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2010-04-19 Mon 20:23
今作は
■ 「生命力に満ちたインドの民衆」
VS
「前近代的で陰鬱なインドの現実 」
という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、
■ 「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去) という 3つの時空間を縦横無尽に行き来していく構造に狂喜しながらも、
■ ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図までもを
活かすことができなかった、残念な映画。
と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。
主人公である ジャマール へのインド警察の尋問から今作は始まっていきました。 「クイズ$ミリオネア」 での連続正解が不正では? との疑いでの取り調べなのですが、 これが酷い。 確証もないのに、暴力で自白を強要してくるのです。 これがインドという国の実体なのか! という疑念を開始早々、持ってしまったのです。
今作は冒頭からして
「生命力に満ちたインドの民衆」
VS
「前近代的で陰鬱なインドの現実」
の対比のうちの、
まず、 「前近代的で陰鬱なインドの現実」 という
否定的な側面から
映像世界を語り始めてきました。
そしてこの横暴なる尋問に対して、意図的にカットバックを当ててきたのが、 必要以上にデコラティブな 「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ の場面。 だったのです。
「殺風景な拷問部屋」 と 「煌びやかなTVスタジオ」
この趣きを異にする場所において、 一方は 「尋問」。 片や 「クイズ解答者の紹介」 という、同様の質問を全く違うニュアンスで連動させてきたことに、ボクは強く興味を持ったのです。
そして、この拷問部屋での出来事と、 「クイズ$ミリオネア」 司会者の不遜な態度がカットバックされる険悪な中に
救いの一瞬を
目撃することになったのです。
それは、 「黄色い洋服に身を包んだ若い女性」 が微笑みながらこちらを見上げている、 というカットでした。 拷問部屋での重い時間と、番組司会者の小バカにした態度に気分を悪くしたところに、この鮮やかなカットが挿入されてたのです。 冷酷で冷淡な時間帯にこのような鮮明なショットが挿入されたことで、鑑賞者はこの 「黄色い服に身を包んだ女性」 が
大きな意味を持つ、ことを
直感的に理解するのです。
そして、すぐに 「黄色い服を着た女性」 で感じた同じ高揚感に再会することになるのです。 感電拷問の陰鬱な雰囲気を打ち破るように、今作のオープニングタイトルが、溢れんばかりの生命力を発散させながら始まったのです。
この躍動感が実に、素晴らしい
打楽器を利かせたエスニックな音楽に乗せてスラム街を疾走していく子供達と監視員とのチェイスは、子供達の生きる力がみなぎっていて、ただ、それだけで心を揺さぶられ、意味もなく、涙ぐんでしまうほどでした。 それが、今作の主人公 ジャマール の子供時代の姿であったのです。
今作はこれから
彼の 「子供時代」 という 過去の時制 と
「クイズ$ミリオネア」 収録という ちょっと前の時制 と
収録後の 「取り調べ」 という 現在。
この3つの時制が縦横無尽に交錯していくのです。
( ということを、この時点では信じていたのです。 )
「クイズ$ミリオネア」 は第1問目、第2問目と進み、第3問目には、「取り調べ室」 の熾烈さを思い出させる、インドの冷酷な側面を映し出してきたのです、 それは、インド国内では少数派である 「イスラム教徒の惨殺」 という無残な側面でした。 このような集団虐殺がインドで行われていたというのでしょうか? 発展途上の国といっても、「BRICs (ブリックス)」 の一翼を担うまでの国が...。 そんな疑念の思いに、再び苛まされていったのです。 その一方で、この過酷な経験の中で目撃した光景が 「クイズ$ミリオネア」 における第3問目の解答と連動していたことに対して、ボクは
今作の構造を理解 することができたのです。
それは、
“これから過酷な人生を送っていく ジャマール坊や の悲劇的な経験が、「クイズ$ミリオネア」 の回答とリンクしていく” というものでした。
そしてこの第3問目の悲劇において、冒頭に鮮やかな印象を受けた 「黄色の服の女性」 が登場してきたようなのです。 何故、 「登場してきたよう」 と、あやふやな言い方をしたかといいますと、ジャマール坊やと同じくらいの4~6才の女の子が ジャマール と ジャマールの兄 と同様に親を惨殺され、ジャマール兄弟 と行動を共にすることになるのですが、その女の子が着ている服が、あの女性と同じ黄色の服だったのです。 そして、その女の子の
描き方が特別 だったので、
きっと何かあるはずと、ボクのスイッチが押されたというわけなのです。 その表現とは、ジャマール兄弟 の仲間として受け入れられる前は、その女の子を 意図的にアウトフォーカスで捉えたり、敢えて照度不足にして、
逆説的にその存在感を 強調
してきたことを示します。
この女の子の名前を ラティカ と言い、この時点から、「黄色い服に身を包んだ女性」 が成長した ラティカ に違いないと確信して、今後の展開を楽しみにしていたのです。
孤児としてゴミ捨て場で自力で生きていたこの3人に第4問目の悲劇が襲い掛かります。 詳細は控えますがこの局面においても、インドの暗く冷たいヤミの部分を示してきたのです。 ここまで意図的にインドという新興国に対して、その前近代的な弱点をついてくるところに、今作の制作者である
先進国側の やっかみ を感じ始めてきました。
そして、2007年、同じくアカデミー作品賞を受賞した
「クラッシュ」 を鑑賞した時と似た感情
を思い出したのです。
ラストの密航中国人に対する侮蔑と、彼らのバイタリティに対する恐れ、そして、結局は彼らの増殖を自暴自棄的にやっかむ先進国家アメリカの視線を思い出したのです。
( 後日、調べましたら今作の原作はインド人によるものらしいのです。 インドという 国に対する内部告発的な原作なのかもしれませんが、あくまでも映画という成果 物から得た印象を書いていきたいと思います。 )
基本的人権を踏みにじるような行為から、ジャマール兄弟 は逃亡を図り、「黄色い服を着た女の子 ラティカ 」 は取り残されてしまいました。
このように ラティカ が早々と映画世界から姿を消してしまったことに、ボクは驚きの思いを持ちました。 何故なら、登場当初にピンボケや照度不足の手法でその存在を高めておきながら、その後のラティカの存在感は急落していき、その穴埋めができないままの退場となったからなのです。 しかし、ラティカ が将来的に 「黄色い服を着た若い女性」 に成長していくことを信ずる者にとっては、
濃密な何かが
ラティカ と ジャマール の間で起きるに違いない、と確信した瞬間でもあったのです。
第5問目の悲劇へのインターバルとして、今作は再び 「陽」 のパートに移ってくれました。 ジャマール兄弟は列車に違法侵入し、物品の販売をして生活を始めます。
その描写が
非常に素晴らしい。
タイトルバックに展開されたスラム街でのチェイスシーンを彷彿とさせる、生命力に溢れたシークエンスとなっていたのです。そしてその後の、タージ・マハールでの彼らの活躍も、今作が暗い運命を背負っている映画だなんてことを忘れてしまうような笑いに包まれていきました。 しかし、そんなところに、やっぱり 「スラムドッグ・ミリオネア」 という作品を鑑賞していることを思い出させるシーンが挿入されたのです。 ジャマール達の悪事にインド人運転手が容赦ない暴力で応酬したところ、その凄まじさにたじろぐアメリカ人観光客にむかって、ジャマールが
「これが インドの現実 だ!」
と今作に貫かれている内部告発的な主張をするのです。
( それを受けての 「アメリカの真実」 には爆笑。
そうでした。今作はイギリス映画だったのです!! )
序盤で ラティカ との関係性の希薄さを心配しましたが、それは単なる取りこし苦労となりました。 列車とタージ・マハールでの躍動的な時間を過ごした後に、思春期となった ジャマール兄弟 と ラテイカ とのしばしの再会が用意されていたのです。 でも、それは
インドという社会的な嫌悪とは違う 絶望感
によって引き裂かれていったのです。
過酷な状況下において、「悪」 というものに同調しがちだった
兄サリーム の邪悪な欲望 によって ジャマール と ラティカは 再び引き裂かれていったのです。
今まではインドという前近代的な環境の中での
構造的で社会的な 「悪」 に嫌悪
をしてきたのですが、今回は
兄の変貌の中に生まれた普遍的な 「欲望」
によるものですから、
今までとは違うレベルの 閉塞感 に襲われることになったのです。
この惨い出来事によって ジャマール は、渇望していた ラティカ との再会を引き裂かれてしまった訳ですから、ボクは彼の心の中にある、ラティカ に対する執着をここにきて理解することができました。
しかし、1つ理解に近づいた代わりに、自分の認識から大きく逸脱していった側面が発生していきました。 それは “ 「クイズ$ミリオネア」 の正解が、ジャマールの過酷な人生の中で経験したものであった。” という
「時空を越えた有機的な関連性」 が
消滅してしまった、ということでした。
そして、時を同じくして、今作の導入部で興味深くその対比を目撃することとなった 「クイズ$ミリオネア」 の煌びやかな世界と、取り調べを受けた陰鬱な拷問部屋の
「2つのパラレルな空間の絡み合い」 までもが、
映画世界から姿を消していったのです。
この事態は 「クイズ$ミリオネア」 という存在を核にして 「取調べ室」 と 「ジャマールの半生」 がその傘下に配置され、この3つの時空を行き来していた
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という今作を推進してきた基本構造が崩れ去り、
「なぜジャマールは難問を正解することができたのだろう?」 という、 今作の
鑑賞動機である 「謎解き」
をも放棄してしまったものと、感じたのです。
これによって 「難問正解の謎」 を 「ジャマールの過酷な半生」 の中に目撃していく
“過去の時制” と、
「クイズ$ミリオネア」 の収録現場での、全問正解に近づくにつれて司会者の態度が変容し、最後には疑念の態度を示していく
“ちょっと前の事実” と、
「全問正解の謎」 を知るにつれて態度を軟化させていく取調べ官がいる
“現在の時制” 、
これら3つの時空間が渾然となって進行していくもの、と期待していたボクの映画的興味を、根源から覆すものであったのです。
このように映画自体が悲惨な状況に陥ってくると、新たな失望感がボクの頭の中で渦巻いていったのです。それは、今作のオープニングに提示された、、「クイズ$ミリオネア」 の四択問題になぞらえた問いかけ、
彼はなぜ勝ち進めた?
A.インチキした B.ツイてた C.天才だった D.運命だった
までもが無残な失笑となってしまう危険性を感じたのです。
序盤は 「クイズ$ミリオネア」 の 正解が、 「ジャマールの半生」 に連動してくると信じていたので、四択の問いかけに対しては
D.運命だった
と即答したのですが、 この構造が崩壊した状況では、勝ち進めた理由は ただ、
B.ツイてた と答えるしかないようです。
と、冷笑気味に今作のことを考えを巡らせてていたら、 そもそも、「クイズ$ミリオネア」 の解答と 「ジャマールの半生」 は
密接に連動していたんだっけ?
という根源的な疑問にまで発展してしまったのです。
第3問目において語られた、ジャマール達に降りかかった過酷な側面、「イスラム教徒の惨殺」 にしても、あの殺戮の現場に神の扮装をした子供がいたこと自体が、
D.運命 なんかではなく、
ご都合主義的に B.ツイていた だけだったと、
思えてしまうのです。
このように先行き不安な中盤を経た、終盤において、ジャマールは 「悪」 の親分に囲われている ラティカ と再会することになります。そして二人は逃避行を企てますが、「悪」 の手下となっていた兄のサリームによって引き離されていくのです。 これは 「二人の悲恋」 を強調するストーリー展開なのでしょうが、ボクは、どうしてもその流れに乗ることができませんでした。
何故なら、既に提示された 「思春期」 においての引き裂かの原因が、 「兄、サリームの性欲」 という
ショッキングなものであっただけに、
今回提示された、サリームの親分に囲われていた という設定に
力不足を 感じてしまったのです。
そして、 「黄色い洋服に身を包んだ若い女性が微笑みながらこちらを見上げている」 カットも 序盤では、あんなにも輝いていたのに、ストーリーを語っていくオリジナルシーンにおいては、何故か、ありきたりな印象しか残せなく、その語り口も、
「悲恋の中の一瞬の光」 という側面が
訴求できていない
と感じてしまったのです。
シナリオと演出上の力量不足によって、ボクは今作のクライマックスシーンに気持ち良く反応することができなかったようです。 しかも、映画全体に目を転じていくと
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という 3つの次空間を行き来していた興味深い構造までもが、十分に活用されることなく終わりを告げていってしまったのです。 何故なら、取調べ室からの 「ジャマールの釈放」 によって
「取り調べ室」 、「クイズ$ミリオネア」 、「ジャマールの半生」
という3つのストーリが ただ一つの時制に集約をしていったからなのです。
それは、
「現在」 という時制でした。
全ての時制が 「現在」 という1点に到達してくると
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という3つの時制を縦横無尽に行きかう特権を、 今作は放棄してしまったのです。
非常に残念な気持ちになりました。
しかし、このように興味深い構造を逃したのと時を同じくして、もう一つの興味深い構図を見つけることができたのです。 それは、「現在」 という1つの時制に、2つの場所が
明確な違いを発揮しながら存在
していった、 ということでした。
1つは当然のことながら最後の問題が出される 「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ。 そしてもう一方は ラティカ が軟禁状態にある 「悪」 のアジト。 そこには「悪」 の手下である、兄サリーム の姿もあります。 この2つの場所に分離している、ジャマール と ラティカ が、 「クイズ$ミリオネア」 の番組上において、コミュニケーションをはかるようです。 この展開に俄然、興味を奮い立たされたのです。 「現在」 という1つの同じ時制にいる、しかし、遠い距離感を持つ2つの存在が、「クイズ$ミリオネア」 によって接近をしていく
ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
こんな図式を期待することができたのです。
そしてこの図式がどのように今作のクライマックスをカタチ作っていくのかに、興味が集約していったのでした。
と、ここまでラストにむけて挽回をしてきた今作ではありますが、 結局は残念ながらこの期待を活かしきれずに今作は終結していってしまったのです。
ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
の構図は確かにありました。しかしこれから述べるように、細かな無配慮によって、ボクの気持ちに応えてくれることはなかったのです。
ジャマールの幼年時代に親しんできた 「三銃士」 が最終問題に連動してくるという、興ざめしてしまう程の 運の良さ と、 そもそも、途中で語るのをやめてしまった、 “ジャマールの半生 に 難問出題 がリンクしてくる” というルールを
今更持ち込む、 往生際の悪さに 半ば呆れていたところに、
「悪のアジト」 では、悪の手下である 兄サリームが 突然の改心をきたし、軟禁状態であったラティカの釈放が行われてしまったのです。
こんなご都合主義に今作が乗っかり、
ラストに向けて強引に辻褄あわせをしてくるなんて
想像だにしていなかったので、
今まで真剣に鑑賞していた自分が急に滑稽に思えて、 そして、虚しくなってきてしまったのです。
しかも、ラストを盛り上げる為にこのようなに稚拙な舞台を設定したにもかかわらず、 「クイズ$ミリオネア」 の “テレフォン” で接触することができた ラティカ は質問に答えることができなく、結局は役立たずの でくのぼう で終わってしまうのです。 感情の高揚も見ることができない、盛り上がりに欠けるお粗末な展開に 「何なんだろう、このカラ回りは?」 と思わず失笑してしまたのです。
ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
の関係を強引に捻出して、そして 「兄サリームの唐突な改心」 や 「三銃士」 というご都合主義を突っ走っしてしまったのなら、「ラティカによる正解」 という、ベタであるけど、
大きなカタルシスを 創出するべきであった、と主張したい。 て言うか、せめて、それだけは実行して欲しかったと思うのです。 でも、そんな仔細なことについての文句を言うよりも、しつこいようですが、もっと根源的な問題について声を大にして言いたいのです。
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去) の構造をしっかりと活用し、 難問正解の謎を解いていく今作の鑑賞動機を、満足して欲しかった!!
と強く思うのです。 まとめますと
今作は ■ 「生命力に満ちたインドの民衆」
VS
「前近代的で陰鬱なインドの現実 」
という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、
■ 「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去) という 3つの時空間を縦横無尽に行き来していく構造に狂喜しながらも、
■ ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図までもを
活かすことができなかった、残念な映画。
と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。
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