通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
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完成! 「海の上のピアニスト」
2006-10-17 Tue 23:12

20061017231052.jpg




今作の鑑賞ポイントを    


「 “1900” にとって、あの  “乗客船”  とはどんな存在であったのだろうか? 」    


という1点に絞ってみました。
生まれて間もなく豪華客船の一等社交場にあるグランドピアノ上に置き去りにされて以来、一歩も地上に降り立つことなく船の中で成長した彼は、27歳の時にこの映画の語り部  “ コーン ”  と出会います。
成人した時点で、彼にとってのあの乗客船は寝起きをする “生活” の場であり、文字やピアノを覚えた  “学校”  であり、唯一の  “故郷”  でもあり、そしてピアニストとして従事する  “ 職場 ”  でもあったのです。
やがて、異性の存在を認識したことをキッカケに下船の意思を表明。
しかし、異常なまでの反応を示しながら、彼は下船の意思を一転して翻すのです。
被っていた帽子を海に投げ捨てて、地上に一歩も足を踏み入れる事も無く、船のタラッブを再び上っていく彼の姿を見て、彼にとってのこの乗客船とは  “生活の場”  “ 学校 ”  “ 故郷 ”  “ 職場 ”  とは違う存在となっていることを確信しました。
「 下船をしない 」 という意志を、外出時のたしなみとして必要となる  “ 帽子 ”  を投げ捨てることで表現したことから、「 今後はいっさい、外出 (下船) せずに “ 内 ”  (船)にこもる 」  ことを宣言していると感じたのです。 
あの巨大な船を “ 内 ” として認識し、それ以外を “ 外 ” とした関係性は巨大船全体を、社会の最小単位で、最も緊密な


         “ 家族 ” というコミュニティ


として認識した結果ではないかと思ったのです。
(後ほど、この考え方は行き詰まりますが.... ) 一時の下船の意志は、思春期における反抗期と家族からの巣立ち・独立が重なり、しかし、未知なるものへの恐れと、家族への過度な依存の為に下船を諦めたと、たかをくくっていたのです。
しかし、何年もの月日が経ち、この船の管理者が変わり、旅客船から病院船という形態を変えても、彼はどこかの隙間に潜り込み、永き時間に渡り船内で生き続けていたのです。
そのことを知るに至って、あの巨大船は彼にとっての  “ 家族 ”  程度のものであっては、この行動を理解することは不可能だと思い始めてしまったのです。
終盤、彼は  “ コーン ”  に下船断念の理由を


          理解えた “ 広がり ” に対する恐怖


であったと告白しますが、そこで、また、新たな考えに行き着きました。
あの巨大船は彼にとって、 “ 故郷 ” や、 “ 学校 ” 、 “ 職場 ” 、ましてや  “ 家族 ”  なんかの第三者的な存在では無く、彼と全く同一な存在となっていたのでないだろうか? と。 
あの巨大船が、彼の知識や技術をコントロールすることができる唯一の  “ 広がり ”  であり、それ以上の  “ 広がり ”  を決して容認することができないとすれば、あの巨大船は彼の認知できうる世界そのものであり、彼の知識・経験の全てを余すこと無く1点に集約した器官となる、


           脳 ”  であったのだ!


という突飛な考えが浮かび上がりました。
船と彼が別の存在であれば、下船は不可能ではなかったのでしょう。
しかし、あの船が [  彼が理解できる全ての範囲 = 知的世界  ] となっている点から、他にその代用品を求めることができない  “ 脳細胞 ”  を破棄することなどできなかったわけで、それだからこそ、あの船に留まらざるを得なかったのだと納得したのです。


          しかし、物議す あのラストだ......。


彼があの船に殉じる理性的な理由は、一体どこにあるのだろうか!?  前述の  “ 脳器官 ”  という理由づけも、彼自身の生命を超える重さがあるとは思えない。 
はぁ~、また、卓袱台がひっくり返されてしまいました。
様々に逡巡したあげく、ここにきて、ギブアップ直前にまで追い込まれてしまった。
しばし、クールダウンしながら、他の方のレビューを俯瞰していたら、


     あった!! アホをどり さんという方が書いたレビューの1節


             「 多分、お母さんのお腹から出て行くのが怖かったんだろう 」  


                                       に頭をガツンと殴られた。


 


 注意! これ以降、SF的な妄想 の世界に私の理性は埋没していきます。


 


「 船は “ 母体 ” だったのだ。 」  という考えに自分の感性と理性は、ようやく合意点に達しました。


 彼は未だ産まれて来てはいなかったのです。


ピアノの上に置き去りにされて以来、彼の “生” は始まっているかのように感じてしまっていましたが、 外界という社会に未だ、彼は本当に生まれてきてはいなかったのです。


彼はずっと船という “ 胎内 ” にいたのです。


一番守られた場所である、 “ 子宮 ” に留まり続けていたのです。


子宮内にいる “ 胎児 ” にとって、同一存在である “ 母体 ” の消滅が意味するところとは?


 


          答えは    歴然だ。


 


           納得が    いった。


 


異論があるのは重々承知の上ですが、


 僕はこの映画を勝手に 「SF観念映画」 であったと、 断言をさせて頂きます。


 


                    cap036_1.jpg


                    cap039_1.jpg
 


 

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完成! 「そろばんずく」
2006-10-02 Mon 14:32

そろばんずく




 


9月10日(日) Vol.1 最終回の 1/2


観終わりました。第1回目からして、もはや最終回です。
しかし、前回(「ラスト・ショー」)と同じく、長い構成となってしまったために、2回に渡って掲載することとしました。最終回の第1回目です。


コメディアンによる痛快サラリーマン映画、という期待感から、植木等の60年代に制作された「無責任男シリーズ」が連想されました。そんなキッカケで、同じ傾向にあると思われる、この「そろばんずく」という映画は


《1980年代の「無責任男シリーズ」だった》 のか? 


をテーマにして車内鑑賞を始めることにしてみました。結論から言うと、


  “是”であり“否”


でもあったのです。


では、説明しやすい“否”の理由から述べてみたいと思います。でも、その前に何故、「無責任男」と今作を比べようと思い立ったかを詳しく説明すると、「そろばんずく」という語感とタイトル画像からの印象がその理由となっているのです。「そろばんずく」とは、


    “損得勘定に長けた”


という意味で、卓越した営業センスで、そして主人公がコディアンであるため、口八丁、手八丁の調子の良さも手伝って、まるで「無責任男」のような爽快な出世モノが展開されるものと期待してしまったわけなのです。
そして旗を振り回して、挑発的にカメラに迫るタイトル画像を見れば、誰しも、外に向かって拡大していく瞬発力を期待してしまうのではないでしょうか?
僕は 《80年代に舞台を移した、「無責任男」》を見ることができるものと思っていたのに、結局はまんまと騙されてしまったわけで、今作は爽快な出世モノとは程遠い映画であったのです。


「無責任男」と「そろばんずく」を決定的に分けるものを考察すると、


   ①上昇志向の欠如
   ②実体性の欠如


という2つの欠如が挙げられました。


①“上昇志向”は、「無責任男シリーズ」が持つパワーの源 であり、無責任男はより良い環境を飽くなき探究心とチャレンジ精神で獲得していきますが、
(と断言していますが、そもそもは20年前の記憶を元にした印象ですので、悪しからず。)残念ながら「そろばんずく」には、上を狙ってのバイタリティは無く、現状維持の中での、突然の凋落。そして懸命の現状への復活があったのであり、個の拡大という図式はなく、物語上の会社組織の拡大があるという程度だったのです。しかも貪欲なまでの上昇志向は ライバルのラ社を牛耳る“天神さま”が振りかざす、“血縁による業務拡大”というアブノーマルなものとして、笑い飛ばされているのです。
そう、「そろばんずく」において、明確な“上昇志向”は、どこか控えるべきものとして避けられしまっているのです。この映画は、世渡り上手な成功モノという傾向を持ち得なかった点で「無責任男」とは距離を置く映画なのです。


②実体性の欠如  「そろばんずく」において、会社組織が森田芳光監督流のあそび感覚を導入しての、学校組織にイメージを重複させた象徴的な表し方となってしまっているのですが、その為に、会社活動がリアリティに欠けた、バーチャルで実体を成さない社会活動との印象になっている点に代表されます。
(「無責任男」もリアリティの欠如は見受けられますが、バーチャルな虚無感は回避できていたと思うのです。)
「無責任男」が、その行動基盤を、あくまでも会社活動というリアリティの中における上昇志向に根ざしていたのに対し、「そろばんずく」は早々と会社組織からの離脱を余儀なくされ、“そば屋”や“清掃業”という仮の姿でライバル社の探りを入れることに終始してしまうのですが、その為、その行動の基盤となる会社組織自体の存在感が希薄となり、彼らの行動自体が、いや、この映画の存在自体が薄っぺらい、リアリティに欠けたものとなっているのです。
この、絵空事で塗り潰された、悪い意味での“映画のフィクション性”に引きこもってしまった点が「無責任男」と「そろばんずく」を深く隔てるものとなっているのです。


今作は《1980年代の「無責任男」だった》のか?
の鑑賞テーマに対しては、以上の2点によって、“否”との結論に達しました。が、次回は この2つの映画が制作された時代背景を考慮し、再考した結果、今作は《1980年代の「無責任男」だった》のかも! という視点でレビューを続けてまいります。お楽しみに。



9月16日(土) Vol.2 最終回の 2/2


前回、今作は《1980年代の「無責任男」》ではなかった。
と断言をしてしまいましたが、今回の「最終回の2/2」は、
今作は《1980年代の「無責任男」》だったのかも!
という視点でレビューを続けてまいります。


とは言っても、この2つの映画にはやっぱり大きな乖離があります。
そこで「60年代ー無責任男シリーズ」「80年代ーそろばんずく」という、この映画が制作された時代を考察した結果の、社会学的?なアプローチでお話を進めたいと思います。


   「60年代ー無責任男シリーズ」


は1962年の「ニッポン無責任時代」から始まる映画群で、ちょうど池田内閣のもとで所得倍増計画による“高度経済成長期”という国家的高揚感に溢れた時代に制作されています。一方の


    「80年代ーそろばんずく」


は“バブル景気”が始まったとされる1986年12月から遡ること4ケ月前の8月に公開。まさにバブル前夜に制作された映画だったのです。
“高度経済成長”と“バブル景気”、この似て非なる経済要因、社会構造のギャップが、まさに、この2つの映画を分かつ要因となっているのです。


    「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」


は経済基盤の底上げを伴う、国民全体が“豊かさ”という一つの目標に向けて一致団結していた、次期総裁候補が標榜する“美しい国 日本”がそこにはあったわけです。当然、個人レベルに留まらない、国全体の“上昇志向”が美徳とされ、その成果としての1968年、GNP世界第2位の獲得という歴史的事実があるのです。 一方の


     「80年代ーそろばんずくーバブル景気」


は異常な投機熱に狂った、マネーゲームの様相を呈し、地上げに代表される、従来のコミュニティを崩壊させることなど、気にも留めない極端な拝金主義があったのです。この超利己主義的なゼニゲバ行為を恥じて、「そろばんずく」では敢えて、主人公達のこれ見よがしな“上昇志向”を避け、“天神さま”という悪役に一身に集約させたのではないか、とさえ思えてしまったのでした。
①上昇志向の欠如 という要因は、こんな 2つの社会の気運の差異によってもたらされていたのではないかと思うのです。


②実体性の欠如 は


     「80年代ーそろばんずくーバブル景気」


が土地、マンション、高級車、果てはワインまでもを投機のネタとし、利便性や乗り心地、そして味というモノの本質や実体よりも、付加価値・資産価値という無形なものに群がった、実体の存在感が欠如した時代であると考えますが、
 
     「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」


は“三種の神器”に代表される“消費は美徳”の、物の豊かさを高らかに謳歌した時代でした。


記憶によると「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」の無責任男はメーカーや商社等の、モノを製造・販売する会社の社員であったのに対し、「80年代ーそろばんずくーバブル景気」の二人は、実体以上の高い価値を生み出す為に、ハイセンスなイメージを創出する現代の錬金術師である広告代理店の社員であることが、非常に象徴的な対比に思えました。


     「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」


はモノの実体に直接的に恩恵を受けた時代で、主人公も、モノの製造や流通に関与していた、実体性が確かな世界であったのです。方や、


      「80年代ーそろばんずくーバブル景気」


はモノの実体よりも、内在している付加価値・資産価値を偏愛した時代で、主人公達も価値観を誇張するイメージ創出を商いとしている、実体性よりもイメージ偏重の時代であったのです。奇しくも、「バブル景気」を 
“実体経済の経済成長以上に資産価値が上昇した状態であり、本来は維持できるものではなかった”
とそのバーチャルな好景気を断罪する文章を見つけました。


このように ②実体性の欠如 も「60年代ー高度経済成長」と「80年代ーバブル景気」という2つの社会の差異が大きく関与していると思われます。


まとめますと、


「60年代ー無責任男」の健康的な世界観を「80年代ーバブル景気」による


  ①上昇志向の欠如 を反動で叫びたくたくなるようなゼニケバ傾向、と 
  ②実体性の欠如 に見るイメージ偏重気運、


という歪んだ力で捻じ伏せた結果、この「そろばんずく」といういびつな世界(否、映画)が生まれきたのだと結論づけることにします。


今作は 《1980年代の「無責任男」》 とは成り得なかったが、
《1980年代というフィルターを通して生成された「無責任男」》 という側面においては“是”であったのです。

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