序盤で察知した3っつのマイナス要件、
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
2.監督の不可解な自制
3.非連続的なキャラクター付けの予感
を今作が改善していくのか否かが、ボクの鑑賞テーマとなりました。
そして、序盤早々に激しく心を動かされた
「逆行する大時計」 による
芳醇なる映像世界が
ラストの8分において、
怒涛のように押し寄せてくる快感に
身をまかせる鑑賞となったのです。
今作のレビューを始めるにあたって、まずは序盤早々に心を揺さぶられた
「逆行する大時計」
について語る必要があるようです。
今作の主人公であるブラッド・ピットは、老人の身体で産まれきて、歳を取るごとに若返っていく役どころなのですが、そのコンセプトを
前奏曲のように奏でる
珠玉のシークエンスが、
「逆行する大時計」 であったのです。
このシークエンスは、戦争で一人息子を亡くした時計職人が市の依頼によって 「大時計」 を製作する内容となっているのですが、その時計職人が完成させたのが
通常の 時計廻り ではなく、
反時計廻り に動く時計
であったのです。
その完成披露式典において、反対に向かって動き出した 「大時計」 に驚く人々に向かって、演説台の彼は
「時を戻せば... 戦死した若者が帰って来る。」
と静かに語るのです。
この演説のシーンに挿入されてきた映像こそがボクの映画的興奮をかき立てていったのですが、その映像は 「戦死した若者」 が戦場において敵陣に突入をしているスローモーションカットだったのです。
これだけでは、ありきたりな展開なのでしょうが、その映像が、まるで時を戻す 「大時計」 に従うかのような
巻戻し ― 逆回転映像 ―
となって提示されていたのです。
本来ならば
“「左」 から 「右」 にかけて兵士達が銃弾を避けて敵地に突入する”
映像となっているのでしょうが、
それが巻き戻し映像となっているので、
移動の方向は 「右」 から 「左」 へと、
兵士達の向きは 「後ろ向き」 に変更され、
“「右」 から 「左」 へ敵地から離れて行くように、
何故か 「後ろ向き」 に兵士達が逃げていく”
不思議な映像となっているのです。
大きな違和感を抱えながら観ていくと、すぐに
「そうだったのか」
と息を飲んでしまったのです。
“「右」 から 「左」 へ敵陣から 「後ろ向き」 で逃げて行く”
彼らですが、気が付くと
敵陣から逃げて行く兵士が増えていくのです。
映し出されている映像を忠実に言葉にすると
“地面に寝そべっていた者達が続々と飛び起きて皆と同じように、
“「右」 から 「左」 へ敵陣から 「後ろ向き」 で逃げて行く”
という表現になるのですが
この映像が 「逆行する時計」 に呼応
するものであることを考えると、
本来のオリジナル映像は
“「左」 から 「右」 に向かって、敵陣突破をかけた兵士達が、
襲い来る銃弾に続々と倒れていく”
そんな、凄惨な映像であったことがわかるのです...。
若者が戦地に赴いて死んでいったという事実。
この事実を
「時を戻すことで救済したい。 」
この思いを込めて時計職人が 「時を戻す時計」 を
作っていたことが 痛いほどに伝わってくるのです。
そして、この同じ表現技法によって、次のシークエンスでは心を揺さぶられてしまったのです。
「時を戻す時計」 を作った時計職人は一人息子を戦地に送り出し、その戦死を深い悲しみの中で聞くことになったのですが、今作は予め、彼と一人息子との今生の別れを映し出していたのです。その別れの場面とは、
“愛しそうに一人息子の頬をなでる父親。
やがて一人息子は元気よく列車に乗り込み
父母に手を振りながら出征していく”
というシーンであったのですが、
実はこの場面も 「時を戻す時計」 のルールによって
逆回転映像となって再訴求 されたのです。
そして、この逆回転映像が語ってきたものは
事実とは異なる内容となっていたのです。
それは
“元気よく手を振りながら列車に乗って帰って来た一人息子。
その帰還を心から喜び、思わず一人息子の頬を引き寄せる父親”
という 「戦場からの帰還」 を切実に願う時計職人の
思いを映し出す映像となっていたのです。
正回転 ‐ 通常の時の流れ において予め語られた事実と、
逆回転 ‐ 時が戻っていく世界 において想い描かれた虚構。
この二つの世界の相違によって創出された深い感情に、ボクは圧倒されてしまったのです。 そしてこの深い表現に触れてこのシークエンスは
時が戻る世界観にいるブラピ と、
通常の時が流れていく他の人々との間にできる関係性 を
予言したものに他ならない。
と思い、今後の展開を期待してしまったのです。
しかし、結局、期待は叶えられることなく、この絶賛すべき芳醇なる映像世界には、残念ながら今作が終りを告げる8分前になって、やっとお目にかかることができるのです。 そんな中で、ラスト8分 までの間、何を語っていくかと申しますと、
序盤で察知した3っつのマイナス要件
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
2.監督の不可解な自制
3.非連続的なキャラクター付けの予感
について語っていくことにしたいと思います。
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
というマイナス要件は、山田洋二監督作品 「武士の一分」 で木村拓哉氏が
「キムタク」 でなかったことで発生した
違和感と未達成感
に例えることができるでしょう。
木村拓哉氏は山形の 下級田舎侍を熱演しておりましたが、彼がキャリアの中で
築き上げてきた、カッコイイ都会的な 「キムタク」 ではなかったところに、
もどかしいパワーダウンを
感じずにはいられなかったのです。
今作においてもブラッド・ピットがひたすら老人役でいる序盤では、 いつもの二枚
目の 「ブラピ」 を見つけることができず、
「武士の一分」 現象と
同じ感覚を覚えてしまった、というわけなのです。
2.監督の不可解な自制 とは、
「時を戻す時計」 のシークエンスにおいては、絶賛されるべき芳醇なる映像世界を
創出してきた今作の監督ではありますが、それ以降は
「敢えての自制」
と揶揄したくなるほどに
面白みが無く、ありきたりに物語を語ってきたのです。
歳を経るほど元気になっていくブラピじいさんの姿を印象的に表現できるチャンス
を何度も見送っていることに、
「武士の一分」 現象を超える
フラストレーション
を感じてしまったのです。
そして、「時間の流れ」 がすれ違っていく対比となる、幼馴染の女の子 デイジー
との出会 いのシーンや、彼女と分かり合えていく表現においても 「敢えての自
制」 がもどかしく
監督の本意を汲み取れない
苛立ちを覚えてしまったのです。
3.非連続的なキャラクター付けの予感 というのは
ブラピじいさんを遠くに連れ出して放ったらかしにする調子のいい黒人男性や、
7度も落雷を受けた老人などが登場するのですが、今作のストーリー展開に
関与するわけでもなく、無為にフェイドアウトしてしまう予感をこの序盤にして
感じてしまったことを 示します。 このように映画世界に
有機的に連動しない非連続的な
要素に時間を費やすよりも 、
今作のコンセプトを多重的に奏でることができる
重要要素にもっと気配りをし、
2.監督の不可解な自制
なんてことを感じさせる余地のない、
隙の無い構造をカタチ作って欲しい、 と思ったのです。
今作の鑑賞は、オープニングの 「時を戻す大時計」 から、エンディング8分間の 「芳醇なる映像世界」 に至るまでの膨大な時間にかけて、以上の3っつのマイナス要件が今後、改善されていくのかを見守ることとしたのです。
「成長は不思議だ。そっと忍び寄り...ある日、突然、別人に
変わってしまう。 彼女も別人になった」
と、今作はデイジー (幼馴染の女の子) が思春期の子役に代わり、ブラッド・ピット演じるベンジャミンのこのセリフを発端にして、「若返っていくベンジャミン」 を表現し始めたように感じました。ここにきて 2.監督の不可解な自制 が是正されていくようでした。
その機運の中で印象深いやりとりがありました。
若返っていくベンジャミンに対して ピアノを教えてくれているおばあさんのセリフ
「 (若返っているとしたら) かわいそうね。あなたは皆の死を見るのよ。
つらすぎるわ。人は皆、愛するものを失うものよ。失って初めて大切さが
わかるの。 」
が発せられ、ボンヤリとした印象を持っていた今作において、
やっと
鑑賞コンセプト と認識できる明るい兆しを
感じたのです。
老人施設にいるからこそ、
人生を全うして亡くなっていく人々を見送る ベンジャミンの心境
が表現されるのでしょうし、
「老い」 とは正反対の
「若返り」 をその環境で果たすことになる
ベンジャミンと周囲の関係性。
そして、
幼馴染のディジーの 「正当な成長」 と
ベンジャミンの 「老人からの若返り」 という
正反対のベクトルが描くカタチ
を見守ればいいんだな と思ったのです。
しかし、残念ながらボクの鑑賞方針が定まった途端に今作は
想像だにしなかった暴挙に
打って出たのです。
老人施設という
「老い」 や 「死」 と、ベンジャミンの 「老人からの若返り」 の
対比が引き立つ舞台を
放棄し、
思春期の少女からから大人の女へと
「正当な成長」 を続ける幼馴染のデイジーと、
老人から壮年へと
「若返り」 をするはずのベンジャミンとの
「男と女」 の部分をも
ないがしろにしながら、
ベンジャミンは旅に出て行ってしまうのです...。
落胆しました。
せっかく、
「逆行する時間」 や
「老い と 死」
「幼馴染のディジー」
という要素を登場させて、
次なる展開への準備が整ったところで、今までの作業を台無しにするがごときこの
愚かな行為に、
大いに落胆をさせられてしまったのです。
この局面に際して、序盤で露呈し、懸念をしてきた
3.非連続的なキャラクター付けの予感
を思い出してしまいました。
何人かのキャラクターが登場はしたものの、結局はストーリーとの有機的な連動が図れず、映画世界から疎外された、非連続的な存在として姿を消していく様子に序盤は幻滅を感じたわけですが、今回の懸念を正確に言うと
「非連続的な ストーリー展開」
と言った方が良いのでしょう。
先のおばあさんとの会話によって豊かに展開すると思われた夫々の関係性が、
「ベンジャミンの旅立ち」 によって無下に断ち切られた、と感じられてしまったものですから、
夫々のシークエンスが
全体のストーリーに有機的に関与することなく
孤立した存在
になってしまったと感じたのです。
そして、これによって、序盤で大きな映画的興奮を味わった 「時を戻す時計」 のシークエンスまでもが、結局は今作の
トータルな映像世界に大きく関与することなく、
非連続的で単発の輝き
だけで終わってしまうのかと、
大いに不安な気持ちになってしまったのです。
これから様々な関係性が展開すると期待をさせときながら、その機運を捨てて、ベンジャミンは船乗りとして、
演劇的で特別な空間から
外界に船出して行ってしまいました。
その外的世界でのシークエンスを単純に楽しみはしたのですが、前述の経緯などがあり、これらのシーンは、結局は今作の全体の構成には関与することのない、
非連続なものに成り下がる
と見切ってしまったのです。
外界において 「ロシアでの人妻との恋」 「第二次世界大戦」 を経験したベンジャミンは、結局は故郷である 老人施設 に戻ってきました。
その時点で 仲間意識を持っていた知り合いは、既に天寿を全うして他界。中盤において、今作の鑑賞テーマとなるのであろうと期待したセリフ
「 (若返っているとしたら) かわいそうね。あなたは皆の死を見るのよ。
つらすぎるわ。 人は皆、愛するものを失うものよ。失って初めて大切さ
がわかるの。」
という伏線を
見事なまでに 「無」 に
していったのです。
確かに、第2次世界大戦での潜水艦との戦いで同じ船の仲間が亡くなる展開ではありましたが、明らかに
「老い」 による 「死」
について考察する方が、
「若返っていくベンジャミン」 が主人公である今作においては、テーマが浮き彫りにされるはずなのに...。 非常に残念な気持ちに襲われたのです。
そんな不満を感じる一方、終盤は目一杯
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 になってくれました。
CMで印象深かった、オートバイで疾走するシーンからブラッド・ピットは 「ブラピ」 となって、いつもの安定感を回復していきました。
そして、デイジーが交通事故に遭うシークエンスは、ある意味
2.監督の不可解な自制
が解消された瞬間だったのかもしれません。
「エイリアン3」 「セブン」 「ゲーム」 、最近では 「ファイト・クラブ」 (未見) と意欲的な作品を制作してきたデビッド・フィンチャー監督にとって、ここまで淡々と映画を語ってきた自制を評価するべきではないかとさえ思えてきました。
しかし、「デイジーの交通事故」 に対して特徴的な表現 (詳しい説明は省きます) を選択してきたのですから、「デイジーの交通事故」 がトータルな映像世界に大きな役割を演じていくのだろうかと観察していたのですが、
ベンジャミンとデイジーが結ばれて
「若返るベンジャミン」 と
「若さが衰えていくデイジー」 の
対比について直接的に語れる、 環境作りをした
という点では機能をしたのかもしれませんが、この局面にバランスを崩しかけた特徴的な演出技法を持ってくる意図が汲み取れず、そして、このアンバランスな映像世界をつくってしまった利点を見つけられずに、再び、大きな悩みの中に突入して行ったのです。それは、
序盤に感じた
3.非連続的なキャラクター付けの予感
を出発点にし、
中盤の
「非連続的なストーリー展開」
を経て、
この終盤は
「非連像的な映像演出」
という大きな不信感へと繋がってしまったようなのです。
しかし、こんな深刻な状況にも救いの瞬間はやって来てくれました。
それは、寝室での会話。
デイジー 「皺だらけになっても 私を愛せる?」
ベンジャミン 「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」
と、今作のテーマをしっかりと真正面から見据える気概を見ることができたのです。
ブラっド・ピットがやっと 「ブラピ」 になってくれたことですし、そしてこのように、
「若返るベンジャミン」 と
「若さが衰えていくデイジー」 を
直視する気になってくれたようですので、
序盤で瞠目した 「時が戻る時計」 の豊かな世界観を復活させてくれるものと大いに期待をしたのです。
し・か・し
今作に
テーマをしっかり見つめて
語りきる姿勢
を求めても無駄のようでした......。
またしてもベンジャミンは ドラマの現場から逃げ出して、デイジーの前から姿を消すことになるのです。
これは中盤、老人施設という
「老い」 や 「死」 と、
ベンジャミンの 「老人からの若返り」
の対比が引き立つ舞台を放棄し、
思春期の少女からから大人の女へと
「正当な成長」 を続ける幼馴染のディジーと、
老人から壮年へと
「若返り」 をするであろうベンジャミンとの
「男と女」 の部分
をも中途半端にさせながら、
ベンジャミンが旅に出て行ってしまった悪夢を思い出したのです。
しかし、ベンジャミンの 「現場からの敵前逃亡」 に見つけた、唯一のメリットである、
「ディジーの変化」 を
認めることはできました。
前回は 思春期の娘だったデイジーが 成長し、ダンサーとして人生のピークを謳歌している変化が強調されていましたが、今回は思春期になっていた娘と夫の存在。そしてなにより、
ティジーの
「老い」 を強調
することができたのです。
青年の外観となったベンジャミンの皺ひとつ無い顔を撫でながら
「永遠などない...。」
とつぶやきます。
このフレーズはかつてベンジャミンが自分の若返りについて逡巡した、先の
「皺だらけになっても 私を愛せる?」
「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」
という会話の後に発せられたものでした。
十分に若返った次の段階としての少年への移行、そして幼児への退行を憂いた時に発言がなされていたのです。 「時」 の移ろいによって
「無常」 と 「虚無感」 に襲われた時に
このセリフをベンジャミンが発言していたところから、同じ言葉を吐いた彼女の気持ちを充分に推し量ることができます。
そしてデイジーを求めていく青年の外観をしたベンジャミンに対して
「やめて、こんなオバさんを... 」
と実年齢では同年代でありながら外観上の負い目と自分の 「老い」 に引け目を感じた彼女はこんなセリフをも言ってしまうのです。
青年ベンジャミンと中年デイジーの複雑な心情を内包した一晩を描いて物語は
時間を 遥かに
飛び越えていきました...。
今や、既に初老の域に達してしまったデイジーに1本の電話がかかって来ます。
呼び出された先は あの老人施設。
呼び出し元は児童福祉局の人間。
ここで今作は ボクの思惑を超えて、
SF映画的な様相を
呈してきたのです。
(でも、この展開は大いに予測することができたのですけどね)
今作は先のセリフ
「皺だらけになっても 私を愛せる?」
「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」
の 「時間」 が究極的に行き着いた
「神話」 の領域に
分け入って行くのです。
そして、加速度的にボクの映画的興味を惹き付けていったのです。
廃ビルで保護された少年は ベンジャミン なのではないかという疑念の中で、少年の姿はすぐ映し出されることはなく、ただピアノの音が聞こえてくるのです。
事前にピアノを弾いているベンジャミンを目撃している観客は、この時点でベンジャミンが少年となっていったことを理解するのです。
もたれかかりながらピアノを弾く後ろ姿、
ピアノを弾く指のアップ
デイジーがベンジャミンの名前を呼んでようやくこちら側を振り向くと
そこには13歳ぐらいの少年いたのです。
いいじゃないですか! この流れ。
余韻を残しながらのドラマチックな表現。 素晴らしいと思いました。
アルツハイマーで自分のことさえ覚えていないのにもかかわらず、ピアノだけは身体が覚えていた悲劇を盛り込んでくるデビッド・フィンチャー監督に、ボク大きな賛辞を贈りたい気持ちになりました。
映画全体の演出に関しては 「非連像的な映像演出」 という評価をしなければなりませんが、
序盤の 「逆行する大時計」 と この、時が遥かに過ぎ去った後の 「ラスト8分の芳醇なる映像世界」 だけは別次元の成果を見せてきたのです。
やがてデビッド・フィンチャー監督は
ベンジャミンの悲喜劇的な 「変容」
と
ベンジャミンとデイジーの人生の 「激動」
を畳み掛けるように訴求してきたのです。
そして、
その直後の
「静寂な クライマックス!」
赤ちゃんにまで退行していったベンジャミンが、
デイジーの腕の中で静かに息を引き取る 神々しさ を目の当たりして、
それまで
「SF的」 な要素を
感じていたところに、
今作が
「神話」 の領域に
踏み込んでいったことを
悟りました。
この 「矢継ぎ早の展開」 と
「静寂な クライマックス」 が奏でる
絶妙なる コントラスト によって
ボクは大きな映画的興奮を得ることができたのです。
しかし、このように今作は素晴らしいクライマックスを用意してきましたが、客観的に映画全体を俯瞰していくと、残念ながらボクの中で、今作が
「神話的な存在」 に
なることはありませんでした。
なぜなら
「80歳の身体で生まれて、赤ちゃんとなって死んでゆく男」 が主人公であるのなら。
そして、老人施設が舞台で、心通う異性の幼馴染がいる設定であるのなら。
老人の外観で、 心は子供である ベンジャミン と
老人の外観で、 心も老人である 施設の人々 と
子供の外観で、 心も子供である デイジー の
3つの関係性や
時を経るごとに
「死」 に近づく 老人施設の人々 と
「若返り」 をしていく ベンジャミン と
「正当な成長」 を みせていく デイジー の
3つの関係性を
映画の導入部でしっかりと訴求して欲しかったと思うのです。
そうすれば、後半に訴求してきた
「若さの衰え」 に怯える デイジー と
「青年の瑞々しさ」 を讃える ベンジャミン との対比 。
そして
「初老」 を迎えた デイジー と
「少年」 の不確かな存在に退行してしまった ベンジャミン。
と
「老境」 の デイジー にやさしく抱かれながら
「赤ちゃん」 となって息を引き取る ベンジャミン。
の関係性に素直に涙することができたというのに....。
このように、主題を活かすことができなかった
コンセプトワークの甘さ
が認められ、とっても残念な気持ちになりました。
そして、序盤に感じたマイナス要素
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
2.監督の不可解な自制
3.非連続的なキャラクター付けの予感
をも持ち出して結論付けますと
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
は終盤、劇的に改善されていきました。
2.監督の不可解な自制
も終盤の畳み掛けるような展開のための、
戦略的な 「敢えての自制」であった と好意的に思えるようにも
なりました。 しかし、
3.非連続的なキャラクター付けの予感 はその後、
「非連続的な ストーリー展開」 を経て、
「非連続的な 映像演出」 に至り、
遂には 「非連続的な」 要素の蓄積による
トータルバランスの欠如
という今作の致命的な欠点に直結していったのです 。
物語は確かに 「神話」 の世界に踏み込んでは行きました。
しかし、根本的な
コンセプトワークの甘さ に加え
総体的な
トータルバランスの欠如
が原因となって
ボクの心の中で、 今作が
「神話」 の域に到達することは、
決してなかったのです.....。
実に、 残念な映画でした。
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