通勤時間に、ポータブルDVDを活用しての通勤快速内鑑賞を、ウインドウズタブレットで執筆を行っています。 鑑賞中の直感的な感想をツイッターで 「実況」 → 鑑賞後、作品を俯瞰して 「未完成レビュー」 → そして推敲して 「完成! レビュー」 へと3回の過程を経て完成させていく様をご覧くさい
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完成! 「緋牡丹博徒 花札勝負」
2009-07-04 Sat 00:20

緋牡丹博徒 花札勝負1

 

 

今作の鑑賞は


     冒頭から 【 ローアングル深遠なる世界 】    狂喜

     やがて  【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】  驚嘆

     後半は  【 加藤泰作品共通項探 】      興じた


                                     
                                    充実の映画体験となりました。



今作はしょっぱなの1カット目から、容赦のない 「ローアングル」攻撃が炸裂し、
その2カット後の、映画開始早々の3カット目には


    【 ローアングルによる 「3D」 効果 】  そして

    【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】


                                 とも言うべき表現訴求のエッセンスを
                                 感じ取ることができたのです。



線路内、2本のレールの真ん中を 緋牡丹のお竜さん が白い着物姿でこちらに歩いて来ます。
そして、その手前の踏み切りを横切りながら 盲目の少女 がフレームインしてきました。
カメラは地面に埋めたような極端なローアングルであるために、遠くにいる お竜さん の全景を捉えても、カメラ近くを横切る 盲目の少女 の姿は腰から下の足の部分しかフォローしていないのです。


       全景 お竜さん  
       された 盲目少女。


この非日常的な構図が非常におもしろく、
また、お竜さん が奥から手前に向かって線路に沿ってやって来る


       運動 


盲目の少女 が踏み切りを右から左へと横断する


       運動 


との重なり具合がとっても興味深く、映画開始3カット目にして、ボクは早くも 映画的興奮 を得たのでした。


この映画的興奮を考察してみると

遠くに全景で捉えた お竜さん に対し、カメラ近くを歩く 盲目の少女 は画面上では大きな面積を占めてはいるものの、肝心の顔は写っていないのです。
どんな女の子なのかな? と疑問を生じさせる表現によって、 盲目の少女 の存在感を増幅させているこの演出に対して、ボクは



       「遠近法」 の 誇張 

                        を感じることができたのです。



「遠近法」 とは 

近くにあるものを大きく描き、遠くのものを小さく描いて、
遠くのものと近くのものとの間にある 奥行きを表し、
立体感を表現する絵画の手法である。 
                                と理解しておりますが、


普通のカメラ位置で撮影されたありきたりな 「縦の構図」 よりも、
今作のようにローアングルによって身体の一部を画面上に大胆に配置し、
非日常的な切り取り方をされた 「縦の構図」 の方が、


      くにいる少女存在感 より強調され
      「遠近感」 がより一層    誇張された

                                       と感じられたのです。


要するに、お竜さん と 盲目の少女 の客観的な実際の大きさの対比よりも、
ローアングル映像が作り出す


      精神的える存在感いの、大きい

                                       と感じられたのです。

その為、二人の距離感が、実際のものよりも強調され、


      より立体的3D映像

                              としてボクの右脳に飛び込んできた
                                       というわけなのです。


この表現手法をボクは


      【 ローアングルによる 「3D」 効果 】


                         と名付け、大いに評価をしたいと思ったのです。


こんなことを感じていたら、盲目の少女 は突然、横の運動を止め、くるっと左90度曲がって、お竜さん と同じ縦の運動を開始していったのです。

それは、盲目の少女が安全地帯である踏み切りから1段踏み降ろして、危険地帯である線路内に立ち入ってしまうことを意味します。

物語を進行させる上で重要となるこの動きに対して、今作はその極端なローアングルを活用することよって見事なまでにその動作をクローズアップさせてきたのです。
そして、この素晴らしい表現手法によって、ボクは続けざまに大きな映画的興奮を獲得することになったのです。

この再びの、映画的興奮を考察しますと、
今回のローアングルは、進行方向を変える 「作用点」 となる少女の足元を直接的に映し出せるカメラ位置となっており、しかも、今作の地面スレスレの極端なローアングルによって、足元にある 1段 の 「高さ」 と 「重み」 をしっかりと目撃させることができる


      稀有カメラ位置   となっていたのです。


これによって 「安全地帯」 と 「危険地帯」 との境界線を彼女が越えてしまう切迫感を、


      直感的          視聴者に植えつけることができたのです。


通常のカメラ位置では、このような地面に接した足元での出来事はフォローし切れない領域であり、それ故、この動作を強調しようとすると、足元のアップをカットで抜くか、さもなければティルト・ダウンを施すか、場合によっては移動撮影を仕掛けることになり、当然のことながらリズム感を損なうなどして、


       わざとらしい演出     になりかねないものですが、


驚くことに、今作は 「少女の登場」 から 「方向転換」、そして 「一段降り」 までを据えっ放しの1カットで表現をしてきたのです。
しかもカメラ位置が極端に低いローアングルであるために、少女の足元と、その少女の動きを気にしている お竜さん の存在さえも


      同一カット表現     することに成功していたのです。



      近くのものは低い位置を捉え、
      遠くのものはそれより高い位置のものを捉えやすい

                                このローアングルの特長を十分に
                                活用していたのです。


この特長を言い換えると、
先ほど 「縦の構図」 という言葉を使って、奥行きの表現について話しましたが、
今作に活用されている構図は


      【 ローアングルによる 「斜上」 構図 】


                                  と表現できるのではないでしょうか。                   

近景、中景、遠景 が織り成す位置関係を 奥行き という一つのベクトルで統制している


    「縦構図」 
                    「高さ」 という、もう一つの方向性が加わって、

    「斜構図」 という
                    空間を多重の指標によって制御している、興味深い映画
                    世界が、今作においては展開されていったのです。


一概には言い切れませんが、

       「近景下部、中景中部、遠景上部」

                                         を重点エリアとする


斜め上に向かっていくラインを意識させる 「斜め上の構図」 の世界観に強く興味を引かれたのでした。

盲目の少女の登場、そして方向転換と一段降り。 この一連のたった9秒の出来事ではあったのですが、この映像は今作を鑑賞していく上で表現上のキーとなる


      【 ローアングルによる 「3D」 効果 】  

      【 ローアングルによる 「斜上」 の構図 】 


                  萌芽を感じ取ることのできた、開始早々3カット目で見つけた
                  わかりやすいサンプル映像となっていたのです。


そしてこの2つのローアングル世界は様々な場面で活用され、このサンプルよりもその表現効果を増大させているカットに遭遇していくことになるのですが、その度ごとに語っていくと


  【 奥床しさが任侠映画であること  と 
                               【 加藤泰作品共通項探 】 

                     について書くスペースが無くなってしまうので
                     うづうづする気持ちを抑えながら、先を急ぐことにします。


先を急ごうと思いつつ、素晴らしいカットに遭遇してしまうと、どうしても思いを巡らさないわけにはいかなくてしまいました。

「珠玉の9秒」の 1分45秒後、善玉たる西乃丸一家 への お竜さん の「仁義」のシーンにおいて、素晴らしいシークエンスは再び展開されていきました。
実は、このシークエンスをキッカケとして、ボクは今作に漂っている、ある種の 奥床しさ を感じ始めたのです。

普通の監督なら、「仁義」という見せ場はドーンと正面から全身ショットを撮りたいところなのでしょうが、今作の監督である加藤泰監督は全く違っていました。
彼は仁義を切る お竜さん を ちょっと離れた隣の土間から横位置で、大きな暖簾ごしに見ていたのです。
暖簾がめくれると お竜さんの顔が現れて、閉じると顔だけ見えない。
この表現方法に触れて、不思議な言葉の組み合わせになりますが、何とも


        “ 奥床しい 仁義 ”      として受け留めていったのです。


次の2カット目は お竜さんの顔が映し出されるはず、と思いきや、今度は お竜さん の反対側にカメラが回り込んで相変わらずの、ちょっと距離感を保つ横位置カットとなっていきました。
3カット目こそは お竜さん のアップだろうと思ったこのカットは その仁義 を真摯に聞き入る 受け人 の姿を正面に据えてきたのです。

しっかりと前を向き、正座で両手こぶしを床についた誠意ある態度で お竜さん の口上を請けたまわっているのです。



お竜さん 「 (略) 渡世修行中のしがなき女にござんす。行く末万端、
         お見知りおかれまして、よろしくお引き回しのほど、おねがい致します。 」

受け人  「 ご丁重なるご挨拶に遅れましての仁義、失礼さんにござんす。手前 (略) 
        杉山貞次郎に従います、若造です。(略) 渡世の道はいまだ修行中のしが
        ない者でございます。以後、お見知りおかれましてお引き立て下さい。 」



このような文章にしてしまうと、ありきたりな仁義の口上でしかないのでしょうが、ゆっくりと、しっかりとした口調と、独自な抑揚の付け方によって、何故かしら、


        格調伝統芸能
                            を鑑賞しているような、
                            あらたまった気持ちになったのです。


そして、このシークエンスの雰囲気を端的に表すものが仁義の終盤、上記のセリフつながりで姿勢を直す時の二人の間で交わされた会話にみることができました。



 お竜さん  「 ありがとうござんした。受け人さんよりお手をお上げなすって下さい 」
 受け人   「 ありがとうござんす。ではご一緒に手をあげましょう 」



この奥床しさが、他の任侠映画と今作を分かつ大きな要因なのかもしれないと感じ初めたのです。
そして、仁義という見せ場をまっ正面から見据えるようなことはせず、距離を置き、少しづつ近づいてくる、そんな奥床しい演出に加藤作品の品格を見た思いだったのです。

とこのようなことに感じ入っていたら 嵐寛寿郎氏 が善玉親分として登場をしていきました。
ここで 今作特有の任侠世界にある 奥床しさ とともにボクは


       【 加藤泰作品共通項探 】

                               に興じ始めていったのです。


今作は緋牡丹博徒シリーズの第3作目にあたるのですが、今作の続編的な作品で、同じ加藤泰監督によるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 にもアラカンさん は お竜さん が客人として身を置く一家の昔気質の親分として登場していました。
そして、緋牡丹博徒シリーズではないのですが、今作の加藤泰監督による名作、 「明治侠客伝 三代目襲名」 にも善玉親分として登場していたのです。
その類似したキャラクター設定からボクの脳裏に、


        ある共通展開
                       がどうして浮かび上がってしまったのです。


その、ある共通の展開とは、上記の 「緋牡丹博徒 お竜参上」 と「明治侠客伝 三代目襲名」 の2作品とも アラカン親分は、反目する悪玉一家の策略によって襲撃され、生死を彷徨う重傷を負わされてしまったのです。


    2度あることは3度あるのか?
    それとも、五体満足のままで今作のエンディングを迎えることができるのか?


今作を鑑賞する上で、こんなことに留意するのは邪道なのでしょうが、同じ加藤泰作品つながりで、見守っていきたいと思ったのでした。


やがて、緋牡丹シリーズの重要な相手役となる、旅人(たびにん)役の 高倉健さん が登場してきました。
初登場シーンは、 お竜さん と 西乃丸一家の人間に対して、反目する悪玉一家の住所を尋ねる場面となるのですが、ここでも今作で感じた特有の


         奥床しさ 
                  を感じることができたのです。


西乃丸一家の人間は 健さん を反目する悪玉一家の関係者として邪険にあしらうが、 お竜さん は誠意を持って道を教えてあげ、しかも、雨の中、傘を持たない 健さん に自分の傘までもを貸してあげようとします。
当然のように 健さんは 「 ご親切だけいただいてまいります。 」 と遠慮しますが、結局はお竜さんの親切を受けていきました。
その様子を見ていた西乃丸一家の人間は自分の言動を反省。
お竜さん も最初は良い気はしなかったが、


  「 折り目の正しい旅人 (たびにん) さんには、なんも罪はなかですばい 」 

                                 の心意気で接していたというのです。


実際の任侠の世界を知る由もありませんが、このような娯楽としての任侠映画は、主人公は聖人のようにどこまでも善良で、悪玉はあくまでも悪どいという極端な構図を作ってくるものですが、このシーンはそんな傾向を割り引いて見ても、語ってきた世界観は実に 奥床しい ものとしてボクは受け留めたのです。

そしてこのシーンにいて、お竜さん から 健さん へと傘を受け渡す手元のアップをたっぷりと見せてきたところから、反目する一家の客人同士の ロミオとジュリエット 的な人間関係が生まれる予感を感じ取ることができたのです。

そして、この予感は先ほどの アラカン親分 にみる不幸な連鎖と同じように、一つの共通な展開を予感させていったのです。それは、加藤泰作品において



      任侠映画での 「男女機微」   を描く時は、

      「川」 舞台としてばれている      偶然だったのです。



先ほども引き合いに出した加藤泰監督のシリーズ6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 に燦然と輝く名場面、
雪降る今戸橋での お竜さん と 旅人(たびにん) の菅原文太さん の間で交わされた一本筋が通った、しかし情感に溢れた素晴らしいシーンは 今戸橋という 「川」 の上でした。
そして前出の 「明治残侠伝 三代目襲名」 において 鶴田浩二さん 演じる主人公と情感を交わすのが、 お竜さん というキャラクターを得る前の 藤純子さん その人だったのですが、その舞台も夕焼けが美しい 「川沿い」 の道だったのです。 そんな


       偶然なる


今作において、お竜さん と 健さん が出会う、この雨の場面は、背景に鉄道橋が配置された場所で、その下には鉄道橋と交差する小さな木橋が奥に見えるのです。
そして お竜さん が道を教えているときに、 「この堀川ば真っ直ぐ・・・・」 とのセリフがあることからこの舞台が水まわりの場所であることがわかります。
数少ない加藤泰監督による任侠映画の鑑賞歴をフル動員して推察いたしますと、きっとこの場所が、お竜さん と 今回のスペシャルゲストであるところの 健さん との、


      男女情感てる場所
                                になるのだろうと、
                                直感的に理解をしたのです。
 

やがて、この直感は アラカン親分の受難 という予感と共に実現されていくことになりました。
それは、健さん が悪玉親分への渡世上の義理に縛られて、アラカン親分 への刺客にされる前に、この鉄道橋下で お竜さん を待っていた という展開をみせていくのです。
これによって今作の言わば 裏鑑賞テーマ としていた


      2つの予想矢継やに的中

                         したことによって
                         ボクは大きな興奮を得ることができたのでした。


鉄道橋下のシーンでは、ファーストシーンで登場した盲目の少女の目の手術を巡る会話を通して二人は心を交わしていったのです。
出会いのシーンは雨でした。そして、別れを秘めたこのシーンでは はらはらと雪が降っています。
雨のシーンでは、傘を持たない 健さん に お竜さん が傘を貸してあげていましたが、
今回は、その逆で、傘を持たない お竜さん に 健さん が傘を差し出すという行動が用意され、


       気遣いをいにかけている

                         そんな心の重なり様が見て取ることができました。


そしてこの後、健さん が アラカン親分 の刺客となることで、二人の関係性が変容してしまうことを考えると、何とも切ない気分になってくるのでした。

このように、二人の叶えられない感情を盛り上げる準備は万端整っていました。
しかし、今作の 男女の機微を訴求するシーンは、背景に鉄道橋が重くのしかかるビジュアル設定としてしまっているために、叙情的なヌケの良さがなく、他の2作品、
「明治侠客伝 三代目襲名」 にみる、夕焼けが美しい 「川沿い」の道や、
「緋牡丹博徒 お竜参上」  の珠玉のシーン、雪降る今戸橋が実現した、



       任侠世界での サンクチュアリ (聖域) 



までには昇華していなかったように感じて、大いに残念に思いました。
恐らく、今回の未消化を踏まえたからこそ、加藤泰監督は今作の続編的作品であるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 において 雪の今戸橋 という美しさを実現できたのではないかと思えたのです。


もう一つの共通項である、アラカン親分受難のシーンは、文句の付けようもない素晴らしい出来映えとなっておりました。

何と言っても アラカン親分 の刺客となるのがゲスト主演たる 健さん なのですから、他の2作品とは比べものにならない重みがあったのです。

「明治侠客伝 三代目襲名」 では 物語上重要でない者による背後からの不意討ち。
「緋牡丹博徒 お竜参上」  では、その他大勢によるヤミ討ち。   であったのに対して、
今作は刺客となる 健さん の苦悩を映しつつ、正々堂々の1対1の真っ向勝負が行われていったのです。
その際の、刺客である 健さん と アラカン親分 の間で交わされた言葉が、お竜さん の仁義の場面で、そして、健さんに傘を貸してあげるシーンで、様々な場面において感じた、



        一本筋った、奥床しさ
                                  に満たされていたのです。



健さん     「 (中略) 親分さんに不本意なお願いがありまして、やってまいりました。
           渡世上、親分さんに恨み辛みは一切ございません。のっぴきりならねえ
           義理で命をいただきに参りました。差しで勝負お願いします。どうか、
           ドスを取っておくんなさい。 」

             ( いきりたつ子分たち )


アラカン親分 「 筋を通った挨拶をしてなさるお人の前で、不躾なまねはやめな。
           手出しするんじゃねえぞ。  
           (略・健さんに向かって) どっちが倒れても、この場限りにしょうぜ。 」


と、アラカン親分は健さん の勝負に臨むことになるのです。
ここには、ヤミ討ちや騙し討ちなどというものが介在する余地などなく、折り目正しい、男の勝負を挑む 健さん と、その心意気に 死を覚悟して受けて立つ アラカン親分 の姿があるのです。


        奥床しい 
                     場違いな言葉かもしれませんが、
                     ボクにはしょうがなくも、そう思えてしまったのです。


渡世の義理のために刺客となり、そして、相手の心意気に対して死を覚悟して決闘を受ける。
尋常では理解できない世界ではありますが、二人の男の魂の対峙の前に、襟を正す気持ちになったのです。

重傷を負いながら 悪玉一家への報復を諌めるのは、他2作のアラカン親分と同じですが、そんな身でありながら、「勧進賭博」 という公の場を取り仕切り、出血を抑えながらの気丈な振る舞いを見せ、そして死を迎える展開は、


        荘厳迫力ちて

                 他の2作とは比べ物にならないほどの充実ぶりだったのです。


「男女の機微」 という側面では残念な結果であった今作は、「アラカン親分の受難」 という側面で捉えると、非常に素晴らしい出来だと高く評価します。






忍耐に忍耐を重ねた末に、今作はとうとう


         悪玉一家への込み  という

         カタルシス            
                         へとなだれ込んでいきます。


この流れは任侠映画におけるお約束の展開となっており、まるで水戸黄門における
 「葵の印籠」 的な


       クライマックス終結方法   とも言えます、


この一番の見せ場に至って、突如としてその存在感を飛躍的に大きくしていった人物がいたのです。
それはシリーズの脇役的人物であり、今回は終盤になってやっと登場した 不死身の藤松 という存在だったのです。
彼は お竜さん の兄貴分である 道後の熊虎 の子分という立場ですが、悪玉一家に一人で殴りこむ お竜さん の気持ちを察して同行を申し出るのです。

たったこの1シークエンスだけで 不死身の藤松は、今作のゲストスターである 健さん を、ボクの心の中で大きく超えていってしまったのです。

雪降る中を一人、悪玉一家に殴りこみをかけようとする お竜さん に傘を差し出す 不死身の藤松 。


藤松 「 叔父貴 (自分の親分の兄弟分だから お竜さん をこう呼ぶのでしょう)、
      お供しまっせ。  (中略)  行くな 言われても行きまっせ。
      叔父貴 一人行かせて四国にのこのこ帰ってみなはれ、
      わい、親分に絞め殺されますがな。 」


と朗らかに、笑みさえ浮かべて言うのです。お竜さん をはじめ 健さん、そして アラカン親分 の主人公級の方々は勿論ですが、今作においては、不死身の藤松 や冒頭の 仁義の受け人 など、脇を固める存在までもが、


        奥床しく
                   振舞っていくのです。


そして 不死身の藤松 が 「わい、親分に絞め殺されてますがな」 と殴りこみ同行の意志を告げ終わった瞬間、流れるんですよ。
何がって? 緋牡丹のお竜 のテーマソングが流れるんです。 あまりにも絶妙のタイミングだったものだから、背筋がブルッと振るえる感覚に襲われました。

雪降る中、お竜さん に傘を差しかけながら、テーマソングを従えて、殴りこみの道中をいく 不死身の藤松 を


        カッコイイ 
                    と心底思ったのです。


しかも、今作において相手を気遣う象徴として捉えた 「傘」 という小道具を持ちながらの道中ですからなおさらズルイ。

これでは 不死身の藤松 に食われてしまうと心配した瞬間、定石通りに今作のゲストスターである 健さん は、悪玉一家への殴りこみに、お竜さん達の助っ人として大立ち回りを演じていったのです。
よしよし、と鑑賞していくと、 あれ! あれ? 不死身の藤松 にポイントを持って行かれそうだから


       焦ったのでしょうか  


ゲストの 健さんが、シリーズ主人公の お竜さん を差し置いて、何と、今作の悪の象徴である悪玉親分を成敗してしまったのです。

この瞬間にボクは非常に残念な思いに打ちのめされていきました。
なぜなら、この瞬間に今作は 「緋牡丹博徒」 という独自の美学を持った任侠映画ではなくなってしまい、健さん が主人公を務めている 「昭和残侠伝」 や 「日本侠客伝」 という他の任侠シリーズに変容してしまったと感じたからなのです。

冒頭の お竜さんの 仁義のシーンで、そして、雨の鉄道橋の下で、アラカン親分受難の場面で感じていた今作の美徳である


         奥床しさ 
                  をかなぐり捨てて、


「俺が東映のドル箱スター。 高倉健 だ!」 と 「緋牡丹博徒」 の映画世界を乗っ取らんばかりの出しゃばりようには、正直、失望をしてしまったのです。

そして、健さん が悪玉親分を討ってしまったことによって生じる


         構造上不手際
                          露呈されていったのです。


それは、この選択をしたことによって、不本意ながら悪玉親分によって刺客をやらされた 健さん の恨みのみが強調されてしまい、アラカン親分 の不幸や、本文では触れていませんが、一人殴りこんで死んでいった 受け人さん や 盲目の少女の母親である “ニセお竜” の無念 がどこかに行ってしまったと感じるところにあります。
彼らの気持ちを代弁してくれる


          唯一存在 


である お竜さん によって悪玉親分がトドメをさされなかければ、全ての恨みが未消化のままで、宙ぶらりんなエンディングを描いてしまうと言うのに、このような構造的とも言える感情の面での不整合が発生してしまったのです。

この行為は 助さん や 格さんが 

    黄門様をないがしろにして
    「葵の印籠」 を勝手に掲げて、悪代官を懲らしめてしまったようなもの

                                              といえるでしょう。 


     
       うーん、しっくりこない。



様々な映画的興奮をもたらしてくれた今作ではありましたが、終盤にして突如として今まで積み上げて来た稀有な世界観を投げ打って、釈然としないままに終わりを告げていきました。
「あーもったいない! あの出しゃばりさえなかったら完璧だったのに」、と嘆いても仕方がないことですので、ボクの脳内では、悪玉親分を殺ったのは、今作の主人公 お竜さん であった。ということに変換しておいて、強引に納得をさせたのでした。




今作を総括すると、


映像演出的 には
              【 ローアングル深遠なる世界 】   狂喜

人物描写的 には
              【 奥床しさが任侠映画であること 】 驚嘆

個人的 には
              【 加藤泰監督作品共通項探 】  じた



                                  素晴らしい映画体験となりました。




加藤泰監督作品で未見である
        シリーズ7作目  「緋牡丹博徒 命頂戴します」 にも 
アラカン親分 が出演をされていることですので、機会があれば、「アラカン親分の受難」 が


        たびにってされるのか  


そして、7作目 「緋牡丹博徒 お命頂戴します」 の旅人(たびにん) さんである 鶴田浩二氏 との間で交わされる であろう 男女の機微が、 「川」 がらみの場所で進行し、


        無垢なる 聖域(サンクチュアリ) 形成していくのか


                      について観察をしてみるのも、一興かな? と思いつつ
                      今作のレビューを終えるのでした。



 

緋牡丹博徒 花札勝負2

 

 

緋牡丹博徒 花札勝負3

 

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