今作は
【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】。
この2つの、相反するテイストが共存する
味わい深い逸品となっていました。
しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。
この感情はラストにおける
「配慮不足」 という象徴的な事象に
集結 されているようでした。
残念に感じる場面はありましたが、
李監督の大きな成長を 実感し、
彼のさらなる飛躍を 予感
させる作品となっていたのです。
今作のオープニングは
陰鬱で退廃的
でした。
普通だとこのような作品は、鑑賞の意欲が削がれてしまうものですが、
今作は違っていました。
オープニングの、主人公の男が夜道を運転する映像から
「先行き不安なイメージ」が明確に伝わってきたのです。
その後、20代女性保険外交員の同僚同士の薄っぺらい人間関係や、
出会い系サイトの如何わしい人間関係が矢次早に提示されていきます。
もう一度言いますが、平凡な作品であったのなら、ただ嫌気がさしてしまうところでしょうが、
今作は違っていたのです。
キメ細やかな描き方に、ついつい引き込まれていったのです。
(演出に関しては、折に触れて説明をしていきます)
物語は進み、先の20代の保険外交員の女性が死体で発見されます。
その身元確認の経緯も丹念に描かれて、思わず引き込まれるものだったのです。
理髪師である父親が、散髪客と互いの娘についての話しをしている。
鑑賞者はこの理髪師の娘が亡くなってしまったことを知っているので、
お客とのノンビリとした会話を聞かされているだけで、ジレッタイ気持ちに
駆られていくのです。
そこに警察からの電話。受話器を上げる母親。
不安に怯える母親の表情が簾越しでよく認識できない、という演出も
目を離せない。
場面は死体安置所に移る。
娘の遺体を確認する父親、
表情一つ変えず、ただ、コクリと頷く。
ふと気付くと遺体に被せているシートから娘のつま先が出ている、
そのシートの乱れを思わず直してしまう父親。
非日常的な事象 に父親の 気持ちが混乱 している様が、
ありありと伝わってきたのです。
そして足早に安置所を立ち去り、廊下で待つ妻の元へと急ぐ。
二人のカットは逆光でシルエットになっている。
表情は影にして見せていないものの、気持ちの中は手に取るように
理解することができる。
その心の動揺はしばしの沈黙を破って
泣き崩れる妻のシルエットに結実
していたのです。
この一連の演出に心動かされていると、画面は突然、
「 バリバリバリ ! 」
と大きな音をたてて、
重機が廃屋を潰すショットが
映し出されたのです。
妻夫木聡が演じる主人公の男が解体工であることを説明するカットではあるのですが、
娘を殺されたこの夫婦の、
突然の
「幸福の崩壊」
を連想させる繋がりに
感心しっぱなしだったのです。
気分は重い。しかし、演出は素晴らしく今作は評判通りの傑作に違いない。
と、 開始20分にして確信をしたのです。
殺害された女性のお通夜の席においても、今作は深い映画体験を与えてくれたのです。
親戚の一言に激高した父親がその親戚に掴み掛かっての一悶着の場面。
ちょうど焼香に来ていた刑事を見つけた父親が勢いにまかせてその怒りをぶつけてしまうのです。
「大学生一人捕まえられんで、何が警察か!
こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!
スイマセン ( 頭を深々と下げる ) 」
この一連が、一気に映し出されていったのです。
このような場面では、他の凡庸な作品では
「こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!」
のセリフに一拍おき、
そんなことを言ってしまった自分自身に
驚く小芝居を入れて、
「スイマセン ( 頭を深々と下げる )」
となるところなのでしょうが、
今作はそのようなことはせずに、
ノンストップで当ててきたのです。
それだけ、脳内物質が出まくって、この父親が普通の状態でいられないことを
印象深く訴えていたのです。
それは、娘の死を知る直前の父親と散髪客とのノンビリとした日常を見せられてヤキモキしてしまったものとは、
悲しいほどの対比
を描いていたのです。
「うまくなったなー」
と思い切り上目線で唸ってしまいましいた。
李監督の前作 「フラガール」 を地下鉄内鑑賞をしていますが、
その映画の監督が、まさか、こんな隙のない演出をする監督になるとは、思いもよらなっかたのです。
鑑賞途中ではありますが、李監督は今作で
飛躍的な成長を遂げるに違いない
と確信をしたのです。
そんな幸福感に包まれながら、物語は、やっと今作の主人公 祐一 と、光代
の出会いとなりました。
今作の薄幸のヒロイン 深津絵里 演じる 光代 は、慎ましやかな、誠実な
女性として描かれており、佐賀弁がその優しさを醸し出していました。
一方の 妻夫木 聡 演じる 祐一は、初登場から無口で得体が知れない一種
の不気味さを漂わせていたのです。
主人公の 祐一 は初対面の 光代 に対して、ぶっきらぼうに男女の関係を求めていきます。
ウブな 光代 はその流れに飲み込まれるようにして、祐一 との関係を受け入れていきます。
「不気味さ」を纏った祐一と、
寛容で誠実な光代
の対比ができたところで、
この二人の関係性はどの方向に動き出すのかを、注目していきたいと思ったのです。
と、ここまではテーマは重いながらも快調な鑑賞となっていたのですが、 その後の処理に対して、疑問に思えたシークエンスが出てきてしまったのです。
20代女性保険外交員が殺害される直前まで会っていた 岡田将生 演じる チャライ大学生との場面。
彼女がチャライ大学生の機嫌を損ねて、夜の峠道で車から蹴落とされる場面が出てくるのですが、その表現に
違和感を感じてしまったのです。
チャライ大学生はろくでもない人間だとは理解していましたが、
それでも暴力的な人間だとは表現されておらず、
それが突然の豹変によって、攻撃的な態度を取り出したのです。
その展開は今作の世界観を表すための
必然性
ではなく、
まるで、これから展開する物語を進行させる為の
必要性
による豹変に感じられ、
どうしも、
制作者サイドのご都合主義的行為、
として捉えられてしまったのです。 こうして、今まで手放しで評価していたボクの気持ちに、一抹の不安が生じていったのです。
不安を孕みながらも、物語は今作の主人公 祐一 と、光代 の再会のシーンとなります。 祐一 が初対面での対応を詫びに来たようなのです。
ボクはこれ以降、祐一 の描き方に激変が生じてきたことに反応し、大いに興味を持ったのです。 それまでは、
「不気味な性格異常者」
のような表現をしていたところ、
「不器用で純粋な男」
として、語り始めようと
路線変更をしてきたのです。
このような 「キャラクター変更」 を含みながら、二人はこのまま逃走劇を演じていくのですが、
祐一 が 光代 に対して自分の犯した罪を告白するシーンは大変、素晴らしいものになっていました。
港の展望が開けている食堂の2階のお座敷において、
1カット目は
初めてのズル休みに、ちょっとウキウキしている光代の様子を捉えながら、
やがて、彼女は目の前にいる祐一の変化に気付く。
この時、画面には光代しか捉えていなく、祐一は画面に入っていない。
2カット目
手前に祐一の後ろ姿、奥に光代を捉えたアングルで、ピントは祐一の後ろ姿に合っていて、光代はピンボケの状態。
1カット目の終わりで、祐一の変化に気付いてっs心配する光代の表情を捉えていたので、 光代の表情がピンボケでも彼女の状態は推測することができます。
そして、ピントが合っている祐一は後ろ姿なので、その表情を伺い知ることはできないのです。
しかし、俯き加減で小刻みに震えている様子から、彼の尋常ではな様がわかるのです。
「俺、 人 殺してしもうた 」
と光代に告白した直後、カメラのピントは 祐一 の後姿から、
光代 の驚いた表情を瞬時に捉えたのです。
3カット目
カメラ位置は今度は 光代 の後ろに位置を変えて、光代の後ろ姿を手前に、奥に祐一の顔を配しています。
祐一の表情が観察できると思いきや、画面は半分ほどがピンボケした光代の後頭部で占められているのです。
その残されたスペースで 祐一の顔半分が伺い見れるという極端なフレーミングのカットとなっています。
殺してしまった女性との関係を話し出す祐一
4カット目
今度はそれを受ける光代の、これも極端なフレーミング。
3カット目を受けるもので、ショットのコンセプトは全く同じものでした。
祐一の後頭部で隠されて光代の顔を半分しか伺い見ることができない。
告白を聞いて呆然としている光代。
5カット目
3カット目と同じアングル。切り替えしで顔半分の祐一のカット。
このようなクセの強いアングルを
連続3カット続ける勇気
に感服しました。
「会いたいなら、金払え」
と、その女性から言われたと告白。
その女の性悪さが露呈した瞬間で、
「会いたいなら、金払え」 のセリフは
ちょっと前から監督が狙っていた祐一の
「キャラクター変更」 に対して
素晴らしい効果を上げていたのです。
それまでは、
「不気味なサイコ野郎」 の描き方をしていたところ、
光代に謝罪してきたあたりから、
「不器用で純粋な男」 としての側面を素求してきた
のですが、
ここで、
1つの行為が、
見る角度によって、
全く逆の印象を与えてた
ことに感心したのです。
光代との初対面の際、ぶっきらぼうに男女の関係を結んだ後に、光代にお金を渡した行為によって
「不気味なサイコ野郎」
としての印象を強めていたのですが、
その性悪女に強要されたことを光代にも行っただけ。ということがわかると、
突然に
「不器用で純粋な男」
としての側面が急浮上してきたのです。
「会いたいなら、金払え」 に対応した
一つの行為が、
「不気味なサイコ野郎」 を訴求する表現にもなり、
「不器用で純粋な男」 に早変わりもさせる。
そんな興味深い光景を目の当たりにして
大きな映画的興奮を味わったのです。
そんな幸福に浸っていた矢先に、 【 老練な演出手腕 】 とボクが称賛することになる 「広角ショット」 に遭遇するのです。
「殺人の告白」 の最中にお店の人が配膳に来るのですが、
後頭部と顔半分で構成された閉塞的な空間の直後に配置された
「広角ショット」の意義
に感心をしてしまったのです。
配膳が終わり、再び二人きりになった彼らを捉えたのが、お店の奥から静かに向き合って座っている二人を写した 「広角ショット」 だったのです。
息が詰まるような密度の、圧縮された時空間の後に、
客観的な広い視野
を持ってきたその対比とタイミングに、
また感心してしまったのです。
この 「広角ショット」 は、二人の背景に港町の日常的な町並みを配し、手前には誰も居ない座敷の広い空間が横たわっています。
この映像を見るだけで、
日常の世界から取り残された
「二人のだけの孤独」
を感じることができたのです。
それが、あの畳み掛けるような緊迫感の切り替えしの後に配置されたのですから、その効果は増幅していたのです。
まさしく、
緊迫した時間を創出した
【 フレッシュな演出手法 】 と
オーソドックスな広角表現を活用した
【 老練な演出手腕 】 が
コラージュした、珠玉の瞬間だったのです。
この 「広角ショット」 の素晴らしさについて考察していたら、同様に心に引っ掛かっていた2つの 「広角ショット」 のことを、まざまざと思い出したのです。
1つ目は、祐一と光代の再会のシーン。
祐一が初対面の際の非礼を詫びる為に、光代の勤務先に赴いた時のこと。
彼女の勤務先である巨大なロードサイド紳士服店で再会する二人を
「広角ショット」で捉えており、
膨大な数の紳士服の中に埋もれている彼らを見ていると、
陳列されている紳士服が
フェイクの人間に見えてきて、
そんな膨大な人波の中で
疎外感を抱えた男女が
巡り逢えた「寓話性」
を無意識に感じていたことに
気付いたのです。
そして記憶の中に留めていたもう1つの 「広角ショット」 は、この逃避行の始まりに仕掛けられていました。
場所は光代の部屋、そこにスポーツカーのエンジン音が近づいてくる 。
この段階で鑑賞者は、祐一がやって来たことを推測するのです。
さっとカーテンを開けると、光代の部屋の狭い世界観から、
彼女の肩越しに、駐車スペースという広い空間が2Fの窓から見下ろせる。
すると、闇の向こうからヘッドライトを輝かせた車が来て、
ピタッと部屋の前で止まる。
その様子を見て、慌てて階下に急ぐ光代。
光代がいなくなったことで画面には、闇に浮かぶ自動車のみが残っている。
不穏感、孤独感、
そして、その負の存在感。
この一連の演出も心に残っていたものでしたが、ここで語りたいのは、その後の 「広角効果」 についてなのです。
ここに至るまでの映像が、祐一の車の中と光代の部屋の中という、両方ともに撮影距離 (カメラと被写体との距離) が近いショットが続いたものですから、
被写体との距離が離れたことによって、
心理的な広角効果
が発揮されていたのです。
暗闇の中に1台だけ、寂しげに佇む自動車を捉えた 「広角ショット」 が、警察にマークされて先行き不安な状態でいる祐一の
心情を、明確に表していたのです。
そして、今まで普通の生活を営んできた光代の人生も、この車に乗り込んだ瞬間に、
祐一と同じ不安に、苛まされる予感
を覚えさせていたのです。
この予感は、頼りなげでありながら、どこか不穏な思いにさせる祐一のクルマを捉えた 「広角ショット」 と、前述の、光代の部屋のカーテンを開けると、その平々凡々な生活に土足で乱入するかのようにクルマがやって来る印象的なショットとの併せ技だったのです。
ついでに言うと、荒々しいエンジン音で祐一がやって来た 「負の気配」 を、予め仕掛けておいた勝利だったと思います。
「広角の効果」 について気付かせた
【 殺人の告白 食堂の2階 】 。
そして先の、
【 二人の再会 紳士服店 】 と、
この
【 逃避行の始まり アパート前の駐車場 】 のように、
効果的な 「広角ショット」 を配置
してきたとろに、
大いに感心してしまったのです。
そして、このようにオーソドックスな技法を駆使した
【 老練な演出手腕 】 に 唸っていた次の瞬間、
若手らしい
【 フレッシュな演出手法 】 の 斬新なシーン変わりに
遭遇したのです。
それは、
【 殺人の告白 食堂の2階 】 の シーンから
次の、死に至らしめる場面への移行カットが、
食事に出されたイカの活き造りの目のクローズアップ画面だったのです。
活き造りのイカがまるで
命を奪われた遺体のように横たわっており、
その見開かれた目が無機質にこちらを見ている。
その黒目の部分に、殺人の映像がオーバーラップで重なっていくのです。
驚きました。
「広角の効果」 というオーソドックスな
【 老練な演出手腕 】 を見せ付けられた次の瞬間に、
若手らしい
【 フレッシュな演出手法 】 を駆使した
斬新な映像までもを
突きつけられた訳ですから、
ただ、圧倒されるしかなかったのです。
このように
緩急使い分けた演出によって、グイグイと引っ張ってきた李監督であったのですが、 この後、続いていく殺害シーンに、
その片鱗を見ることは
残念ながら、できなかったのです。
そのシーンは、20代女性保険外交員を自動車から蹴り出したチャライ大学生の行為に違和感を持った続きの時制にあたります。
二人を尾行し、一部始終を見守り、チャライ大学生に車から蹴落とされていた彼女を助けようとする祐一 に対して、
意固地な態度を取る女。
そんなヤリトリの中で、腕を持つ手に思わず力が入ってしまう祐一。
それに対しての彼女のセリフから、自分の気持ちが冷めていってしまったので
す。 そのセリフが
「 人殺し! 」 。
この局面において発せられた言葉が
「人殺し」 ですって?
今作を鑑賞している者は、今までの展開から、この20代女性保険外交員が祐一 に殺害されたことを理解している。 だからと言って、何の工夫もなくただ単純に 「人殺し」 なんて言葉を言わせる局面を提示して、 恥ずかしくないのか?
と大いに疑問に思ってしまったのです。 そして次にこの女が言った言葉、
「警察に言ってやるけん。襲われたと。」
も、ストーリーを展開させる為の強引さが鼻につき、
たかが、祐一に強く腕を掴んだくらいで、
「襲われた、と虚偽の申し立てをしてやる。」 と発言をさせた
制作陣の手抜き
を感じてしまったのです。
好意を寄せていた チャライ大学生 にヒドイ仕打ちを受け、
(前述のように、この流れも不自然に感じています)
軽んじていた相手に、そんな無様な姿を晒してしまった訳ですから、 気が動転しながらも形勢逆転を図った稚拙な行いであった、ことは理解しているつもりです。
でも、「人殺し」 の言葉は不用意な選択として、
制作陣のセンスを疑う瞬間
だったのです。
【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】 の両面で 素晴らしい映像世界を見せてくれた今作ではありますが、場面は前回と同じ 夜の峠のシーンにおいて、賛同しかねる局面に遭遇してしまったのです。
そして、その後の展開も同意しかねることになります
苛立ちの矛先を祐一に決めた女は
「拉致られて、レイプされたと言ってやる。
(中略)
全部、あんたのせいやって言ってやる」
と、祐一から 逃げ出そうとしますが、後ろから
「嘘つくな、俺はなんもしとらんぞ!」
と、祐一は女のこんな妄言を止めるために、
女の口を押さえてもみ合いになっていったのです。
で、気付くと、女は死亡していた、
という流れなのです。
この 「発言阻止、殺意なき殺害」 パターンは、1964年公開の内田吐夢監督による 「飢餓海峡」 しか納得することができなかったが為に、人一倍、警戒心が大きかったのかもしれませんが、 この展開を目の当たりにして
諦めの境地に
陥ってしまったのです。
「飢餓海峡」 で示されていた三国連太郎 演じる主人公の、過去に抹殺したい犯罪歴を持つ名士と、過去の彼に恩義を感じる 左幸子 演じる娼婦との不幸な 再会によって生じた
偶発的な殺人
と、どうしても比較してしまうのです。
過去を消し去りたい男の願望と、過去にすがり付きたい女の情愛がブツカリ合った末の、胸を締め付ける殺害シーンと比較してしまうと、 どうしょうもなく
薄っぺらいモノに
感じてしまったのです。
せめて、祐一が 「嘘をつくな」 という言葉を繰り返していたところから、
彼の心の中にある 「嘘をつく」 という脅迫観念を明確にしていたのなら、もう少し感情を動かすこともできたのでしょうが、
(この訴求は、時遅くにして訴求をされてはいました。)
この時点ではその膨らみもなく、ただ、
映画のストーリーをなぞっているだけ
と感じられたのです。
残念に思いました。
しかしながら、同意しかねる峠でのシーンの後、トーンダウンしていたボクの気持ちを再び惹きつける場面に遭遇したのです。
逃走を観念した祐一が自首をしようとするシーン。
降りしきる雨の中、光代を助手席に残したまま、警察署に一人歩いていく祐
一。
振り返るとフロントガラス越しの光代が、雨で遮られて滲んでしまってい
る。
「これは二人の関係性が希薄になってしまうことへの表現」だ、と捉えてい
たら、
カメラはボクの意に反して車内で泣きじゃくる光代を鮮明に映し出してきた
のです。
ちょっと意外に思っていたら、 光代は意を決したように運転席側に体ごと
寄せてきたのです。
その瞬間、 切り替わった祐一の後姿にかぶさったのが、
光代が鳴らした、けたたましい クラクションの音だったのです。
その音に振り返る祐一。
沈黙の中、しばしの距離を隔てて見つめあう二人。
これだけで充分でした。
今までの受身の人生に決別するかのように
祐一の自首を翻させ、
二人の関係をより深くしていく。
光代のこの能動的な行為に
心が動いてしまったのです。
それは、一言の言葉や説明が介在する余地がない、
豊かな映画的境地
だったのです。
そしてこのシークエンスに続くものが、二人の心身ともに深い結び付きを確認する場面となるのですが、
ここでの表現も、初対面の際の受身的なものとは180度違って、 光代の能動的な気持ちが溢れていたのも印象的でした。
精神的にも、肉体的にも深い繋がりを確認した二人は、灯台に逃れて来ます。
この灯台で二人きりの日々を過ごすうちに、祐一のある告白が始まりました。
それは、母親に捨てられた子供時代のこと。
「すぐ戻ってくるから、ここで待っていて」
と言う母親を信じて、灯台を眺めながら待ち続けたが、
結局、母親は戻らず、自分が遺棄された痛みを知ることになったとのことなのです。
ここで初めて、20代女性保険外交員が殺害された際に繰り返えしていた
「嘘をつくな」 の発言の真意が結びついたのです。
しかし、全ては遅きに過ぎたのです。すでに生じてしまった
違和感をリカバリーするほどの、
鮮烈さを持っていなかったのです。
残念に思いました。
この残念な気持ちを引きずりながら、今作は終わりを告げていってしまったのです。
折々に素晴らしい演出をみせてくれた李監督でしたが、終盤は失速していったのです。
しかし、不満点が生じると挽回してくれるのが今作です。
終了間際、ボクの興味を惹く場面を用意していてくれたのです。
警察の包囲網が近づいたことを察知して、 光代は、祐一の自首を妨げ、逃避行へのキッカケを作ってしまったことを詫びます。 そんな彼女に 祐一 は真顔になり
「俺は、あんたが思うとるような男じゃなか」
と突然、光代の首を絞め始めたのです。
首を絞められて苦しむ光代にキスをして、そして力一杯、締め付けてきたのです。
一瞬、ボクの頭の中は混乱をきたし、
そして、そのまま画面に釘付けになったのです。
祐一のキャラクター表現が途中でニュアンスを変えてきたことに興味を持っていましたが、この最終局面において、彼のキャラクターが元に戻っていったことに、驚き、そして、興奮してしまったのです。
冷静になって彼のキャラクター付けの変遷を辿っていくと、
開始当初は、祐一を
「不気味なサイコ野郎」 として表現しておきながら
光代と知り合って、初対面の非礼を詫びるあたりから、
「不器用な純粋な男」 に進路変更。
ずっとそのキャラクターのまま進行していきましたが、
終盤のこの逮捕劇に至って、
実は祐一は最初の印象通り、
相手が苦しむ姿に快感を得る倒錯S の
「不気味なサイコ野郎」 だったことが
わかったのです。
やられた
裏をかかれてしまった!
と、意外な展開に瞠目し、予測を裏切られた快感をボクは得たのです。
(これをボクは 映画的M と呼ばせていただきます)
それゆえ、20代女性保険外交員の殺害シーンはワザと下手に作ったのか。
と、李監督の
予想を上回る急成長ぶりに
感心したのです。
あの殺害シーンは祐一からの光代への告白というカタチであったことを思い出しました。
過失の中で殺めてしまったという 「嘘」 であったからこそ、
ぎこちないシーンに仕立てたんだなと、 大いに納得した瞬間だったのです。
そんなことを感じていたら、そんなボクの納得を翻弄するようなカットが、 すぐさま提示されてきたのです。
( 忙しい! )
警官隊の突入で、祐一が光代の首を絞める行為は阻止されるのですが、
光代が保護され、裕一が身柄を確保され、二人が引き離される瞬間の祐一の行為に、
ボクは目を見張ったのです。
彼は、引き離されていく
光代の手を握ろうとするのです!
このカットで、ボクの頭は またまた混乱 していったのです。
何故なら、先ほどの 「首絞め」 によって、 祐一は実は
「不気味なサイコ野郎」 だった。
という展開で納得がいきそうになった気持ちを、
すぐさま否定 してきたからなのです。
それは、引き離される際に
「首を絞める」 という 危害を加えるのではなく、
「手を握る」 という 慈しみ とも いたわり とも感じ取れる
行為を祐一が取ったことによって、
先ほどの「首絞め」 が
「嘘」 であることを
理解したからなのです。
そして、「不気味なサイコ野郎」 を演じることで、
光代の自分への気持ちを
断ち切ろうとしたことを
理解したからなのです。
しかし、愛おしいという気持ちは隠しきれずに、
ダメージを与えてしまった
光代の「手を握る」
という行為に至ったものだ。
と、理解をしたのです。
またまた、 彼のキャラクター付けの変遷をまとめますと
当初は
「不気味なサイコ野郎」 の表現をされ、
殺人の告白から
「不器用な純粋な男」 への急転回の後、継続。
光代の気持ちを断ち切るために
「不気味なサイコ野郎」 を演じ、
でも想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に
「不器用な純粋な男」 を露呈してしまう。
このように、「不気味なサイコ野郎」 と 「不器用な純粋な男」
を戦略的に行き来していったのです。 そしてこのことに大いに興味をかき立てられたのです。
興味深いシーンに出会うと、その後、同意しかねる場面に遭遇 してしまうのも、今作の特徴のようです。
光代の気持ちを断ち切るために
「不気味なサイコ野郎」 を演じ、
でも、想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に
「不器用な純粋な男」 を露呈してしまう。
この変わり身の早い 「キャラクター変換」 については、当初は評価を与えていたのですが、 今作を鑑賞し終えて、冷静になった時に思ったことは、
あのラストシーン を用意していたのなら、
この キャラクター変換のネタバラシを
絶対に
温存するべきであった!
という強い思いだったのです。
あのラストシーン とは、
祐一の逮捕劇の数日後、 殺害現場にやって来た光代。
「 世間で言われよる通りなんですよね。あの人は 『悪人』
なんですよね。 人を殺したとですもんね。 」
と呟やいた後、彼女の意識は邂逅の奥底に沈んで行くのです。
そして彼女の心の中、奥深くに息づいている光景が
今作のラストシーンとなっていったのです。
場所は二人が過ごした灯台。
夕日が海に沈む光景に、心を揺さぶられた日の思い出が
去来してきたのです。
その一瞬の、「儚い美しさ」 に涙する二人。
今作は、この 夕日 に感情を揺さぶられて、ただ涙するしかない裕一のアップ画面によって終わりを告げていったのです。
このラストシークエンスによって、
裕一は 「不気味なサイコ野郎」 ではなく、
光代の自分への気持ちを断ち切るために、「嘘」 をついた
「不器用な純粋な男」 として
鑑賞者は (少なくともボクは) 認識していくのです。
ラストにこのような、祐一 の
「人間性復権を象徴するカット」
を配してくるのであれば、
「キャラクター変換のネタバラシ」 を温存して、
「光代の首絞め」 からこのラストカットに至るまでの時間を、
祐一 は 「不気味なサイコ野郎」
であると騙し通しておくべきだったと
主張したいのです。
そうすれば、ラストカットの祐一の涙が、より複雑に、そして、より深く、心に響きわたってくるはずなのに。 と
残念な気持ちになったのです。
そして、
祐一は 生来からの 「悪人」 で、
「不気味なサイコ野郎」 だったのか?
それとも 偶発的な殺人を犯してしまった
「不器用な純粋な男」 だったのか?
という、精神的迷宮に
観客を誘うこともできたのに.........。
と、「配慮不足」 とも思える措置に返す返す、残念な気持ちを持ってしまったのです。
しかも、ラストシーンに、夕日に見入る二人の後姿の
「広角ショット」 を持ってきたのであれば、
なおさらのこと
だったのです。
その「広角ショット」は、
今作にある “映画のルール” 通り、
世間から解き放たれた 「二人だけの世界」
を写してきたのですが、
語ってきた感情は、それまでの
世間から隔絶された 「孤独」 なんかではなく、
二人の心を結ぶ強い 「繋がり」 だったのです。
ラストに、二人の心の 「純粋」 さと、「深い繋がり」 を直感的に納得させるシーンを用意しておいたのだから、
祐一は 生来からの 「悪人」 で、
「不気味なサイコ野郎」 だったのか?
それとも 偶発的な殺人を犯してしまった
「不器用な純粋な男」 だったのか?
という、精神的迷宮 の解答を
映像だけで表現することができたのに..........。
素晴らしい作品であっただけに
大いに 残念に思ってしまったのです。
今作は
【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】。
この2つの、相反するテイストが共存する
味わい深い逸品となっていました。
しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。
この感情はラストにおける
「配慮不足」 という象徴的な事象に
集結 されているようでした。
残念に感じる場面はありましたが、
李監督の大きな成長を 実感し、
彼のさらなる飛躍を 予感
させる作品となっていたのです。

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