

             粗雑な 兄トミー 主導で他人の家の郵便受けを
             ダイナマイトで吹き飛ばす甚大なるいたずらの最中に発生。


  《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》

             主人公エヴァン と 妹ケイリー のキスに激高した
             粗雑な 兄トミーが、エヴァン の愛犬を焼き殺す場面で発生。



このように、7歳時の4点と、13歳時の2点。 計6点の 「記憶喪失ポイント」 が提示されていったのです。 そして次には、この 「記憶喪失ポイント」 を核として 今作を推進していく



     「映画ルール」 
                    が提示されていきました。



それは

 “自分の日記 ( 「記憶喪失」 発生時ににその状況を書き留めておいた )
  を読み返す
と、その 「記憶喪失ポイント」 に時空を超えてタイムリープを
  することができる。”
 

                                      というものでした。


今作の映画世界は、この 「映画のルール」 によって完全支配されることになるのですが、その側面から今作の展開を推察していくと、

20歳の心を持った エヴァン が 


7歳時に起こった 「記憶喪失ポイント」

          《 1番目 ・ 殺人の絵 》
          《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》 
          《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 
          《 4番目 ・ 精神障害の父からの殺意 》      に加え、 

13歳時の
          《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
          《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》

という6個の 「記憶喪失ポイント」 にタイムリープをして、失われた記憶を埋めていくというものになるようです。



やがて、今作の映画世界を推進していくための 「映画のルール」 が提示された次には、この 「映画のルール」 を駆使して成し得るべき、映画の到達目標点とも言える、



       「主人公目的」 

                     が提示されていきました。



エヴァン は、失われた記憶を確認すめるために、13歳時にサイドミラー越しの別れを演じた幼馴染の ケイリー と7年ぶりに再会をしました。 ケイリー の父親によってなされた 


7歳時の 
    《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》  
               幼馴染の 妹ケイリー、兄トミーの家の中で、彼らの父親に
               いかがわしいビデオ撮影をされる際に発生
     

の事実を確認したところ、彼女の封印していた悲しい記憶を呼び覚ましてしまったのでしょう。 結果的に彼女を自殺に追い込んでしまったのです。

ここで、 「記憶喪失ポイント」 の種まきに終始していた今作に、成し得るべき到達点である 「主人公の目的」 が提示されていったのです。

それは、タイムリープという 「映画のルール」 を活用して過去に戻り、その過去を変えていくことで、命を落としてしまった


     ケイリー うこと
                       だったのです。


当然のことながら エヴァン は ケイリー を自殺に追い詰めるほどの大きなトラウマを焼き付けた、7歳時の


     《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 


という 「記憶喪失ポイント」 に 戻って行くのです。そして、いかがわしい撮影をしようとする ケイリー の父親を一喝し、その行為を封印させたのです。
過去を変えた瞬間に、7歳時のその時点から エヴァン と ケイリー の今までとは違った人生が走馬灯のように提示され、夢から覚めたように、全く異なった20歳の エヴァン が始まっていたのです。

過去に戻ってトラウマを払拭させたことによって、幼馴染の ケイリー は、前回の人生での冴えないウエィトレスなんかではなく、華やかな女子大生としての人生を謳歌していたのです。  ここでオープニングに提示された



「 小さなばたきが、地球では台風こすこともある 」
 


                            の意味を実感することができるのです。



7歳の時に ケイリー の父親を一蹴し、いかがわしい撮影をさせなかった という 
「小さな蝶のはばたき」 で、 ケイリー はキャピキャピの女子大生となり、エヴァン とナイスカップルというバラ色の人生へと、プラス方向の 「台風」 が吹き荒れてたのです。
しかし、今作はここで 「めでたし、めでたし」 の大団円を迎えるわけもなく、マイナス要件としての


    もう一つの 「映画のルール」 
                       を突きつけてきたのです。


それは、「何度も過去を変えて不幸を取り除こうとしても、結局は誰かしら不幸に陥ってしまう」 という、興味深いストーリー展開だったのです。
先に紹介した、ストーリーをグイグイと前に進めていく 「タイムリープ」 を 


     【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 

                               とするならば、


今回新たに提示された、誰かしら不幸に陥ってしまうという 「映画のルール」 は 


     【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 
 
                               と言うことができるでしょう 



タイムリープをして、過去を変えていく

     【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】  と

積み上げた物語をリセットする方向に持っていく

     【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】  が絡み合い、


そこに、7歳時と13歳時の 「記憶喪失ポイント」 が関与をしだして、 なんとも典雅な3重奏の調べを奏でるのです。


とボクはこの時点ではそんな映画体験ができることを真剣に期待をしていたのです......。



前述のように、ところどころに素晴らしい要素が散りばめられた今作ではありますが、それらを結びつけるディティールの数々が、ボクの期待をバッサリと裏切っていったのです。 この思いは、7歳時の


  《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 


を阻止しただけで、エヴァン と ケイリー のバラ色の 「第2の人生」 が始まっていくくだりから既に感じ始めていたのです。 
何故なら、 《 いかがわしい撮影 》 という マイナスポイントを是正しても、時制的にその後にくる


 《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》  

                   を始め、何よりも13歳時に遭遇した 重大な出来事、


 《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》 
            粗雑な 兄トミー 主導で、他人の家の郵便受けを
            ダイナマイトで吹き飛ばす甚大なるいたずらの最中に発生。


 《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》
            主人公 エヴァン と 妹ケイリー のキスに激高した
            粗雑な 兄トミー が、エヴァン の愛犬を焼き殺す場面で発生。 

という、2つの大きな傷跡を残した 「記憶喪失ポイント」 までもが、軽くスルーされていったことに、大きな違和感を感じてしまったからなのです。


ボクは 「時」 というものを

     一瞬一瞬が絶え間なく積み上げられて、
     緻密な関係性を築いた結果が

             「今」 へと結実している、

                        連続的なもの


と思っているのですが、今作においては

     7歳時の 《 3番目 》 とい1点 と20歳時の 「今」 。

                    この2点しか制作者の配慮がなされていない、
                    非常に薄っぺらい印象を持ってしまったのです。


7歳時のエヴァンの 「小さな蝶のはばたき」 が、13歳時のとてつもなく大きな2つの不幸までもをカバーする 「台風」 になったと言うのでしょうか?  
少なくともボクには、そんな大きな効果が実感できる是正とは思えませんでした。


そしてボクの今作に対する期待が、残念ながら空振りに終わってしまうことを確信したのが、 「第2の人生」 において 


   【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】
                  によって、エヴァン が犯罪人として投獄されてしまい、
                  その窮地から逃れるための

   【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】
                  を行使する方法にあったのです。


【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】  を司る 日記帳 を奪われた、スリリングな奪還劇の中で、迫り来る攻撃者を瞬時でかわしながらの タイムリープ は大いにスリリングで、その展開を楽しみはしました。

 でも、

   「時間」 という概念を、
   一つ一つの 「瞬間」 が、時間軸に沿って積み上げられた膨大な 

                   
                「積み木構造」          である


と思い込み、 「記憶喪失ポイント」 の順列を意識してきた者としては、今回の移行がドサクサ紛れの無計画なタイムリープであったことに苛立ちを覚え、しかも、行き着いた先が、よりによって最後の 「記憶喪失ポイント」 となる


   13歳時  《 6番目 ・  愛犬の焼き殺し 》 であったことに、
 
                               大いに失望してしまったのです。



 《 6番目 》 へと一気に移行してしまったということは、スルーされていった 

     《 4番目 ・  精神障害の父親からの殺意 》       と  
     《 5番目 ・  ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》  の 

 「記憶喪失ポイント」 に、 エヴァン は必ずこの後タイムリープをし、何らかの是正処置を行うことが容易に予測がついてきます。
そして 「時制的に新しい」  《 6番目 》 は、 「積み木構造」 の土台となるこの 《 4番目 》 や 《 5番目 》 で行われる是正によって、その様相を大きく変えてしまうことが予見できてしまっているのです。
ですから、そんな脆弱な 《 6番目 》 を、こんな早い順番に提示しても、



    真剣るというのだろうか !?


                          という疑問に苛まされてしまったのです。


やっぱり今作の制作陣は、  当該 「記憶喪失ポイント」 と 「現在」 という2つの 「時制」 にしか注意を払っていないようなのです。   少なくとも、


 「時間」 という概念を、
 一つ一つの 「瞬間」 が、時間軸に沿って積み上げられた膨大な 


          「積み木構造」 
 

                  だなんて思ってないことだけは、確かなようです。




ボクは今作に対してもう少し




   「時制」 考慮した理論的展開


                              を期待していたのです。 




 例えば、

 《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 という 「記憶喪失ポイント」 から  
 【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】  を開始して 「ケイリー の自殺」 
 を回避したのなら、
 そのアドバンテージを保持したまま、 新たに発生した 「エヴァン の投獄」 を削除
 するために、次の 「記憶喪失ポイント」 となる 


 《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》 に移行。何らかの是正処置によ
 って、 「エヴァン の投獄」 を削除し、少しづつ 「主人公の目的」 (ケイリーや
 身近な者を救う) に近づけていくという展開を期待していたのです。


  そして当然のことながら、ここでも、どうしても生じてしまう
 【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 によって、時制的に次なる 
 《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》   に移行して
 「ケイリー の自殺」 や 「エヴァン の投獄」 のリスクを制御しながら、新たな元凶
 を削除する。 しかしそれでもまた、「主人公の目的」 は遂行できずにやっと最後
 である次の

 《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》  でほぼ 「主人公の目的」 は達成する


                               という構造を期待をしたのです。



ついでに言うと、タイムリープは 《 3番目 》 という順番から始めていきましたので、まだタイムリープをしていない、そして 《 3番目 》 より 「古い時制」 で、 「積み木構造」 の土台となる


    《 1番目 ・ 殺人の絵 》
               授業中に発生。  
               「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた

    《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》 
               自宅で発生。 
               キッチンで包丁を (殺意ありげに) 持っていた


  への是正によって、今まで築き上げてきた 「新しい時制」 である
  《 3番目 》    《 6番目 》 で得られた成果が揺らぎながら、
  思いもよらないラストが待ち受けているはず。  
            
と 「是正の集積」 と 「突然の転調」 による珠玉の結末までを、密かに夢見ていたのです。




妄想を告白したついでに、最後までボクの満たされるはずも無かった 「妄想」 に付き合って頂きましょう。
わかりやすく極端な言い方をすると、こんな構成を夢見ていたのです。



          20歳現在 「ケイリー の自殺」 に対して


                      ↓


 元凶となっていた  7歳時  《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》   に 
  【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用して タイムリープ。

            「ケイリー の自殺」 の元凶を排除 

    
                      ↓

     
               「第2の人生」 が始まる。  

「主人公の目的」
 (ケイリー や身近な者を救う) が達成できたと思いきや、
       【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が発生。

              エヴァン が投獄されてしまう。

          (ここからボクの勝手な妄想が始まります)

 
                      ↓


   「ケイリーの自殺」 を回避したまま、「エヴァン の投獄」 を削除する為

次の4番目の時制   7歳時  《 4番目 ・ 精神障害の父からの殺意 》  に
   【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用してタイムリープ。
            
             「エヴァン の投獄」 を回避する。

                 
                      ↓


               「第3の人生」 が始まる。

 「主人公の目的」 (ケイリーや身近な者を救う) が 達成できたと思いきや 、
        【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が発生。

               何らかの不幸が発生する。


                      ↓


「ケイリーの自殺」 と 「エヴァンの投獄」 を回避したままその元凶を削除する為   

次の5番目の時制  13歳時 《 5番目 ・ ダイナマイトによるいたずら 》 に
  【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用してタイムリープ。

               何らかの不幸を回避する。


 
                      ↓

 
               「第4の人生」 が始まる。

            「主人公の目的」 が達成できたと思いきや
       【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が発生。
     
             またもや何らかの不幸が発生する。

 
                      ↓


      今までのリスクを全て押え込みながら、その元凶を削除する為

 次の時制で最後となる 13歳時 《 6晩目 ・ 愛犬の焼き殺し 》  に
  【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用してタイムリープ。

                最後の不幸を回避する 

 
                      ↓


               「第5の人生」 が始まる。

       やっと 「主人公の目的」 を達成し理想の形になる。



    しかし、だ。 まだ活用されていなく、「古い時制」 である、 
    「積み木構造」 の土台となっている 「記憶喪失ポイント」

 
   7歳時 《 1番目 ・ 殺人の絵 》
                授業中に発生。  
                「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた

                     と

   7歳時 《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》 
                自宅で発生。 
                キッチンで包丁を (殺意ありそうに)持っていた
                                
                     の存在によって 


                     ↓




         急転直下終盤展開される !!




                                   といいな.......。



と 極論を言うと、このような 「積み上げ修正型」 の理論整然とした謎解きを夢見てしまったのです。


でも、今作は、緊密で有機的な時間の絡み合いを放棄をし、タイムリープの先々でやらかした失敗のフォーローに終始。ちっとも前に進んでいかないのです。
無計画な行き当たりばったりのタイムリープを繰り返していくうち、映画自体も無配慮で薄っぺらなものになっていってしまいました。

この非常に残念な思いを持ちながらの鑑賞となったのですが、その後に続く杜撰な構成にはほとほと呆れ返ってしまいました。 ちゃぶ台返し的な特権を与えることができる、
     7歳時の  《 1番目 ・ 殺人の絵 》  と
             《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》 が

オープニング早々に視聴者の興味を持続させるだけのツールでしかなく、ストーリーを語る上で全く活用されていない愚行に亞然としてしまったのです。

この行為は誠実に鑑賞をしてきた者に対しての



     裏切り」 としてボクりました。



タイムリープを扱うのであれば、その推進役となった 「記憶喪失ポイント」 を無駄に消費するのではなく、もっと真摯に向き合うべきだと強く主張をしたいと思います。

でも、今作にこのような姿勢を求めても全く無駄のようでした。
何故なら、前述のようにうまく活用されていない 「記憶喪失ポイント」 が放置されたままであったり、逆に、 《 第3番目 ・ いかがわしい撮影 》 に対しては 違う目的で2回に渡って戻り、いじり回した挙句、2回目の是正措置は オマヌケな失敗 (苦) で終わってしまうし.....。
最後の  《 初めての出会い 》 に至っては 今まで秩序としてきた 日記 とか 「記憶喪失ポイント」 はどこかに忘れ去られて、言わば、ご都合主義的な タイム・リープ によって、絶対絶命の境遇からまんまと脱出をして行ったのです



     ガッカリだな.......。



構造的な落ち度の数々の次には、感情的な面についての不足分を指摘していきます。
今作の 「目的」 は不幸な人生を送り、自ら命を絶ってしまった 幼馴染のケイリー を救うことでした。
しかし、7歳時と13歳時に濃密なエピソードを共有し、サイドミラー越しの 悲しい別れを提示しておきながら、その ケイリー と20歳時になるまで音信不通であったという設定には、ボクは強い拒否反応を起こしてしまいました。
7歳時と13歳時の種まきが、20歳時の今に有機的に反映されていないことに、またもや強い違和感を感じてしまったのです。
そもそもはその程度の思い入れしか ケイリー に対して持っていなかったくせに、自殺という局面に一転して、急に ケイリー を救わなければいけないと思い立ち  【 推進型 「映画のルール」 】 を駆使しだす。
そんな行き当たりばったりの薄っぺらい動機が見えてしまったのです。

せめて、ケイリー を大切に思っていたが、何らかの理由によって会えなかった、もしくは会うのを差し控えていた。という、配慮が欲しかったと思います。そうすればラストの エヴァン の哀しみがもっと増幅して心を打ったことでしょうに.......。

また、極私的な印象としては 「幼児ポルノ」 や 「刑務所での暴力・男色」 というダークな側面は避けて欲しかったと思います。また、暴力的な描写や性描写を意図的に持ってきた点についても同様の思いです。
結局は、今作の終結方法は、「初恋の人を守るために自分の存在を消す」 という純粋なペシミズムの世界に昇華していくわけですから、暗黒面の提示はメリハリを作りはしたが、ストレートな感情発露の大きな邪魔になったとしか思えてなりませんでした。



残念ながらボクは今作に対して


     構成的な面でもっと知的で緻密なパズルにして欲しかった

     感情の面で エヴァン と ケイリー の絆を丹念に描いて欲しかった

     純粋な世界観を照れずにストレートに打ち出して欲しかった。  


                      と率直に思わずにはいられなかったのでした。



もしボクが今作の序盤にタイムリープすることができるとしたら、今作のカメラオペレーターの腕を引っぱって、坂道を疾走してくるMTBの少年に強引にパンニングをさせたことでしょう。
ボクのこの 「小さな羽ばたき」 が


     構成面での緻密なパズルを描き、

     感情の醸成を実現し、

     爽やかな印象のまま、あの心に響くエンディングに行き着く


                         という 「大きな台風」 となってくれるなら、
                         喜んでトライしたことでしょう。



もう一度言おう。


 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」
     このカオス理論の言葉にインスパイヤーされた今作のプロットは良い。

 オープニングのタイトルもイマジネーション豊かで秀逸な出来だと思う。

 エンディングも非常に情感に訴えるものがあった。



しかしだ、この素晴らしい要素を結びつけるディティールの数々が、ボクの期待をことごとく裏切っていってしまったのです。


 


に、   に しい映画でした。

 

 

 

 

 

バタフライ・エフェクト2

 

バタフライ・エフェクト3

 

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完成! 「天然コケッコー」
2008-11-23 Sun 13:32

天然コケッコー1

 

 

今作を鑑賞して

          【 終わりがある 儚 】
          【 終わりがある 愛おしさ 】
          【 終わりがある 美しさ  】

                        
                                をしみじみと感じていきました。
 

終わってしまうから、そして、変容してしまうからこそ、この一瞬一瞬が愛おしい。そんな


        小津安二郎映画にみる美学


                       を思春期の彼らの物語の中に見つけたのでした。




序盤から、小中学校の全生徒6人による家族のような空気が


        非常心地よく

                        感じられていきました。


女の子なのに 島根方言の 「わし」 を連発する意外性のある言葉使いと、音楽のような柔らかいイントネーションの世界に心地よく浸っていったのです。
そんなところに東京から 大沢広海クン が登場して今作の本題が始まるわけですが、主人公の 右田そよちゃん と 大沢広海クン の二人だけの場面になると、今までテンポの良かったリズム感が、突然ギクシャクとし、心地よかった空気感も損なわれていきました。


  今作のキャッチコピー


        「初めての同級生めての恋」 


が鑑賞動機であったのに、序盤早々からこのメインテーマにボクは乗り遅れてしまったようなのです。
しかしその直後に、 そよちゃん が小学1年生の さっちゃん の家にお見舞いに行くシークエンスにおいて、人間という生き物の愛おしい部分に触れて思わずホロッとしてしまったのです。
このように小中学生6人の人間関係と、キャッチコピーでの主人公である二人。この二つの関係性において生じた

         自分温度差  に、 

                       今作の鑑賞方針なるものが見えてきたようでした。
 

なんてことをつらつらと思っていたら、そよちゃん の父親役である佐藤浩一氏が本格的に今作に関与し始めていきました。
そうしたら案の定、そよちゃん と 広海クン のシークエンスで感じた以上の違和感を彼の存在の中に見てしまったのです。
小中校生6人が醸し出す特別な空気感を疎外するものが、たとえ今作の主題である そよちゃん と 広海クン の関係性であっても、許しがたい気持ちになっていたところですから、佐藤浩一氏という俳優人の場違いな自己主張によって、この純粋でゆったりとした映画世界が壊されてしまうのではないかと、


           警戒心  を、

                         持ってしまったのです。


今作のメインテーマを遂行するために 広海クン と そよちゃん が二人きりの時間を欲っすることにも反発の気持ちを持ってしまったわけですから、そもそも、プロの俳優人の出る幕などあるはずもなかったのです。
そんな雰囲気の中に 広海クン の母親が登場していきましたが、予測通りに彼女のひねた態度を誇張する職業俳優のテクニックが鼻についていきました。
穏やかな 「行って帰ります」 の世界と、そこにアクセントを付加しようとするプロ俳優人の強気な演技が不協和音を奏で、ボクの気持ちを最後まで逆立てていったのでした。




今作においては

       「行ってります」 

                       という一般的ではない言葉が、

このコミュニティの住民であることを互いに確認するための暗号のように飛び交っています。
バレンタインのチョコを軸にした 「行って帰ります」 の優しい世界を再確認した時、ボクは自分の中に感じたことのない気持ちを発見したのです。

それは、映画という創作物を鑑賞しているにもかかわらず、


       ドラマチックなことなど一切望まないので、
      このまま皆が無事でいられますように、



                           と願っている自分であったのです。


映画に対して 「表現の目的やその効果」 を求めてしまう、かつての “自主映画少年” のボクにとっては思いもつかない反応でした。
いつもは、プロローグで提示された世界観が、いつ・どこで・どのように 「変容」 して、エピローグに終着していくのかを観察していたのに、
今作に限っては序盤で提示された 「行って帰ります」 の世界が全く 「変容」 することなく、そのまま続いてくれることを願っていたのです。


しかしその願いは所詮、叶わぬ夢であることぐらいはボクにも分かっていました。 

 「行って帰ります」 のように、ドラマチックなこととは無縁の世界である、あの小津安二郎作品においても、結局は映画を推進していく原動力は、「結婚」 や 「親の死」 という “家族における大事件” となる


        “ワビ、サビ 的” 「変容」 

                              であったのですから......。


小津作品のように穏やかに映画が進行していると思われる映画であったとしても、


     関係性が何も変わらないままで

             映画を終息させる、ということは、

                      至難業 
 
  
                                            であったのです。


そのことを頭では承知していても、今作においては、「言って帰ります」 の世界に波乱を持ち込まずそっとしておいて下さいと、映画の神様 に祈らずいはいられなかったのです。


             こんなことめてだな........。



春。そよちゃんの弟である 浩太郎クン が中学生になっていきました。
しかし小学校には新1年生が入学しなかったようです。
いや、それどころではなく、この村には2年生になった さっちゃん を最後に子供が生まれていないという事実が判明したのです。
穏やかな平和に満ちたこの映画に慣れ、平穏無事を願った矢先に、突如突きつけられた


         廃 校 
                     というドラマチックな影。

今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校 という響きは、必要以上にボクの心を震わせていきました。


  この小中学校の人口分布図を学年順に書くとするならば、

          2 2 1 0 0 1 0 1 0 となり、


  しかもこれ以降子供がいない事実を加味するとさらに

          0 0 0 0 0 と 虚しい数字が続いていってしまうのです。



浩太郎クン が中学校を卒業する3年後には、今、小学生である さっちゃん と かっちゃん の姉妹たった二人きりの分校となるようなのです。
いや、前述のように廃校になってしまう可能性が高いのです。


彼らの家族のようなコミュニティが消滅するかもしれない、


   この不可避な悲しい予感は、

            【 終わりがある 儚 】
            【 終わりがある 愛おしさ 】
            【 終わりがある 美しさ  】 

                                    に昇華していくようでした。


 終わってしまうから、変容してしまうから、今のこの一瞬一瞬が愛おしい、そんな前述の


            小津作品にみる美学

                                  を感じ始めたのです。


そして、よく考えるとその思いは、


       一瞬で変わり、すぐに大人になってしまう、
       今作の主人公 そよちゃん  「思春期