
「ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。
それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、そして迫り来る 「殺戮」 という
「単なる “記号”」
として割り切って観ようと念じたのです。
それは、まるでSF映画における “エイリアン” や 戦争映画での “ドイツ兵” のように 「人格」 や 「歴史背景」 のない、ただの 差し障り要因という “記号” として割り切って観たのです。
(あれ? ドイツ兵にも 「人格」 や 「歴史背景」 というものがありましたっけね)
今作で感心したのは “インディアン” という “ジョーズ” や “ベロキラプトル” のような 「恐怖の存在」 を決して安売りすることなく、しかし、映画の隅々までその存在感を反映させながら、訴求タイミングにイッキに総動員してくる、そんなバランス感覚に溢れた演出でした。
メリハリを充分に利かせたこの映画のジョン・フォードという監督は、スピルバーグやリドリー・スコット、はたまた、ホラー映画をさぞかし研究したことでしょうね(笑)
また、“駅馬車” による疾走感を敢えて自重し、停車場である “駅” という落ち着いた環境でじっくりと登場人物のキャラクターを語り、物語を進行させ、夫々の人生を浮き彫りにさせていく手法を大いに支持したいと思います。
丁寧にドラマを紡ぎ上げたからこそ、然るべき時間帯に一気に爆発する疾走感にリアリティを与え、観る者の感情を揺さぶって、大きな映画的興奮を創出していたのです。
このバランス感覚に富んだ演出を観ただけで、この映画の監督はさぞかし..... (もうやめておきますね)。
昨今のアクション偏重の薄っぺらな映画を作ってしまった全ての製作者には、教科書のページを捲って、 「1939年のおさらい」 を是非とも行ってもらいたいものだなと思いました。
1939年公開のこの映画が単なるアクション映画に留まってはいなかったことに驚きを隠せなかったわけですが、いきなりの "出産” という展開に対しては正直言って、戸惑いを感じてしまいました。しかし、出産という出来事によってこの映画が加速度的に興味深くなっていったのは事実ではあり、この新しい生命の誕生が契機となって、それぞれのキャラクターに 「回復」 や 「復活」、はたまた 「再生」 というものが成されていったことに非常に大きな興味を持ったのでした。
しかも、それらの救いの数々が “インディアン” という 「受難」 を克服して成就していたことにおいて、僕は
“宗教的 な 寓話”
をも連想してしまったのでした。
マロリー大尉夫人の出産を通して 酔いどれ医師ブーンに医者としての、そして人間としての 「回復」 がなされ、
酒場女として蔑視されていたダラスにも、出産に際しての貢献が認められて “人間性” の再評価が行われ、
存在感の薄かった酒商人ピーコックも家庭人としての立場から、赤ちゃんや母親を気遣う強い側面を発揮していくことになるのです。
しかし、この流れに乗り切れない異端者2人がいることも事実であり、自分はヒーローであるところのジョン・ウエイン演じるリンゴ・キッドより、この2人の存在にこそ強く興味を引かれ、
妄想 を 増大
させてしまったのです。それが賭博師ハットフィールドと銀行頭取のゲートウッドという存在。
駅馬車に乗り込んでいる人々の中で、唯一、命を落とすハットフィールドは、この映画で赤ちゃんを産むことになるマロリー大尉夫人の護衛的立場を買ってでるのです。どうやら彼は彼女の父親が指揮した軍に所属していたらしく、志が高い騎兵隊の士であったが、何ゆえか転落してギャンブラーという俗悪なものになってしまったようなのです。
そんな人生を送ってしまった故の贖罪の気持ちからなのだろうか、ハットフィールドはまるで聖なるものとしてマロリー大尉夫人に献身的に接していくのです。そんな究極的な行動が “インディアン” による、“頭の生皮はがし” という蹂躙地獄からマロリー大尉夫人を守ることを目的とした、「彼女に向けられた銃口」 という “気遣い” にあらわれていたのでした。
しかしハットフィールドは、彼女と赤ちゃんの安全が確保された瞬間にインディアンの一撃によって死を迎えてしまったのです。そんな彼の存在意義や、彼の過去、この映画における彼の言動、そして死のタイミング、はたまた前述の他のキャラクターによる “宗教的寓話性” などについて考えを巡らせていたら、それこそ、
究極的 な 「再生」
が、彼の人生において成就されたのではないかと思えてきてしまったのです。
ここにおいて、この考えを出発点として自分の妄想がまた一人歩きを始めてしまいました。
元々は騎兵隊という社会貢献度の高い立場にありながら、一転して、社会から忌み嫌われる賭博師へと転落したハットフィールドは前述のように、新たな “生” を産むマロリー大尉夫人に紳士的に尽くしていくのですが、この新たな “生” の誕生がキッカケとなり、そして “インディアン” という 「受難」 を経て訪れた、様々な “宗教的寓話” を信じてしまった身としては、ハットフィールドのこの行動要因は彼女を守ることが目的ではなく、守り通すことで自分に訪れることになる “救い” を究極的に欲したのではないか?
という予定調和的な考えに囚われてしまったのです。
しかもそれは彼の意識下にはない、
無自覚 で 無意識、
本能的 にして 形而上学的 な 「予感」
によって突き動かされたものとして受け取められたのです。
“インディアン” という 「受難」 の際にハットフィールドによって行われた 「彼女に向けられた銃口」 が、蹂躙地獄から彼女を守る為の最大の擁護として認められた末に、最上級の “救い” が彼のもとにやって来たと感じたのです。
それが、
地に堕ちた ハットフィールドという自分の人生を終わらせること
だったのです。
注意! これ以降、無責任な 妄想の世界 に突入します。
ハットフィールドは彼女を守ることが目的ではなかったのです。ハットフィールドという人生が犯してしまった罪を贖った後の、彼女から生まれてくる “浄化” された自分自身を守りたかったのだ。
という突飛な考えに憑りつかれてしまったのです。
彼女と “新しい命” を守ることによって贖罪をはかり、「後悔」 というものを一切知らない無垢なる生命体として自らを 「再生」 させてきたかったのだ。
という深い妄想の波に飲み込まれていったのです。
この映画を観終わった直後にジョン・フォード監督が狙った物語上の爽快感とともに、このような気持ちに支配されてしまったのです。
「この特別な感情は何なんだろうか?」 と 自問して、自分の感性と理性が折り合ったところが前述の文章だったのです。
誇大妄想 であることは 百も承知 をしています。
しかし、この映画を鑑賞してそのような気持ちに強く囚われてしまったのは否めない事実であり、そんな自分にとっての “真実” を率直にこのレビューに書き記すべきだ、との衝動に突き動かされたのです。
妄想を告白したついでに、銀行頭取のゲートウッドという存在にも触れておきたいと思います。
西部劇に対する聞きかじった情報をもとに書かせてもらいますが、“白人” という 「正義」 に “インディアン” という 「邪悪」 なる者が襲い掛かるとする、
西部劇 の 「黄金構造」
がこの映画によって決定付けられたようなのですが、
この 「黄金構造」 に映画的興奮の全てを預け切った他の凡庸な西部劇と、「駅馬車」 という金字塔とを決定的に分かつ重要な要素が、このゲートウッドという存在であったと思うのです。
彼は銀行の金を横領する悪役なのですが、新たな命が誕生しても、彼には “救い” が訪れるワケも無く、母子の容態よりも、横暴な態度で自分の逃亡のみを優先させとうとするのです。これによって駅馬車の中は “善” なるものだけではなくゲートウッドいう 「邪悪」 なるものをも孕みながら西部を疾走することになっていくのです。そして同じく 「邪悪」 とされている “インディアン” の襲撃を受ける、あの珠玉のアクションシーンへと畳みかけるように展開していくのですが、ついでに告白をしてしまうと、個人的にはこのアクションシーンよりも、ゲートウッドが不協和音として奏でる、この深いドラマ性に興味を覚えてしまったのです。
悪なるものが 「正義」 たる “白人” にも存在していたという内省的な要素を加えることによって、この映画がキッカケとなって蹂躙つくされることになる「“インディアン” たちの名誉」 への、ささやかな謝罪を行っていたのではないか、という思い付きに興奮してしまったのです。
今作は西部劇の古典的名作であるばかりか、今作が元凶となって後世の作品群によって蹂躙される “インディアン” への贖罪を、もはやその誕生時点において、ゲートウッドという存在に託しめ行っていたのだ。 という総括的な妄想の中に、またしても、どっぷりと浸かってしまったわけなのです。
結果的に2つの大きな妄想を展開できる映画的幸せを享受できたわけですが、2つ目の “人の良心” に基づいた妄想の方は、どうか “事実” であって欲しいな と願いながら 「1939年の初体験」を終えたのでした。


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