通勤時間を活用して、ポータブルDVDプレイヤーを使っての地下鉄内鑑賞にいそしんでいます。
分割しての鑑賞であるため、感想文も分割となっています。
第1回目 7月21日
日本というこの貧しい国から、遠く数万マイルも離れて、
“生活”という無粋な言葉とは無縁の場所に位置する、
「湘南」 という 独立王国。
この映画はそんな別世界に住む、特権階級に属する方々の物語なのです。
鎌倉の大きな家に住み、逗子・葉山をフィールドにモーターボートや水上スキーに興じ、オープンカーで横浜のナイトクラブに乗りつける。
半世紀も前の“太陽族”と呼ばれる先進的な青春像がそこにあった。
“奔放で弟想いの 兄・石原裕次郎” と “真面目でウブな 弟・津川雅彦” の関係に、
謎の美女
が登場。弟が想いを馳せながらも、裕次郎兄貴も参戦。
女一人をめぐっての男二人の微妙な関係が築き上げられていく。
おっと! 裕次郎兄貴が謎の美女に急接近! しかも、謎の美女にはワケありな様子、これから、これらの天上人にどのような葛藤が降りかかるか楽しみなところです。
第2回 7月25日
「狂った果実」とは “謎の美女” のことだったのですかね?
彼女の本性は、外国人の夫を持つ、二十歳の、しかも、男あしらいを十分に心得た人妻だったのです。
“謎の美女”が、“奔放で弟想いの兄・石原裕次郎”に言うことにゃ。
「浮気はいくつかはあったけど、“真面目でウブな弟・津川雅彦”とは真剣なの」
「結婚する前にするべきことを、“真面目でウブな弟・津川”としているだけなのよ」との見解をのたまわります。1956年当時の道徳観念で考えると、彼女の感覚はやっぱり、
「狂った」
という表現になるのでしょうかね?
あっ、いや、1956年当時、狂っていたのは、実は、“謎の美女” だけではなかったのでした!
“奔放で弟想いの兄・石原裕次郎”。 その人も、期待通り、しっかりと狂っていてくれたのです。
この “謎の美女” の本性を “真面目でウブな弟” に黙っておく代わりに、俺と浮気をしろ と迫ってきたのです。
何という “弟想いな兄” なのでしょうか......。
結局、“謎の美女” と “兄・裕次郎” は 深みにはまっていくのですが、そこに、彼女の夫や“ウブな弟・津川”の存在がからんでいくのです。
あれ....ちょっと待てよ.....。
いきなりこの映画の雰囲気が湿っぽくなってきやしないか?
「湘南」 という カラッとした租界にいる気がしないのです。ヤバイぞ、ありきたりな悶々とした 国産映画に成り下がってしまう。と危惧したのも束の間、
“真面目でウブな弟” と “謎の美女” が日常的な買い物途中で、出くわしてしまうのです。
ダメ じゃん!
弟と彼女が出会う場面がこんなありきたりなテンションではダメですよ。弟にとって彼女は1ランク上の 憧れの存在 であるはずなのに、非常に気楽に、ありがたみもなく出会わせてしまったところに、この映画の 「変節」 を見たような気がしてなりませんでした。
この瞬間から北原三枝は “謎の美女” の高みから、恵梨 という そこいらにいる女 へと価値を下げてしまったと感じました。他の国産映画と一線を画してきた、ドライでクールなセンスが揺るぎ、“謎の美女” のこの庶民化とともに、急落してしまったのではと、非常に残念な気持ちで一杯です。
このまま雑多な国産映画の、「うらみ、つらみ、」 という湿気の多い映画にならなければ良いな と願ってやみません。
第3回目 7月30日
“衝撃的” と評されたこの映画のラストシーンの行動起因は、「東海道四谷怪談」の古典作品にも見られる、「理不尽な迫害・攻撃」 に対する 「うらみ・つらみ」 という非常に日本的な感情によってもたされていたのでした。
「湘南」 という別天地の住人を登場人物に起用しても、1956年当時、新進気鋭の作家を抜擢してさえも、容易に 「日本」 という呪縛から解放されることは無かったわけです。 そうです。 この映画は確かに、日本国・神奈川県 という非常にドメスティックな環境で、しょぼしょぼと終わろうとしているのです。
“真面目でウブな弟” は 「理不尽な迫害・攻撃」 なんてものは受けておらず、もっと軽い 「疎外」 程度ではありますが、
“ダメージを受けた側が執拗に、そして寡黙に加害者を追い詰め、死をもって復讐を果たす”
というお話の骨子を考えると、
これってもしかして
「四谷怪談」!? っと思ってしまった、勿論、彼は “幽霊” であるわけもないのですが.....
(しかし、ラストの表現を考えると、生死の順番が逆になっただけなのかもしれない...死して復讐をするか、復讐してから死すか....その違いだけだったのかも.....。)
湘南! 太陽族!
という言葉が飛び交う、華々しさから、
中盤以降、 “奔放で弟想いの兄” が “謎の美女” に心底惚れる役であったことを唐突に思い出すあたりから、映画は「道行き」 的な前近代的悲劇傾向を帯び、捉え方によっては、演歌的・浪花節的な様相を呈してしまうのです。
くー 残念!
狂ってしまったのは、彼女や彼、そして暴走をする弟ばかりではなかったのです。
不格好きわまりないこの “アンバランス” を生み出してしまった、この映画のプロット自身こそが、
実は、 誰よりも狂っていたのです !!
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