
今作が放つ、
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】 と、
【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】
この相反する2つの力に、ボクは完璧に捻じ伏せられていきました。
今作は、真っ黒な画面に壮麗でエキゾチックなテーマ音楽が流れる 漆黒の4分間 から始まっていきました。
そして、この漆黒の闇から開放された直後に、主人公はあっけなくも死んでいき、次の葬儀の席においては、主人公の人生が早々と総括されていったのです。
葬儀の際の 「賛」 と 「否」 の評価から一筋縄ではいかない 「二面性」 が主人公であるロレンスなのだ、と腹をくくって鑑賞を始めた直後に
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】
にボクは完全に呑み込まれていったのです。
全ては、極上の 「ジャンプカット」 から始まっていきました。
アラビア派遣が決まったカイロ軍司令部。上官のタバコに火を付けたマッチをロレンスが 「フッ」 と吹き消した刹那、映像は砂漠の日の出へと瞬間移動をしていきました。
この 「ジャンプカット」 は、今作の主人公であるロレンスがイギリス支配のカイロから離れ、全く違う価値観に支配されているアラビアの地に到達した事を、直感的に訴えてきた素晴らしいカット繋ぎでした。
わかりやすく説明すると、
イギリスという産業革命を成した国の管理下にいたロレンスが、
その成果物の工業生産品たるマッチの
「 火 (ひ)」
を自ら吹き消けすことで
「文明的な生活」 に終わりを告げ、
荒大な砂漠に灼熱をもたらす
「 陽 (ひ)」
が昇っていくことで、ロレンスの全く違う人生が
アラビアの地で始まった
ことを観る者に訴求してきた、
「大胆にして繊細なる ジャンプカット」
だったのです。 そのダイナミックな転調に、
ボクは大いなる 映画的興奮 を味わったのです。
「文明」 から 「砂漠」 への、この素晴らしい瞬間移動に感動した直後、実は、続く3カット目にもボクの心は大きく動かされていったのです。
「 陽 (ひ) 」 によってアラビアへの移動を示唆した2カット目の次には、アラビアに来たロレンスの表情をストレートに訴求してくるはずと、見切った直後に提示されたのが、予想だにしなかった
「超ロングショットによる 極小サイズのロレンス」
だったのです。
砂漠の造形美の遥か向こうにラクダに乗った豆粒のように小さい2つの影が現れるのですが、驚くことに、こんなにも小さい存在である彼らの姿をしっかりと視認することができたのです。
恐らく、砂漠という極端に単純化された舞台であったからこそ、人物を極端なロングショットの微小なサイズで捉えてもその存在感を十分に訴求することができたのでしょう。そして、デビッド・リーン監督がこの
砂漠特有の表現手法
に行き着き、砂漠の悠久美とそこに飲み込まれそうにいる人物の存在感を同一カット上で提示してきたことに、またまた感動してしまったというわけなのです。
(約10分後にもこの手法は再度登場し、とてつもなく大きな 映画的興奮 を創出してくることになります。)
そして この 「大胆にして繊細なる ジャンプカット」 (1カット目と2カット目) と、 「超ロングショットによる 極小サイズのロレンス」 (3カット目) を多面的に輝かせたのが
壮麗にしてエキゾチックなテーマ音楽
だったのです。
「大胆にして繊細なる ジャンプカット」 の2カット目、「 陽 (ひ) 」 のシーンから準備を始め、3カット目 「超ロングショットによる 極小サイズのロレンス」 が砂漠に初登場した瞬間をピークに、壮麗にしてエキゾチックなテーマ音楽がボクをドップリと包み込んでいきました。
視覚的で理性的な側面
に感じ入っていたところに、音楽という
聴覚的で情感的な要素
によって感情までもが揺さぶられてしまった
というわけなのです。
しかも、この音楽の絶大なる効果が偶発的なものではなく、デビッド・リーン監督による計算しつくされた演出だったことに気づき、今作の計り知れない奥深さに驚いてしまったのです。
思い出して下さい。今作のオープニングを。漆黒の4分間を。
彼は視覚を遮断した状態で開始4分間もの間、このメインテーマを強制的にインプットし続けてきたのです。
当初、漆黒の4分間に戸惑い、反発の感情すら抱いてしまったボクですが、このテーマ音楽は、そんな表層的な思惟のレベルよりもずっと心の奥底である
無意識の領域に
到達していたのです。
強制的な4分間によって無意識の領域に刷り込められたからこそ、しかるべきタイミング (3カット目) でこのテーマ音楽が再投入された時、
「反射」 に近い反応
でボクの感情のスイッチはONになっていったのです。
今まで経験してきた視覚的密度と共に、漆黒の闇の中で刷り込まれた起爆装置が連動して、巨大な連鎖爆破が起きていったのです。
理性の面と感情の面への同時多発攻撃を受けて、あえなく感銘の奥底に沈み込んでいったというわけなのです。
この珠玉の3カットをまとめてみますと
1カット目 ‐ カイロにてマッチの「火」を消す ‐ 画面からはみ出る程のアップ
↓
「大胆にして繊細なる ジャンプカット」
↓
2カット目 ‐ 砂漠に 「陽」が昇っていく ‐ 砂漠の風景で移動の示唆
3カット目 ‐ 砂漠と極小サイズのロレンス ‐ 音楽で移動の確信
(「超ロングショットによる極小サイズのロレンス」)
という段階を踏んで、英国支配のカイロから異国の地アラビアへ移行していったことを表現していたのです。
1カット目と2カット目で構成される、「大胆にして繊細なる ジャンプカット」 で暗示的に表現し、
3カット目の 「超ロングショットによる 極小サイズのロレンス」 で砂漠の特異性を打ち出す形でロレンスの移動を控えめに示し、そして、テーマ音楽の盛り上げで、それを確信させてきたのです。
この珠玉の3カットには大胆な手法と思慮深い抑制が矢継ぎ早に登場し、その凄まじい密度をボクは心ゆくまで堪能したのです。
今まで、「大胆で繊細なる ジャンプカット」 と、「超ロングショットによる 極小サイズのロレンス」 について述べてきましたが、驚くことにこれらは開始から20分までのことだったのです。冒頭で提示した
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】
を語り切るには、この後、10分間に提示された映像を
「SF的にして幾何学的な 1シークエンス」
と名付けて、説明をする必要があるようです。
このシークエンスはベドウィンの部族長であるアリの初登場シーンに見られました。
ロレンスと案内人のベドウィンが小休止をしているところ、何かの異変に案内人が気づき、遥か彼方を警戒し始めるところから始まっていったのです。
画面手前、左手にロレンス、右手に案内人が配置され、この二人の視線の先には永遠の広がりを持つ砂漠が横たわっています。
よく見るとその遥か彼方、二人の間に広がる地平線上に微かに砂煙が上がっています。
何だろうと注視した瞬間、砂煙の中から極小の黒い 「点」 が現れて、どうやらこちら側に向かって来ているようです。
その 「点」 が徐々に近づき、それがラクダで疾走して来る黒づくめのベドウィンであることがわかった時、案内人は接近者が誰なのかを特定したのでしょう。その接近者に向けて拳銃を向けた瞬間、逆に黒ずくめの接近者に射殺をされてしまったのです。
射殺後約20秒、接近者はようやく二人のいる場所に到着し、そこで初めて接近者の顔を見ることができたのです。
「点」 の存在から目の前に到達するまでの長い長い時間、謎の接近者が近づいてくる様を固唾を呑んで見守るボクの胸の内は 「静なるサスペンス」 に満たされていきした。そしてこのシークエンスが先ほど提示したように
「SF的にして幾何学的な1シークエンス」 として、
SF映画を彷彿とさせる表現
を打ち出していたことに大いに驚愕をしたのでした。
その表現とは、遥か彼方の 「点」 のような存在から、射殺可能な距離(影響力が及ぶ距離)を過ぎ、最後は直接的に接触することができるまでの距離を連続的に描き出してきたことを示します。
ただ単純な「黒い点」(視認)
→ 「影響作用点」(射程距離)
→ 直接的「接触点」
という全く意味合いが異なる3つの 「点」 の推移を、時間や場面の省略なしに表現してきたことに、
これではまるでSF映画ではないか! と、愕然としたのです。
ちょっと補足すると、
今作は地球上の1地域であるアラビア半島を舞台にしての、
時速100Kmにも満たないラクダの移動によるものなのに、
その時間と空間の贅沢な使い方によって、あたかも
広大な宇宙空間を舞台にしての、
光速で疾走する移動体による
宇宙的な時空間 を表現していたのです。
「視認点」 「影響作用点」 「接触点」 という、3つの 「点」 の推移を、連続的に1つのシークエンスで語り切るなんてことは、CGを駆使したSF映画でしか実現できるはずがない!
と勝手に思い込んでいたボクの常識を根本から覆えしてくれたことに驚愕し、狂喜してしまったのでした、
そして、考察を進めていくと、このシークエンスにはこのような 「点」 の推移 ばかりではなく、 「図形」 や 「集合」 という数学的なニュアンスで、刻々と変化をしていく 登場人物の関係性 を表現してきたことに気づきました。
多重的に幾何学的な側面で映画を語ってきたことに対して、ボクはこのシークエンスを前述のように
「SF的にして幾何学的な1シークエンス」
と評したのです。
それでは、登場人物の関係性 の変化を、ボクの脳内細胞 が妄想する 「図形」 と 「集合」 という側面から見てみることにしましょう。
① 今シークエンス開始直後の ロレンス+案内人 で構成される “ここ” という
「地点」 と、遥か地平線に 「黒い点」 が突然現れた時点では
夫々の 「点」 は独立した存在
という 「点」 として捉えられました。
② しかし、「黒い点」 がこちら側に接近していることが判明すると、
ロレンス+案内人 という 「地点」 と、その 「黒い点」 は俄然、関連性を
持ち始め、無関係な 「点」 と 「点」 であったものが、
この二つの「点」 を結ぶ 「線」、
しかも、その長さが 微妙に縮まっていく 「線」
を意識し始めたのです。この時点で
「黒い点」 VS 「二人の人間」
という関係性が表されていったのです。
③ 次に 「黒い点」 が 「黒ずくめのベドウィン」 であることが判明した時点には、
夫々の存在が独自性を持ちながら、夫々を監視するような緊迫感に包まれて
いきました。その時の陣形は、ロレンスと案内人を短辺とし、
「黒ずくめのベドウィン」 を頂点とする
凄まじく細長い 「二等辺三角形」、
しかも、その二等辺を微妙に縮めていく 「二等辺三角形」
がボクの頭の中で形成されていき、
「二人のベドウィン」 VS 「一人の英国人」
という不穏な対比に移行していったのです。
④ そして最後、常に接近をし続けて来た 「黒ずくめのベドウィン」 が長きにわたる
移動を止めた時に形作る陣形が
ロレンスと、もはや死体と化した案内人、
そして 「黒ずくめのベドウィン」 とによる 「正三角形」 だったのです。
「点」 → 「線」 → 「二等辺三角形」 → 「正三角形」
とボクの脳内は様々な陣形を妄想し、
「二人の人間」 VS 「1個の死体」
という一つの死 と 部族長アリの登場 という
大きな結末を迎えたのです。
視覚というインプットからボクの脳内に生成されていった 「図形」、
「図形」 より深く、存在意義という根源的な問題を写す 「集合」、
夫々の観点でこのシークエンスを捉えると、実にスリリングに3つの存在の変容を楽しむことができたのです。
砂漠という極端に単純化された舞台だからこそ、宇宙的な時空間を創出し、幾何学的な表現をなし得た奇跡を噛み締めながら、10分前の 「超ロングショットで捉えた極小サイズのロレンス」 の意義を反芻したのでした。
しかし、このシークエンスの最も大きな役割はこれから約2時間50分後、終盤のダマスカスで露呈されていった事実にオーバーラップさせてくることであった、と断言します。
それは、英国に先駆けてダマスカスを攻略したにも関わらず、部族間の対立によって内部崩壊をきたし、覇権を英国に横取りされてしまう要因をこの時点で提示していたことだと思うのです。
「黒ずくめのベドウィン」 を認識した時点の形勢である
「二人のベドウィン」 VS 「一人の英国人」
という数的有利を、部族間のしがらみで殺し合いに至り、
「二人の人間」 VS 「1個の死体」
否、再考した結果、
「一人のベドウィン」 VS 「一人の英国人」 VS 「1個の死体」
という関係へと移行していったのです。
結果的にはそのアドバンテージを自ら放棄してしまい、決して1つの大きな力に集結することなく、夫々の小さな部族に帰結してしまう。そんなアラブの民の特異性をこの時点で提示していたのです。
終盤、ロレンスの挫折を決定付けたこの重大要因をまるで予言をしているかのようなこのシークエンスに触れて、ボクは今作の凄まじい奥深さにただただ感銘したのです。
「大胆にして繊細なる ジャンプカット」 と 「超ロングショットによる 極小サイズのロレンス」、そして、この 「SF的にして幾何学的な 1シークエンス」 によって
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】
は構成されていたのです。
ボクは凄まじい密度に歓喜の声を上げながらこの30分を鑑賞したのです。何と芳醇な映画体験なのでしょう!
しかし、序盤以降は残念ながら
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】
はその威力を穏やかにしていきました。
とは言っても、アカバまでの砂漠横断を決断する神秘的な砂漠の空間や、砂漠に取り残されたベドウインをたった一人で救出し、召使の少年と再会するロング横位置の幾何学的なカット。
そして救出に成功したロレンスを讃えた直後に、彼の英国軍服を火にくべてしまうカットの次の真っ白なアラブの民族服に身を包んだロレンスへの移行。
はたまた、アカバ攻略を1カットで語りきった素晴らしいパンニングショット。
シナイ半島を越えてカイロを目指す一行を待ち構える宗教的寓話にもなぞらえる砂嵐。
その後の突如として砂漠に現れる大型客船。
と、このように随所に素晴らしいシークエンスが多々ありました。
特に大型客船登場にみるスエズ運河到達のシークエンスは、開始30分の神通力にも匹敵する素晴らしいものであったのです。
何故なら、【 開始30分における、空前絶後のパワー 】 を構成していた 「大胆にして繊細なるジャンプカット」 と同じように
英国支配 ⇔ アラブ世界 の移動を
一瞬にして表してきたからなのです。
砂漠の地に突然現れた大型客船が表すのは、文明社会の成果物であるスエズ運河に行き着いたということであり、それは自然の摂理に支配されたアラブ世界から離れ、産業革命を成した英国の支配領域に到達したことを表現していたのです。
それを対比的に表したのが、スエズ運河の対岸から ロレンス達に声をかける男の存在でした。この人物が跨っている移動手段が
工業製品のバイク
であり、片やアラビアから渡って来たロレンス達は当然のごとく
ラクダに乗ってきた
わけです。バイクとラクダ、この象徴的な乗り物の対比が 支配領域の変化 を際立たせていたのです。
両者の間を満々と水を湛えるスエズ運河が境界線として横たわっている、そんなシチュエーションで対岸の男は名前を聞くような気軽さで 「君たちは誰だ」 との質問をします。
しかし、指令もなく独断でアカバを攻略し、英国軍服ではなくアラビアの民族服に身を包んだロレンスに対して
「お前は一体、どちらの属性についているのだ?」
という、ロレンスの内面世界にまで鋭く問いてくるもののように感じました。
また、対岸の人物がバイクに乗っていたという必然も、当然のことながら、ロレンスの最期がバイク事故であったことに関連づけた演出であったと断言いたします。
今作の主人公はこの時点ではラクダに跨がってはいるが、紆余曲折あり、結局は運河のあちら側 (カイロ → 英国) の人間となって死んでいったことを想起させていたのです。
このシークエンスは
「アラブ」 と 「英国」、
「現在」 と 「未来」、そして
「ロレンスのレゾンディーテル (存在意義)」
についての考察をめぐらせることができる
上質な瞬間だったのです。
しかし、心地よい鑑賞はこの後に提示された 鉄道爆破のカタルシス を最後に終わりを告げていきました。
今作は英雄的な働きをしながらも、最後は国家間の思惑によって夢破れ、失意の内に人生を終える男の物語であろうことは予測をしていました。しかし、ロレンスという人格がこうも
エキセントリックに豹変
してくるとは思いもしていなかったので、突然の展開に狼狽してしまったのです。
鉄道爆破のカタルシスの後、自信過剰で傲慢な態度に耽っていたかと思うと、トルコ軍に拷問されたことで一転の鬱状態へ、しかし多額の軍資金とダマスカス覇権の誘い水に乗ってより冷徹でより傲慢な態度を見せ、ついには拷問による反作用なのか、殺戮を指揮する
異常な戦争犯罪人
へと変貌していったのです。
エキゾチックな舞台で、挫折をしていったヒーロー像しか思い描いていなかったボクは、このロレンスの精神異常的で血生臭い暗黒面の提示に対して、正直、驚きを隠せませんでした。
このようなショッキングな変貌があったからこそ、冒頭のロレンスの葬儀には賛否両論の極端な評価がなされていたのでしょう。「英国」 なのか 「アラブ」 なのかの
表層的な 「属性の混濁」 の他に、
彼の精神世界の奥底 には、このような人格崩壊とも言える大激変が
勃発していたのです。
そしてこの様相は当然のことながら、1970年代後半 「ディアハンター」 そして 「地獄の黙示録」 が描いてきた、
「戦争の狂気によって引き起こされた 人格崩壊の悲劇」
を思い出さずにはいられませんでした。
幸いにも今作のロレンスは砂漠の奥底から帰還をすることができましたが、ベトナムの密林奥深くに残り 「恐怖の王国」 を創ったカーツ大佐という存在もありました。
「ベトナム戦争」 と 「第一次大戦」、 「密林」 と 「砂漠」。
二つの映画の間には大きな時空の隔たりがあるように思えますが、その根底にある激しい感情は全く同じものだったのです。
戦争が持つ 巨大な負のパワーを前にして、人格が崩壊していく悲惨な姿に、心を掻きむしられる思いでいたのです。
これが終盤、ボクの高揚した気持ちをどん底までに突き落とした
【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】 だったのです。
開始30分に展開された悠久の時の流れと宇宙的な広がりを
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】
と名付け、その圧倒的な美学に驚愕と狂喜の念を抱きながら、主人公にカリスマ性を付加していく過程を思う存分に楽しんだのです。しかし、終盤は一転して
【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】
という激痛のムチ打ちを、むき出しの心は思う存分に受けてしまったのです。
そう、この耐えがたき拷問によってボクは今作の主人公のように廃人同然となっていったのです....。
今作が終わりを告げてしばらく経って、ボクは悟りました。
序盤の葬儀で噴出していた、 「賛」 と 「否」 、この 「二面性」 を背負わされていたのは何も、ロレンスだけではなかったのです。
こんなにも複雑な精神を抱えたロレンスが棲みついている今作の映画世界自体にこそ、
【 開始30分における、空前絶後のパワー 】 という、
華々しい 「陽」 の部分と
【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】
という、壮絶なる 「陰」 の部分によって
他を圧倒する、
絶対的な 「二面性」
が構築されていたのです。
そしてこの
強固な 「二面性」
こそが、
制作後40年を経た現在においても、
名作として鑑賞され続ける今作の
「レゾンディーテル (存在理由)」
であったと結びます。

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