「 事実 と 映画 は 違って いたのだ。」
このことを念頭にこの映画のレビューを書きたいと思った。
なぜなら、他の方のレビューを俯瞰すると、この映画の題材となった 「巣鴨子供置き去り事件」 に対する感想に終始しているように思えてしまったからです。
もし、この映画ではなく、 「巣鴨子供置き去り事件」 についてのコメントをするのであれば、映画とこの事件との相違を認識した上で論じるべきだと感じたのです。
その 違い とは、
長男14歳 長女7歳 次女3歳 三女が2歳。 男の子は長男だけという孤立した子供の構成で、その中に2歳と3歳の幼児が2人もいたこと。しかも長女はまだたったの7才で、長男の相談相手にもならない存在あった、という事実。
母親40歳は売春や窃盗での逮捕歴もあった人間で、子供を捨てて56歳愛人のマンションで生活をしていたという事実。
そして、子供たちの発見現場には 白骨化した乳児の死体 (自宅で死亡した子供ー生きていれば4歳としている) もスーツケースに隠されていたという猟奇的な事実。
そして映画では5歳の末娘の死因が椅子から転落した事故死とされていたのに反し、実際は2歳の末娘を 長男14歳と長男の友人2人がなぶり殺しにした上に、そいつらと秩父の雑木林に捨てた、という驚愕の事実。 (長男の友人によって押入れから何回も落とされたことが死因とされている。)
そう。事実は映画なんかよりも重く、辛く、陰惨なものであったのだ。だから事実よりも不当に、軽減されてしまった母親の罪や、美化されてしまった長男の行いについて、この映画で得られる情報だけで語ろうなんてことは僕は思わない。
何故なら、事実は映画なんかよりも、比較にならないほど酷かったのですから。
だから、純粋にこの映画についてのレビューを書きたいと強く思った。事件についてではなく、この事件に触発されて監督が表現したいと思った世界に目を向けようと思ったのです。
第一条 母親は紳士売り場で働いて、お金を家族の口座に振り込むこと
第二条 母親は 1ヶ月ぐらいは外泊しても良いが、最終的には家庭 に戻って
くること
第三条 住居の契約は 母親と長男の二人住まいとし、他の者は存在して
いないことにすること
第四条 存在しないとされた者は、決して外に出ないこと
第五条 なんびとも 学校へは通わないこと
以上のような憲法があの家庭には存在し、永い間、遵守されていたようなのです。
憲法の制定者にしてカリスマ元首たる母親が失踪するという一方的な憲法違反によって “国家” 否、あの家庭が変容していくさまに大いに興味を覚えました。
“国王の亡命” を期に次男が禁じられていたバルコニーに降り立ち、次女の末娘が、帰ってきやしない母親を迎えに行くために駅まで外出していく。
頑なに守り通してきた 「決して外に出ないこと」 を、いとも簡単に破り始め
(第一次 鎖国の解除)
その後、長男が同年代の友人を作り、あろうことか家に呼び込む
(黒船来航による鎖国政策の崩壊)
未納による電気、水道等のインフラの遮断 (国内資源の涸欠)
それによる公園への侵略行為へと、国土は荒れ、人心も荒廃していくのです。
そして映画には描かれてはいなかったが、最終的には “国連” の介入を許すことになるわけです。
このような “憲法違反” によってこの家庭のありようが変わることは明らかではあるのですが、映画が進行していくうちに上記のような “国王の亡命” はこの映画にとっての進行上の発端でしかなく、あのコミュニティを変えることになるもう一つの要因こそが、この映画が語りたいとしている本当のテーマなのではないかと思えてきたのです。 それが
“ 成長 ” 。
子供たちの “成長” というものがこの歪んだ国家を瓦解させる、
「緩慢 な 時限爆弾」
であったと感じました。
それは “母親の失踪” という劇的なことが無くとも、あのコミュニティは変容するべくして変容していったのだと思ったのです。
長男が唯一人、外に出ることを許される “外交権” を持っていたわけですが、それに続く長女、次男も当然のごとくその年齢になれば “外交権” を主張しだすであろうし、長男自身も家族という血縁的なつながりよりも、同世代の男の子同士のつながり合いに魅かれ始め、そして、居場所を無くした年上の女子高生との友情以上、恋愛未満という次なる段階の微妙な人間関係を作りだすことになるのです。
人の正常な成長過程において、家族という出発点から、外に向けての
人間関係の拡大 や 属性の変容
は当然のことながら存在するわけですから、あのコミュニティには子供がおり、しかもその子供達は 「成長してしまう」 という宿命を背負っているところから、既に、内部崩壊という結末の萌芽を孕んでいたのです。
そう、子供達の “成長” はあのコミュニティを確実に内から崩壊させる、しかし、決して劇的では無い、 「緩慢な時限爆弾」 であったのです。
そんな “成長” を体現化していたのが長男役の柳楽優弥による 「声変わり」 。 撮影期間に “成長” が訪れ、その変化をしっかりとフィルムに収めることによって、全くセリフを介すること無く 「属性変化の予兆」 を表現した監督の手腕を評価致します。
“成長” を通して、コミュニティの変容を促進した彼らですが、 「母親によって成長させられることが無くなった彼ら」 が、 わかりやすく言い換えると、 「母親に捨てられた彼ら」 が 真っ先にしてしまったことと言えば、
「 雑草 の タネ を 育てる 」
という行為でした。欲っしながらも、もはや育てられることがなくなってしまったそんな子供達が育てる、この名も無き雑草は
「彼ら そのもの」
であり、この雑草を育てるという行為が、自分達を育てることを放棄した母親への逆説的で言葉無き抗議であったと感じました。
僕はこの 「タネを撒く」 という行為を、ラストの幼き次女の遺体を 「埋める」 という行為にどうしょうもなく連動させてしまいました。埋葬の地となる羽田は長男の父親が働いていた場所とされており、母がいない今、父親の唯一の記号にすがりたいという気持ちを理解することができる。
しかし、羽田である本当の理由は、恐らくはこの世に生をうけて以来、あの小さな “王国” に幽閉されていたであろう哀れな女の子を、 「出発」 を意味する羽田に連れて来てあげたかったのだろうと感じました。
(帰ってこない母親を駅に迎に行き、空しく引き返す途中に長男と幼き次女の前に、闇夜を裂いて煌々と走るモノレールが姿を見せます。それは 「とどめさせられている」 自分達とは全く対称的な存在としての輝きに満ちたものだったのです。 「動く」 ということは勿論のこと、その先にはもっと遠くに行ける羽田空港がある...。そんな夢見るようなシークエンスがありました。)
やや呪術的な考え方ではありますが、 「旅立ち」 を司るこのサンクチュアリで、長男と女子高生は次なる輪廻の為に、次女の 「生」 を埋めてあげたと僕は感じてしまったのです。
「 雑草 の タネ を 撒く 」 と
「 次女 の 遺体 を 埋める 」 という行為が
同義語 として感じられてしまったのです。
残念なことに幼くして命を落としてしまったが、次なる 「生」 を生きていくことができるように、再び産まれてくることができるようにと 「タネを撒いた」 と感じてしまったのです。
「再生」 を願うこの聖なる儀式をやり遂げた長男と女子高生は、掘り返した土で身なりは汚れ切ってしまっていても、僕にとっては、こんな、やるせない世界に降臨した 「アダムとイブ」 のような、そんな、神々しい存在として目に焼きついたのでした。
今 一度言いたい。
作者は 「巣鴨子供置き去り事件」 を描きたかったのではない。
事件をきっかに感じたことを語りたかったのだ。
人それぞれ思うところはあるのだろうが、少なくとも僕は、
これまで語ってきた 「成長」 や 「再生」 という " 強さ " と "祈り" をこの映画から感じ取ったのでした。

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