
序盤から、映画的興奮を見つけられないでいたボクの最大の関心事は
【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】
【 ② “伝説の” カーチェイス が 今作に及ぼした貢献度 】
の2点に、いやがおう上にも集中していきました。
で、観終わったボクのストレートな感想は
【 ラスト1分30秒までは実に “リアリズム” を追求した映画 】
というものでした。この説明は終盤に譲るとして、
ウィリアム・フリードキン監督は、今作において非常に珍しい手法を取り入れたようなのです。
その手法とは、役者の演技をつけた後に初めてカメラマンを現場入りをさせ、監督と役者が作り上げた “現実” を初見の状況でカメラマンに捉えさせたようなのです。
演出部と役者によって再現された “事実” を撮影部が研ぎ澄ませた感性で 探し出すという緊張感を導入したようなのです。
今作はこのような製作者サイドのドキュメンタリー性や緊迫感を孕んだ映画ではあったようなのです。
しかし、そんな
手法的 な 崇高さ とは 裏腹 に、
序盤から、待機状態が続いたボクではあったのですが、中盤、
何の前触れもなく非常に興味深いシーンが展開してくれたのです。
それは、尾行対象者が豪華なフルコースを食している最中、屋外のポパイも厳寒に震えながら、立ちながらのピザとコヒーの簡単な食事をすませるシーン。
同一カットで犯罪者がぬくぬくと豪華な食事を楽しみ、その犯罪者を追う刑事が味気ない食事を流し込む姿が提示されていたのです。
そう言えば、この映画のファーストシーンで登場するマルセイユの刑事も、尾行のさなかでピザを立食しているカットでしたっけ、しかも、その刑事が射殺されるシーンはバケットを買っての帰宅時であり、しかも射撃をした殺し屋はそのバケットを摘んで口にするではありませんか!
生きていくために食べることとなり、食べることをするために、一方は犯罪者を追い詰め、一方はその人間を殺し、命を繋いでいくのだ。
一方は違法行為を行うことで法外な利益を得て、ランクの高い食事にありつき、それらを検挙する刑事は仕事のために最低の食事を喉に流し込む。
こんな関係が提示されていたことに、
ついつい、うれしがって しまったのです。
しかしこの
【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】
に成りうると思われた側面は、犯罪者が愛妻家で美食家の紳士である一方で、刑事が独善的で熾烈な面を持つがさつな男であった。という表面上の差異に留まってしまうのです。残念です。
中盤以降に繰り広げられる
【 ② “伝説の” カーチェイス が 今作に及ぼした貢献度 】
は予測どおり、非常に高かったことを実感しました。
“張り込み” 、 “尾行” という映画的には全く地味な捜査側面を見せられ、
【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】
のしっぽも捕まえ損ねた矢先に、この 「 “伝説” のカーチェイス」 が始まってくれたわけなのです。
まさにグッド・タイミング。 否、我慢の限界だったのです。
今作は語り口が巧みなわけではなく、展開がスピーディでもないので、製作者サイドの手法的な斬新さに永らく付き合わせられてしまった、鑑賞者の鬱憤(うっぷん)が爆発するギリギリのタイミングで、ガス抜きの
デトックス の 役割
として、この感情の発露は行われたのでした。
で、その 「 “伝説” のカーチェイス 」 を観終わった直後のボクの印象というものは、
「まるで、今作の主人公であるところのポパイというキャラクターそのものじゃない!?」 だったのです。
執念深く、タフで、法規を無視してまでも自分の目的の為に、全てをひれ伏させる。
そんな強引さがこのカーチェイスにもあったのです。
スマートなスピード感や、ともすると流麗さを標榜する昨今のカーチェイスにはありようもない
無作法で、無遠慮、不器用、にして 不躾な
カーチェイスであったのです。
それはまるで、ポパイというタフで無軌道な弾丸が、犯人を射止めるために時速130kmものスピードで車線無視、信号無視の社会不適合者の強引さで、市民生活を脅かしながら疾走していく。そんな感覚に囚われてしまったのです。
そして 「 自動車 VS 鉄道 」 という異種格闘技の趣も興味深く、
高いポテンシャルを持ちながらも、
“他車” による妨害 や “交通法規”
によってその能力を抑え込まれてしまう 「自動車」 の置かれている状況が、
高いポテンシャルを持ちながら、
“他者” との軋轢 や “捜査規制”
によって、その能力を抑え込まれている 「ポパイ」 のありように、全くをもって一致していたことに心を躍らせてしまったのです。
そして、他の障害物など無く、スムースに先行していく 「鉄道」 と、事件に対して警察よりも先行していく 「犯罪者」 の関係性にもまた唸ってしまったのです。
[ 自動車 → ポパイ ] [ 鉄道 → 犯罪者 ]
の暗喩をとっても喜ばしく思ったのでした。
この 「 “伝説の” カーチェイス」 はポパイのキャラクターコンセプトをカーチェイスという現象に移植し、しかもポパイを取り巻く閉塞状況や苛立ちまでをも読み取ることができる、そんな大きな度量を持っていたのです。
素晴らしい表層上の疾走感とともに、大いなる想像力をかきたてさせる深層。この2つの要素を持ち合わせていたところに、ボクの琴線が大いに共鳴したのです。
しかも、映画世界におけるポパイの鬱憤とその鬱憤を突きつけられるボクたち鑑賞者自体の鬱憤さえも、華々しく爆発させるには最適なタイミングで、この 「 “伝説の” カーチェイス」 が展開してくれていたのです。
このように、何層にも用意された映画的興奮を前にして、ボクは語り告がれた “伝説” たるゆえんを納得した次第なのでした。
鑑賞し終わった直後、それまで謎としていた
【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】
がよくわかりました。リアリティを追求した語り口から一転して、前衛アングラ劇を彷彿とさせるような不条理極まりない、あのラストを用意した製作者サイドの
思惟的 勝利
であった。と、理解したのです。
序盤から “尾行” “張り込み” という、リアリズムを追求するが故の退屈さをこらえ、待ちに待った 「 “伝説” のカーチェイス」 による感情の大きな開放を経て、戦争 (否、捜査) に没頭のあまりに、その独善的無軌道さが臨界点を超え、しかも、捜査員を誤まって射殺してしまったことを引き金として、精神のバランスを失い
狂気の世界 に 突入していく、 ポパイ。
そんな姿にボクは大きな衝撃を覚えたのです。
ウィリアム・フリードキン監督の作品歴に目を向けると、今作は1971年の段階で、彼の次回作となる1973年 「エクソシスト」 で一大ムーブメントを引き起こした、オカルト的で不条理な “恐怖” を予見させるラストシーンになっていたのです。
【 ラスト1分30秒までは実に “リアリズム” を追求した映画 】
であったのが、
【 ラスト 1分30秒 】
の効力によって、ケレンミたっぷりなホラー映画に変貌していったのです。さぞかし、当時の観客は驚きと共に新鮮な感覚に包まれたことでしょう。
しかし、【 ラスト 1分30秒 】 において最も興味を引かれたことは、戦争 (否、捜査) に精神バランスを失い、狂気の人となるポパイに、今作が公開された
1971年当時 の 社会問題
が色濃く反映されていたことでした。
ドロ沼の一途を辿ったベトナム戦争。狂気の戦場によって深い心の傷を負った、
心的外傷後ストレス障害 (PTSD)
に苛まされたアメリカ兵が、イラク戦争の比にならないくらい大量に発生した。と、断言をします。
国家が抱えるそんな暗部を、直接的に “軍隊” という組織ではなく、もちろん、“戦争” という原因でもなく、間接的に 「警察」 ・ 「捜査」 というものに託して、同時進行中のベトナム問題を告発していたのだ。と、思えたのでした。
その点ではベトナム戦争で精神を病み、狂気の世界に引きずり込まれる人間を描いた1978年の 「ディアハンター」 や1979年の 「地獄の黙示録」 なんかよりもずっと早く、
極限状態における “精神崩壊の悲劇”
を扱っていたと言えるのではないでしょうか。
今作のラスト・シーンは70年代中盤にウィリアム・フリードキン監督本人が火付け役となった 「オカルト映画」 ブームを予見させ、サイゴン陥落後、しかも70年代の終わりに近づいて、やっと、扱われることになった 「ベトナム戦争による精神崩壊」 をも、既に同時進行的に取り入れていたのです。そのような観点から、今作のラストシーンこそは、
映画史 に 記憶すべき
“アカデミック” なラストシーンであったと感じたのです。
【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】
は、 【 ラスト 1分30秒 】 の中に、70年代という10年間の映画トレンドを、71年の公開時点において、既に、集約させていたことにあった。と、考えます。
この10年先を見事に捉えた “先見性” こそが最大の受賞の理由であった。 と、ボクは
独善的 に 断言
させて頂きます。


スポンサーサイト