
今作はコントラストの強いモノクロ画像を基調とした全6話から成るオムニバス映画であるのですが、冒頭の1話目と2話目を観ただけで、この映画をスタイリッシュで都会的なハードボイルド映画であると早合点、不覚にも狂喜乱舞をしてしまいました。しかし3話目、4話目と映画が進行していくうちに、この映画は本来持っている邪悪? な姿を見せ始め、ダーティーでバイオレンスに満ちたグロテスクなシーンの連続攻撃が炸裂!したのです。それでも1・2話目で見せた都会的なセンスを信じてこの映画はきっと
「グロかっこいい」
映画となってくれるものと、一縷の希望を託してしまったのです。 ( 「エロかっこいい」でも「キモかわいい」でもありません。「グロかっこいい」です。 ) しかし、その後の「グロ」さ加減と “パート・カラー” というスパイスの不調和のせいで期待していた「グロかっこいい」などという絶妙なバランスの美味にあり付くことはなかったのです。
モノクロにこだわりの色を加えて強調する “パート・カラー” という技法は、1963年の黒澤明監督作品「天国と地獄」において、捜査陣の仕掛けた罠に犯人が堕ちたことを知らせる“赤い煙”に代表されます。 この手書き着色によってもたらされた視覚的・構造的な興奮を経験してしまった身としては、今作の、色を廃したモノクロームの世界に “血” の赤だけを入れて、ことさら流血を強調する “パート・カラーー”技法は、非常に刺激的ではありますが、中盤以降の口当たりの悪さを助長するだけの、その場しのぎの薄っぺらい行為であったと感じざるを得ませんでした。「天国と地獄」におけるこのスパイスは大きな映画的興奮を導き出す1級品の「演出」 であったのに対し、今作のそれは “生理的嫌悪” を引き起こす本能的な 「刺激」 でしかなっかのです。それは勿論、
大脳皮質によってもたらされる 「演出」
というクリエイティビティであるはずもなく、
脳幹や脊髄レベルでの生理学的で単純な 「反応」
でしかなかったのです。
ただ、生理的な “赤” に対しての生体反応を起こさせられただけであり、決して創意工夫によって心を動かされたわけでは無いのです。
少々、横道にそれますが、“血” に対する表現方法が今作には2通り存在し、そのうちの1つが今、批判の的にしている赤だけをカラーで着色する配慮に欠けた方法であるのですが、残りのもう1つの表現方法には賞賛に値する創意工夫があったと評価をしているのです。それは “血” というものを、
“眩いくらいに白く輝く液体”
としている表現で、“血” というものは今作のようなモノクロ映像においては、黒か濃いグレーとして映るわけですが、そこを敢えて蛍光塗料のようにギトギトと輝く液体として扱っているのです。これによってショッキングなシーンに多用される
“ネガ反転画像”
の効果が “血” というピンポイントに集約され、その結果、流血という異常事態を印象深くすることに成功していたのでした。この表現の奥深さに心惹かれ、このハイセンスな映像世界のまま、この映画を貫いて欲しいなと熱望したものでした。
(本題に戻ります)しかしベタでこれ見よがしな “パート・カラー” の活用にも上記の “ネガ反転画像” のように1つだけ賞賛に値する創意工夫を見つけることができたのです。それは、切迫しながら車を走らせる主人公の姿を、
RGB原色の外光 が
めまぐるしく照らし、彼を様々な色で照らす場面。照明によって対象物に色を加えることで、立体的な陰影を濃くし、主人公の抑えがたい焦りや動揺した心情をしっかりと伝えてきたのです。ベタな色使いでは無く、照明によって加色していく表現の可能性に心惹かれ、このハイセンスな映像世界のままこの映画を貫いて欲しいなと思いましたが、やっぱりそれも叶うことはなかったのです。
後でわかったことですが(本当ですよ)この賞賛を与えた “パート・カラー” を含む一連の映像はスペシャルゲスト監督なるタランティーノによるものだったそうです。偶然にしても、演出の違いに気づくことができたのは、うれしく思いました。
「グロかっこいい」という稀有な称号を得られるチャンスをみすみす逃してきた今作は、結局は「グロ」の奈落に落ちたと結論付けようとしたのですが、ブルース・ウィルス演じる老刑事ハーティガンの自らの命を絶つシーンの刹那に、自分はその評価をいともさっぱり一変させてしまったのでした。
正直、狼狽しました。ビジュアル的なそして表面的なハッタリに全ての神経が曇らされてしまい、非常に低レベレでの見落としにその瞬間まで気づくことがなかったのです。邪悪でアブノーマルな映画世界の中に登場する主人公達の行動起因が(全てでは無いですが)よりによって
“愛” によるものだったとは.......。
確かに言葉ではそのようなことは語られていたようだが、このような世界観の映画にはそんなものは不釣合いであると勝手に思い込み、そのようなものは物語を進行させるための “ツール” や “方便” であろうと一笑に付し、主人公達の本気さを見ないようにしていたようなのです。そんなところに、獄中の8年間を支えてくれたナンシーの為に、彼女の安全を守ることを目的とした、老刑事ハーティガンの自決が突きつけられたのです。今作は “愛” というものを単なる “ツール” として傍観してきた身勝手な観客に、毅然とした態度で反省を求てきたのです。心を入れ替えた僕の脳裏には、当然のごとく、前々章で観てきたミッキー・ローク演じるマーヴのラストシーンが瞬時にフラッシュバックしてきました。思い起こすまでもなく、復讐の代償として電気イスに散った彼の瞳の奥には、献身の愛を捧げた“女神”ゴールディと黄泉の国にいる彼の姿が焼きついていたではないですか!
この段階で気づくべきでした。
主人公達の “無償の愛” “献身の愛” がこの映画を推進していたという驚愕を、今、素直に受け入れました。この映画は、邪悪な世界観に気恥ずかしいほどの “純な愛” や、バイオレンスの世界に不釣合いなほどの “哀しい愛” が根本に存在し、その上っ面を様々な軽はずみな差し障り要因が纏わり付いた非常に不自由な形状をしていたのです。
この “愛” の存在に気づいても尚、「グロかっこいい」という称号をこの映画に与える気にはなりませんが、一言で「グロ」と断罪するわけにはいかなくなりました。さて、どんな称号がふさわしいのでしょうか?
「グロ・ラブリィ」? (笑)
否。敢えて言うならば
「グロ・センシティブ」
とでも言っておきましょうか。無神経なグロと繊細な感受性が同居していた、実に稀有な映画であったと結んでおきます。


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