通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
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完成! 「近松物語」
2007-12-14 Fri 22:47

DABA405_l.jpg



今作に触れて、近松門左衛門作品を鑑賞してゆく上での新たな2つの側面に気づくことができました。

1つ目は、

      【 「肉欲」 という、即物的衝動的側面 】  
                                                で、


近松の世界観を今まで認識していた 「悲恋」 という情緒的な面に加えて 「肉体が溺れてしまう快楽」 という切り口で見ていこうと思ったのです。

                    
そしてもう1つは、他の近松作品で感じた、 「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、


       【 「支配体制」 に 統制される 「個」 】 

                               についても注目することにしました。


いきなりの、序盤、ボクの心をわし掴んで、激しく揺さぶったカットが、開始17分に展開されていきました。
それはたかだか 10秒ほどのものでしたが、今作をレビューする上での、そして近松作品全般を鑑賞する上でのボクの方針を決定付けるほどの、大きな影響を残していったのです。

そのカットに映し出されていたのは、不義密通の罪で市中引回しの上、処刑されて、磔台にくくり付けられたままの男女の遺体でした。 正直に話すと、衝撃を受けた本当の理由は、



        なんて 官能的な 死体なのだろうか」 



と、そのカットに触れて、思いがけない言葉がボクの口をついて出たことだったのです。

肉体の機能を果たさない “骸 (むくろ)” にされて、晒 (さら) されている男女の遺体に性的な意味を感じ、しかもその奪われた肉体の機能とは、 「性交」 に違いない。 と早々に信じて疑わない自分自身に驚いてしまったのです。
どうやらボクの気持ちは、不義密通という極刑によって 「性交」 を取り上げられてしまった肉体が、正々堂々と展示されていたことに動揺し、平静さを保っていられなかったようなのです。
それ故、その物体を不吉で、どこかしら滑稽で、そして圧倒的にエロティックな存在として捉えずにはいられなかったのです。



      【 「性」 ゆえに 「生」 われた肉体 】

                
             そんな凄まじい存在感に完璧にねじ伏せられてしまったのです。



が、しかし、よくよく考えてみると、そこには、とてつもなく大きな矛盾が存在していたことに気付きました。
そもそも 「性」 というものは 「生」 を次代に繋いでいくための 自然の摂理 であるはずなのに、
ここでは 「性」 がなせる 「性交」 のために、根源的な 「生」 自体が 「国家」 によって奪われてしてまう、そんな摩訶不思議なことが実行されていたのです。



       「性交」 という  “手段”  のために

              究極  “目的”  である 「種保存」 

                             
                                     遂行することができなくなる。


そんな、自然界においては考えられないことが、江戸時代の人間界では行われていたのです。

それは 「性交」 を純然たる 「生殖行為」 と単純に割り切ることができない、社会的な「意味」 や 魑魅魍魎的な 「関係」を見い出してしまう、



         人間という、極度複雑化してしまった動物

                        「性 (サガ) 」 なのでしょうか........。



しかし、 「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因は、こんな社会学的な考察や生物学的なものではなく、ただ単純に 支配統制 という 政治的な手法 に起因していたのです。
江戸幕府が他者を支配するための 精神的な縛り として採用した、儒教の 「主従関係」 という思想。 これこそが、「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因 であったと思うのです。
幕府と大名の間での 上下関係。 大名と藩士の間での 服従関係。 そして 商家では主人と奉公人の間でと、様々なレベルでの 「主従関係」 を 江戸幕府は死守させてきたのです。

テッペンにいる自らの安寧のために、このヒエラルキーを下々の者まで浸透させる必要があったわけなのです。幕藩体制によるそんな支配の 「ツール」 を隅々まで行き渡らせて、



        【 「支配体制」 統制される 「個」 】 



を全方向的に構築していったのです。 そして、 性愛 の極私的な世界をも管理するために 「不義密通」 という厳罰を導入し、相互監視の下で 「個」 をがんじがらめ にしていったのです。
 
あのエロティックな遺体は 「主従関係」 の概念を崩しかねない 「不義密通」 という危険な性の快楽に溺れた肉体だからこそ、支配者層は、 (大げさな言い方をすると 「幕府」 の安泰のために) その肉体を無力化する必要があったのです。



        【 肉体機能われた骸 (むくろ) 】   

        【 「性」 によって 「生」 われた肉体 】



という言葉が押し寄せてきた、あのカットから、近松の世界を従来どおりの 「悲恋」 という情緒的な側面だけではなく、新たに


        【 「肉欲」 という、即物的衝動的側面 】


                           をも考慮して鑑賞しようと思い、 また、



「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、


       【 「支配体制」 統制される 「個」 】 


       についても注意しようと思い始めた、濃密な10秒間だったのです。



今作の主人公となる、奉公人の茂平と豪商の妻である おさん は 予想通りに、間の悪いタイミングが重なったことによる誤解が元で、「不義密通」 の汚名を着せられ、放浪の末の死へと追い込まれていきます。
清廉潔白の身でありながら入水自殺を図る最後の瞬間にきて、茂平は おさん に溢れ出る自分の気持ちを抑え切れずに吐露するのです。


         そしたら、あれっ? 


何と おさんはケロッと、いとも簡単に入水の意を翻してしまうではありませんか。
半ば強引な軌道修正にあっけにとられながらも、それでもこのシーンが物語上の転換点であると受け入れて、 おさん の行動を考察することにしました。

茂平に愛を告白された瞬間から、おさんは自分の 「生」 を生きていくことを決心したのだと思いました。



    「家」 のために、30歳以上も年上の男の後妻となっていたところに、
    「家」 のしがらみとはまったく違う、 おさん という
    「個」  の必要性を欲っされて、彼女は自分の


            独立した存在 
                             を発見したのだと思いました。
    

 「家」というものに支配されて、そして従属していた おさん としての命は 未練はなかったのでしょうが、
 「個」の 新しい価値を見出した、独立した存在の おさん はその命を終えることができなかったのでしょう。

ここにおいて、序盤にこだわった “晒(さら)された男女の遺体” に象徴される


         【 「支配体制」 統制される 「個」 】 


                              という関係性が、思い出されてきました。


この場面では 「国」 という単位ではないが、封建社会の市井レベルでの統治単位と言える 「家」 の支配から解放された 「個」 の輝き を見ることができたのです。

 「家」 の呪縛から逃れて 「個」 に目覚めた おさん は茂平の気持ちを受け入れ、恐らく初めての 「性愛」 にも目覚めていきます。

     しかし、

その充実の 「性交」 は幕府の支配概念を、モラルという側面から崩壊しかねない、危険きわまりない 「快楽」 となっていったのです。

     そして 

「家」 においても 「不義密通」 を許した罪として、 「お家断絶」 という存亡の危機をもたらす、一発触発の最終兵器と化していったのです。

この濃密で危険な二人の 「性愛」 をめぐって、



       「お家安泰」 を目指す豪商である大経師、
       その大経師の後釜に納まりたい有力者、
       スパイとなる大経師の番頭、
       大経師との関係を維持しておきたい おさん の実家、



夫々の思惑が交錯する中、この大量殺略兵器とも言える茂平と おさん は、最終的には茂平の実家に着弾をしたのです。
しかし、そこにも 「ムラ」 という土着的な人間関係を基盤とする


        連座制 


という名の支配装置が作動して、この 「性愛」 という劇薬物の排除にかかるのです。

ここまでくると、二人の単なる 「肉欲」 が封建体制に押えつけられた 「個」 や 「自由」 を獲得するためにレジスタンスする 崇高なる 「純愛」 に思えてくるから、とても不思議な感じがしました。



ラスト、二人は結局捕らえられ、序盤にボクが強い印象を受けた 「市中引き回しの行列」 の再現を自らが演じていくことになります。

この物語が開始された当初は、茂平と おさん ともにこの 不義密通による「行列」 には否定的な立場を取っておりましたが、物語が進んでラストに至っては、180度状況が変わってしまい、茂平と おさん が今度は市中引き廻しの馬上の人となっていったのです。

序盤に見た 市中引き回しの「行列」 が形を変えてこのように終盤に再現されていたことに対して、ボクは


        「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名)


                を感じて、映画的興奮を得ることができたのです。


それでは 「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名) について説明してみることにしましょう。

この表現技法の特徴点は、オープニングとエンディングに “象徴的なシーン” を意図的に繰り返し配置してくるところにあります。
物語の始まりと終わりとで生じていった相違点や、逆に変わらずにいる共通点を提示することによって、時間の経過による様々な


          わり 


を視聴者の心に強く訴えることができる、ボクの好きな技法なのです。

しかも、反復して “象徴的な行為” を行わせることによって、オープニングで目撃をした、視聴者の記憶を刺激し、呼び覚まして、一種の


          「既視感」 


のような特別な感情を煽りながら、運命的に、そして必然的に発生していった “時の移り変わり” を効果的に表現することができる技法であると思っています。

ストーリー上の傾向としては、序盤においての主人公はその “象徴的な行為” からは距離を置いているのだが、映画というドラマを経てエンディングに至っては、自らがその “象徴的な行為” を演じる立場に転じていたことになるのです。

この 「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名。....しつこいですね、以下省略。) が効果的に使われた代表作品として 「ゴッドファーザー」 が真っ先に挙げられるかと思います。
序盤、父親のビトー・コレルオーネの陳情を聞くシーンから始まった 「ゴッドファーザー」 は、様々なドラマを経て、ラストに至っては、マフィアの側面から距離を置いていた三男のマイケルが、父親と同じように、配下の者からの陳情を受けるシーンで帰結をしていました。

オープニングで、父親のビトーが家庭とは隔絶された空間で、陳情を受けるシーンを目撃していた視聴者は、エンディングでのマイケルによる行為に触れた瞬間に、オープニングでのそれを想起することになります。 そして、一種の

 
         「既視感」


という特別な感慨に包まれながら、運命的に、そして必然的に発生する


         世代わり 

                                を認識していったのです。


「ゴッドファーザー」 においての 「映画的 デ・ジャヴュ」 は、マイケルの “成長” や 権力の “継承” を示す表現として有効に活用されていましたが、今作においては 時のうつろい によって醸し出された



         “無常感”  “もののあわれ” 


                              という正反対の感情を訴えてきたのです。



が、しかし、その演出意図を理解しているつもりでも、今作の 「映画的 デ・ジャヴュ」 の処理には、


         残念ながら、


ボクは手放しで評価をすることができませんでした。
今作の 「近松物語」 という題名から、 「市中引き廻しの行列」 が 「映画的 デ・ジャヴュ」 として再現されることをたやすく予測できてしまったところに、そもそもの難しさがあったのではないでしょうか。事前に ネタバレ してしまった 「映画的 デ・ジャヴュ」 を結局的にはうまくまとめ上げることが


         できなかった。 のかな?

                            と思ってしまったのです。


このように思ってしまった元凶は、2度目の 「市中引き回しの行列」 において発せられた


         つのセリフ、ただ1点

                            に集約されています。


 「お家断絶」となった 「大経師の店」 に、茂平と おさん の 「行列」 が通りかかった際に、後片付けをしていた元大経師の使用人が馬上の二人を見て、



    「お家さん (おさん) のあんな明るいお顔をみたことがない。

     茂平さんも晴れ晴れした顔色で、ほんまにこれから死なはるのやろか。」



と蛇足のように発っしたのですが、二人の表情を思い出して、


     「違うじゃん!。 そんな表情してないじゃん!

                        と、ボクは即時反発を起してしまったのです。


この場面こおいて、世間知らずであった おさん が 茂平を


         気遣える余裕度量  を示し、


逆に、茂平は おさん に


         てをった、中性的退行したかのような表情 

                             
を示していた。


としか思えてならず、局面において、立場が逆転していった


           か弱さ  と、

                         強さ 


を感じ取り、どうしてもその考えを主張し、固執したいと強く思ったのです。

大事な第2回目の 象徴的な行為 における前述のセリフと、ビジュアルから受け取ったボクの思い。


          この不整合はどうしたことか!? 


                              と途方にくれてしまったのです。


名作の誉れ高き今作に対しては、甚だ勇気のいる発言だが、事前にネタバレしてしまった 「映画的 デ・ジャヴュ」 を、溝口監督は結果的にうまく処理し切れなかった。のかな..........?

と、溝口マニアからの罵声に怯えながら、こそっと、しかも独善的に言い残して、今作のレビューを終えることにします。    (ドキドキ)

 

 


近松物語2

 

 

近松物語3


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