通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
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完成! 「天然コケッコー」
2008-11-23 Sun 13:32

天然コケッコー1

 

 

今作を鑑賞して

          【 終わりがある 儚 】
          【 終わりがある 愛おしさ 】
          【 終わりがある 美しさ  】

                        
                                をしみじみと感じていきました。
 

終わってしまうから、そして、変容してしまうからこそ、この一瞬一瞬が愛おしい。そんな


        小津安二郎映画にみる美学


                       を思春期の彼らの物語の中に見つけたのでした。




序盤から、小中学校の全生徒6人による家族のような空気が


        非常心地よく

                        感じられていきました。


女の子なのに 島根方言の 「わし」 を連発する意外性のある言葉使いと、音楽のような柔らかいイントネーションの世界に心地よく浸っていったのです。
そんなところに東京から 大沢広海クン が登場して今作の本題が始まるわけですが、主人公の 右田そよちゃん と 大沢広海クン の二人だけの場面になると、今までテンポの良かったリズム感が、突然ギクシャクとし、心地よかった空気感も損なわれていきました。


  今作のキャッチコピー


        「初めての同級生めての恋」 


が鑑賞動機であったのに、序盤早々からこのメインテーマにボクは乗り遅れてしまったようなのです。
しかしその直後に、 そよちゃん が小学1年生の さっちゃん の家にお見舞いに行くシークエンスにおいて、人間という生き物の愛おしい部分に触れて思わずホロッとしてしまったのです。
このように小中学生6人の人間関係と、キャッチコピーでの主人公である二人。この二つの関係性において生じた

         自分温度差  に、 

                       今作の鑑賞方針なるものが見えてきたようでした。
 

なんてことをつらつらと思っていたら、そよちゃん の父親役である佐藤浩一氏が本格的に今作に関与し始めていきました。
そうしたら案の定、そよちゃん と 広海クン のシークエンスで感じた以上の違和感を彼の存在の中に見てしまったのです。
小中校生6人が醸し出す特別な空気感を疎外するものが、たとえ今作の主題である そよちゃん と 広海クン の関係性であっても、許しがたい気持ちになっていたところですから、佐藤浩一氏という俳優人の場違いな自己主張によって、この純粋でゆったりとした映画世界が壊されてしまうのではないかと、


           警戒心  を、

                         持ってしまったのです。


今作のメインテーマを遂行するために 広海クン と そよちゃん が二人きりの時間を欲っすることにも反発の気持ちを持ってしまったわけですから、そもそも、プロの俳優人の出る幕などあるはずもなかったのです。
そんな雰囲気の中に 広海クン の母親が登場していきましたが、予測通りに彼女のひねた態度を誇張する職業俳優のテクニックが鼻についていきました。
穏やかな 「行って帰ります」 の世界と、そこにアクセントを付加しようとするプロ俳優人の強気な演技が不協和音を奏で、ボクの気持ちを最後まで逆立てていったのでした。




今作においては

       「行ってります」 

                       という一般的ではない言葉が、

このコミュニティの住民であることを互いに確認するための暗号のように飛び交っています。
バレンタインのチョコを軸にした 「行って帰ります」 の優しい世界を再確認した時、ボクは自分の中に感じたことのない気持ちを発見したのです。

それは、映画という創作物を鑑賞しているにもかかわらず、


       ドラマチックなことなど一切望まないので、
      このまま皆が無事でいられますように、



                           と願っている自分であったのです。


映画に対して 「表現の目的やその効果」 を求めてしまう、かつての “自主映画少年” のボクにとっては思いもつかない反応でした。
いつもは、プロローグで提示された世界観が、いつ・どこで・どのように 「変容」 して、エピローグに終着していくのかを観察していたのに、
今作に限っては序盤で提示された 「行って帰ります」 の世界が全く 「変容」 することなく、そのまま続いてくれることを願っていたのです。


しかしその願いは所詮、叶わぬ夢であることぐらいはボクにも分かっていました。 

 「行って帰ります」 のように、ドラマチックなこととは無縁の世界である、あの小津安二郎作品においても、結局は映画を推進していく原動力は、「結婚」 や 「親の死」 という “家族における大事件” となる


        “ワビ、サビ 的” 「変容」 

                              であったのですから......。


小津作品のように穏やかに映画が進行していると思われる映画であったとしても、


     関係性が何も変わらないままで

             映画を終息させる、ということは、

                      至難業 
 
  
                                            であったのです。


そのことを頭では承知していても、今作においては、「言って帰ります」 の世界に波乱を持ち込まずそっとしておいて下さいと、映画の神様 に祈らずいはいられなかったのです。


             こんなことめてだな........。



春。そよちゃんの弟である 浩太郎クン が中学生になっていきました。
しかし小学校には新1年生が入学しなかったようです。
いや、それどころではなく、この村には2年生になった さっちゃん を最後に子供が生まれていないという事実が判明したのです。
穏やかな平和に満ちたこの映画に慣れ、平穏無事を願った矢先に、突如突きつけられた


         廃 校 
                     というドラマチックな影。

今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校 という響きは、必要以上にボクの心を震わせていきました。


  この小中学校の人口分布図を学年順に書くとするならば、

          2 2 1 0 0 1 0 1 0 となり、


  しかもこれ以降子供がいない事実を加味するとさらに

          0 0 0 0 0 と 虚しい数字が続いていってしまうのです。



浩太郎クン が中学校を卒業する3年後には、今、小学生である さっちゃん と かっちゃん の姉妹たった二人きりの分校となるようなのです。
いや、前述のように廃校になってしまう可能性が高いのです。


彼らの家族のようなコミュニティが消滅するかもしれない、


   この不可避な悲しい予感は、

            【 終わりがある 儚 】
            【 終わりがある 愛おしさ 】
            【 終わりがある 美しさ  】 

                                    に昇華していくようでした。


 終わってしまうから、変容してしまうから、今のこの一瞬一瞬が愛おしい、そんな前述の


            小津作品にみる美学

                                  を感じ始めたのです。


そして、よく考えるとその思いは、


       一瞬で変わり、すぐに大人になってしまう、
       今作の主人公 そよちゃん  「思春期」


というものにも投影されているような気がしてきて、この思いにこだわりを持ってしまったのです。


     「行って帰ります」 を育んだ 分校 と、
      純粋な気持ちを持ちえた そよちゃん。 

          その両方が並存する最後の数年に立ち会える
          映画だったのか?

      そして、それらが

         損なわれてしまう様を見届けさせられる映画なのか....。



                          と、ちょっと感傷的になってしまいました。


そして、 廃校の予感 から顕在化した

           過疎化   という大きな問題についても考えを巡らせていたら


  “このコミュニティには 過疎化 という問題があったからこそ
  「行って帰ります」 の 特別な優しい空間が生まれたのではないだろうか?
  数少くなくなってしまった子供たちを村人達が心から大事に思っていたから
  こそ、このような緩やかな空間となっていったのではないだろうか? ”


                  という思いにも取り付かれていったのです。そして何よりも、
 

 「行って来ます」 を意味する 「行って帰ります」の 本当の意味は、


        「 行って、(そしてまたここに) っておいで。 」
 

 という、少なくなってしまった子供たちを慈しむ。そんな、大人たちの気持ちが表れているように思えて、ならなかったのです。


今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校、そして 過疎化 という突然の問題提起は必要以上にボクの心を震わせ、そして様々な考察の種をも蒔いていったのです。
そんな数々の 「気づき」 が訪れた後に、今作の根幹に関わるとても大きな 「変容」 が発生していたのです。
それは、頑なにオーソドックスな演出にこだわってきた今作の監督による


        演出スタイルの 「変容」 

                             というものでした。

                   
この 「変容」 は東京への修学旅行の際、人口密度の高さにに疲労困憊して東京に対しての違和感をもってしまった そよちゃん のシークエンスに表れていました。

両方の耳元に手をかざして、微かな音や声を聞き取ろうするポーズ 
(羞恥心の上地クンが ヘキサゴン! と言いながら質問を聞き逃すまいとするあのポーズです)
を故郷の山の前ですると ”ゴウゴウ” と山の音が聞こえることを そよちゃん は発見し、序盤に 「行って帰ります」 のメンバーにも教示していました。
そんなポーズを、そびえ立つ都庁を前にして行ってみたところ、ここ東京の地においても故郷と同じ “ゴウゴウ” の音がすることに気づいたのです。

  その

          “ゴウゴウ現象” 
                             に聞き入りながら歩く

          そよちゃん のバックが
                              わざとらしくも そらヌケ 
                              となってきました。


   【 そらヌケ -  背景に何も配置せずに、空(そら) のみにすること】



何かがが始まるぞ。と予感した直後、そのカラの青空の空間にゆっくりとフレームインしてきたものは、東京タワー や 飛行機 や キリン や 国会議事堂 の画像だったのです。
今回の修学旅行で見学をした場所なのでしょうが、いきなりのSFX(?)を駆使した合成画面が、それまでの演出リズムと明らかに違えてきたので、ここが監督の訴求点であると感じたのです。

東京に居心地の悪さを感じていた そよちゃん のことでしたので、ボクはてっきり そらヌケ の場所に、故郷の山が映し出されて、


         ある 退行現象 

                          が提示されてしまうのかと
                          心配していたのですが、

前向きな感情の中でこの修学旅行が終われたようなので、ちょっと安堵したのでした。

都庁の前でも、故郷と同じ “ゴウゴウ現象” があったということは、東京タワーでも、空港でも、上野動物園でも、国会議事堂でも “ゴウゴウ現象” は現れたはず、と思えたのではないでしょうか。

それによって、「行って帰ります」 の島根の村 と 東京 とでは人口密度や人間関係密度という側面においては全く違うけれど、山と同じように “ゴウゴウ” も聞こえることだし、本質的には異質なものではなく、


     萎縮
する必要もなければ、
      疎外されるものではない。 


                          ということを、きっと悟ったのではないでしょうか、


そんな思いになったからこそ、 “ゴウゴウ” のシークエンスにおいて、修学旅行で見学したモノを今一度、自らのイメージの中で反芻するかのように そよちゃん の そらヌケ に東京タワーや空港が現れてきたのだと思ったのです。



このような小さな成長の連続によって、人は子供時代を卒業して大人へと変わっていくのでしょうね。 


他者の存在を理解し、容認し、尊重することによって、自らのキャパシティを広げていくことになるのでしょう。
このシークエンスは島根の田舎しか知らなかった そよちゃん がそれ以外の環境を受け入れ、一歩大人に近づく瞬間を目撃できるものであったと感じました。

しかし、自分の引き出しを広げてくということは、元々身につけていた要素の構成比を小さくしてしまうことに他ならないわけですから、そよちゃん の源流が 「行って帰ります」 の世界であることを考えると、それに魅力を感じて、今作を鑑賞していく原動力としているボクとしては、ちょっと複雑な気分となったのでした。


廃校 と 過疎化 という問題提起から発生した 映画世界の 「変容」。そして、それに伴って顕在化してきた、演出スタイルの 「変容」。
“ゴウゴウ現象” と同じように、演出バランスを崩さんばかりに、自己主張をしてきたカットが終盤にあと2つ、ボクの気持ちに引っかかっていったのです。


1つ目は 広海クン の学生服のボタンを付け直してあげる、そよチャン と 広海クン のツーショットに見られたものでした。
そのシークエンスは3分40秒間もの間、据えっ放しの1カットという特徴的な訴求方法を打ち出してきました。
東京の高校に 広海クン が入学して、離れ離れになってしまうかもしれない、という悲しい予感の中での二人のヤリトリに対して、ちょっとルーズな画角で、1カット撮りっぱなしという技法を監督は当ててきたのです。

ともする冗長になりがちな表現方法ですが、そよチャン と 広海クン の二人の微妙な距離感や、「もどかしくも、ぎこちない」 空気感がうまく出ており、


       不器用思春期初恋 

                
                     という側面をよく感じ取ることができたのです。


長すぎても、短すぎてもこの気持ちをうまく伝えることができなかったであろう、微妙なバランスに立っていたと評価します。

と思った瞬間、ボクは思い出したのです、序盤に感じて深く考えずに放棄をしてしまった


      「もどかしくも、ぎこちない」 感覚を...。


小中校生6人の気心知れた世界に対比するように提示された、キャッチコピーにおける2人の世界が 「もどかしくも、ぎこちない」 空気感であったことを今更ながらに知ったのです。
どうやらボクは「行って帰ります」 のコミュニティの居心地の良さに埋没し、監督が仕掛けた


       不器用思春期初恋 

                      という側面を評価することができなかったようなのです。


        反 省 ...。



そして、ラストシーンにもう1つ、演出バランスを崩した監督の自己主張に遭遇することができました。

バレーボールの攻撃テクニックに 「1人時間差攻撃」というものがあるけれど、この表現方法は


       「1カット内時間差攻撃」 

                          とでも言うべきものでした。

  “卒業式後、そよちゃん が思い出の一杯詰まった教室から廊下へと出て
   行きました。
   その後、カメラはゆっくりと反対の窓際に移動していくのですが、
   そこにはさっき出て行ったはずの そよちゃん が窓の外から教室を
   見ていたのです。 ”


窓際の そよちゃん が高校の制服を着ていることから 教室を廊下側に出て行った日と、窓の外にいるシーンとは別の日の設定であることが理解することができました。
監督は卒業式後の教室のシーンをカットを割ることなしに持続させて、1カットで何日後かの校庭入学祝賀会のシーンに移行させていったのです。だからこそ、そよちゃん は高校の制服を着ていたというわけなのです。

この 「1カット内時間差攻撃」 の効能としては、前カットの感情を持続させたまま時間が経過し、その間の


      成長変化、そして時間ろいを強調 

       
                                   できる手法であると考えます。


当初、今作におけるこの表現の効果を評価することができなかったボクですが、前述の、序盤における 「不器用な思春期の初恋」 を再評価した後に、この 「1カット内時間差攻撃」 の効果についても再発見することができたのです。

思い出の一杯詰まった教室を中学時代の そよちゃん が様々な思いを胸に出て行くわけですが、この1カットの終盤で映し出された窓際には、そんな


       中学校時代自分しみながら


外から見守っている、高校の制服に身を包んだ そよちゃん がいたことを今更ながらに思い出したのです。

この表現は そよちゃん の中学校時代という思春期の1つの過程が終わり、次なる高校時代という大人の階段を そよちゃん が1歩登ったことを象徴的に描いていると思えたのです。
そうなのです。この効用を初見の段階でボクはまたしても見逃してしまっていたというわけなのです。
    
        さらに反省!



今作は 廃校 や 過疎化 という問題を提起しておきながら、何の解決策も見せないままに、無責任に終わりを告げていきます。
しかし、このように今作を再評価することができたボクには、ドラマチックな解決策が提示されず、流れに身を任せたようなこの終わり方こそが今作の世界観にふさわしいと思えてきたのです。

なぜなら 廃校 や 過疎化 という問題は昨日、今日で突然発生したものではなく、元々、静かにこのコミュニティと共存していた。という客観的な事実に気付き始めたからなのです。

これにより前述の 

  “このコミュニティには 過疎化 という問題があったからこそ
  「行って帰ります」 の 特別な優しい空間が生まれたのではないだろうか?
  数少くなくなってしまった子供たちを村人達が心から大事に思っていたから
  こそ、このような緩やかな空間となっていったのではないだろうか? ” 

  という主観的な直感が真実味を帯びてきたのです。



そうなのです、ボクが心惹かれたこのコミュニティは、 廃校 や 過疎化 という

          【 終わりがある 儚 】
          【 終わりがある 愛おしさ 】
          【 終わりがある 美しさ  】 

               があったからこそ、生成され、醸成されていった世界だった。
                                   と独善的に断言させて頂きます。



  まとめますと今作は

      「行って帰ります」 を育んだ 分校 と、
      純粋無垢思春期前期の そよちゃん。 

               その両方が並存する最後の数年に立ち会うことができた
               幸福映画であり、


      そして、それらが損なわれてしまう予感の中に

               しさ  を感じ取れる映画 

                                      であったのです。



そして何よりもボクが強調しておきたいのは、今作が 廃校 や 過疎化 という問題を劇的に解決してしまうような、ご都合主義でドラマチックな終息方法を選ばなかった点にあります。

今作が選んだのは、静かで、力強い希望を持たせる 
   


          「人成長」 

                               を描いて終わることでした。



      自然の流れに抗わず、穏やかに平和な未来を祈る。

                     そんな姿勢を貫いて今作は終わりを告げていきました。

      これこそが 「行って帰ります」 の世界観にふさわしい終息方法であった。

                      

                      と主張して、今作のレビューを終えることにしましょう。



 

天然コケッコー2

 

 

天然コケッコー3

 

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