2013-09-08 Sun 23:42
今作は 「サイレント映画」 から 「トーキー映画」 への移行期を舞台に 主人公の葛藤を創出 してきましたが、 その問題提起と解決法が 「あやふやな」 映画 となっていました。 しかし、 映画を貫く骨子が 「あやふや」 なんかではなく、 「サイレント」 と 「トーキー」 の映画手法 が、 場面の特性によって自在に変換するような 「サイレント」 と 「トーキー」 の映画手法の境界線こそが 「あやふや」 で ボーダーレス な映画 であって欲しかった。 と強く思いました。
であること。
従来の映画に慣れ切った身としては、この映像にそぐわしい音は、彼の大きな 「叫び声」 だと思い込んでいるのですが、このタイミングで聞こえてきたのは、「映画音楽」 だったのです。
今作が 「サイレント」 映画であることを しかし、鑑賞を続けていくうちに、そのセンスに乖離感を覚えていったのです。 それが評価の発端となった 「音楽」。 今作の主人公である「サイレント」 の花形俳優は 「反トーキー」 の立場をとっています。 そんな状況の中で素晴らしいシーンは展開されていくのです。
「サイレント」 映画
コップの 「効果音」 など存在しない世界なのです。 それなのに 「音」 が突然、鳴りだしたのです。 「サイレント」 の住人にとって 「効果音」 なんてものは知る由もないもの。 いや、「サイレント」 の世界で安穏とするためには 「トーキー」 の要素である 「効果音」 などは、排除すべきものなのです。 「トーキー」 に反する立場としては、当たり前の反応をした主人公なのですが、その直後、 あるまじき行為
いや、違った。以前から 「声」 は発していました。 ファーストカットに彼は 「叫び声」 を上げていたのですから。 ( もちろん、「サイレント」 の世界なので 「声」 は届かず、「映画音楽 」のみが聞こえていましたが....。 ) あるまじき行為。
自分の 「声」 が聞こえないこと
狼狽して倒した椅子の音や、それに驚いて吠える犬。 そして、突然鳴り出す電話。 それが主人公の立場とは違う反応であることに
「サイレント映画」 に存在する唯一の 「音」 である
彼の映画にエキストラとして出演していた女優志願の女性が彼の映画会社のニューフェースとして契約をしたのです。
久しぶりの再会に喜ぶ二人。 しばしの会話の後、 彼は階下へ、彼女は階上に。
しかし、周りの世界は彼にお構いなく、慌ただしく動いていったのです。 この対比は
ここでも 分かり易い対比
トーキーの彼女はヒット連発のスターにの仕上がり、 立場が逆転。
彼女のお屋敷で平穏な療養生活を過ごした主人公ですが、その屋敷内に、彼が生活苦で売り払った自分の調度品が保管されていたことに、ショックを受けます。 主人公は凋落後の生活費用を (人知れず) 彼女に出してもらっていたことに (何故かしら) 絶望し、 ピストル自殺を図ろうとします。それを阻止しようと自動車で彼の後を追う 「トーキーの女王」 という展開になりました。 このようなストーリーになるに至っては、 ボクの鑑賞意欲は 急激に萎えていったのです。 そもそも主人公は何故ピストル自殺を企てなければならなかったのだろう? そんな疑問に苛まされたのです。 凋落後の生活を 「トーキーの女王」 に支えられていたのであれば、たたただ、感謝の意を表して、彼女の好意に応えていけばよいと思うのです。 それが自殺へ急展開だなんて、全く理解することができないのです。 どんだけブライドが高いのでしょうか。 しかし、この安直で直情的な展開に呆れながらも、 「サイレント映画」 の表現の妙 を発見することができたのです。 彼の居場所に自動車を飛ばす彼女と、ピストルを取り出して事に及ぼうとする彼のカットバックとなります。 彼が銃口をくわえ、今まさに引き金を引かんとする瞬間。次に提示されたのが 「サイレント映画」 特有の 「字幕」 だったのです。 そこには 「BANG!」 とありました。 とうとうピストルの引き金を引いてしまったかと思った次の画像は、 彼女の運転する自動車が、街路樹にぶつかっている場面でした。 字幕の 「BANG!」 は自動車がぶつかった 音だったのです。 この 「BANG!」 の使い方は今作が 「サイレント映画」 であることを印象深く訴えてきたのです。 「BANG!」 の「字幕」 が 「サイレント映画」 における 「ピストルの発砲音」 の表現であり、それと同時に 「自動車の衝突音」 の表現となっており、 一種のトラッブ として使われたのです。 実際のピストルの 「発射音」 と自動車の 「衝突音」 はかけ離れた 「音」 なのですが、字幕だけで表現する 「サイレント映画」 では 「BANG!」 という同じ表記で表現されるのです。 興味深いシーンとなっていました。 しかし、この 「BANG!」 をめぐるサイレント映画特有の表現も、残念ながら、表面的な面白さをなぞっただけのものでした。 今作の前半でボクが絶賛した 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 の豊かなイマジネーションや、主人公の心象を伺い見る深遠さもなかったのです ストーリーはこれ以降、ありきたりな定番路線をひたすら走っていきます。 「BANG!」 と言わせながらやってきた彼女は、すんでのところで主人公の自殺を思い留めさせます。 命を救われた彼は当然のように彼女の愛を受け入れ、ハッピーエンド。 メデタシメデタシ。となるのです。 それはそれでいいでしょう。 しかし、その終結方法が 何とも安直だったことに 唖然となったのです。 今作のラストシークエンスに写し出されて来たのはタップダンスを撮影している二人の姿だったのです。 躍動的にタップを踊るこの場面はただ単純に楽しめはしました。映画の1シーンとしては素晴らしかったと思います。 しかし、このシーンで今作を終結させる事に 不満 が残ってしまったのです。 「これが今作の抱える問題点の解決策とでも言うのだろうか?」 という 不満 が生じてきてしまったのです。 今作の主人公は 「サイレント映画 」のスターで、「反トーキー」 の立場をとる人物でした。そんな彼が 「トーキー映画」 の登場によって凋落し、そこから這い上る鍵がタップダンスだった。というこの終着方法には 全く 説得力が無い と思えるのです。 そもそも、セリフもなくノー天気にタップだけを踊って暮らしている映画なんて無いと思うのです。 セリフのシーンはどうするつもりなのでしょうか? 何事もなかったかのように彼はセリフを話すのでしょうか? やはりそうなのでしょうか? だとしたら 主人公は一切悩むことなく、 最初から 「トーキー映画」 に転向すればよかったのに....。 と、大きな虚無感にかられていくのです。 そして、主人公の自殺騒ぎを始め、今作のほとんどのシークエンスが不要だったのではないか? とさえ、思えてきてしまったのです。 (「トーキー」 の彼女の愛の発露によって主人公は 「トーキー」 に前向きになれたことは理解しておりますが.... 。) そんなことまで言い始めたら、今作を全否定するところまで行ってしまいそうなのでヤメておきますが、それでも、今作の 「根元的な疑問」 についてだけは発言をしたいと思うのです。 「根元的な疑問」 それは、 主人公は何故、「反トーキー」 の立場を 頑なに守り続けてきたのだろか? という疑問。 この、今作を推進させてきた命題が解かれることなく、放置されたままということだけは、断固、批判させて頂きたいと思うのです。 「サイレント映画」 で成功した 彼の美意識 が成せるもの。なのとは思うのですが、 こんなにも意固地に 「トーキー」 を忌嫌う納得の理由が見つけられないのです。 例えば、彼が聾唖者であるとか、吃音であるとか、訛りがひどい等の理由があれば彼の頑なさに納得するのですが、そんな描写もなく、彼の 薄っぺらい強情さ だけが鼻についてしまうのです。 (自殺騒ぎの時にも感じた、彼の性格的欠落点なのでしょう。 きっと) そして、「トーキー」 の彼女の愛を受け入れた途端、 手の平を返すように 「トーキー」 のタップダンス映画を受け入れていくのです。 (何度も言うように、タップダンスのゴージャスさで誤魔化されていますが、彼が出演している映画は、セリフのシーンがある 「トーキー映画」 のはずなのです。) ただ単純に 「トーキー映画」 に転向するだけではなく、タップダンスという付加価値が伴えば、移行しやすいことも心情的には理解できるのですが、それも、圧倒的な説得力を持ち得ているとは思えなかったのです。 このように 問題の提示が中途半端で、 その終結方法も脆弱。 そんな不手際が気になってしょうがなかったのです。 ここに至っては、今作に対してこんなことを強く感じたのです。 「あやふや」 な基本設計の上に立ち、 「あやふや」 な解決策しか導けなかった、 何とも 「あやふや」 な映画である。と、 そしてその 「あやふや」 さが潔い訳でもなく、魅力を発揮するわけでもないのです。 以上のことから今作を結論付けると、 「あやふやさ」 が突出してしまうほどに 全体を見渡す目線 に 全くをもって欠落した映画。 と断言せざるを得ないのです。 全体を見渡す、そして全体のバランスを考えながら映画的素材を配分していく、そんな巨視的な配慮がなされていたのなら、もっと興味深い作品になっていたと考えられます。 例えばこんな感じ ↓ ボクが当初に気になった 「チープな音楽」 を発端とした妄想について言及すると、 1. 「サイレント映画」 が廃れてしまう事実をふまえて、 「サイレント映画」 に使われてる音楽は、意図的に質の落ちる音楽を採用。 2. 劇中映画を離れた 「現実の世界」 では、次第に音楽は平均的なクオリティ となり、 3. 最後の映画的カタルシスを訴えるべきタップダンスのシーンで、最高にゴージャス な音楽となって終結を迎える。 と、このような、全体設計に基づいた映画であることを期待したのです。 そして、もっと大きな妄想を口にすると、 【 2012年、この現代に制作されたサイレント映画 】 という、 時流を俯瞰した立ち位置で演出されていれば、もっと興味深い映画に成り得たと感じたのです。 例えば、強い印象を残した 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 のシーン。 今作は 「サイレント映画」 ではあるのだけれど、意図的に 「コップの効果音」 や、「電話の呼び鈴」、「犬の鳴き声」、そして、「羽毛の爆発音」 を挿入してきました。 このシーンでは、「サイレント映画」 の枠を飛び越えた 「効果音」 を実に上手く活用していたのです。 そう、今作は 「サイレント映画」 の皮を被りつつ、 実は 「トーキー映画」 の手法を駆使して 大きな成果 をあげていたのです。 ボクはこのシーンで駆使されていたこの独自の表現スタンスで 今作全体を貫いて欲しかったのです。 【 現代の世に作られたサイレント映画 】 この割り切りさえ手に入れれば、前述の 「音楽のクオリティ変化」 なんてレベルを超えた、新しい試みができたはずなのです。 例えば 「トーキー」 の彼女が出演している 「トーキー映画」 の場面は、そのまま 「純 ・ トーキー映画」 として再現。 一方、彼女との対比を際立たせたい場面では、彼女の 「音声」 だけを効かせ、主人公はそのまま 「サイレント映画」 を持続した 「半 ・ トーキー映画」 として表現してもよかった、 とも思うのです。 白状しますと、ボクは今作が、 「サイレント」 の映画手法 と 「トーキー」 の映画手法 が、 場面の特性によって自在に変換するような映画 であってほしかったのです。 そうすれば 「トーキーに危機感を持った主人公が見る、摩訶不思議な夢」 のような素晴らしい場面が連なる傑作に成り得たと思うのです。 もう一息でした。 スポンサーサイト
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