
2つの相違する存在が、1つの場所に混在することによって生じる、
「区別」 「差別」 「葛藤」
という 3つの現象にボクの興味は集約されていきました。
序盤、1つの 「区別」 に関するセリフがボクの客観性を奪い去っていきました。 それが
A 「フツ族 と ツチ族 はどう違うんだい?」
B 「定義では ツチ族 の方が長身で上品、
ベルギ-の入植者が決めた」
A 「どうやって?」
B 「鼻の細さや皮膚の色の薄さでね。
鼻の幅を測ったんだ。
ツチ族 に統治させたが、
退却後、権力は フツ族 へ、
フツ族 は長年の恨みで ツチ族 に復讐した。」
何と、ルワンダの内線における フツ族、ツチ族 のおぞましき対立の根源は、植民地を統治することを目的にした
人為的 な 「区別」
であったことがこのセリフで見えてきたのです。 しかも、“鼻の幅” という脆弱な基準によって
捏造された外見上の 「区別」
であった。と、今作は訴えてきました。
この対立関係には、歴史的な、文化的な、血縁的な、地縁的な要因は基本的には介在せず、 1920年頃からベルギーが統治し始めたことによって作られた、 単なる
「支配 の ツール」
でしかなかったのです。
これは、被支配者層の中に相反する2つのグループを創出し、お互いに反目させることによって、宗主国への “やいば” を無力化させる。 そんな、西側諸国が常套としていた 「支配手法」 を取り入れたものだったのです。
この揺るぎない統治構造をルワンダの地に根付かせるために、 ベルギ-人は 「フツ」 「ツチ」 という対立要素を捻出したのです。
そして、彼らが 「ツチ」 を優遇し、「フツ」 を冷遇し、言われ無き 「差別」 と拭い難き 「怨恨」 を人為的に作り、大いに利用したことが、上記のセリフから うかがい知ることができたのです。
時が移り変わって、1962年。 独立国になった後も、ルワンダは 「フツ」 「ツチ」の区別をやめようとはしなかったのです。何故なら、独立後の覇権は、 「ツチ」 の手から離れ、多数派の 「フツ」 の元に移って行ったからなのです。
40年間にわたる 「差別」 がもたらした 「怨念」 は、きっと凄まじいものがあったのでしょう。 「フツ」 は恨みを晴らすために、ベルギー人によって押し付けられていた 「区別」 をそのまま踏襲して、今度は 「ツチ」 を 「差別」 し、 「虐待」 をする席に、ドッカと腰をおろしたようなのです。
それは、身分証明書にしっかりと 「フツ」 「ツチ」 の刻印を押し、その 「区別」 を明確にしていたところからも推察することができます。きっと、必要に応じて 「差別」 を加える エビデンスにしていたのでしょう。
序盤、今作の鑑賞テーマたる
「区別」 「差別」 「葛藤」 の中の、第1番目に見えてきた
【 ルワンダにおける
「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた
「区別」 】
にこだわりを持ったわけですが、中盤、 またしてもある1つのシ-ンにとらわれていったのです。 それが 「雨の別離」 のシ-ンでした。
「フツ」 民兵による 「虐殺」 が横行し、危機的状況に陥ったルワンダから 「外国人」 達が避難するシ-ンが展開していきました。
降りしきる雨の中、 「外国人」 達が ミル・コリン・ホテル を脱出すべく 大型バスに乗り込むのですが、そこにも様々な 「区別」 、否 「差別」 が生じていたことを今作はしっかりと訴えてきたのです。
「虐殺」 から逃れる唯一の方法となる大型バスに乗り込めるのは、よりによって 「虐殺」 対象者であるはずもない 「外国人」 だったのです。
いくら哀れであろうとも 「ルワンダ人」 である孤児達は保護されるはずもなく、 逆にその孤児達を守っていた 「外国人」 神父は保護され、その神父をアシストした修道女達も、白人は救われ、黒人は置き去りにあうのです。
これは 「奴隷制度」 というおぞましき歴史を持つ、「黒」 だ 「白」 だの封建的な 「差別」 が、この期に及んで再現されてしまったことを示していました。
【 ルワンダにおける
「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた
「区別」 】
が行われているその場に、
【 全世界で横行する
「白」 「黒」 の否定し難い根深き
「差別」 】
までもが露呈されてしまったわけなのです。 何とも、目を覆いたくなるありさまでした。
また、そんな空虚感に輪をかけるようにして、同じ 「黒」 であっても、パスポートというエビデンスを根拠にする、 「ニガー」 なのか 「アフリカン」 なのかの、新たな社会構造が元凶となる 「差別」 をも、今作は提示してきたのです。
イギリス国籍を持つ 「ニガー」 は 「外国人」 として乗車を許され、ルワンダ国籍 「ツチ」の烙印が押された 「アフリカン」 は拒絶される。
人種という先天的な側面では同じであろうとも、国籍という後天的な側面において、新たな 命の 「選別」 がこの地で行われていたのです。
この事態はまさに、人種的には同じであっても 「ツチ」 か 「フツ」 かで 「区別」 をし、極度に エスカレートしていった、ここ、ルワンダの地で行われている 「虐殺」 と、根底では変わらない行為が 国連平和維持軍 の指揮のもと、平然と行われていたのです。
「外国人」 と選定され、 「祝福」 されし者は、「虐殺」 という大洪水から逃れるために 「ノアの箱舟」 たる大型バスに乗り込み、 「ツチ」 は 「虐殺」 の波に飲まれて命を終えていく。 そんな 神話的に信じがたい 「差別」 が、 現代の国際社会でまかり通っていたのです。
こんな、絶望感に覆われたシーンにおいて、より一層深くボクの心をえぐっていったものがあります。 それが降りしきる 「雨」 の存在でした。
人間という小さき存在が、些細な 「差別」 に腐心している間にも 「雨」 は降り続けていたのです。
「外国人 観光客」 を 濡らし、 「外国人 ジャーナリスト」 を 濡らし、
「外国人 兵士」 を 濡らし、 「外国人 修道女」 を 濡らし、
「ルワンダ人 修道女」 も 濡らし、 「ルワンダ人 孤児」 も 濡らし、
「ルワンダ人 ホテルスタッフ」 をも 濡らしていったのです。
そう。 雨は全ての人の上に降っていたのです。 個々の存在に、そして、個々の命に等しく、雨は降り注いでいたのです。
しかし、そんな自然の摂理に反して、生まれながらの特権階級である宗主国の国民は、雨からも、そして迫りくる危険からも守ってくれる 「ノアの箱舟」 に優先的に乗り込んでいったのです。 そして、あろうことか、 「虐殺」 対象者である永遠の被支配者層を 「砂上の楼閣」 に取り残し、その命に見切りをつけていったのです。
序盤に提示した
【 ルワンダにおける
「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた
「区別」 】
に加え、
【 全世界で横行する
「白」 「黒」 の否定し難い根深き
「差別」 】
までもが、
「ツチ」 の二重に救われない構造を強固に作っており、大きな空虚感にさいなまされました。
序盤、中盤と、夫々に一つの事柄に大いにとらわれることになった今作のレヒュ-ですが、終盤においてもまた、一つのシーンに大いにこだわってしまいました。
それが、川沿いに累々と横たわる虐殺死体を目の当たりにした、今作の主人公である 「ポ-ルの慟哭」 でした。
ホテルに着いて血に汚れたYシャツを着替え、ネクタイを締め直す。 しかし、いつも締め慣れているはずのネクタイの長さが何故か、合わないのです。
このシークエンスに、平静を装っても深く動揺しているポ-ルの内面がうまく表されていました。
そしてポ-ル自身も、こんな日常的に反復している行為すら満足にできない自分の異変に気づいたことによって、とうとう生身の自分を抑え消えれずに、理性を突き破る感情のうずに身を委ねてしまうのです。
せっかく着替えたYシャツの前身頃を、ボタンが飛び散るほど強く引き裂いて、魂の叫び声を上げたのです。
ボクはこの局面を目撃して、ポ-ル・ルセサバギナ が
「ポ-ル」 の 仮面を 脱ぎ捨てて
「ルセサバギナ」 の 本質を 見せたのだと思い、
強く心を動かされたのです。
ここでボクが言っているポ-ル・ルセサバギナにおける
「ポ-ル」 の 側面とは、
Yシャツにネクタイを締め、 パリッとしたス-ツ姿で高級ホテルの支配人を務める側面であり、才覚という、後天的な要因で手に入れた地位や役割など、社会的な存在を意図しています。 また、一方の
「ルセサバギナ」 の 側面とは、
「アフリカ」 の地にルセサバギナ家の一員として生まれ、連綿と続く 「生」 を受け継いで次代に伝える、「種の保存」 を究極の目的とした、根源的な存在として捉えたのです。
ポール・ルセサバギナ という彼の名前に混在する2つの側面を、
「ポール」 の 後天的、社会的存在 と、
「ルセサバギナ」 の 先天的、根源的存在 とを
「区別」 をしたのです。
大量虐殺体目撃前の彼は、
「ポール」 という
西洋風 の 「ファースト・ネーム」
に準拠するように、元宗主国の西側資本に雇われた特権的立場として “客観性” を保っていました。 しかし、大量虐殺を直接的に体験したことによって、
「ルセサバギナ」 という
アフリカ特有の 「ファミリー・ネーム」
の彼は、凄まじいまでの 「命」 に対する冒涜を前にして、「命」 を受け継ぎ、維持し、次代に繋いでいくという、
「ルセサバギナ」 の 「使命」
を遂行できない恐怖にかられ、ただただ、慟哭するしかなかったのです。
この大量の虐殺死体を目の当たりにして慟哭する ポール・ルセサバギナ のありさまは、ホテル支配人としての
「ポール」 の 「役割」
など遂行できずに、一個の 「命」 として恐怖におののく 「ルセサバギナ」 のむき出しで無防備な姿であったのです。
「ポール」 の 外観的な 側面から
「ルセサバギナ」 の 生々しい 側面に
移行するためには、Yシャツやネクタイという 「ポール」 の “よろい” を脱ぎ捨てる必要があったのでしょう。
あの瞬間の
「ルセサバギナ」 による 「慟哭」 と
その直前の
「ポール」 による 「脱ぎ捨てる」
という2つの行動は、完全無欠にシンクロしたものだったのです。 それは、ポール・ルセサバギナ の実像を捉えた、非常に映画的な瞬間だったのです。 ボクはこのシークエンスに大きな映画的興奮を感じ、個人的に深い満足感を得ることができました。 はぁ~ めでたし めでたし。
【 ルワンダにおける
「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた
「区別」 】
にショックを受け、
【 全世界で横行する
「白」 「黒」 の否定し難い根深き
「差別」 】
に途方に暮れた後に、
そんな社会的な問題とは別次元の、 ポール・ルセサバギナ という一個人に内在する、
【 「西洋」 と 「アフリカ」 、 そして
「先天的使命」 と 「後天的役割」
のせめぎ合い 】
に、強く心を動かされたのです。
ルワンダで、 全世界で、 そして 一人のアフリカ人の中で、
2つの相違する要素が併存する ことによって生じる
「葛藤」 「区別」 「差別」
というものを深く考えさせられた、今作の鑑賞だったのです。


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