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通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
完成! 「ハート・ロッカー」
2011-02-27 Sun 21:41
               ハート・ロッカー





今作は、冒頭に掲げた言葉、  戦争
麻薬である  を 
 


  セミマクロ  “ヴィジュアル・インパクト”  
   おぞましい      “ストーリー・インパクト”   駆使
して



                                  多重的に訴えてきました。



そして、苛立ちを覚えた


    「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」  ことや
      ヌルイ と感じてしまった展開         こそが




【 ( 「戦争
麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体

                        
モラルしていく 劇薬 】
 

                                         であったことを、 



                深く、 にぶく、 訴えてきたのです。




このように、戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという側面においては、



        比類
のない映像作品だった
 

                             と、評価を致します。







映画史における 戦争モノ をステロタイプに言ってしまうと


■ 第二次世界大戦は、


       “華やかな勝利”  に沸き立って


「史上最大の作戦」 「ナバロンの要塞」 「バルジ大作戦」 などの、戦争スペクタクル というジャンルを創出。 愛国心を煽って、高揚感をもたらしました。

  ( しかし、 1953年 の段階で  第2次世界大戦の戦勝国でありながら、
    軍隊内のモラル崩壊を訴求してきた 「地上より永遠に」 という先駆的な
   作品があったことを追記しておきます。 )




■ ベトナム戦争


       “泥沼撤退”  の汚辱けて


「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 「プラトーン」 等のビッグネームによって
阿鼻叫喚の中での “精神崩壊” が盛んに訴求されました。




■ この流れを汲んで今作が捉えた、イラク戦争映画というものは



     戦争後の、自爆をも視野れたテロ攻撃” 

                                     を受けての

        
          “自我の変質” や “性格の急変”
                                 
 という




              「 人格変容 」

                                     が訴求された。
                                     と受け取ったのです。



ここには、第2次世界大戦における輝かしき “勝利の興奮” の 華々しさ や、
ベトナム戦争における エキセントリックな   “精神崩壊”  という毒々しさもありません。  直接的な戦いが比較的短期間に終結。 しかし、その後の



      “自爆をも視野れたテロ攻撃”

                                    に晒された結果の、

         “自我の変質” や “性格の急変” 
                                    という 

地味な、


              「 人格変容 」

                                     に見舞われただけ
                                     だったのです。



しかし、今作において一番興味深く感じたのは、 この



             「 人格変容 」  は



“映画の中の人間” のみならず、それを見ている



           “映画人間” をも、



                           んでいったことだったのです。






今作はしょっぱなから、「地獄の黙示録」 における “ワルキューレのヘリコプター攻撃” のシーンが展開されていきました。


所謂、
     “ヴィジュアル的訴求点” として、

                             予告編で多用されるシーンなのですが、


今作はその “ヴィジュアル的訴求点” を

         開始早々
                               使い果たしてしまったのです。



通常であれば、このようなマーケティング的に重要なアイキャッチは、
練りに練って、中盤以降に登場させてくるものなのですが 、


 
開始早々に

         気前良放出してしまったところに、

                              まず、 ボクは興味を持ったのです。



 “ヴィジュアル的訴求点” を使い果たしてしまい、今後、この場面を越えるモノ を提供することができるのだろうか?  それとも、 この場面を越えるモノ を用意することが出来ずに、



        しいクライマックスえてしまうのか? 

  

                               そんなところを注目していきたい、
                               と思ったのです。




しかし、今作の “ヴィジュアル的訴求点” そのものは、大変素晴らしい出来となっていました。


町に仕掛けられた爆弾が爆発して生じる 強い衝撃 を



         
セミマクロ的視角において

                   スローモーションで表現してきたのです。



 【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、

   道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が、
                       振動によって空気中に拡散していった 】

                                               のです。


文章に書くと、本当にこれが “ヴィジュアル訴求点” なの? 
と思われるかもしれませんが、この一連のカットこそが、予告編に多用され、
そして、ボクに大きな映画的興奮をもたらしたシークエンスに違いなかったのです。


決定的瞬間をスローモーションで訴求する演出と言えば、往年の巨匠、サム・ペキンパー監督を思い出す方もいるでしょう。  彼の表現と比べながら、今作の特徴点を説明してみたいと思います。


往年の名監督、サム・ペキンパーによる作品は、暴力や破壊の瞬間をまっ正面からスローモーションで捉え、  今までの状態から 崩れて変容・変質していく様に、


      あるの ダイナミズム や しさ 

                                   を感じとれる作風でした。


一方の今作は、同様に ダイナミズム や 美しさ を感じとれるカットはありますが、
ペキンパー流スローモーション術とは、



       だいぶ、きをにしていたのです。




サム・ペキンパーの興味の対象は 力 を加えられたことによって変容していく、 



          “力作用点” 

                          である。

                          と理解しているのですが、



今作における キャサリン・ビグロー監督の目線はそれとは違っていたのです。
彼女の興味点は、
 


           “力攻撃目標” 

                           ではなく、 




近くに居たというだけで、その力を被り、変容・変質してしまう

 

            “傍観者への影響” 

                             だったのです。



( この時点で気軽に “傍観者への影響” という言葉を使ったのですが、
  後ほど、この言葉の本当の意味を知ることになるのです。 )
 



             “傍観者への影響”


それが  


  【 地面の砂利が  “力の影響”  によって10cmも飛び上がり、
    自動車の残骸の錆が  “力の影響”  によって空中に浮遊するさま 】


                                         であったのです。



そして、往年の巨匠との表現比較において、


       被写体との撮影距離 
       被写体
スケール感 


                    全く違うことも、特筆するべきことだと感じたのです。


今作は、

       セミマクロ的な


               
 視線限定した画角で、

                        

       人を殺傷してしまうほどの大きな 

                爆発威力
                              を語ってきたのです。



砂利の一粒、ましてや錆の粒子に目を向けると、極小なマクロ域において、とてつもなく大きな威力を語ってくるところに、サム・ペキンパーの時代とは違う、



              現代表現
                              ここにある。
                              と感じたのです。



きっと 肉食系サム・ペキンパー監督がこの場面の演出をするとしたのなら、爆発の威力で飛ばされる軍曹をアングルを違えて、何度もスローモーションで映し出してきたことでしょう。




早々と “ヴィジュアル的訴求点” を披露した今作に やっと主人公である ジェームズ軍曹 が遅ればせながらも登場してきました。
彼が “ヴィジュアル的訴求点” の際に戦死していった軍曹に変わって、新たに “ブラボー中隊” の爆弾処理担当として赴任してきたのです。
“ブラボー中隊” は 他に 警護担当の サンボーン軍曹、若き技術兵の エルドリッチ の計3名で構成されています。

ストーリーはこのジェームズ軍曹の


      個性までのチームメンバーとの

                            軋轢 を語っていくことになります。 



しかしながら、ベトナム戦争時の組織内のモラル崩壊を 「プラトーン」 が既に強烈に語ってしまった後では、心に響いてくるものはありませんでした。



これから
         どのような 求心力
                            を今作は創出していくのだろうか ?




と観察していたら、ボクの興味を惹く時間の使い方が提示されたのです。
それは、砂漠地帯での遠距離狙撃戦でのこと。


        長い時間をかけて、

        固唾を飲んで相手の出方を待つ。

                            という時間の使い方があったのです。 


結局は全ての敵を倒していたので、相手の反応を伺うことは無駄であった、
というシークエンスなのです。

このような、ともすれば冗長と受け取られる表現は 第二次世界大戦における “戦争スペクタクル” においても、ベトナム戦争における “自己崩壊地獄絵図” においても、自分の経験の中では、観ることのなかった



        特異表現
                       であったので、
                       興味が惹かれていったのです。



そこで、この表現は本格的な戦争は比較的短時間で終結し、進駐後の 自爆をも厭わないゲリラ戦 が主流となっていった イラク戦争特有の


 
         本戦における “心理的未達成感”  や 

         ゲリラ戦の  “精神的消耗感” 

                   
                                     の表れだったのか?
                                     とも思ったのです。


そして、


     “ヴィジュアル的訴求点” を 主役が登場する前に 手放してしまい。
     結局は “無駄な時間” となるものを、時間をかけて表す。
 

                               そんな今作の演出バランスに、
                               大きな興味を持ったのです。


“ビジュアル的訴求点” を越えるモノを提案できずに、このまま終わりを告げてしまったのならば、

 “無駄な時間” を時間をかけて訴求せずに、


        映画として成立できるモノ時間を使うべき

                
                                   と非難されてしまう。
                                   のでしょうが、


今作は アカデミー作品賞に輝くほどの作品なので、この後には何かが隠されているはず。 
と希望を持って、鑑賞を続けていったのです




そんな暢気なことを考えていたら、今作はとんでもなく過酷なストーリーを語ってきたのです。

“ヴィジュアル・インパクト” を超える 

        おぞましいストーリーが提示されてきたのです。




             それは  「人間爆弾」 ...........。





自爆テロのことではありません。人間の体内に爆弾システムを埋め込むのです。
腹部に大量の爆薬を埋め込まれ、人間の体全体が “爆弾システム” と化しているのです。

腹部に大量の爆薬を詰められているので “爆弾システム” となっている人間は、勿論、



              絶命しています。



血まみれの状態でゴロンと長机に放置されたその 「人間爆弾」  を見て、
凄まじいほどの悪意に、吐き気を催してしまうほどでした。
こんな悪魔的な現実が、イラクの地で本当にあったのでしょうか ?

そして、その 「人間爆弾」 が主人公の ジェームズ軍曹と、交流のあるイラクの少年だったことが判るにつれて 、



          その行為の

          本当のおぞましさを


                          認識していったのです。



見ず知らずの他人であるのなら、その死のいきさつについて思い悩むことはないでしょう。
でも、「人間爆弾」 にされたこの子供は元気にサッカーをしていたのです。
それがこんな姿となっていたのですから、



          サッカー と 「人間爆弾」 の間には、

          ろしくも邪悪暴力 が


                           潜んでいたことが伺いしれるのです。




「自爆」 には我が身を捧げて行う 強い意志を感じますが、
「人間爆弾」 には、人間爆弾となる対象者の



     尊厳みにじって テロ実行する

                           身勝手組織的な 




を感じて、ただただ、その凄まじい悪意に耐えかねて、体調を崩してしまったのです。


“ヴィジュアルインパクト” なんて暢気なことを言っている場合ではない事態が、今作のストーリー上で発生していたのです。

書く気が失せてきた。 もうやめよう。

そう考えて、しばらく放置していたのでした.......。










この凄まじくも、おぞましい有様を目撃した 主人公の ジェームズ軍曹 はただちにこの危険な


       「人間爆弾」 の無力化

                             に動きます。


爆弾をしかけ、その対象物を爆破させて、その脅威を無力化させてしまうのです。

しかし、彼は心変わりをして、爆発を中断するのです。
これは、 



       “爆弾システム” ではなく

       “遺体”  であると

                           認識した彼は、



断末魔で見開かれた、その子の目を閉じ、腹に縫い込まれた爆弾を摘出するのです.。


ボクはこの圧倒的な展開の前にただ亞然とするしかなかったのです.............。




しかし今作は、このように大きなアドバンテージを獲得しておきながら、この直後



       挽回できない、重大失態

                        を演じてしまったのです。



あろうことか、応援に来ていた 軍医 を、仕掛けられていた爆弾によって爆死させてしまったのです。



 “ストーリー・インパクト” を評価し始めたボクの中に、その瞬間に


           残念気持ちが

                        生じてきてしまいました。
 


制作陣にしてみれば “軍医の爆死” は “ストーリー・インパクト” の貴重な追加点を意図したもの。 と理解できますが、 


   前述の 「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描いていた」 

                                   ことの意義を
                                   疑っている者からすると、
 


   構造上アンバランス露呈してしまった。

                                    と感じたのです。
 


何故なら、軍医と 若き技術兵 エルドリッジ との人間関係を訴求をしてきたものの、表面をなぞった程度にしか表現できていなく、このような熟していない人間関係に、
 


   いきなり “爆死” を押し付けられても、

                         感情は、
くはずもなかったのです。

 

そうなると、先程、心を動かされたと思い込んでいたシークエンスにおいても、 主人公 ジェームズ軍曹 と 「人間爆弾」 にされた少年の関係も、2度会ったきりで、



       びつきを 訴求できていなかった。

                         ということまでも思い出されてきたのです。



“ストーリー・インパクト” を 


     ジェームズ軍曹 と 少年 の関係 の中で、 そして
     
軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との関係の中で

                                  訴求したかったのなら、


      もっと、その関係性を、

                                  語るべきだった。
                                  と思えたのです。



しかも、 「 “無駄な時間”  を 時間を掛けて描く」 ことをやめてでも、

                つの関係性を 時間けてるべきだった。
 




 
                  と主張をしたいのです。






終盤に向けての今作の流れは


              非常に ヌルイ ものでした。



序盤早々の “ヴィジュアル・インパクト”  を提示し、 
中盤の     “ストーリー・インパクト”   を訴求してきた今作ではありますが、


その間にある 
 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」 シーンのような、


            ユルイ時間 
迎えたのです。



主人公の ジェームズ軍曹 は 「人間爆弾」 にされたベッカムの家を探ろうとするが、成果を得ず、また、彼の深追いで 若き技術兵 エルドリッジ は 負傷して戦地から離れることになります。



     映像世界に没頭できそうだなと思うと、肩透かしを食らわせてくれます。




ベッカムの家を探しているうちに、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンスの意義を計りかねてしまったのです。

 
この期に及んでもまた

      「 “無駄な努力” を 時間を掛けて描く」 

                           ことを訴求したかったのでしょうか?


この有様に耐えかねて、ボクは再び

      「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことをやめて、


主人公の ジェームズ軍曹 と 「人間爆弾」 にされたベッカム との関係。
そして、爆殺された軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との関係。 

 

      
このつの係性を 時間けてるべきだったのに ! 



                             と叫びたい気持ちになったのです。



そして、ヌルイと思えたのは、


       技術兵 エルドリッジ の受難です。



 
         ここでは敢えて、悪魔的な妄想を告白することに致します。



主人公のジェームズ軍曹の職務を逸脱した深追いで、若き技術兵 エルドリッジ は、テロ組織に連れ去られてしまうのです。 


     この瞬間にボクの悪魔的妄想

                              抑止力を振り払って、
                              勝手に主張し始めていたのです。


【 今度はイラク人のベッカム少年ではなく、 
                      敵対するアメリカ兵である エルドリッジ が   
                                                               血祭りにされる番である ! 】
 

                                                と。




中盤に衝撃を与えてきた “ストーリー・インパクト” は 「人間爆弾」 という忌むべき方法でした。 それを超えるインパクトを仕掛けるとしたら、若き米兵である エルドリッジを



      “強制自爆  させるしか他ない 

                              と


      肥大化していったボクの欲求 


                               こんな夢を見てしまったのです。




しかし、この期待をまんまと裏切って、エルドリッジ は足の負傷だけで、イラクを離脱をしていくのですから


 
         い   すぎる!!  

              
                       と、むき出しの感情が叫んでいたのです。 
 







        気がつくとボクは、こんなにも熱くなっていたのです..........。










今、この作品を終わりまで鑑賞し終えました。 そして、改めて思いました。


        「甘 。    と、 



そして、鑑賞し終えて、 「甘い」 と思えてしまったボクを


        「怖 。    と



                思えてしまったのです。




今作は序盤にセミマクロ的スローモーションの “ヴィジュアル・インパクト” を提示し、 中盤には 「人間爆弾」  という “ストーリー・インパクト” を用意してきました。


そして終盤には、それらを超える、


      “若技術兵 エルドリッジ の強制自爆” 



が展開されるはず。 と、妄想が暴走したところ、今作が提示してきたのが、



       イラク男性強制自爆” 


                            だったのです。




    ボクの妄想は既に 悪魔的領域 までに到達していたというのに、 
 

今作は見ず知らずのイラク人を血祭りにしただけで、終盤のクライマックスを終えようとしているのです。 


主人公の ジェームズ軍曹 とは何の関係性も持たないイラク人が爆発したところで


        何感情まれるというのだろうか


と呆れてしまったのです。 そんな甘っちよろいことではなく、
若き技術兵 エルドリッジ を大爆発させることで、 アメリカ と イラク の


         しみの

                       を知らしめることができるでしょうし、



ジェームズ軍曹 の “自信” と ”誇り” 


          を めること

                       ができるはずなのに。


これこそが、中盤のイラク人少年 ベッカムの 「人間爆弾」 の衝撃を超えていきながら、今作を締めくくることができる唯一の方法だというのに  .........。




      歯がゆい!  

      甘い!

      ヌルイ!  

      悔しい!


                       なんてなことを真剣に思っていたのです。









            危ない、危ない。




      これが監督の術中なのでしょうか........?





今作の舞台がイラクの地を離れ、アメリカに移り冷静になった時に、
キャサリン・ビグロー が今作の巻頭に持ってきた言葉の意味を痛感しました。
 


       「戦争麻薬である



それを今作は訴えているのですが、
ボクは悟ったのです。
 


【 ( 「戦争麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、

                        
モラルしていく 劇薬
 
 


                                   だったのだ と................。




戦争という非日常の興奮状態の中で、自分の存在意義を見い出してしまった人間にとっては、

 日常というものは


         退屈な、人生


                       くらいにしか思えない。
                       そんな不幸を今作は訴求してきたのでしょう。



しかし、ボクが今作を鑑賞した中で、最も心を動かされてしまったことは、

そんな、非日常の毎日を見せられてきた鑑賞者も、ジェームズ軍曹 と同じようにより強い刺激を求め、いつしか、



       自分モラルかにえた精神状態 に 


                                       追いやられていた、
                                       ということなのです。



イラク人を 爆発させるくらいなら、 若いアメリカ兵を木っ端微塵にしてしまえ



              なんて苛立ってしまうくらいですから。





    ボクはまんまと演出陣にしてやられてしまった。

 
                                  ようなのですね..........。




そして、冒頭に提示されてきたビジュアル・インパクト


【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、
 
  道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が
                    振動によって空気中に拡散していった。 】


                    の一連によってキャサリン・ビグロー監督の目線が、


     「力作用点」         だけではなく、

     「傍観への影響」     に及んでいたこと


                                  を鮮烈に思い出したのです。



「力
作用点」 が 「力の攻撃目標」 となっている


          “映画人物”   
                             
とするならば、
 

「傍観者への影響」 というものが 


         “鑑賞者であるボクへの影響” 
 
                                 に相当するのだな。 
                                 と思い、


そして、その環境の中において、ボクは知らず知らずの内に


        “自我の変質” や “性格の急変”

                                  という



           「 人格変容 」

                                  に見舞われたのだな。
 



             と、つくづく納得してしまったのです。 





“無駄な時間” を 時間を掛けて描く」  ことは必要だったのです。

ベッカムの家を探しているうちに、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンス は必要だったのです。    

若き技術兵 エルドリッジ が 足を負傷して戦地から離れる “甘さ” 
必要だったのです。



全ては鑑賞者という “傍観者” の心の奥底にある



         悪魔的側面
 
                      を すために
 


            必要な手段であったのです。





         完全に手玉に取られてしまったようです。







最後に 今作は 素晴らしい “予見” を用意していました。


主人公 ジェームズ軍曹 がイラクでの任期を終えてアメリカに戻って来た場面において、眩い光に満ち溢れたスーパーマーケットの情景が映し出されました。

シリアルを買おうと売り場にやって来たものの、膨大な量と、膨大な種類のシリアルの箱が所狭しと並べられているその様に圧倒され、選ぶことができないでいるのです。

今作の舞台は、荒涼とした砂漠や、ゴミゴミした市街地でした。
そんなイラクの地で、このアメリカのスーパーマーケットと同様に、



        合理的整然としていた場所

                               が一つだけあったことを
 
                               思い出しました。



それはジェームズ軍曹 の前任者が安置されていた



         死体安置所 


                         という場所だったのです。



この有機的連動によって、スーパーマーケットに代表される 清潔で無機質的な明るさに満ちたアメリカ文明の地が、ジェームズ にとっては



         死体安置所 


                         のごとき場所であることの
                         訴求がなされた。 と理解したのです。



この表現によって、次のシーンに移行せずとも、ジェームズ が再びイラクの地において “ジェームズ軍曹” としての



       を 「消耗」 していくことを、

                         予見 することができたのです。







後日、大学時代からの友人で、コピーライターをしている Herbieちゃん から、ボクの映画的興奮を満たしてくれる見解がインプットされましたので、了解を得て追記したいと思います。


   アメリカのスーパーマーケットのシークエンス。
   膨大な量のシリアルの表現において、


   「 今作は戦争の異常さを訴えていたけれど、 
                          このシリアルコーナーの表現によって、

        アメリカの日常 こそが

                         異常

                              であったことも訴えていたのだ。 」
  
   という意見だったのです。 それは、

   あの膨大な量は 需要を遥かに越えた異常な
 


                 “過剰備蓄” 

                  
                                  という見方だったのです。



資本主義下の大量消費社会においては、「商品ラインアップ」 と 「陳列ボリューム」 で、同業他社との戦いに勝つことを目的とした企業間戦争が、スーパーマーケットという戦場において展開されていたのです。
そこには、必要なモノを供給するというレベルを超えた、マーケティング手法を駆使した 「シェア争い」 の虚しさに満ちていたのです。



           その結果の 異常な “過剰陳列”  


                                       だったのです。


今までイラクの地の 未整備で不十分な環境を見てきた者にとっては、
このアメリカのスーパーマーケットの有様は、



           常軌を逸した、資材一極集中


                                      と映ったことでしょう。





        需要にはえることができない イラクの地 

          需要かにえた アメリカのかさ



           この 不平等 を如実に語っていたのです。




  3,000円で141人分の麻疹ワクチンの支援ができるそうです。
  たった21.3円のワクチンを打つことができなくて、命を落とす子供がいる一方で
  消費し切れない量の資材を陳列しているスーパーマーケットがある。

シリアル1箱分の金額で何人分のワクチンが賄えるのかは知りませんが、
それでも、相当数の子供の命を救える 量 があのスーパーマーケットに陳列されている。 と推測することができます。

きっと、あの膨大な量のシリアルのいくつかは、消費期限を越えて、無駄に廃棄されていくのでしょう。
そして、その量に比例する数の子供達がワクチンを受けることなく、命を破棄されるがごとく、失われていくのかもしれません。 



             無駄 などないというのに.........。




この現在においても、アメリカは強大な軍事力を背景に、積極的に外に出て一方的に 「富」 を獲得していきます。

そんな、「富」 と 「命」 の不均衡・不平等がグローバルに展開されている

 「南北問題」 を、 

シリアルという、毎日の食材に託したキャサリン・ビグロー監督の女性の視線が特徴的であった。 というのです。
 



           ボクはくの同感をしたのです。









今作は、冒頭に掲げた言葉、  戦争麻薬である  を 
 


  セミマクロ  “ヴィジュアル・インパクト”  
   おぞましい     “ストーリー・インパクト”   駆使
して



                                  多重的に訴えてきました。



そして、苛立ちを覚えた


    「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」  ことや
      ヌルイ と感じてしまった展開         こそが




【 ( 「戦争
麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体

                       
モラルしていく 劇薬 】
 

                                         であったことを、 



               深く、 にぶく、 訴えてきたのです。




  この成果は、計算ずくなのか、偶然なのかは、はかりかねますが、
  戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという意味においては、



    比類
のない映像作品だった
 

                           と、評価を致します。 



そして、毎日の食材である シリアルの陳列コーナーを舞台に、 決して解消することがない


          「南北問題」 をも


                            鮮烈に語ってきたほど
 



        潜在能力としてはとてつもなく大きな力を持った作品だったのです。
    




    
                          
       ハートロッカー2 



       ハートロッカー3
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