自らが強固なものとならしめた 「松竹大船調 」の殻を破る
小津らしからぬ点が満載の
今作でありました。
しかし、その根底には小津監督の職人芸が
随所に、そして細部にまで
行き届いた逸品となっていました。
特に、名シーン【豪雨の中の罵り合い】は小津らしからぬシークエンスでありながら
その実、
小津美学に裏打ちされた
ものであることを強く認識しました。
一部、ハメを外しすぎたと感じるところはありましたが、
「大映」という違う環境の中で、冒険をし、その中で自らの経験を結実させた、
絶妙のバランスを描いた傑作 と
評価します。
作風が確立した後期 ・小津作品の中において、
今作は
「異彩を放つ作品」 であった
ことを強烈に覚えています。
今回、久しぶりに鑑賞するこの機会に、その要因を探ってみたいと思います。
と思った矢先、今作はしょっぱなから慣れ親しんだ小津作品と様相を変えてきたのです。
いつもの麻地のタイトルバックに、神々しく登場したのが 「大映」 の2文字。
普段なら「松竹」なのに........。
品行方正な 「松竹」 と、
エキセントリックな 「大映」 。
そんな制作当時、昭和30年代における
映画会社のイメージの違いが、
そのまま映画全体をカバーしている。
と、初めての鑑賞後に感じた印象を
思い出しました。
そして、今作はファーストカットから強烈な違いを訴求してきたのです。
小さな灯台と一升瓶の対比が鮮烈な画面となっていました。
小津作品には珍しく自己主張が強い映像。
それもそのはず、今作の撮影は、日本を代表する名カメラマン、
「大映」 の宮川一夫氏によるものなのです。
白い小さな灯台にこだわりつつ数カットの後、
「なるほどね。」
と思えたカットに遭遇しました。
白い灯台が左後方にあり、手前右手に赤い郵便受けを配置している。
そうなのです。今作の映像的特徴として
赤色が印象深い映画
であったことをこの映像を見て
まざまざと思い出したのです。
そして、続く船着き場の待合室での男達の会話も、いつもの小津作品とは
趣きが違うものでした。
今回の主な舞台となる芝居小屋「相生座」で上演していたストリップの話題になるあたりに、
松竹の「品行方正」な登場人物からは、
聞くことのない発言が
伺えたのです。
こんないつもとは違うオープニングの後に今作の主人公、旅役者の一行が
船でやって来るのです。そして物語は一座の座長を追って行くことになります。
この地に 「隠し妻」 と隠し子がいる。という設定になっており、
息子は二十歳くらいで12年ぶりの再会。叔父と偽り続けての関係でした。
一方、座長には京まち子演じる旅役者である 「内縁の妻」 も一座内に
いる設定となっているのです。
座長を巡る二人の 「妻」 が登場してからの物語は、「内縁の妻」 の心情を
中心に進んでいきます。
「地元妻」 と隠し子のもとに通う座長に対しての怒りが限界点に達した時に、
「内縁の妻」 の感情そのままに土砂降りの雨が降りだすのです。
その時、ハッと気付いたのです。
あの名シーンに繋がっていくのだな。 と
土砂降りの日、「内縁の妻」は、「現地妻」の元に押し掛けて来ます。
そしてこの時、彼女が差して来た傘が
赤色 だったのです。
この瞬間、随所に印象的な赤色を配してきた今作の意図を知ったのです。
映画の折々に印象的な赤色を配置してきたものですから、いつしか、
赤色に反応するように
刷り込められていた のでしょう。
ボクは、土砂降りの雨に咲いた赤い傘に視線を持っていかれたのです。
しかも、舞台設定が素晴らしく、古い日本家屋の暗い柱の色が傘の赤色を
引き立てていたのです。
こんなにも強くボクの気持ちを引っぱったカットなのですが、驚くことに、
ほんの2秒ほどのことだったのです。
内縁の妻が玄関先にフレームインをして傘を閉じるまでが約2秒。
たったの2秒のことなのに、目に飛び込んできて強い印象を与えたのです。
この作用について考察したところ、2つの要因があると感じました。
まず1つ目は、
前述のように、随所に印象的な赤色を配置してきたことによって、知らず知らずの内に
赤色に反応するように
仕向けられていた為。
と考えられます。
そして、もう1つは、
ボクが既に今作を鑑賞していた
ことが原因だと思うのです。
このシークエンスの後に、あの名シーンがやって来ることを事前に知っていたことが、
傘の赤色に反応した理由だと思うのです。
その名シーンでは、赤い傘は地面に置かれていて、激しく降る雨をそれぞれ、
軒の下でしのぎながらの攻防でした。
豪雨の中の罵り合い。
このシーンこそが晩年の小津映画の中で特に異彩を放つ名シーンなのです。
そのシーンの中で唯一、色彩を与えられたのが、
傘の赤色だったのです
降りしきる豪雨の中、激高しながらお互いを罵り合う男女を見て、
ただただ、驚いたことを覚えています。
そして、地面に置かれた赤い傘が、
やけに心の中に染みてきたことも
事実でした。
小市民の生活を穏やかな目線で描いてきた小津作品とかけ離れたこのシーンは、
晩年の小津映画からは全く逸脱した、異端とも言えるシーンなのです。
でも、そんなことを度外視してもこのシーンは、純粋に迫力のある
絶対的なパワーを持った珠玉のシーン
なのです。
そんな強力な罵り合いを見せつけられ、圧倒されていた初見の時、
唯一の色彩であった傘の赤色が、
自分が自覚しているよりも深く
ボクの気持ちに突き刺さっていたのです。
傘をたたむ、たった2秒のことなのに、事前の赤色攻撃によって無意識のうちに反応させられ、
「既鑑賞」という条件下では、その後の徹底した赤色攻撃の記憶に翻弄されてしまった結果
だったと結論づけます。
映画はいよいよ、【豪雨の中の罵り合い】 に突入していきます。
3mほどの道を間にはさんで男女が向き合っている。 道の両端には民家が連なり、
それぞれ二人は軒の下で睨みあっている。
このように非現実的としか思えない二人の配置が、このシーンを珠玉のものへと
高めたのだと思いました。
改めて考えると、あの現場まで二人一緒にやって来て、結果的に、左右別々の軒に
キレイに分かれて罵りあっていることが不思議に思いました。
不思議というか、不自然。
しかし、一般常識では二人の行動は不自然に映るのでしょうが、映画世界の中では
(特に小津作品においては) あの位置関係は必然であったと思えるのです。
そこが、 とっても興味深い。
土砂降りの中、左右の軒に分かれて睨み合う二人、地面に広げられた女の傘だけが
色彩を放ち、それ以外は無彩の世界。
気持ちをザワつかせる凄まじい雨の音が身体をも震わせている。
民家の斜め後ろから二人の全景を捉えている。
座長はカメラ手前に陣取り、その後ろ姿は
怒りの存在感を発揮している。
内縁の妻は豪雨をはさんでカメラを正面に見据える位置で、こちらも
苛立ちの表情をあらわにしている。
実はこのシーンは、この引きのカメラ位置と、あと2つのカメラバリエーションの、
たったの3つのカメラ位置で成立しているのです。
それは今回、再鑑賞した際に大いに驚かされたことだったのです。
【 3カメラバリエーションの奇蹟 】
とでも言えばいいのでしょうか、
でも、このシークエンスを、たったの3カメラバリエーションで語り切れたのは、
小津作品であったからこそ。とも思うのです。
そもそも、カメラアングルのバリエーション自体が自制的な小津作品において、
前述の民家奥から二人の全景を捉えたカットと、
それぞれ二人のアップを真正面に捉えた2カットがあれば
充分だったのかもしれません。
人物の位置関係や周辺の環境を俯瞰できる 「状況説明カット」 と、
心の有り様 を捉える 「人間観察カット」 の
丹念な積み重ね
が小津映画の大きな魅力
だと感じているボクには
この3バリエーションは、最低不可欠な要素であり、この名シーンがその
最少要素だけで構成
されていた事実
を確認することができただけでも、再鑑賞の意義があったと強く実感したのです。
激しい雨と同じ位の激しい感情をぶつけ合う
小津らしくないシーン
のはずなのに、
カメラバリエーションは、
小津そのものであった。
そのことに、気付けたことに妙に感動してしまったのです。
豪雨の罵しり合いは格調高くも、激しいものでした。
座長と内縁の妻の間い大きな溝ができたのです。
物語は一転して若い二人を中心に進んで行きます。内縁の妻の策略で
一座の娘役である若尾文子 (若い!) を使って
座長の隠し子 川口浩 (若い!) を誘惑させようとするのです。
その現場が郵便局、彼のアルバイト先だったのです。
女性が男に誘いをかけるというシチュエーション自体がいつもの小津映画には
見当たらないものでした。
往年の小津映画における男女の関係性は、何らかの形で
「結婚」 という2文字が
ついて回っていました。
にもかかわらず、今作の若者はこんな有様なのです。
しかし、この感覚はその当時から今に至るまでのごく
ノーマルなものなのだ
と思うのです。
そんなことを感じていたら、
今作は小津が 「松竹」 で作り上げて、抜け出すことができなくなってしまった
「固苦しい世界観」 から
自らを解放させて、
自由に作った映画
なんだ。
と思えてきました。
物語は急遽、この二人の純愛モノに様相を変えてきました。
結婚が目的の恋愛ではなく、恋愛が目的の恋愛。
当たり前のことなのでしょうが、晩年の小津映画においては、語られることがなかった
世界なのです。
しかも何度もこの若い二人にチューをさせてみたりして、いつものところではできなかった
ことを、他所で嬉々としてやっている。そんな
お茶目な小津さんが
見えてきました。
しかしながら、物語の機運は急落していくのです。次の公演地とのパイプ役となる
「先乗り 」が失踪。一座は行くあてのない足止め状態となるのです。
それとともに、若い二人の間に座長が割って入ってきたのです。
実の息子に色仕掛けで関与した二人の女役者への仕打ちは、実に直情的でした。
叩く、突きとばす、蹴とばす。やりたい放題なのです。
ここまで暴力的なシーンを小津映画では見たことがなかったので、
初見の際に驚いたことを思い出しました。
つくづく今作は、小津作品の中でも異例づくしの映画であることを認識しました。
先の 豪雨の罵り合い も、今回の直接的暴力シーンも、
人を攻撃する。
という、小津作品においては、
あるまじき行為
をさせているのです。
しかも今回は直接的な暴力なのですから、
豪雨の中の罵しり合いを越えた、エグさに残念ながら
自分の気持ちが
萎えていくことを
自覚しました。
先の 【豪雨の罵り合い】 では二人の間には豪雨が割って入っていたのです。
それ故に、直接的な暴力には至らず言葉の応酬に抑えられた、
一種の安堵感がありました。その上、
小津的自制が利いたカット割りで
爆発してしまいそうな
怒りを抑える、
という美学を見つけることができました。
しかし、今回の直接的暴力には、抑制というものが全く見受けられず、
大きな違和感を感じてしまったのです。
それだけ、座長の怒りが大きかったことを示しているのでしょうが、ここに来て
いつもと違う小津
に不安を感じたのです。
今までは、松竹ではできなかったことを嬉々として行っている小津さんを
微笑みながら見守ってきましたが、
この直接的暴力は、その範囲を超えた所に行ってしまったと感じたのです。
製作会社の違い。という枠を遥かに越えた、
小津美学そのものを
逸脱してしまった。
そんな後ろめたい気分に襲われたのです。
物語はボクのこんな気分に同調するように転落の様子を見せてきました。
折々に大映らしい非常識的な側面を訴求してきた旅役者の一人が、
一座の財産を盗んで姿をくらませたのです。
この打撃を受けて一座は解散の憂き目にあってしまうのです。
そんな場面での、一座の面々の哀しみを、小津監督は伝説の名子役、
島津雅彦クンを使って絶妙に表現していたのです。
島津雅彦クンは小津安次郎監督の 「お早う」 や 「秋日和」、
「小早川家の秋」。そして黒澤明監督の 「天国と地獄」。その他に
「名もなく貧しく美しく」 「夕陽に赤い俺の顔」 という名監督や、
名作、意欲作にあいついで出演したのにもかかわらず、
たったの 数年で忽然と芸能界を去って行った
天才子役なのです。
解散せざるを得なくなって、衣装等の処分の値ぶみの場面において、
大人達の落胆とは対照的に呑気にスイカを食べて種を飛ばす
島津クンがいたのです。
子供には理解することなどできない窮状だったのです。
しかしその一方で、先行き不安で呆然自失となっている自分の祖父の
異常な有り様に、突然泣き出す島津クンの姿があったのです。
この2つの場面での名子役、島津クンの
態度の豹変に
感心してしまったのです。
盗難にあった重大事や、その影響を受けて一座が解散してしまう意味を解せず、
呑気にスイカの種を飛ばしていた島津クン。
その一方で、身近な者の変化には敏感に反応し、号泣する彼の姿を見て
感心してしまったのです。
子供に大局を見極めることなど不可能であることは誰でも理解できます。
ですから、値踏みのシーンにおいての呑気なスイカの種飛ばしは、
大人達の切迫度と
絶妙な陰影
をつくっていたのです。
そして、大局を理解することができないかわりに、
身近な存在の変化には
敏感に反応する子供を機能 させて、
一気に豹変しいていく
子供の落差を表す ことによって、
局面している窮状を
多重的に語ってきたのです。
この豊かな表現も、今回、大いに感心した要点だったのです。
「鑑賞する年齢によって発見がある作品は何て奥が深いのだろう」と、
実感した瞬間でした。
大学生の時はスルーしてしまったことが、一児の父となった
今、このような側面に気付くことがてきるようになったのです。
一座の解散を受けて、物語は終結に向かっていきます。
まずは、座長の息子と一座の娘役の若い二人は、駆け落ちを経て結ばれ、
父親の名乗りをあげた座長は結局は旅役者の道を選びます。
この町を出ていくと決意して向かった駅の待合。
偶然そこには、若い二人をけしかけたことで、小津美学を逸脱するほどの
苛烈さで縁を切られた内縁の妻の姿があったのです。
結局、二人はヨリを戻すのですが、その気持ちの移り変わりの描写が素晴らしい。
一人、待合室に座る座長。
少し離れた場所に内縁の妻がいて、お互いの存在に気づき出す。
微妙な空気が辺りを包んでいる。
間を変えるべく、座長はタバコをくわえるがマッチが見つからない。
その様を見た内縁の妻は荷物はそのままに座長の前に移動。
持ってきたマッチをすって座長のタバコに火をつけようとするのです。
そんな内縁の妻の行為を無視し続けてマッチを探す座長。
とうとうマッチが燃え尽きてしまいますが、2本目のマッチをすって、
再び座長のタバコに火を付けようとする内縁の妻。
座長は始めのうちはそのマッチを避けていましたが、
根気よく丁寧に火を付けようとする内縁の妻に負けて、
結局、その火を受け取ることになったのです。
次に内縁の妻が自分のタバコを取り出して口にくわえ、
座長の火のついたタバコを拝借。それで自分のタバコに火を付けたのです。
そして何事もなかったかのように座長の元の指に拝借したタバコを戻しました。
予測できた流れではあるのですが、
二人の関係性が修復される
表現を楽しんだのです。
二人分の切符を買っている内縁の妻に座長が声をかけます。
「あそこの荷物を忘れるなよ」 と、
これで元の日常に二人の関係性が戻ったことを知りました。
今作のラストは夜行列車の中、仲良く晩酌をしている二人の姿でした。
このまま二人の旅役者としての人生が続いて行くことを彷彿とさせるものでした。
そして、今作の正真正銘のラストカットが列車の赤いテールランプだというのが
実に心憎いと思いました。
今作を鑑賞して感じたことは、
いつもの小津作品とはだいぶ違っていたけれど、
まさしく小津作品そのものでもあった映画、
というものでした。
大映でちょっと冒険してみた
小津さんの嬉々とした表情が
伺え、
それでも
しっかりと小津節を効かせてきた
のです。
ガチガチに作風を固めてきた大船調とは違うバランスを持つ今作は
非常に魅力的でした。
晩年になってから他の映画会社で制作した、しかもカラッと大らかな東宝で撮った
「小早川家の秋」 も再鑑賞したくなってきたのでした。
と、穏やかなに締めるところでしょうが、
やはり、直接的暴力は、ハメを外し過ぎだ。
と小津作品に発言して終えることにします。
自らが強固なものとならしめた 「松竹大船調 」の殻を破る
小津らしからぬ点が満載の
今作でありました。
しかし、その根底には小津監督の職人芸が
随所に、そして細部にまで
行き届いた逸品となっていました。
特に、名シーン【豪雨の中の罵り合い】 は小津らしからぬシークエンスでありながら
その実、
小津美学に裏打ちされた
ものであることを強く認識しました。
一部、ハメを外しすぎたと感じるところはありましたが、
「大映」という違う環境の中で、冒険をし、その中で自らの経験を結実させた、
絶妙のバランスを描いた傑作 と
評価します。
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