2006-09-04 Mon 23:47
8月23日(水) Vol.1 ない。 テキサスの裏ぶれた町で、スポーツも恋愛も うだつの上がらない高校生と、どこか疲れちゃった感じの大人しか出てこない映画。古き良き時代のアメリカを語りながら、ブラウン管から流れていたそんな作られた日なたには目を背け、日陰の部分に敢えてフォーカスした映画。 と思いつつ観ていたら、うだつのあがらない高校生と、この高校生の体育コーチの奥さん。いわゆる、どこか疲れちゃった大人が不倫を始めまてしまいました。まーこれぞ、「日陰の恋」ってやつかな。 渋みのあるモノクロ画面が “滅びの美学” を今後、示していくであろうこの映画の雰囲気を如実に語ってくれています。また、バックミュージックも当時揺籃期であっただろうロックを排除して、カントリーミュージック! で構成。時代の先端ではない、後方に停滞しているもどかしさを表現していきます。明日以降、「ラスト・ショー」という題名やこの世界観から勝手に “滅びの美学” なんて断言してしまいましたが、このキーワードに接近するのか、遠ざかってしまうのか、こわごわ、傍観です
残念ながら 「滅びの美学」 を見つけられることはできませんでした。 しかしここには、度重なる「喪失感」 とあやふやで不確かな 「救い」 があったのでした。 古き良き時代を背景に、高校卒業によって、仲間が離れ離れとなる物語、といえば、「アメリカン・グラフィティ」 を思い出しますが、この「アメ・グラ」 が60年代のアメリカンPOPに乗って、軽快に18歳の希望溢れる青春が語られるのに対し、この映画は、カントリーミュージックにまとわりつかれながら、閉塞的で変わりばえの無い人間関係を引きずりつつ、決して軽快ではないエピソードが綴られていく物語なのです。 “アメリカン・ニューシネマ”。 “アメリカン・ニューシネマ” とは1967年の 「俺たちに明日はない」 を皮切りにそれまでの煌びやかで、楽天的なハッピーエンドのハリウッド的世界感に対抗して、若手映画作家達が “孤独” “挫折” “性” “死” という、今までは積極的に語られなかった題材を活用して1970年代初頭までに制作された作品群を指し、「イージーライダー」 や 「スケアクロウ」 「真夜中のカーボーイ」 などが代表例としてあげられるアメリカ映画史上の重要なムーブメントなのです。 「第7期ハリウッド世代」 と呼ばれており、一方の「アメ・グラ」 は再びハリウッド本来のエンタテインメント性を蘇らせた 「第8期ハリウッド世代」 のジョージ・ルーカスの手によるものだったのです。 たかが2年という差ではありますが、そこには、時代を仕切る隔壁が大きく存在していたわけです。 9月2日(土) Vol.3 最終回の2/2 「ラスト・ショー」 の最終回の文章を書きましたが、長い構成となってしまったので2回に分けてアップすることになりました。今回はその残りです。ホントの最終回。 “アメリカン・ニューシネマ” の流れであることで、「アメ・グラ」 と世界観を大きく違える今作ではありますが、実はその “アメリカン・ニューシネマ” の世界観からも、遠く距離を置く映画ではないかと感じました。 理由は2つ。 まずは1つ目。今作には「俺達に明日はない」や 「イージーライダー」 といった “アメリカン・ニューシネマ” の代表作をダイナミックに推進する “無軌道な衝動” と、その終着点である “刹那的な死” という重要な要素が全く存在しないことに、強い興味を持ちました。これにより今作には、華々しくも痛々しい “映画的な死” をもって物語を終結させ、主人公達の人生をペシミズムな感傷で語る “アメリカン・ニューシネマ” の流儀が無視され、あくまでも冷静に (否、 冷徹に) 彼らの人生を客観的に観察する目が、あったのです。 もう1つは、 “アメリカン・ニューシネマ” の主人公達のほとんどがアンチヒーロー的なキャラクター設定で、様々な土地を転々と “流れて” 行く、ロードムービー的な展開があったのに対して、今作はテキサスの片田舎に “縛られた” 青春像を描いているが為に、舞台をただひたすら小さなコミュニティに集約されていく閉塞感があるのです。発展性と閉塞感。この世界観の違いにも興味を覚えたのです。
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2007-01-05 Fri 01:12 | | #[ 内容変更]
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